「子供を小学校まで徒歩で送る」それは最高に贅沢な時間。
「ねぇ、このままついて来てよ?」
次男が上目遣いにこちらを見つめてくる。
今朝、子供達は妙にのんびりしていた。
いつもの通り、朝勉強をして、朝食を食べて、ゲームをして…。
いつもならマンションのエントランスから呼び出してくるお友達が、今日は鳴らしてこなかったので8時を過ぎても子供達は家でダラダラ過ごしていた。
「いや、そろそろ行きなよ。8時だよ?」
私がそう促すと、長男は慌てて出て行った。
だけど次男は相変わらずのんびりしている。
8時10分を過ぎてやっと靴を履き始めた。
玄関まで見送りに行くと、突如次男が「学校まで一緒に来て」と言う。
咄嗟に「え、嫌だよ。ここまでだよ」と言ってしまう(笑)
外は暑いし、1時間前にわざわざゴミ捨てついでに「朝散歩」まで行ってしまった。
つまりは「外に用事がない」のだ。
かと言って、差し迫って何か予定が入ってるワケでもない。
小学校まで往復20分近く歩いた所で多少家事の進捗が遅れる程度で影響がない。
「エレベーターまで」
「エントランスまで」
等と言いながら。
次男が中々腕を離してくれない事もあり、結局学校まで着いていってしまった。
別に私が付いていかなくても、次男は学校へ行ける。
不登校気味なワケでもないし、学校で何か嫌な事があるワケでもない。
怪我をしてるワケでもないし、悪天候なワケでもない。
そして私も昨日「読み聞かせボランティア」に行ったばかりで、小学校に用事もない。
そもそも鍵もスマホも自宅に置いてきてしまったので、景色を撮影する事もできなければ、帰りにコンビニでアイスを買う事もできない。
つまりは
子供の要求に応える。
子供と手を繋いで歩く。
その為「だけ」に歩いているのだ。
登校中、沢山の人とすれ違う。
同じ「保護者同士」の知人、出勤中の人、旗振りのおじさん、校長先生、子供を自転車の後ろに乗せて飛ばし気味に走って行く人。
そういう人から見て「無職になったから暇してる」って思われるだろうな…等とぼんやり考えていた←自意識過剰(笑)
でも、よくよく考えると。
コレって最高に「贅沢」じゃないか?
親が子供に対して「コレをやってあげたい」と思う事を押し付けるワケでもなく。
子供の方から「こうしてほしい」と言われた事を、叶える。
それだけの為に時間を使う。
そのリクエストに応えても、「特に支障がない生活」をしている。
そう考えたら、とてつもなく贅沢で有難い時間な気がしてきた。
子供はどんどん親から離れて行く。
はりきって専業主婦になってみたものの、放課後も「友達と約束してるから公園に行ってくる!」と出かける事の方が多い。
寝る前に「絵本を読んで」と言ってくる事も滅多になくなった。
(寂しい)
食事だって、相変わらず「ふりかけご飯」やマックのポテトの方が好きだ。
そんな中で数少ない「親へのリクエスト」なのだ。
これって、正に「事実は1つ、解釈は無数」という事だ。
「無職の母が子供のリクエストに応えて、小学校まで徒歩で送った」
という事実を。
「暇だ」と思うか「贅沢で幸せな時間だ」と思うか。
きっと後者の思考を持つ方が、自己肯定感も高いし幸福度も高い。
そうだ。
こんな風に「時間がある」という事は、私にとってはプラダのバックを持つ事よりも遥かに贅沢で幸せな事だ。
「毎日一緒に登校するぞ!」とか「毎日読み聞かせするぞ!」とか。
肩に力を入れて「目標化」させてしまうと、お互いに苦しくなる。
だけど子供が急なリクエストを投げてきた時に「よし来た!」と応えられる余白を作っておく。
それこそが「専業主婦になった喜び」なのかもしれない。
ふと、そんな事を感じた朝だった。
<あとがき>
6時台に、急に思い立って「朝散歩」へ行ってみました。
そこまで強く「行って良かった!」と言う感じはありませんでしたが、「日常から切り離す」という意味では有効な行為だと思いました。
家にいると、「早く起きて」とか「〇〇したの?」とか家族のアレコレが気になってしまいますが、1人で朝の空気を吸いながら歩くのは何だか気もち良かったです。
このnoteを書く時間も、色々と実験してみたいと思います。
今日も有難うございました。
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