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なぜテクノロジーが進歩したのに生活が楽になっていないのか?(答え:競争のやりすぎ)

なぜテクノロジーが進歩したのに、それほど生活が楽になっていないのか?

この問題は、もっと真剣に考える必要があるだろう。

多くの人が、日々、労働をしている。

ただ、なぜ、過去よりも効率化や自動化が進んで、より少ない労力でより多くのものを作れるようになっているにもかかわらず、我々は、今も必死に長い時間働き続けているのか?

そして、このような問題は、仕事を憂鬱に思う多くの人にとって、非常に重要な問いであるはずなのに、それほど熱心に論じられているようには思えない。それはいったいなぜか?

  • なぜテクノロジーが進歩したのに生活が楽になっていないのか?

  • 上の問題は非常に重要であるはずなのに、なぜそのことが真剣に論じられていないのか?

今回は、このような問いに答えることを目的とする。


競争が行われすぎているゆえに生活が楽にならない

「なぜテクノロジーが進歩したのに生活が楽になっていないのか?」に対しては、「競争が行われすぎているから」というのが回答になる。

過去よりもテクノロジーが進歩し、効率化・自動化が進んで、少ない労力でモノを生産できるようになった。しかし、それによって生活が楽になっている度合い以上に、各々が相対的な優位を得るための競争にリソースが使われていて、それゆえに生活が苦しくなっている。

今の社会に生きる人たちの多くが、住居や道路を作ったり、食料を生産したり、育児などのケアに取り組むような、素朴に生活の豊かさに関わる仕事よりも、「自分を競争で優位にするための仕事」や「有利なポジションを守るための仕事」に多くのリソースを割いていて、それゆえに、テクノロジーが進歩したのに生活が楽になっていないと考える。


「スポーツ」はそれ自体が物質的な豊かさを生み出すわけではない

まず、ここで言う「競争とは何か?」の例として、「スポーツ」を挙げたい。

先に言うと、この記事では、「競争はよくない」ということを主張したいわけではないし、スポーツを否定するつもりもない。

だが、スポーツはその性質として、生活を楽にするようなものではないことを指摘したい。

スポーツは、それ自体が、何らかの物質的な豊かさを生み出すわけではない。やっていることは、純粋にリソースが消費されている。

スポーツにおいて、多くの人は、その競技内における上達のために、自身のリソースの多くをそこに注ぎ込む。一方で、その競技にどれだけのリソースが注ぎ込まれて競技レベルが向上したところで、勝者と敗者が存在するという構造自体は変化しない。

つまり、スポーツのような競争には

  • それ自体が物質的な余剰を生産するわけではない

  • そこにどれだけのリソースが注がれても、必ず相対的な勝者と敗者が生まれる

という特徴があると言える。

極端な仮定だが、何らかの労働生産物を一箇所に集め、特定のスポーツの大会を定期的に開いて、その結果により生産物を分配するような社会を想定する。当然だが、大勢がその競技に勝つために努力し、その競技のレベルは向上していくだろう。しかし、競争のレベルが上がること自体は社会の余剰を増やさず、その上でライバルが強くなっていくので、努力に対して得られるリターンの少ない社会に向かっていくだろう。

このような仮定ほど極端ではないにしても、今の先進国に生きる人間の多くが、自身を相対的に有利にするためにリソースを使い、それゆえに生活が苦しくなっていると考える。


各々が相対的な競争の優位を目指すと、社会全体では生活が苦しくなる

今の社会において重視されている「学力テスト(入試試験・資格試験)」や「有利なキャリアの形成」などは、それが生産にまったく寄与しないとは言わないが、「いかに相対的な優位を得るか」という「競争」の性質が多分にある。

一方で、素朴に社会のためになるような仕事・他人の生活を楽にするような仕事ほど、競争において他人よりも優位を得られるものにはなりにくい。

もし、基準が「相対的」なものであるならば、他人を有利にすることは、自分を不利にすることに繋がる。逆に、自分を有利にしようとすることは、相対的には他人を不利にすることになる。これは、「相対的」である以上は原理的にそうなる。先に例として出したスポーツにおいても、意図的に対戦相手を有利にしようとする選手はいないだろう。

ゆえに、「相対的な競争」にリソースを使う人が増えるほど、社会全体(マクロ)ではみんなの生活が苦しくなっていきやすい。


有限のリソースをどちらに振り分けるか

人間に与えられているリソースは有限である。

ゆえに、「集団の幸福に寄与する仕事」と「自分が競争に勝つための努力」のどちらにリソースを振り分けるかは、どうしてもトレードオフの関係にある。

例えば、何らかの競技なり勉学なりで、才能を持っている人間がいるとする。その人間が、道路や住居を作ったり、保育や介護をするなどの仕事に自身のリソースを使った場合、周囲の人は幸せになるかもしれないが、一方で、当人は、自身のポテンシャルを発揮できずに生涯を終えることになり、その意味では損をすることになる。

では、その人が、自身の才能を発揮するための努力にリソースを注ぎ込んだらどうなるだろうか? それはまず、当人の自由と権利が尊重されたことを意味する。しかし、競争が相対的なもので、勝者と敗者の比率自体が変化しない以上は、その人よりも才能と努力の足りなかった人が競争に敗者になる。そして、その競争のレベルは上がるかもしれないが、それは、かつては素朴に周囲の人のために使われていたリソースが、競争に注ぎ込まれるようになったことを意味する。

繰り返し言うが、ここでは「競争」を良くないものと考えているわけではない。

個人が競争に参加できることは、個人の自由と権利が尊重されていることを意味するからだ。しかし一方で、そのようにして自由が尊重されるがゆえに、集団のために必要な仕事が蔑ろにされて、社会集団全員が苦しくなりやすいという構造がある。

今の社会が、競争の過剰で苦しくなっているとするならば、「競争のやりすぎではないか?」という問題提起はあっていいだろう。


競争の意義を疑う人間が不利になってしまう構造

競争によって社会全体が苦しくなっているとして、それが問題視されにくい理由のひとつは、競争の意義を疑う人間が競争に不利になってしまうからだ。

冒頭で述べた、「テクノロジーが進歩したのに生活が楽になっていないことは非常に重要な問題であるはずなのに、なぜそのことが真剣に論じられていないのか?」という問いに対する回答は、「競争を疑うと競争に不利になる」のが競争の特徴だから、となる。

競争において、その競争の意義を疑う人間が不利になるゆえに、たとえその競争が不毛なものだったとしても、競争が加速してしまうという構造がある。

受験勉強や、採用枠や有利なポストの奪い合いなどにおいて、「俺が働かないことで 俺の代わりにだれか一人、職を持てる 俺はそういうことに幸せを感じるんだ」という考え方をするのは、心がけとしては利他的なものかもしれないが、そのような考え方をすると、まさにその当人が不利になる。

競争が重視される社会において、競争から降りた人間は社会的な影響力を持ちにくい。競争に勝てない者が競争に文句を言っても、負け犬の遠吠え(道理に合わない主張)であると見なされる場合が多いだろう。

まさに競争に勝たなければ不利になる社会だからこそ、競争を疑うことが難しくなっていくのだ。

例えば今の社会において、「学力テスト」における相対的優位のために、子供を学習塾に通わせる親はますます増えているだろう。それが歪なものと思いながらも、それをさせなければ子供が不利になってしまうがゆえに、そうせざるをえない。


「ビジネス」も「競争」である

今の社会において、生産を担う主な手段とされている「市場競争(ビジネス)」も、「相対的な優位を得るための競争」という側面が強い。

ただ、「ビジネスはスポーツとは違う」と思われてもいるだろう。スポーツがそれ自体は物質的な豊かさを生み出すわけではないのに対して、ビジネスは人の需要を満たそうとするからだ。

しかしここでは、「ビジネス」が、先に述べた「スポーツ(相対的な競争)」のような性質を持つと主張したい。その理由として、以下の2点を指摘する。

  • 相対的な勝ち負けが生じること(貨幣が相対的な尺度であること)

  • 「相対的」であるがゆえに相手を不利にするインセンティブがあること

ビジネスにおいて得ようとされる「貨幣」は、相対的に機能するものであり、差が発生するからこそ意味を持つ。例えば、年収300万と600万の人で、それを使えば得られるリターン(購入できるものの質など)が異なるからこそ、貨幣が機能していると言えるのだ。

もし、国民全員に5000兆円が与えられた場合、貨幣の相対的な差がほとんどなくなることになるが、そうなると、単に円は貨幣として機能しなくなる。(インフレにより円に価値がなくなる。)

貨幣が相対的に機能するものである以上は、「全員が他人より金持ち」になることは原理的に不可能だ。貨幣が貨幣として機能するならば、必ず「差」は発生する。これは、スポーツのルール上、必ず勝者と敗者が生じることに似ている。

市場というのは、ある種、「より多くの貨幣を稼いだ者がより多くの分配を得られる」というルールのゲームを社会にもたらすものなのだ。

そして、そのような市場競争というゲーム(ビジネス)において、自身を相対的に有利にしようとする(金を稼ごうとする)試みは、相手を不利にしようとするものになりやすい。

基準が「相対的」であるならば、自分が有利になることは、相対的に相手を不利にすることになる。

スポーツにおいて、「相手に勝とうとすることは、相手を不利にしようとすること」なのと同様に、ビジネスにおいても、「相対的に多くの貨幣を稼ごうとすることは、相手を不利にしようとすること」になる。

スポーツにおいて、相手のやりたいことを妨害するためにディフェンスをすることは、ルールに従った上でそれをするならば、悪いことではない。スポーツのようにわかりやすく対決するわけではないが、ビジネスにおいても同じようなところがある。

実際に、ビジネスにおいて、相手を幸福にするインセンティブはそれほどなく、むしろ相手の負担を増やすインセンティブがある。満たされた人間は金を支払おうとはしないからだ。

「ビジネスによって人が幸せになっていく」というのは、それ自体がビジネスのための建前であることが多い。実際には、素朴に人を幸せにしたいのならば、むしろビジネスをしないほうがいい。純粋に相手の幸福の最大化を考えるなら、相手が必要とするものを、金を取らずにそのまま差し出せばいいかもしれない。だが、ビジネスはそれを可能にするルールではない。

「相手に金を支払わせないと金が儲からない」というのがビジネスのルールであり、そして、そのようなルールにおける自身を有利にしようとする努力は、誰かに素朴な生活の豊かさを提供するような仕事からは遠ざかっていく。


市場競争は「生活を楽にする」ようには働かない

以前書いた「ベーシックインカムを配らないとこれ以上の豊かさを実現しにくいという話」という記事では、現状の「働いて貨幣を稼がなければ生活できない」というルールによって供給力の向上が頭打ちになっていることを述べた。(記事を読むのが面倒な方は動画版を参考にしてください。)

そこでは、「ビジネス」をしなければならない(仕事をして金を稼がないと生活ができない)ゆえに、生活が楽になるような供給力の向上が起こらないと考えている。

もし、供給力が向上する余地があっても、人々が「ビジネス」に規定されているゆえに、それが起こりにくいと考えるのだ。

例えば、「社会のためになる仕事」の理想形は、効率化・自動化を進め、属人性を排して、それをやっている当人が必要なくなるといったものだろう。

供給力の向上(仕事の効率化・自動化)は、現状でそれをやっている人の仕事がなくなることであり、それは社会全体(マクロ)にとっては望ましいことだが、仕事がなくなった当人は社会的に不利になる。

つまり、社会全体にとって望ましい供給力の向上を進めることは、ビジネスのルールにおいてはむしろマイナスに評価されてしまうのだ。

そして、効率化よりも非効率化を進め、複雑で難解なシステムのなかで自分だけの有利なポジションを築き上げ、自分を頼らざるをえない状態に相手を追いやろうとするようなふるまいが、ビジネスに勝つため(金を稼ぐため)には適応的になる。

ビジネスが重視される環境においては、

  • 人に楽をさせると金が支払われなくなる

  • 自分の仕事をなくすと自分の仕事がなくなり金を得られなくなる

といった事情により、誰かの生活を楽にするような試みよりも、むしろ(もちろんルールを守った上でだが)誰かの負担を増やすような試みにリソースが使われ、それゆえに生きづらい社会が形成されていくのだ。

実際のところ、今の市場においては、素朴な生産に関わる仕事やケアワークなど、社会集団にとって重要な仕事ほど、競争の敗者に押し付けられやすくなっている。

このような状況に「おかしい」と感じている人は多いだろうが、先に述べたように、それを疑問視する人間が競争に不利になるので、そういう問いはあまり真剣なものにはならず、社会に対して問題提起をするよりも、自身が競争の勝者を目指したほうが、当人にとっては状況を改善しやすい。

競争が重視される社会だからこそ、各々が自分だけは金を稼ぐという形で自己防衛を試み、それゆえに社会を変えようとする動きが進まない。


「競争」の否定は「自由」の否定

ここまで、競争の問題を指摘してきた。

しかし、ここで挙げてきた競争の問題点は、競争の良い部分の裏返しでもある。

個人が競争に参加できることは、それ自体が尊重されるべき権利だ。

また、ビジネスには、スポーツと同様に、客観的なルールに従ってやり取りをするというフェアネスがある。

もちろん、今の市場のルールが完璧なものとは言えないが、それが全員にとって納得できるものであろうとする政治的な努力は続けられている。

ここでは、よくある「社会が不公平で格差があるから生活が苦しくなっている」という意見とは異なる見方をしている。市場は、それがフェアなゲームであろうとしているからこそ、みんなが苦しくなっていくのだ。

しかし、では、競争が起こらない状態とはどのようなものだろうか?

「競争が起こらない状態」を考えてみると、それは、個人の自由が制限された状態だ。

相対的な優位を得るための競争に参加する個人の自由が制限されていると、競争は起こらない。逆に言えば、個人の自由を認めるならば、競争が起こることも認めなければならない。

仮に、個人が競争に参加できる自由を否定して、社会のための仕事を強制させるような権力が機能していた場合、それは個人の権利が否定された危険な社会ではあるが、個々の労働時間は今よりも短く済むようになるだろう。

いわゆる「保守的・伝統的な社会」というのは、個人の自由を否定して、集団のための仕事に従事させてきたものだった。

保守や伝統は、過剰な競争を防ぐという点においては一定の合理性があり、それゆえに歴史の風雪に耐えて重視されてきたものと言える。一方、市場経済と人権思想が社会に浸透するほど、そのような保守・伝統が否定され、競争が過剰な社会になっていく。

伝統的な価値観が否定されて個人が自由になることを望ましいと考えるのが、ここ最近の風潮ではある。しかしそれには、「競争によって負担が増える」というデメリットが存在した。実際に、現代の先進諸国は、経済成長の結果、少子化が進み、社会を支える仕事に就こうとする人が減って、共同体が持続不可能になっている。

しかしながら、では個人の自由を否定すればいいのかというと、それはそれで、正しいとは言えない。

つまり、ここには、「自由が否定されているけど競争が起こらない楽な社会」か、「自由が肯定されるゆえに競争が起こる苦しい社会」か、というトレードオフが存在することになる。

テクノロジーが進歩したのに生活が苦しいのは、現代の先進国が、「自由が肯定されるがゆえに苦しい」の側に寄りすぎているからであると考える。しかしそれは、「個人の自由と権利(正しさ)」を尊重しているゆえにそうなっているので、それが問題であるとも言いにくいのだ。


「競争」のためのコストは「ブルシットジョブ」ではない

技術革新が起こったのに労働が楽になっていない問題において、よく、「ブルシットジョブ(デヴィッド・グレーバー)」といったワードが言われることがある。

たしかに、今の社会では、生産に寄与しない仕事(自己の優位性を獲得するために他人の負担を増やすような仕事)が膨大に行われている。しかしここでは、それを「ブルシット」であるとは考えない。それらは、個人の自由を認めるからこそ不可避的に発生するものだからだ。

この記事でここまで述べてきたことは、「無駄な仕事をするべきではないよね」という話ではない。

生産に寄与せず、社会の複雑化を進め、他者の負担を増やしてくような仕事が「無駄な仕事」であるのは、社会全体(マクロ)という視点で見た場合であって、そのような全体にとっては迷惑な仕事も、それをやっている当人のミクロな視点からすれば、「自分を有利にするための努力」なのだ。

そして、「競争(自由)」を認めるならば、「(マクロにおいて)無駄な仕事」が発生することを避けられないという構造を、ここで指摘してきた。

もっとも、今の先進国は、社会が持続不可能なほど競争が過剰になっている。競争が「個人の自由の尊重している」ものであることを認めた上で、「競争」を否定する試みを進めていかなければならないと考える。


競争を否定する「ベーシックインカム」

競争を否定する方法のひとつとして、「ベーシックインカム」を挙げる。

ベーシックインカムは、「全員に無条件で同じ額面を与える(相対的な差を否定する)」ゆえに、競争を否定する性質がある。

先に、貨幣が相対的に機能するものである以上は、「全員が他人よりも金持ち」になることは不可能であることを述べた。だが、実質的に、全員が過去よりも金持ちなるようなことは起こりうる。それは、過去よりも絶対的な供給力の向上(産業の効率化・自動化)が起こり、少ない労力でより多くの供給を生み出すことができるようになることだ。

つまり、社会全体の「供給力の向上」を目指し、それを、競争が起こらない「ベーシックインカム」という形で全員に与えられるようにすれば、過去よりも全員が得をする「全員が金持ちになるようなこと」が不可能とは言えない。

供給力が向上するなら、実質的に、全員が過去と比べて金持ち(豊か)になる可能性はある。

そのやり方については、「ベーシックインカムを配らないとこれ以上の豊かさを実現しにくいという話」を参考にしてほしい。


弱さを競う競争

最後に、今の社会福祉においても「競争」が行われていることについて軽く触れたい。

これについてはまた別の機会で詳しく説明するつもりなのだが、現在は、社会福祉をめぐっても「競争」が行われている。

スポーツ・学力テスト・ビジネスなどが「強さを競う競争」だとするなら、社会福祉の枠をめぐっては、いかに自身の弱者性を認められるかという「弱さを競う競争」が展開されていると言えるだろう。

社会福祉は、黙っていれば与えられるものではなく、自身が相対的な弱者であることを制度に認められなければならない。そして、そこに競争が起こる。

強さを競うものであれ、弱さを競うものであれ、「競争」の特徴は、「相対的な差」を生み出すことにある。

スポーツが勝敗をつけたり、貨幣が格差を作るのと同じで、社会福祉(弱さを競う競争)も、「もらえる人」と「もらえない人」に分けるから意味がある。弱者に対して支援をするためには、「差」をつける必要があるからだ。ただ、それゆえに、「相対的な差」における優位をめぐって「競争」が起こる。

また、ここまで説明してきたように、「競争」は、それ自体が分配のもとになる余剰を生み出すわけではない。

社会福祉のための「弱さを競う競争」にしても、各々が自分の弱者性を主張したり、誰が本当の弱者なのかについて議論したり、支援のための仕組みを整備したり、そのための煩雑な事務手続きなどをこなすことは、多くのリソースを消費するが、それ自体が支援のもとになる物質的な余剰を増やすわけではない。

「誰が弱者なのか?」をめぐる競争も、それが過剰になるほど、全員が苦しくなっていく性質を持つ。

そして、現状において、本来であれば生活の安心のために与えられる社会福祉も、実質的に、「競争に勝ち抜かなければ得られないもの」になっている。

それに対して、競争をやめて全員に同じように配ろうとする仕組みが「ベーシックインカム」になる。

「差」をあえて否定して「全員に無差別・無条件で同じ額面」を配ろうとするベーシックインカムは、社会保障の代わりになるものではない。ただ、これから「競争に勝たなくても生きていける社会」を目指すためには、ベーシックインカムのような仕組みが必要と考えている。

長くなったので、今回はここまでで話を切り上げることにするが、ここで説明してきた「弱さを競う競争」に関しては、このnoteでも、また機会を改めて詳しく論じるつもりだ。

なお、「ベーシックインカムを実現する方法」というサイトでは、「弱さを競う競争(マイナスの競争)」に関して、すでに詳しく書いているので、よければ読んでみてほしい。


まとめ

  • テクノロジーが進歩したのに生活が楽にならない理由は、効率化や自動化が進んで供給力が向上している以上に、相対的な優位を競う「競争」が過剰な社会になっているから。

  • 競争の典型的な例はスポーツである。競争において、そこにどれだけのリソースが費やされようと、相対的な勝者と敗者が生まれる構造は変化せず、また、その競争自体が何らかの物質的な豊かさを生産するわけではない。

  • 競争において、「競争を疑うと競争に不利になる」ゆえに、競争の過剰が問題になっていても、競争を疑う動きが進みにくい。

  • 市場競争(ビジネス)も、スポーツと同じような「競争」であると考える。その理由として、貨幣が相対的に機能することと、市場には自分の有利のために相手を不利にするインセンティブがある(相手に金を支払わせないと金が儲からない)ことを指摘した。

  • 市場競争は、それが不公平だからではなく、それが公平(フェアネス)を重視するからこそ、生活が苦しくなっていく。スポーツにおいて、自分が勝つために相手を妨害し合うように、ビジネスにおいても、自分が儲かるために互いの負担を増やし合うような構造がある。

  • 競争が問題だからといって、競争を否定することは、それに参加する個人の自由を否定することを意味する。かつての「伝統的な価値観」には、個人の自由を否定することで、競争の過剰を防ぐ性質があった。

  • 「不自由だけど楽(競争の否定)」と「自由だけど苦しい(競争の肯定)」は、トレードオフの関係にある。

  • 現代における競争の過剰を問題視するならば、競争の重要性を認めつつも、競争を否定する方向に社会を傾けていこうとする必要がある。ベーシックインカムは、「全員に無条件で同額であること(差を否定すること)」によって、競争過剰な社会を補正していこうとする。

  • 貨幣が相対的なものである以上は、「全員が他人よりも金持ち」になることはできないが、絶対的な供給力の向上(テクノロジーの進歩)によって生み出された余剰を、ベーシックインカムによって全員に分配する仕組みを作れば、過去よりも全員の生活が豊かになることは起こりうる。

  • 現代は、生活が苦しい人のための社会保障においても、「弱さを競う競争」が行われている。「競争」である以上は、それが激化するほど全員が苦しくなる構造がある。

  • ベーシックインカムは、「弱さを競う競争(社会保障)」の代わりになるものではないが、「競争に勝たなくても生きていける社会」を実現するために必要な仕組みになる。


今回は以上になります。

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