格闘技と暴力のあいだ - Breaking Downと、消される不安について
格闘技を観ていると、自分が暴力の傍観者であるように感じることがある。もっと極端には、加担者であるような気分になることがある。激しい喜びとともに、何とも拭い難い不安のような感覚が身体の中にこびりつく。その不安はより激しい喜びに変わることもあるし、罪悪感に変わることもある。観戦を重ねるとともにその感覚を覚えることは少なくなったが、今でもそれは時々ふいに立ち現れてくる。他のスポーツを観るときに感じる感覚とは全く異なったものだ。
この感覚の源泉ははじめからわかっていた。
暴力だ。
格闘技は暴力そのものではない。路上で誰かを殴ることと、ルールの中で訓練された選手同士が戦うことは違う。そこには合意があり、競技規則があり、レフェリーがいて、技術体系がある。だが、格闘技は暴力に似ている。決定的に違うが、確かに似ている。それは暴力に限りなく近い場所で成立している。
顔面に拳が入る。蹴りがレバーを打つ。関節が逆方向に曲がりかける。絞められた選手の身体から力が抜けていく。こちらの身体もわずかに反応する。最初は直視できなかったものが、観戦に慣れるにつれ技術として見えるようになる。距離、角度、フェイント、差し合い、ケージ際の攻防。見えるものが増えるほど、それはただの殴り合いではなくなっていく。
だが、消えきらないものが残る。自分はいま何を観ているのか。技術を観ているのか。競技を観ているのか。それとも、人が傷つくところを観ているのか。
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格闘技における暴力は、裸の破壊衝動としては現れない。それは勝利、技術、判断、規律に媒介された力の行使として現れる。選手はただ殴っているのではない。相手の反応を読み、リスクを管理し、タイミングを奪い、身体を操作する。寝技でも同じだ。重心、呼吸、圧力、逃げ道の制御。観る側が見ているのは、損傷そのものではない。損傷が起こりうる場所で、技術と判断が組み替えられていく過程だ。
Brettは、MMAメディアが暴力を一枚岩に肯定しているのではなく、四つの類型を通じて区別し、評価し、境界づけていると論じた(Brett 2017)。「過剰な暴力」は嫌悪される。一方的な破壊、止めるべきタイミングを逃したレフェリング、意識のない相手への追撃。そうした場面で選手は技術の担い手ではなくなり、ただ傷つけられる身体として見えてしまう。Luke ThomasはHunt対Silvaの4ラウンドについて「指の隙間から観ていた」「あれはトーチャー・ポルノだった」と語っている。反対に、Jones対Gustaffssonのような試合は「美学的暴力」として語られる。パネリストの一人は「人生を肯定するような何かが起こる」「他に何も存在しないほど没入する」と言った。どちらも最も暴力的とされた試合について語られた言葉だ。つまり暴力の量が問題なのではない。暴力がどのような文脈に置かれているかが、経験のすべてを左右する。
重要なのは、MMAのコアファンたちが暴力をそのまま楽しんでいるのではないということだ。彼らは暴力を区別している。過剰な暴力を退け、技術と物語と忍耐の交差点にのみ崇高さを認める。この境界づけの作業が、格闘技を格闘技として成立させている。
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だから格闘技を観る者は、「自分は暴力そのものを楽しんでいるのではない」と言うことができる。だがその自己了解は完全ではない。完全であってはならない。
Quansahらは、MMA視聴者の中に二つの回路が共存していることを実証的に示した(Quansah et al. 2025)。一つは、選手の痛みに対して共感的な不快を感じる回路。もう一つは、暴力のスペクタクルから快を得る回路。前者は将来の視聴意図をわずかに下げ、後者はそれを高める。
ローキックを効かされた足。カットした眉。ボディをもらったときの表情。そういう場面で、こちらの身体もわずかに縮む。だが同時に、そこから目を離せない。危険だからこそ見てしまう。痛みがあるからこそ、勝利の意味が重くなる。この二つは分離できない。
だから格闘技を観ることには不安がつきまとう。答えは出ない。だが、答えが出ないまま観続けることには意味がある。不安は格闘技観戦の欠陥ではない。それは、観る者が暴力との近さを忘れないための感覚だ。この問いが内側に残り続けることが、格闘技を暴力そのものから距離づける。
問題は暴力があることではない。暴力を観ているという不安が、観る者の中に発生しないように処理されることだ。
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Breaking Downの問題は、競技レベルが低いことではない。技術の拙い試合はどこにでもある。アマチュアの大会にも、地方興行にも、初心者同士のスパーリングにも。それだけで格闘技ではないとは言えない。
問題は、暴力がどのような形式で商品化されているかにある。
Breaking Downでは、試合そのものよりも、試合に至るまでの因縁が先に消費される。相手を倒すことは、競技上の勝利である以前に、言葉で作られた屈辱や怒りを回収する行為として提示される。殴ることは技術的解決ではなく、物語的な制裁として機能する。暴力は、競技の中で発生するものではなく、あらかじめ期待された結末として配置されている。視聴者は「どちらが強いか」だけでなく、「誰が誰を黙らせるか」を観る。敗者は負けるだけではなく、黙らされる。勝者は勝つだけではなく、制裁を完了する。
もちろん、Breaking Downにも更生や挑戦の物語はある。素人が表舞台に出ること。過去を変えようとすること。名前のない人間が一瞬でも注目を浴びること。そこに一定の切実さがあることは否定しない。だがその物語は、しばしば暴力を見やすくするための包装として機能する。
怒りはわかりやすい。屈辱はわかりやすい。制裁はわかりやすい。短い動画にしやすい。拡散しやすい。格闘技が本来必要とする読解の時間——なぜその攻防が起きたのか、なぜその一発が当たったのか、なぜそのポジションが危険なのか——は、そこでは邪魔になる。理解を待たずに、暴力は感情の決着として消費される。
ここで起きているのは格闘技の否定ではない。もっと質の悪いことだ。格闘技の形式を使った、格闘技の抑制装置の解除である。
UFCやRIZINにも暴力の商品化はある。煽り映像があり、因縁があり、スター化があり、KOの切り抜きがある。格闘技興行は清潔な競技空間ではない。だからBreaking Downだけを外部の異物として排除しても足りない。Breaking Downは格闘技の外にあるのではない。格闘技一般に潜んでいる暴力の商品化を、より短絡的に、より露骨に、より技術的媒介の薄い形で露出させている。
Andreasson & Johanssonは、MMAが常にスペクタクルと「リアルな暴力」の境界に位置していると書いている(Andreasson & Johansson 2019)。選手たちは暴力を管理し、語り直し、競技の内部に収めようとする。だが身体的制御や恐怖の管理が破綻する瞬間——スペクタクルが「リアル」に転じる瞬間——には、スポーツとしての正当性そのものが揺らぐ。彼らの調査で、選手たちが最も恐れていたのは怪我ではなかった。「馬鹿に見えること」——スペクタクルとしての美学を維持できないことだった。これは暴力がスペクタクルの枠組みの中でのみ許容されていることの証左であり、その枠が壊れたとき暴力は管理されていない破壊として立ち現れるということだ。
Breaking Downはこの危うさを引き受けない。利用する。格闘技は暴力を競技へ変換するために多くの媒介を必要とする。長期的な訓練、技術体系、ルール、レフェリー、相手への敬意、観客の読解。Breaking Downはその媒介を薄めた上で、格闘技の記号だけを残す。リング、グローブ、レフェリー、勝敗、入場、煽り映像。見た目は格闘技に似ている。だがそこで前景化するのは、技術よりも因縁であり、競技よりも制裁であり、勝敗よりも拡散だ。
Brettの枠組みに照らせば、Breaking Downには「美学的暴力」の条件が原理的に欠けている。技術の蓄積、競技的な賭け金、試合内部の物語的転換——Brettが「崇高さ」の要件として同定した要素がいずれも不在だ。Brettが論じた美学体系は、暴力を美学化するために精緻な弁別を行うものだった。過剰な暴力を排除し、技術と物語の交差点にのみ崇高さを認めるという、厳密な境界づけの体系だ。Breaking Downにはその弁別がない。暴力は美学化されるのではなく、娯楽の表層に溶解する。
美学化された暴力は、少なくとも暴力として意識される。娯楽に溶解した暴力は、暴力であることすら気づかれない。
この処理は偶然の結果ではない。Breaking DownのビジネスモデルはYouTube等の広告収益に依存しており、視聴時間がそのまま収益になる。その構造において、視聴者の倫理的な内省はコストでしかない。「自分は暴力を観ているのではないか」と立ち止まる視聴者は離脱しうる。だから商品設計として、その立ち止まりが起こらないようフォーマットが組まれる。煽り合い、ドラマ、キャラクター、炎上——これらは暴力の周囲に娯楽のレイヤーを重ね、視聴者が暴力そのものと対面する瞬間を先送りにし続ける。
そしてフィードバックループが回り始める。倫理的な緊張を感じない視聴者が増え、その視聴者に最適化されたコンテンツがさらに作られ、緊張を感じる回路がますます退化する。個人の道徳ではなく、収益構造そのものがこの方向への圧力を自動的に生み出す。
Quansahらの知見はここでもう一度効いてくる。彼らは、継続的な視聴にはサービス品質——競技的パフォーマンス、興奮、統制された暴力——が唯一の必要条件であることを示した。暴力のスリルだけでは人を繋ぎとめられない。繰り返しには、競技としての質が要る。ならば競技品質を欠いたコンテンツが視聴者を引きつけ続けるには、暴力以外の接着剤が必要になる。ドラマ、炎上、キャラクター。その接着剤が、倫理的摩擦を覆い隠す装置としても機能する。
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「同意しているのだから問題ない」という反論がある。Kershnar & Kellyは、有効な同意がある限りMMAにおける暴力は権利侵害ではなく道徳的に許容されると論じた(Kershnar & Kelly 2020)。参加者同士の関係を考えるなら、この議論は無視できない。
だが同意は観客を免責しない。出演者が同意していても、観る側の問題は残る。自分は何を観ているのか。なぜそれを観たいのか。いま楽しんでいるものは何なのか。この問いは出演者の同意によって消えないし、安全管理によっても消えない。格闘技が暴力に似ている以上、観る側はその問いから自由になれない。
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格闘技を観るとき、私は自分が暴力の傍観者であるかもしれないという不安を完全には消せない。消すべきでもない。その不安があるから、選手をただの消費物として見ずに済む。その不安があるから、暴力を暴力として感知できる。その不安があるから、格闘技を格闘技として観ようとする。
Breaking Downが奪っているのは、この不安だ。
これは格闘技ではない、と言いたいのではない。そう言うだけなら簡単すぎる。Breaking Downは格闘技の顔をしている。だから厄介なのだ。格闘技の中にある暴力の商品化を、格闘技がそれでも守ろうとしてきた抑制装置なしに押し出している。暴力と格闘技のあいだにある危うい距離が潰される。
格闘技は暴力ではない。だが暴力に似ている。この似ているという事実から目を逸らさないこと。その不安を抱えたまま観ること。格闘技を愛するとは、そこからしか始まらないと思う。
参考文献
Brett, G. (2017). Reframing the "Violence" of Mixed Martial Arts: The "Art" of the Fight. Poetics, 62, 15–28.
Quansah, T. K., Lang, M., & Mühlbacher, H. (2025). Deriving pleasure from other people's pain: The influence of vicarious pain on viewing intentions for violent sports. Journal of Business Research, 199, 115533.
Kershnar, S., & Kelly, R. (2020). Rights and consent in mixed martial arts. Journal of the Philosophy of Sport, 47(1), 105–120.
Andreasson, J., & Johansson, T. (2019). Negotiating violence: Mixed martial arts as a spectacle and sport. Sport in Society, 22(7), 1183–1197.
