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「弊社は、返金いたしません」〜けれど仕事は終わっていない〜 創作大賞2026 お仕事部門応募

あらすじ

 太平洋に面した漁師町・浦活(うらかつ)町で起きた、公金横領事件。
その事件を起こした一人の町役場の職員は、横領した公金のほぼ全てをアイドルグループへの“推し活”に使っていた。

そのアイドルを運営する会社では、その公金の流れを察知するも、返金しないことを決定する。若手社員の真海 豪(しんかい ごう)は、会社の判断に違和感を抱く。

「現金で返せないなら、価値で返す」
そう決めた豪は、アイドルとともに浦活町へ向かう。

しかし待っていたのは、冷たい視線と強い拒絶。
地元、会社、仲間の間で揺れながらも、豪たちは関わり続ける。

やがて少しずつ生まれる変化の中で問われるのは、仕事の意味。
これは、返せないものに向き合い続けた者たちの再生の物語である。


第1章 弊社は、返金いたしません


 アイドルグループのルミナスは、売れそうで売れないアイドルだった。

結成五年。
固定ファンはいる。
ライブも、完全に空席だらけになるわけではない。

だが、跳ねない。

新人ほど勢いはなく、ベテランと呼ぶには若い。
アイドル業界では、最も埋もれやすい位置にいた。

朝比奈 凛(あさひな りん)は、歌が上手い。

真鍋 美月(まなべ みづき)は、パフォーマンスが安定している。

小坂 日向(こさか ひなた)は、配信人気がある。

橘 莉乃(たちばな りの)は、泥臭いほどファン対応が丁寧だ。

素材は悪くない。
それでも売れない。

何かが足りない。
ずっと、その「あと少し」に届かなかった。


 真海 豪は、そんなルミナスのマネージャー担当になって三年目だった。
新人時代は、もっと華やかな仕事を想像していた。

スポットライト。歓声。成功。

だが実際の仕事は、数字ばかりだった。

動員数。配信視聴率。物販売上。利益率。

どのグッズを何個刷るか。
どの特典が一番積まれるか。
どの配信時間なら数字が伸びるか。

そんなことを毎日考えている。

夢を売る仕事というより、夢がどれだけ売れたかを管理する仕事だった。


 それでも、最近は少しだけ空気が変わっていた。
売上が伸びていた。
特に物販。
チェキ。アクリルスタンド。限定グッズ。

一人のファンが、異常な額を使っていた。

最初は、ただの太客だと思った。
業界では珍しくない。

ルミナスのような中堅グループにとって、熱量の高いファンは生命線だ。

その売上のおかげで、新曲企画が止まらずに済んだ。
追加衣装の予算も出た。地方遠征も継続できた。

正直、豪は少し安心していた。

これで、まだ戦える。ルミナスは、もう少し続けられる。
そう思っていた。


 異変に気づいたのは、物販データの整理中だった。

購入履歴に、どことなく違和感がある。

名義が、微妙に違っていた。
漢字表記。カタカナ。旧姓らしき名前。

メールアドレスも少しずつ異なる。
だが、配送先が同一。

決済履歴の流れも似ている。

一本の線に繋がっていた。
豪は履歴を遡る。

購入額は、月を追うごとに増えていた。
数万円。十数万円。数十万円。
やがて百万円を超える。

異常だった。

そこまで追いかけるファンは、いる。
だが、何かがおかしかった。

チェキ。ライブ。配信投げ銭。
ファンクラブ。限定グッズ。遠征イベント。

購入履歴は、ほとんど全てのサービスに及んでいた。

まるで、一人の人生そのものが注ぎ込まれているみたいだった。

豪はさらに調べる。
そして、一つの記事に辿り着いた。

『地方自治体職員が公金横領。被害総額 1億円』
横領した公金は、複数のアイドルへの投げ銭やグッズ購入など、
いわゆる”推し活”に充てられていた。

記事に表示された町名を見た瞬間、豪の指が止まった。

浦活町(うらかつちょう)。
太平洋沿いの、漁業が主要産業とする、小さな漁師町。


 父は何度も仕事で、浦活町へ配送に来ていた。
豪はそのうちの一度だけ同行したことがある。

朝の港。
冷たい潮風。
魚を積み込む音。
黙ったまま働く大人達。

その記憶の中で、父の言葉だけが妙にはっきり残っていた。
「遊び半分で近づく場所じゃない」

当時は意味が分からなかった。
だが今なら分かる。

あの町では、生きることと働くことが、ほとんど同じだったのだ。

そして、その町で消えた金が、自分達の売上になっている。
偶然とは思えなかった。


「今回の件ですが、弊社としては返金対応はいたしません」

会議室で、法務担当が淡々と言った。

都内の芸能事務所、スターリーフエンターテインメント。
アイドル部門定例会議。

スクリーンには売上資料が映し出されている。
その中で、一つの数字だけが浮いて見えた。
9,842,000円。

静かな空気だった。
怒鳴る者もいない。感情的になる者もいない。

「法的問題はありません」
法務が続ける。

「当社は正規の対価として商品およびサービスを提供しています。購入資金の出どころについて、当社に調査義務はありません」

「返金対応は避けるべきです。今回だけ特別に返せば、今後も似たケースで“うちも返してほしい”という話が出てきます」
経理が言った。

「今後の波及リスクが高いですね、その線引きも難しい」
広報も頷く。

 全員が、それぞれの仕事をしていた。

その結果として、返金しない。
という結論が出ている。

合理的だった。正しい判断だった。
だからこそ、豪は苦しかった。

 もしルミナスが売れていたら。もし資金に余裕があったなら。
こんな売上に頼らずに済んでいたのではないか。

そんな考えが頭をよぎる。もちろん、責任転嫁だ。

横領したのは向こうだ。こちらではない。

しかし
その金に、自分達が助けられていたのも事実だった。


「あの」
気づけば、声が出ていた。

会議室の視線が集まる。豪は一瞬だけ迷った。

だが、止められなかった。
「もし、そのお金が不正に得られたものだと分かっているなら」

言葉を探す。
「何もしないというのは、本当に正しいんでしょうか」

数秒、沈黙が落ちた。
やがて、上司の島崎が口を開く。
「気持ちは分かる」

静かな声だった。
「だが、それは会社の仕事じゃない」

はっきりした口調。
「我々はルールの中で成果を出す。それが仕事だ。感情で動くのは個人の自由だが、会社は別だ」

正論だった。反論できない。

むしろ、ここで理想論を振りかざす方が無責任ですらあった。

 だが、豪の胸の奥には、妙な重さが残った。

それは正義感ではない。もっと苦い感覚だった。
売上に救われて、安心していた自分への違和感。


 会議は、そのまま次の議題へ移った。
新規ライブ。スポンサー。配信施策。
空気はすぐ切り替わる。

それが、この業界の強さだった。
止まれない。立ち止まった瞬間に沈む。だから進み続ける。
たとえ、何かを置き去りにしても。

会議終了後、豪は窓際で立ち止まっていた。
遠くに海が見える。
だが都会の海は、どこか作り物のようだった。

浦活町の海は違う。
もっと近い。もっと荒い。もっと生活の匂いがする。

「……仕事、か」
小さく呟く。
仕事とは何だろう。

決められた範囲で成果を出すことか。
損をしない判断を積み重ねることか。
それとも。

 豪はスマートフォンを開く。
「浦活町 横領 被害総額1億円」

その文字列の中に、自分達の影がある。
無関係だと言い切るには、近すぎた。

画面を閉じる。

まだ、何をするかは決まっていない。
やるべきことも分からない。

それでも、このまま終わらせるわけにはいかない。
そう思ってしまった。

仕事は、まだ終わっていなかった。


第2章 けれど仕事は終わっていない

 会議から三日が過ぎても、豪の中の違和感は消えなかった。

返金はしない。会社としては関与しない。
判断としては正しい。
それは理解している。

だが、理解と納得は別だった。

デスクには、夏ツアーの資料が積まれていた。
地方会場の動員予測。グッズ在庫。配信特典。

数字は悪くない。
むしろ、ここ最近ではかなり良い方だった。

その理由を、豪は知っている。

あの金だ。
横領された公金。
浦活町から消えた金が、ルミナスを延命させていた。

その事実が、頭から離れなかった。

 豪はパソコン画面を閉じる。
代わりに、例の記事を開いた。

浦活町
人口減少加速。後継者不足。水産加工場閉鎖。
並ぶ言葉は暗いものばかりだった。

画面の向こうに、小さな港町が浮かぶ。
子どもの頃、一度だけ行った景色。
朝の海。無言で働く大人達。潮風。

そして父の声。
「遊び半分で近づく場所じゃない」
その言葉だけが、今になって妙に胸に残っていた。

 ルミナスの控室は、いつも少し狭かった。

売れているグループほど、環境は良くなる。
控室の広さも、弁当の質も、移動車も変わる。

芸能界は分かりやすい。数字が、そのまま扱いになる。

「お疲れ様です」

豪が入ると、小坂 日向がソファから顔を上げた。
「豪さん、顔死んでる」
「生きてるよ」

「ギリギリって感じ」
日向が笑う。

その横で、真鍋 美月が台本を読んでいた。
「また売上会議?」
「まあ」

「嫌だねえ、会社員」
「アイドルも大概だろ」

「否定できない」
美月は肩をすくめる。

ルミナスは、泥臭いグループだった。
配信もする。地方営業も行く。チェキも売る。SNSも毎日更新する。

それでも、大ブレイクには届かない。
だからこそ、全員どこか現実的だった。
夢だけでは続かないことを知っている。

「そういえば」
 日向がスマートフォンを見ながら言う。
「例のニュース、まだ炎上してるね」

空気が少し止まる。
豪は曖昧に頷いた。

「浦活町だっけ?」
橘 莉乃が言う。
「漁師町の」

「うん」
「結構大変そうだった」

その言葉に、美月が顔を上げる。
「他人事みたいに言うけど、うちら完全に巻き込まれてる側だからね」
「分かってるよ」

「下手すればグループ終わるよ、こういうの」
現実的な言葉だった。

 実際、炎上一つで消えるアイドルは珍しくない。
豪も、それは理解している。

だからこそ迷っていた。
関われば危険だ。
だが、切り離して終われるほど簡単でもなかった。


 その夜、豪は一人で会社に残っていた。

誰もいないフロアは静かだった。
自販機の音だけが響く。

豪は新しいファイルを開く。
タイトル欄に入力する。

「浦活町 連携企画案」

打ち込んだ瞬間、自分でも苦笑した。
綺麗すぎる。

連携、なんて言葉で済む話ではない。
それでも、他に言葉が見つからなかった。

返金はしない。会社も動かない。
なら、別の形で返すしかない。

関わること。働くこと。町に人を呼ぶこと。
最初は、それくらいしか思いつかなかった。

 豪は、企画を書き始める。
港の朝市配信。
地元飲食店とのコラボ。
商店街イベント。
漁業体験。

並べながら、自分でも分かっていた。
綺麗事で、成功保証もない。
むしろ失敗する可能性の方が高い。

だが、何もしないよりはましだった。


 翌日。

豪は、ルミナスの打ち合わせ前に声をかけた。
「少し時間ください」

「嫌な予感しかしない」
美月が即答する。

「まだ何も言ってない」
「豪さんがその顔の時、ロクなことないから」
日向が笑う。

豪は資料を机に置いた。
「浦活町で活動したいと思ってます」

 沈黙。

最初に反応したのは、美月だった。
「……は?」

「現地でイベントとか、配信とか」
「なんで?」

「返金できないなら、別の形で関わるしかないと思って」
「いや意味分かんない」

美月は完全に呆れていた。
「会社は?」
「公式には関与しない」

「じゃあ無理じゃん」
正論だった。

交通費。宿泊費。スケジュール。
芸能活動は思いつきで動かない。
豪も分かっている。

「休日と空き日を使います」
「本気?」
「はい」

美月は頭を抱えた。
「地方ボランティアごっこで終わるよ、それ」

痛いほど正しい。
豪自身、少しそう思っていた。

だが、その時。
「でも」
日向が口を開いた。
「ちょっと気になるかも」

「日向」

「だってさ」
彼女はスマートフォンを見ながら続ける。
「浦活町って、かなり人減ってるんでしょ?」

「らしいな」
「なんか、その町の人の話聞いてみたいかも」

その言葉に、莉乃も小さく頷く。
「地方って、一回止まると一気に寂しくなるから」
莉乃は、自分の地元商店街のことを少し思い出していた。

莉乃は、地方出身だった。
だからこそ、人口減少の空気を知っている。

「このまま何もなかったことにするの、なんか嫌じゃない?」
日向の言葉が、静かに残った。


 その日の夕方。
豪は島崎に呼ばれた。

机の上には、例の企画書が置かれている。
「読んだよ」
「はい」

「成功確率は低い」
「分かってます」

「綺麗事にも見える」
豪は黙った。

島崎は企画書を閉じる。
「だが、完全に間違ってるとも思わない」
豪は顔を上げた。

「会社としては関与しない」
「はい」

「公式案件にもならない」
「はい」

「経費も出ない」
「分かってます」

「その上で、休日をどう使うかまでは会社は管理しない」
それは許可ではない。だが、拒絶でもなかった。

「タレント本人が自主的に動くなら止めない。ただし問題が起きても会社は守れない」
「……はい」

島崎は少しだけ視線を細めた。
「あと、美談にするな」
「そもそも、町を救おうなんて思うな、そんなこと出来る人間はいない」

 豪は息を止める。

「ああいう町は、外から来た人間の綺麗事を一番嫌う」
その言葉には妙な重みがあった。

「お前がやろうとしてるのは、応援じゃない」
島崎が続ける。
「仕事にしろ」
「仕事」

「結果を出せって意味じゃない。関わった以上、途中で投げるなってことだ」静かな声だった。

だが、その言葉は豪の胸に深く残った。


 会議室を出た後、豪はスマートフォンを開く。

ルミナスのグループチャット。
『で、いつ行くの?』日向だった。

その下に、美月。『私はまだ反対だから』

さらに凛。『行くなら準備はちゃんとしよう』

豪は少しだけ笑った。
まだ何も始まっていない。
成功する保証もない。歓迎されるとも思えない。

それでも。
少しだけ、前に進み始めていた。

 仕事とは何か。
その答えは、まだ分からない。

だが少なくとも。
何もしないまま終わる仕事には、したくなかった。


第3章 海の匂いがする町


 企画書を出してから二週間後。

浦活町に着いた瞬間、風の質が変わった。
潮の香りが、鼻に入ってくる。

湿っているわけではない。
だが、空気そのものが少し重い。


 豪は、その匂いを知っていた。

子どもの頃、一度だけ父に連れられて来たことがある。
母が体調を崩し、預け先が見つからなかった日だった。

父は食品運送会社に勤めていて、その日は浦活町の水産加工場への配送が入っていた。

「邪魔するなよ」
そう言われて乗ったトラックの助手席を、豪は今でも覚えている。

まだ暗い朝だった。
漁港には怒鳴り声とエンジン音が響き、魚箱を運ぶ大人達が休みなく動いていた。

その時、父が缶コーヒーを片手に言った。

「ここは遊び半分で来る場所じゃない」

当時は意味が分からなかった。
だが今なら、少しだけ分かる気がした。


 「……海の匂い」
小坂 日向が、小さく呟いた。

ホームの向こうには、灰色がかった海が見える。
晴れているのに、どこか暗い色だった。

豪は無意識に空を見上げる。

広い。
だが、その広さが逆に逃げ場のなさを感じさせた。

「ここが浦活町か」
朝比奈 凛が静かに言う。

 駅舎は古かった。
観光地のような派手さはない。

人も少ない。
改札の向こうには、シャッターの閉まった店が並んでいる。

だが。視線だけはあった。

改札を出た瞬間、何人かがこちらを見る。
すぐに逸らされる。

だが、消えない。
歓迎ではない視線だった。
「……もうバレてるね」

美月が、スマートフォンを見ながら言う。
「そりゃニュースになったし」

日向が苦笑する。
「“あのアイドル来るらしい”って回ってるんじゃない?」

軽く言ったつもりなのだろう。
だが、その言葉は妙に重かった。


 駅前の通りは静かだった。

昼なのに、人が少ない。
閉まったままの店も多い。
色褪せた看板。
空き店舗。
古い建物。

「……思ったより何もないね」
日向がぽつりと言う。

その瞬間、豪は少しだけ胸がざわついた。

「何もない」
地方の人間が、一番言われたくない言葉だ。

だが、それを否定できるだけの景色も、そこにはなかった。

「人がいない」
莉乃が小さく言った。

確かにそうだった。
町に音がない。車も少ない。

遠くで波の音だけが聞こえている。

「漁師町だから」豪が言う。

「朝が早いんです。もう一仕事終わってる時間かもしれない」
言いながら、自分でも少し曖昧だと思った。

外から来た人間には、この町の時間が分からない。
その感覚が、居心地の悪さを強くしていた。


 最初に向かったのは、町の小さな食堂だった。

木の看板と、色の薄くなったのれん。
営業しているのか分からないほど静かだ。

 豪はガラス戸を開き、呼びかける。
「すみません」

店の奥から、一人の男が出てくる。
年配の男だった。
日に焼けた肌。太い腕。無口そうな顔。

ただの店主というより、現役の漁師のようにも見えた。

「なんだ」低い声。
「あの、事前にお電話した、スターリーフの」

「知ってる」
男は言葉を切った。

その目が、ゆっくりルミナスのメンバーを見ていく。
値踏みするような視線。

「で?」 短い一言。

豪は一歩前に出た。
「今日は、ご挨拶と、もしよければ町の皆さんと何か一緒にできればと」

「できない」
 即答だった。

あまりにも早く、豪の言葉が止まる。
「あの、理由を伺っても」

男は少しだけ笑った。だが、目がまったく笑っていない。

「分かって来たんじゃねえのか」
店の空気が重くなる。
「ここはな、遊びで来る場所じゃねえ」

豪の脳裏に、父の言葉が蘇る。
遊び半分で近づく場所じゃない。

同じだった。

「帰れ」
男はそれだけ言うと、奥へ戻っていった。

のれんが少し揺れる。

それで終わりだった。


 店を出た後、しばらく誰も喋らなかった。

足音だけが響く。

「……まあ、そうなるよね」
美月が言う。

責める口調ではない。
むしろ、予想通りという声音だった。

「一件目です」豪は言う。
「他も回りましょう」

 だが、その後も状況は大きく変わらなかった。

話は聞いてくれる。
だが、距離は縮まらない。

「考えとく」

「今はちょっとな」

「難しいかもしれん」

やんわりとした拒絶。
そして時々、もっと直接的な言葉も飛んだ。

「被害者ヅラするなよ」
その一言だけが、やけに胸に残る。

誰に向けた言葉かは分かっていた。


 その日の夕方。

港近くの堤防で、日向が海を見ていた。
風が強い。髪が揺れている。

「ねえ」
振り返らないまま、日向が言う。

「豪さんって、なんでここまでやるの?」
豪は少し考えた。

自分でも、まだ答えが整理できていない。
「分からない」

「分からないの?」
「うん」

日向が少し笑う。「無責任」
「そうかも」豪も苦笑する。

「でも」少し間を置いて続けた。
「売上見た時、安心したんだ」

日向がこちらを見る。
「ルミナス、まだ続けられるって思った」

風の音が間を埋める。
「その金だった」

日向は何も言わなかった。

「だから、多分」豪は海を見る。
「このまま終わらせたくないんだと思う」

 綺麗な理由ではない。正義感だけでもない。
もっと苦くて、情けない感情だった。

 宿に戻った頃には、空気はさらに悪くなっていた。

日向がスマートフォンを見ながら顔をしかめる。
「うわ、来た」
「何が?」
「SNS」

 豪もスマートフォンを開く。
そこには、自分たちの写真が上がっていた。

駅前。商店街。さっきの食堂前。

遠目だが、はっきり分かる。

コメント欄には言葉が並んでいた。

『来るな』

『売名だろ』

『金返せ』

『被害者ぶるな』

『また稼ぐ気か?』

 次々流れていく。
中には、もっと強い言葉もあった。

凛だけは、画面を閉じなかった。
一つ一つの言葉を、黙って読んでいた。

豪は画面を閉じる。
だが、頭から消えない。

「帰る?」美月が聞いた。

試すような声ではない。
本気で確認している声だった。

豪は少しだけ考える。そして答えた。

「帰りません」
自分でも驚くほど、迷いがなかった。
「明日も回ります」

凛が、静かに豪を見る。
数秒後、小さく頷いた。「分かった」

その時だった。
日向が、スマートフォンを見たまま言う。
「あ」

「どうした?」
「変なのある」
画面を見せてくる。

大量の否定的コメントの中に、一つだけ違う言葉があった。

『本気なら、見に行く』
たった一行。それだけだった。

だが、その言葉だけが妙に残った。

豪はゆっくり息を吐く。
歓迎されていない。それはもうはっきりと分かった。

それでも。

「やるしかないだろ」
誰に向けたわけでもない言葉が、静かな部屋に落ちた。


 窓の向こうで、海の音が鳴っていた。

その音は、優しくはなかった。

空には、昼の名残みたいに白い月が浮かんでいた。

誰も気にしていなかった。


第4章 夜明け前の港

 浦活町の朝は早かった。

いや、正確には、豪たちが知らなかっただけなのかもしれない。

午前4時半。
宿の外へ出た瞬間、肌に冷たい風が当たる。

空はまだ暗い。
だが港の方からは、エンジン音が聞こえていた。

「……本当にやるの?」
眠そうな声で、美月が言った。

片手には缶コーヒー。
髪もまだ整いきっていない。

「昨日、断られ続けた後に?」

「だからです」
豪は答える。
「まずは、人がいる時間に行こうと思って」

「観光客じゃなくて、働いてる人に?」
「はい」

凛が静かに頷く。
「まあ、昼よりは本音が見えるかもね」

 豪とルミナスの四人は、港へ向かった。
まだ薄暗い道を歩く。

遠くから、男達の怒鳴り声が聞こえる。
魚箱のぶつかる音。
フォークリフトの警告音。

町は眠っていたが、港だけは動いていた。
豪は、その音をどこか懐かしく感じていた。

幼い頃、父のトラックの助手席から見た景色と似ている。
あの日も、まだ夜が明けきっていなかった。
「絶対勝手に歩くなよ」

父は、珍しく強い口調で言った。
「ここは仕事場だからな」
その意味を、当時の豪はよく分かっていなかった。

だが、今は分かる。
ここには生活がある。
遊び半分では立てない場所だ。

「うわ……」
日向が小さく声を漏らした。

港には、人がいた。
昼間の静かな町とは別世界だった。

漁船が次々と戻ってくる。
水が跳ねる。男達が無駄なく動く。
誰も立ち止まらない。

豪達の存在など気にしていないように見えた。

いや。
正確には、見る余裕がないのだ。

「すご……」
莉乃が呟く。
その声には、昨日までとは違う温度があった。

商店街では見たことのない種類の忙しさだった。
人が減る町でも、働く場所には熱が残るのだと初めて知った。


 豪は、港の隅にある小さな売店へ向かった。
昨日、唯一まともに話を聞いてくれた老女の店だ。

「おはようございます」
「ああ、あんたらか」
店番の老女は、眠そうな顔で笑った。

「本当に来たんだね」
「はい」

「物好きだねえ」
そう言いながらも、昨日より声は柔らかい。

豪は頭を下げた。
「何か手伝えることありませんか」

「手伝えること?」
「はい」

老女は少し考え、笑った。
「じゃあ、その発泡スチロール運んどくれ」
「分かりました」

豪はすぐ動いた。
凛達も続く。

魚箱は思った以上に重かった。

「ちょ、待って、これ結構きつい!」
日向が情けない声を出す。

「アイドルがやる仕事じゃないかも!」
「今さらだろ」
美月が笑う。

 そのやり取りを見て、近くの漁師達が少しだけ視線を向けた。
だが、昨日のような露骨な拒絶ではなかった。

作業を続けるうち、少しずつ会話が増えていく。
「兄ちゃん達、ほんとに来たんだな」
「はい」

「どうせすぐ帰ると思ってた」
「まだ帰りません」

漁師の男は鼻で笑った。
「変わってんな」
「ところで、姉ちゃんたちは、どんな仕事しとるんや?」

「アイドルです」
日向が応える。

「カメラは、無いんやな」
男は不思議そうに呟き、去っていった。

誰もが無言になり、作業に戻った。


 日が昇る頃には、港の空気が少し変わっていた。

豪達は汗だくだった。
特に、日向は完全に疲れ切っている。

「無理……足終わった……」
「ライブより動いてるな」
美月が笑う。

その時だった。

「ねえちゃん達」
声をかけてきたのは、小学生くらいの男の子。

「本物?」
「本物って、失礼だなあ」
日向が笑う。

「配信とかしないの?」
その言葉に、豪が顔を上げる。

「配信?」
「だってアイドルなんでしょ?」

男の子は当然のように言った。
「なんかやれば?」

豪と凛が顔を見合わせる。
その発想はなかった。

ここでイベントをやる。
町を盛り上げる。
そのことばかり考えていた。

だが、今あるものを、そのまま見せればいいのかもしれない。
「やってみる?」

凛が言った。
「今ここで?」
「うん」

美月が肩をすくめる。
「どうせ公式じゃないし」
「それ便利に使ってるよね」
日向が笑った。

 10分後。ルミナスの簡易配信が始まった。

港の片隅。魚箱。朝日。作業着姿の漁師達。
そして、眠そうなアイドル四人。

『何これ』

『朝早すぎる』

『どこ?』

『地方ロケ?』

コメントが少しずつ流れ始める。

視聴数は多くない。
だが、確実に人がいる。

「おはようございます、ルミナスです!」
日向がカメラへ笑顔を向ける。

その後ろで、美月が魚箱を運んでいた。
『働かされてて 草』
『ガチ漁港じゃん』
『え、これ浦活町?』

コメント欄の空気が少し変わる。
否定だけではない。
興味が混じり始めていた。

豪は、その画面を静かに見つめる。
派手ではない。
数字も大きくない。

だが、昨日まで閉じていた何かが、少しだけ動き始めている気がした。

 その時だった。

「兄ちゃん」
振り返ると、昨日食堂で豪たちを追い返した男が立っていた。

腕を組み、無表情でこちらを見ている。
豪は思わず背筋を伸ばした。
「……はい」

男はしばらく無言だった。

やがて、小さく言った。
「明日も来るのか」
「来ます」即答だった。

男は数秒だけ豪を見つめる。

そして。
「だったら、軍手くらい買え」
それだけ言って、去っていった。

豪は一瞬、意味が分からなかった。

だが後ろで、老女が吹き出す。
「気に入られたねえ」
「……え?」

「あの人、嫌いな相手には2度も話しかけないよ」


 呆然と港を見る豪。

耳に入るのは、波音とエンジン音。

その中で、昨日より少しだけ、この町との距離が縮まった気がした。


第5章 売れない町、売れないアイドル

 朝市配信は、三日続いた。
爆発的に伸びたわけではないが、少しずつ視聴者が増えていた。

『今日も港だ』
『もう朝番組じゃん』
『魚のおっちゃん映ってる』
『この町、なんか気になる』
コメント欄の空気も変わっていた。

最初に多かった拒絶や怒り、だけではない。

興味が混じり始めている。
豪は、その変化を静かに見ていた。

「数字、どう?」
隣から、凛が覗き込む。
「微増です」
「微妙だねえ」

美月が缶コーヒーを開ける。
「でも離脱率はかなり低い」
「最後まで見てる人が多いってこと?」

「はい」
豪が頷く。
「港の作業とか、普通なら途中で飽きるんですけど」
「飽きないんだ」
「多分、“本物”だからだと思います」

日向が魚箱に座りながら笑う。
「アイドル配信なのに、魚の方が主役だもんね」

「否定できないな」
美月も笑った。

その時だった。
「姉ちゃん達」
港の奥から声が飛ぶ。

振り返ると、漁師達が手を上げていた。
「今日は来るの、遅えぞ」
「もう競り終わっちまう」

昨日まででは考えられない声だった。
日向が目を丸くする。
「……話しかけられた」

「進歩だな」
豪は小さく笑った。
だが、その空気の変化以上に、豪の胸に残っていたものがある。

「しかし、ルミナスって何なんや」
魚箱を運びながら、漁師の一人が豪に聞いた。

「何、外国語か?」
「英語です」

「意味は?」
豪は少し考えたあと、答える。
「……“光る”とか、“輝く”に近いです」

「はあ」
漁師は分かったような、分かっていないような顔をした。

すると、近くで聞いていた老人が口を挟む。
「なんや、月みたいなもんか」

 豪は少し笑った。
「まあ、近いかもしれません」
「じゃったら、月でええんやないか」

老人は当然みたいに言う。
「ルミなんたら、なんて覚えられん!」

「ひどっ!」
日向が抗議の声を上げる。

だが老人は気にしない。
「朝早うから港来とるし、お月さんで十分や」
周囲から笑いが起きた。

その日を境に。
港では誰も、“ルミナス”と呼ばなくなった。 


 昼過ぎ。
豪は商店街を歩いていた。

閉まったままの店。色褪せた看板。静かな通り。

だが、以前とは違う。
少しだけ、人がこちらを見る。

敵意だけではない。
“知っている顔”を見るような視線だ。

「兄ちゃん」
魚屋の店先から声が飛ぶ。

「昨日の動画、うち映っとったぞ」
「勝手に使ってすみません」

「別にいい」
店主はぶっきらぼうに言う。
「孫が喜んどった」

その言葉に、豪は少し驚いた。
「お孫さんが?」
「都会におる」

店主が、魚を並べながら言う。
「“じいちゃん、有名人じゃん”って、電話来たわ」

笑い声。
小さい。本当に小さい変化。
だがそれは確かに、町の中へ何かが届き始めている証拠だった。

 
 夕方。
宿のロビー。

ルミナスの四人がソファに座っていた。
皆、疲れている。

朝が早すぎるのだ。
「眠い……」

日向が、机に突っ伏す。
「アイドルってこんな肉体労働だったっけ」
「今さら」
美月が笑う。

その時、凛がぽつりと言った。
「でもさ」

三人が顔を上げる。
「なんか、不思議だよね」

「何が?」
「浦活町」
凛は窓の外を見る。

「来る前は、もっと暗い場所かと思ってた」
「実際 暗いじゃん」

「まあね」
凛は苦笑する。
「でも、“終わってる町”ではないんだよね」

そして続ける。
「コメントだけ見てた時は、全然違う場所だと思ってた」

豪は、静かにその言葉を聞いていた。

終わっている。そう言うのは簡単だ。
人口減少。
空き店舗。
消えた祭り。
高齢化。

現実として、全部ある。

だが、朝の港には人がいた。
生活があった。働く音があった。

町は、まだ息をしていた。

「……うちらも似てるか」
美月が小さく言う。

誰も否定しなかった。
ルミナスも同じだ。

派手に売れてはいない。
消えそうだと言われ続けている。

それでも、まだ終わっていない。
続いている。それだけは、本当だった。

 その時。
豪のスマートフォンが震えた。

会社の島崎からだった。
「はい」
『動画見た』
相変わらず短い。

「申し訳ありません」
『怒ってるわけじゃない』
少し間。

『お前ら、魚触る方が自然だな』
豪は思わず笑いそうになる。
「アイドルとしてどうなんでしょう」

『知らん』
だが、声は少し柔らかかった。
『それより、問い合わせが来てる』

「問い合わせ?」
『港で映ってた干物、通販できないかって』

豪は黙る。
『小さい数字だ』
島崎は続ける。
『だが、ゼロじゃない』

 窓の外では、港の灯りが揺れている。
遠くで船の音が聞こえた。

『真海』
「はい」

『続けろ』
通話が切れる。

豪はしばらくスマートフォンを見つめていた。
その横で、日向が眠そうに呟く。

「明日も朝早い?」
「4時半集合です」

「地獄、、、」
「でも来るよね」
美月が笑う。

日向は少し黙り、やがて小さく笑った。

「……まあ、お月さんだしね」
ロビーに笑いが広がる。

その時だった。

「お月さん達ー!」
女将の声が、廊下の向こうから飛んできた。

「晩ご飯 できたよー!」
一瞬、全員が顔を見合わせる。

そして。
「あ、うちらか」
日向が吹き出した。

もう誰も説明しなかった。

その名前は、少しずつ町の中へも浸透していた。



第6章 月を待つ町

 朝市配信は、一週間続いた。

最初は物珍しさで見られていた配信も、少しずつ空気が変わり始めていた。

『今日も港だ』

『魚のおっちゃん、元気そう』

『これ、朝のBGMみたいになってる』

『なんか見ちゃう』

爆発的な数字ではないが、毎日少しずつ視聴者が増えている。

そして何より、不思議なくらい離脱率が低かった。
誰も途中で消えない。

漁師達が魚を運ぶだけの時間ですら、コメントは流れ続ける。

「普通、こんなの伸びないんだけどな」
豪は分析画面を見ながら呟く。

「じゃあ何で?」
日向が、魚箱へ座り込む。

「……多分、“作ってない”からです」
「作ってない?」

「盛ってない、っていうか」
豪は港を見る。

朝焼け。
海風。
眠そうなルミナス。
ぶっきらぼうな漁師達。

全部、そのままだ。
都会の配信みたいな派手さはない。

だが、嘘もない。
「それ、褒めてる?」
美月が笑う。

「一応」

その時だった。

「おい、お月さん達」
港の奥から声が飛ぶ。

完全に定着していた。
漁師達は、もう誰も「ルミナス」と呼ばない。

「今日はこっち手伝え」
「また!?」

日向が悲鳴を上げる。
「アイドルに優しくない町だな!」
「文句言うなら帰れ」

「帰りませんけど!」
笑いが起きる。

 
 豪は、その光景を少し離れた場所から見ていた。

最初、この町には拒絶しかなかった。
だが今は違う。まだ歓迎ではない。

それでも、ここに居ることを許され始めている。

「真海さん」
振り返ると、莉乃がスマートフォンを見せてきた。

「これ」
画面には、通販サイト。

干物セット。
朝市配信で映った商品だ。

数字を見る。
「……追加発注?」
「はい。売り切れたみたいです」
豪は一瞬、言葉を失った。

本当に小さい数字だった。
大手案件なら、一瞬で埋もれる規模。

けれど、ゼロではない。
確かに、“町の売上”が生まれている。

日向が目を丸くして、驚く。
「売れたんだ!」

美月がそこに問いかける。
「私たち、初めて人の役に立ってる?」

「失礼だな」
日向の笑顔は、少しだけ誇らしそうだった。

「私たち、初めて人の役に立ってる?」

第7章 「見たこともないくせに」

 その日の昼過ぎ。商店街。

豪達が歩く後ろを、小学生たちがついてきていた。
「ねえ、今日も配信する?」
「するよ」

「映っていい?」
「親に聞いて」
日向が笑う。

その様子を、店先の老人達が眺めている。
「賑やかになったなあ」
「夏祭り前みたいや」
豪はその会話に足を止める。

「祭り、あるんですか?」
老人達は少し黙った。

その時だった。
通りの向こうから、小学生達の声が飛んだ。

「お月さん達、祭りやるん!?」
全員が振り返る。

ランドセルを背負ったままの子ども達が、目を輝かせていた。
「みこし出る!?」
「太鼓ある!?」
「配信する!?」

矢継ぎ早の質問に、日向が思わず笑う。
「いや、まだ決まってないって」

「えー!」
だが、その残念そうな声の中に、少しの期待を含ませ、子どもたちは家に帰って行った。

豪は、その光景を見て息を止める。

ほんの少し前まで。
この町の子ども達は、ルミナスを遠巻きに見るだけだった。
それが今は、当たり前みたいに話しかけている。

豪は、自分でも気づかないうちに思っていた。
(……本当に、変わるのかもしれない)

 けれど、この町の夏祭りは、消えたのだ。
人口減少。担い手不足。予算不足。
地方でよく聞く理由だが、実際に聞くと、重さがまるで違う。

「子どもみこし、昔はあったんやけどな」
「そうそう、港まで練り歩いてな」
「今はなぁ、人がおらん」
老人たちは、笑っている。

だが、その笑いは少し寂しかった。

その時だった。
「だったら、やればいいじゃないですか」
言ったのは、日向だった。

全員が振り返る。

「え?」
「祭りです」
日向は当然みたいに言う。

「せっかく港あるし、配信もあるし」
「簡単に言うなあ」
老人が苦笑する。

「人手がない」
「じゃあ手伝います」

「お月さんの姉ちゃんたちが?」
「はい」

老人達は顔を見合わせた。
その顔は、“無理だ”と言いたそうだった。

けれど、完全否定でもなかった。

商店街の奥から、顔を出した乾物屋の老婆がぽつりと言った。

「……子どもの声、増えたなぁ」
誰も返さなかった。

けれど、その場の全員が聞いていた。
以前の商店街は、昼でも静かだった。

シャッターの閉まった店。人のいない通り。
歩くのは、年寄りばかり。

それが最近は違う。
配信を見に来た観光客。
港へ向かう若者。
笑いながら走る小学生。

少しだけだ。本当に少しだけ。
でも、“止まっていた町”が動き始めていた。

豪は、ふと商店街を見回した。
古いアーケード。
色褪せた看板。
閉まったままのシャッター。

それでも今日は、人の声があった。笑い声があった。
次の話をしている人達がいた。

豪は商店街を見回した。
シャッターを閉じた商店は、相変わらず多い。

それでも今日は、人の声がしていた。
次の話をする人達がいた
 

 その時。

商店街の奥から、怒鳴り声が飛んだ。

「おい!」
全員が振り返る。

魚屋の男だった。
「また変な記事出とるぞ!」
男がスマートフォンを見せる。

画面にはネットニュース。
『横領事件を利用するアイドル商法』
『感動路線で、地方搾取か』
『結局、売名行為』

空気が止まった。
日向の顔から笑顔が消える。
美月が無言で記事を読む。

「……早いな」
豪は小さく呟いた。

いつか来ると思っていた。
だが、想像より早かった。

「コメント欄、やばい」
莉乃の声が震える。

スマートフォンには、悪意が並んでいた
『被害者を利用するな』
『また金取る気か』
『偽善』
『田舎使って売名』

豪は静かに画面を閉じる。
横を見る。

日向が俯いていた。唇を噛んでいる。
「……やっぱ、そう見えるよね」
小さな声だった。

誰もすぐには返せない。

その時。

「バカ言うな」
低い声が響いた。老人の一人だった。
「毎朝四時から来とる連中が、そんな器用なことできるか」

もう一人が鼻を鳴らす。
「売名なら、もっと楽な場所行くわ」
「魚臭くなってまで来んやろ」

日向が顔を上げる。
老人たちは、スマートフォンを睨んでいた。

「好き放題、言いやがって」
「見たこともないくせに」

その時だった。
「ほんなら、自分で見せりゃええ」
魚屋の男が言った。

「え?」
「配信や」

全員が男を見る。
「お前ら、いつもやっとるやろ」
「いや、でも……」

「見たままをな、喋ればええ」
男はぶっきらぼうに言った。
「黙っとったら、好き放題書かれるだけや」

 豪は、やっとのことでつぶやいた。
「言い返すことなんて、できません」
「そんな、もんなのか」

男は悔しそうな顔をしていた。

その悔しさが、自分へ向けられたものではないことだけは分かった。



第8章 「月でええ」

 翌朝の港は、妙に静かだった。

いつもなら、まだ暗いうちから飛び交う怒鳴り声や、フォークリフトの音が響いている時間だ。

だが今日は、人の気配の割に、声が少ない。
豪は荷捌き場へ向かいながら、その空気の違いを感じていた。

昨日の記事。
あれを、町の人達も見ている。

だからだろうか。
視線が、少し重い。

「おはようございます」
豪が頭を下げる。

漁師達は軽く手を上げるだけだった。
以前の拒絶とは違う。

だが、どこか気まずさが混じっている。

すると、一人の漁師が、発泡スチロール箱を豪の横へ無言で置いた。
「これ、持ってけ」

中には、小ぶりだが脂の乗った鯵が入っていた。
「昨日、余ったやつや」
ぶっきらぼうな言い方だった。

だが豪は、一瞬言葉に詰まる。
以前なら、こんなことは絶対になかった。

「……ありがとうございます」
漁師は返事をしない。
ただ、少しだけ気まずそうに帽子を深く被り直した。

 ルミナスの四人も、今日は少し静かだった。
特に日向は、配信用スマートフォンを準備しつつも、あまり口を開かない。

「……やる?」
美月が小さく聞く。

日向は少しだけ迷い、それでも頷いた。
「やる」

声は細い。
だが、逃げる声ではなかった。

 豪はその横顔を見ながら、昨日の言葉を思い出していた。

(言い返すことなんて、できません)
あれは、本音だった。

ネットで一度流れた空気は止まらない。
何を言っても、切り取られる。

否定すればするほど、“図星だから反論している”と言われる。
豪は、それを嫌というほど知っていた。

だから黙る。
企業も、芸能も、結局はそれしか選べない。

それでも、
昨日、魚屋の男が浮かべた悔しそうな顔だけが、頭から離れなかった。
まるで、自分の町を馬鹿にされたみたいな顔だった。


 「始めます」
凛が配信を開始する。

いつも通り。
海。港。朝焼け。魚。

 だが今日は、コメント欄の空気が違った。

『例の記事見た』

『大丈夫?』

『炎上してるやん』

『町の人怒ってないの?』

日向の指が少し止まる。

美月が横からスマートフォンを覗き込み、小さく息を吐いた。
「……始まったね」

日向は、スマートフォンを持つ手に少しだけ力を入れた。

逃げた方がいいのかもしれない。
今日は配信を切った方が、安全なのかもしれない。
そんな空気が、確かにあった。

けれど、港の朝だけは、昨日と同じように始まっていた。

その脇で、魚屋の男も黙って配信のコメント欄を見ていた。
もともと怖い顔をしているのに、顔をしかめている。

そして、突然配信に割って入る。
「貸せ」
「え?」

以後、男は無言でスマートフォンへ近づく。
「ちょ、ちょっと待ってください」

「ええから」
男は慣れない手つきでカメラを掴む。
画面が大きく揺れた。

コメント欄が一気に流れる。
『誰!?』

『おっちゃん 来たーw』

『近い 近い』

『顔怖いw』

男はそんなこと、気にもしていない。
「……聞こえとるんか、これ」

『聞こえてる』

『聞こえるよ』

『誰ですか?』

男は少しだけ黙った。

そして、ぶっきらぼうに言った。
「魚屋や」

コメント欄が笑いで流れる。

『情報少なすぎるw』

『浦活町の人?』

『ガチ地元民?』

男はスマートフォンを睨みながら続けた。
「昨日の記事な、」

港が静かになる。
漁師達も、手を止めていた。

「好き放題書いとるけど」
男は言葉を探すように黙る。

慣れていないのだ。こういう場に立つこと自体が。

それでも続けた。
「俺ら、最初はこいつら嫌いやった」

日向が顔を上げる。
「町の名前がまた全国出て、笑われると思っちまった」

男は海の方を見る。
「せやけどな、」

少しだけ声が低くなる。
「朝の4時過ぎたらな、こいつらは毎日来る。魚臭くなっても帰らん」

「ほんでな、怒鳴られても次の日また来る」

コメント欄の流れが変わり始める。

『え……』

『リアルな人だ』

『台本じゃない感じする』

『なんか泣きそう』

男は不器用に続ける。
「そんな連中、見てたらな」

そこで、一人の老人が横から割って入った。
「おい、貸せ」

「何や、じいさん」
「お前じゃ、話が長いんや」

スマートフォンが奪われる。
画面いっぱいに、老人の顔。

『近い』

『また、誰』

『おじいちゃんw』

老人は構わず言った。
「ルミなんたら、言うとるが」

「覚えられん」
老人は真顔で言った。

「ルミナスです!」
日向が、すぐ訂正する。

「ルミナス……長い」

周囲から笑いが漏れる。

凛達が、顔を見合わせる。
「ありゃ、何の意味なんや」

豪は、少し戸惑いながら答える。
「英語です。“輝く”とか、“光”に近い意味で」

「はあ」
老人は分かったような顔をしなかった。

そして、当然みたいに言う。
「じゃったら、月でええんやないか」

一瞬、港が静かになった。

「月?」
日向が聞き返す。

「朝暗いうちから港おるし、光っとるし、ルミなんたらより分かりやすい」

周囲から笑いが起きる。

「お月さん達で、十分や」

「ちょっと待ってください、それ絶対おばあちゃん扱いです!」
日向が抗議する。
港に笑い声が広がった。

コメント欄も、一気に流れ始める。

『お月さんw』

『かわいい』

『月って、そういう意味だったのか』

『月の子達ええやん』

『漁師町に月って、めっちゃ合う』

豪は、その光景を少し離れた場所から見ていた。
誰も、完璧な言葉なんて使っていない。

綺麗な説明もない。
炎上へ上手く反論できているわけでもない。

それでも、今この瞬間、確かに空気が変わっていた。
町の人達が、自分の言葉で話し始めている。
それが、何より大きかった。


 その時だった。

「うちの孫もな」
さっきの老人が、ふいに呟く。
「東京で働いとる」

港が少し静かになる。

「最近帰ってこん」

「忙しいんやろな」
老人は海を見る。
「でも、こんな顔して頑張っとるはずや」

日向が、小さく唇を噛む。

「だからな」
老人は照れ臭そうに鼻を鳴らした。

「若いもん頑張っとるなら、年寄りも少しぐらい動かんとな」
老人は、照れ臭そうに笑った。

その顔を見ていると、豪はふと思った。
変わり始めているのは、自分たちだけではないのかもしれない。

朝の港には、いつもの海風が吹いていた。


第9章 字幕ひとつで

 最初の変化は、小さかった。

だが、それは確かに変化だった。
朝市配信を見て浦活町を訪れる人が、少しずつ増えていた。

港の干物屋には県外ナンバーの車が停まるようになり、商店街にも見慣れない顔が歩いている。

「配信見ました」
そう声をかけられることも珍しくなくなった。
ルミナスのライブ会場ではなく、港で。

それが豪には不思議だった。

朝市配信の同時接続も伸びていた。

爆発的ではない。
だが右肩上がりだった。

『今日も港だ』

『魚屋のおっちゃん来た』

『朝のルーティン』

『この町なんか好き』

コメント欄の空気も穏やかだった。
以前のような罵声は少ない。

少しずつだが、人が定着し始めている。

さらに嬉しい報告もあった。

「また売り切れです」
莉乃がスマートフォンを見せる。

干物セットだった。
朝市配信に映った店の商品だ。

「追加発注入ったみたいです」
「また?」
日向が目を丸くする。

「今月、三回目」
「すごくない?」

「小さい数字だけどな」
豪はそう言いながらも、少し笑っていた。

小さい。本当に小さい。
だがゼロではない。

何もしなければ生まれなかった数字だ。

 

 その日の夕方。

商店街では老人達が何やら話し込んでいた。

「最近、人増えたな」
「土曜日なんか駐車場が、埋まっとったぞ」
「久しぶりやなあ」

豪は聞こえないふりをした。
だが胸の奥は少し熱かった。

もしかしたら。
本当に少しだけなら。
この町の役に立てているのかもしれない。

 

 その夜。

宿のロビー。
日向がスマートフォンを眺めながら言った。

「ねえ」
「なんだ?」

「もし祭りやるならさ」

豪は顔を上げる。
「まだ決まってない」

「分かってるって」
日向は笑った。

「でも、ちょっと見てみたいかも」

子どもみこし。太鼓。港を歩く人達。

豪は何も答えなかった。
だが、その光景を少しだけ想像してしまった。

 
 しかし、崩れる時は一瞬だった。

最初は小さな投稿だった。

『横領金で売れたアイドルが地方を利用して感動商法してるの地獄』

どこにでもある匿名アカウント。

豪も最初は気にしていなかった。
だが、その投稿に一本の動画が貼られる。

数秒の切り抜きだった。

『月でええんやないか』
港の老人が笑いながら言った場面。

本来なら、ただの何気ない会話。
だが、その動画には字幕が付いていた。

『高齢者を笑い者にする地下アイドル』

豪の背中が冷えた。

元動画では違う。
老人も笑っていた。周囲も笑っていた。
日向も、美月も、凛も。

だが切り抜きでは、その前後が消えている。

老人の顔。字幕。不気味なBGM。
それだけだった。

数秒後。動画は拡散を始めた。

 『うわ』

『これは酷い』

『老人利用コンテンツ』

『田舎で売名』

『気持ち悪い』

さらに、芸能系まとめサイトが取り上げた。
インフルエンサーが反応した。

再生数は、一気に跳ね上がる。

そして。文脈が消えた。

豪は知っていた。
こういう時、人は内容を見ない。

空気を見る。

叩いていい空気。
怒っていい空気。
笑っていい空気。

それが出来た瞬間、事実は置き去りになる。

豪は仕事で何度も見てきた。
だからこそ分かった。

まずい。
これはまずい。

気付いた頃には、もう遅かった。
ルミナス公式アカウントの通知欄は、埋まっていた。

『謝罪しろ』

『老人を利用するな』

『売名グループ』

『被害者ビジネス』

『最低』

見覚えのないアカウントばかりだった。

プロフィールは空白。
投稿数ゼロ。
作成日は、昨日。

それでも怒りだけは大量に存在していた。
まるで誰かの感情が複製され続けているようだった。

 

 電話が鳴る。

 町外に出ている凛だった。
「豪さん」

「……見た」
「会社も燃えてる」

豪は急いで確認する。

スターリーフ公式。
そこにも大量の引用投稿が並んでいた。

『こういう会社なんだ』

『コンプラ終わってる』

『地方利用ビジネス』

『高齢者を利用する企業』

問い合わせフォームの画像まで拡散され始めている。

豪の胃が重くなる。

やっと積み上がり始めたものがある。
港の朝。
魚の匂い。
笑う老人達。
干物の売上。
子ども達の声。

それらが一枚の字幕に押し潰されていく。

「豪さん」
電話の向こうで凛が言った。

「明日、どうします?」
豪は答えられなかった。

港へ行くのか。配信を続けるのか。やめるのか。
分からない。

窓の外では、波の音だけが続いていた。


第10章 正しいから、苦しい

 翌朝。港へ着いた瞬間、豪は空気の違いに気づいた。

潮の匂いも、フォークリフトの音も、いつもと同じだ。

だが、人の視線だけが違った。
以前のような警戒ではない。

もっと厄介なものを見る目だった。

港の入口には、見慣れない車が何台も停まっている。
県外ナンバー。観光客ではない。

魚を買うでもなく、海を見るでもなく、スマートフォンだけを構えている。

豪の胸が重くなった。

炎上が、現実へ流れ込んできている。
その証拠だった。

「ほら、いた」
「あれじゃね?」
「マジで、港でやってんじゃん」

笑い声。
ルミナスを撮っている。

いや、正確には違う。
撮りたいのは港ではない。

人が傷つく瞬間だ。
失言する瞬間。怒鳴られる瞬間。泣く瞬間。

そういうものだけを探している目だった。

日向が小さく身を引く。

「……何あれ」
美月が眉をひそめる。

誰も答えられなかった。

その時だった。

「邪魔や!」怒声が飛ぶ。
魚屋の男だった。

荷台を押しながら、入口の連中を睨んでいる。
仕事の邪魔や。どけ」

すると。
数人のスマートフォンが、一斉に男へ向いた。

豪の背筋が冷える。

やはりそうだ。撮りたいのは港じゃない。
怒鳴る瞬間だ。

「こわ」
「地元民キレてるじゃん」
「撮れた撮れた」

笑いながら離れていく。
その背中を見ているだけで、胃が重くなった。

そして案の定。

10分もしないうちに動画が上がった。
『港でブチ切れる地元民』

怒鳴った理由は消えていた。
仕事の邪魔をされていたことも。荷物を運んでいたことも。
全部消えていた。

残ったのは、“怖い港”という字幕だけだった。

コメント欄が伸びていく。

『やっぱヤバい地域』

『反社感ある』

『こんなのと組んでる会社どうなの』

豪はスマートフォンを閉じた。
現実より、物語の方が強い。
そうなった時、人はもう現実を見ない。

それを豪は知っていた。だから余計に苦しかった。


 昼前。

豪あてに、会社から命令があった。

『至急、本社へ来るように』

短い通話だった。
だが、それだけで十分だった。
呼ばれる理由など分かりきっている。


 本社へ向かう電車の中でも通知は止まらなかった。

ルミナス。
浦活町。
会社名。

関連ワードが次々と流れていく。

『月商法』

『漁村ビジネス』

『炎上売名』

誰かが面白半分で付けた名前が、本物みたいに広がっていく。
豪はスマートフォンを伏せた。もう追いきれない。

窓に映る自分の顔は、ひどく疲れて見えた。

周囲の乗客は、誰も豪を知らない。
なのにネットの中では、自分達だけが巨大な悪役になっていた。


 会議室へ入った瞬間、豪は理解した。

終わった。

壁のモニターにはSNS分析画面が映っている。
炎上関連投稿数。ネガティブワード推移。問い合わせ件数。
数字だけが淡々と並んでいた。

誰も怒鳴らない。だから余計に苦しい。
感情ではなく、処理として話が進んでいく。

「状況は理解しているな」
広報部長が言う。

「はい」

「イベント案件が二件停止」
「スポンサーからの苦情が急増」
「企業イメージへの影響も無視できない」

豪は黙って聞いていた。

「住民出演を許可したのは誰だ」
「……私です」

「出演同意書は?」
「主要な方は、取得しています」

「全員ではないな」
「はい」

「高齢者の顔出しについての苦情も来ている」
 広報部長が資料をめくる。

「リスク管理として成立していない」
反論できなかった。

会社としては正しい。あまりにも正しい。
だから苦しい。

「ですが」
気づけば、豪は顔を上げていた。

会議室が静まる。

「住民の方々は、自分の意思で出演しています」
誰も喋らない。

「売上も出ています」
豪は続けた。
「港の通販も動き始めています」

「真海」
広報部長が遮る。

「それは成果ではない」

豪は息を飲む。

「企業が管理できない状況で起きた偶然だ」

冷たい言葉だった。だが、間違ってはいない。

「島崎部長の案件だから、ここまでは黙認していた」

役員が続ける。
「だが限界だ」

豪は視線を落とした。

「会社全体へ影響が出ている」

「地方の一案件で、ブランドを傷つけるわけにはいかない」

全部正しい。全部分かる。
だから何も言えない。

あの港で見た笑顔は、会社の資料には載らない。
老人達の言葉も。
朝焼けも。
魚の匂いも。

数字にならない。だから評価もされない。

数秒の沈黙。

そして。

「活動は停止しろ」
静かな声だった。
だが逃げ場はなかった。


 会議室を出る。

窓の向こうには大きな街が広がっていた。
人が多い。音も多い。
なのに妙に遠かった。

「真海」振り返る。
島崎だった。

豪は反射的に頭を下げる。
「申し訳ありません」

「謝るな」短い言葉。

「お前が間違ってたと、俺は思わない」
豪は顔を上げる。

「でも」

島崎は少しだけ視線を外した。
「会社は思いだけじゃ動かん」

豪は何も言えない。
「守りきれなくなる」
その一言で十分だった。

島崎も苦しいのだ。切り捨てたいわけじゃない。
だが会社員である以上、越えられない線がある。

「……はい」それしか返せなかった。


 夕方。

浦活町へ戻る頃には、空が赤く染まっていた。
海風が冷たい。

倉庫の扉を開ける。ルミナスの四人がいた。

空気だけで分かった。もう伝わっている。

いつもなら誰かが笑っている時間だった。
今日は冷蔵庫の低い音だけが響いている。

「……止まった?」美月が聞く。

豪はゆっくり頷いた。

沈黙。

「そっか」日向が俯く。
その声は小さかった。

「ごめん」
豪は反射的に言っていた。

「俺が始めたせいで」
「違う」
凛が即座に返す。

だが豪は首を振る。
「いや、俺だ」

声が震える。

「俺が、できるかもしれないって思ったから」
誰も喋らなかった。

外では波の音だけが聞こえている。

「……やっぱさ」
日向がぽつりと言った。
「私達、邪魔だったのかな」

誰もすぐには否定できなかった。
それが一番苦しかった。

「頑張ったんだけどね」
美月が壁にもたれながら呟く。

朝四時に起きて。
魚臭くなって。
怒鳴られて。
笑われて。

それでも毎日港へ来た。
けれど、それだけでは届かないこともある。

倉庫には重い沈黙だけが残った。


 その時だった。

 ガラガラと台車の音が聞こえた。

「おーい」
魚屋の男だった。

発泡スチロール箱を積み上げながら入ってくる。

「なんや、今日は静かやな」

誰も答えない。

やがて豪が言った。
「……活動、止まりました」

「ふぅん」男は短く返す。

「会社から停止命令が出て」
「そうか」

魚箱を降ろす。氷の砕ける音。発泡箱の擦れる音。
妙に普通だった。

豪は戸惑う。
もっと落胆されると思っていた。怒られると思っていた。

だが男は違った。
しばらく作業を続けてから、当たり前みたいに言った。

「ほな、明日は何時に来る」

豪は顔を上げる。
「……え?」

「朝市や」男は首をかしげる。

「港は止まっとらんぞ」

それだけ言って、また魚箱を並べ始めた。

氷の音。波の音。潮の匂い。
豪はしばらく動けなかった。

会社は止まった。

けれど、この町の朝までは、まだ止まっていなかった。


第11章 見ていた人がいた

 その夜。

豪は宿へ戻っても眠れなかった。

活動停止。
その言葉だけが頭の中を回り続けていた。

窓の外では波の音がしている。
だが、それもどこか遠かった。

 スマートフォンには通知が溜まり続けている。
炎上関連のものだろう。

そう思いながら画面を開いた。
そこで指が止まる。

『朝四時から港通ってる子達を、ここまで叩くの普通に怖い』

短い投稿だった。
知らないアカウントだった。

有名人でもない。
インフルエンサーでもない。
ただの一人の視聴者だった。
豪は何となく開く。

そこには続きがあった。

『別にファンじゃない』

『でも一ヶ月近く見てた』

『見てもない人が、切り抜きだけで叩いてるのは違うと思う』

豪は黙った。
その投稿には、少しずつ引用が増えていた。

『分かる』

『全部見たら印象変わる』

『港のおっちゃん達、普通に楽しそうだった』

『最初は胡散臭いと思ったけど、最近ずっと見てた』

さらにスクロールする。

『親父が漁師なんだけどさ』

そんな書き出しの投稿もあった。

『朝四時から来るって、それだけで結構大変なんだぞ』

別の投稿。

『うちの新人も、地方営業で毎日怒られてる』

『頑張ってる若い子見ると、応援したくなる』

豪は何も言えなかった。

ファンだけではない。
浦活町の人でもない。

ただ配信を見ていた人達が、自分の言葉を書いていた。


 翌朝。

倉庫へ行くと、ルミナスの四人も同じ画面を見ていた。

「豪さん」
日向が、スマートフォンを差し出す。

『最初は嫌いだった』

そんな投稿だった。

『でも最近、朝の準備しながら見てた』

『港のおじいちゃん達好きだった』

『浦活町ちょっと行ってみたくなった』

その下には。

『お月さん達、負けるな』

日向は何も言わなかった。
けれど、その目だけが少し潤んでいた。


 その時だった。

倉庫の外から声がする。

「おーい」聞き慣れた声だった。

港の老人達が立っていた。
発泡スチロール箱を抱えている。

「魚、足りんやろ思ってな」

ぶっきらぼうに箱が置かれる。

中には朝獲れた魚がぎっしり入っていた。
豪は言葉を失う。

活動は止まった。
炎上もしている。
迷惑もかけている。

なのに。

老人は不思議そうな顔をした。

「なんでそんな顔しとる」

豪は答えられない。

老人は箱を押し込みながら言った。

「明日も来るんやろ」
その一言だった。

来る前提。続く前提。終わっていない前提。
豪は返事ができなかった。

 ただ、胸の奥で。

止まったと思っていた何かが、

ほんの少しだけ動いた気がした。


第12章 帰る場所

 夜の旅館は静かだった。

廊下の窓から、港の灯りが小さく見える。

老人達の言葉を聞いても、会社からの停止命令が消えたわけではない。

炎上は続いている。
スポンサーへの対応も終わっていない。

現実は何ひとつ変わっていなかった。
それでも豪は、なぜか部屋へ戻る気になれなかった。

旅館の帳場の前で立ち止まる。

帳簿をつけていた女将が顔を上げた。
「どうした」

豪は少し迷ってから口を開いた。

「……明日、東京へ戻ります」
女将の手が止まる。

「そうか」
それだけだった。

豪は小さく頭を下げる。
「急で、すみません。また来られるかも分かりません」

「別に謝らんでええ」
女将は、帳簿を閉じる。

「仕事、止まったんやろ」
豪は答えられなかった。

活動停止。配信停止。地方活動凍結。
会社としては、当然の判断だった。

頭では理解している。
だが心だけが追いついていなかった。

「戻って、どうするん?」
女将が聞く。

豪は言葉に詰まる。

東京へ戻れば元の生活が待っているはずだった。
けれど、もう何が元なのか分からなかった。

ルミナスの予定表は、空白だ。

自分の席が残っているのかさえ分からない。
四人もまた、会社から表へ出るなと言われている。

止められた先でどう過ごせばいいのか、誰も教えてくれなかった。

「……まだ、分かりません」
女将は、しばらく豪を見ていた。

やがて小さく息を吐く。
「ルミナスの子らも、困っとるんやろ」

「え?」
「急に、帰れ言われてもな」

豪は黙った。

その通りだった。
全員が宙ぶらりんだった。

女将は立ち上がる。
「部屋、空いとるで」
「え?」

「キャンセル出た」
さらりと言う。

「しばらく使えばええ」
豪は思わず顔を上げた。

「でも、お金が……」
「後でええ」

特別な顔ではなかった。
雨の日に、傘を貸すような顔だった。

「いや、そういうわけには」
「ほんなら、働こか」

女将は当然みたいに言う。
「朝市、手伝っとるやろ」

豪は言葉を失う。

炎上中の若者達を泊める。
普通なら避ける。得になる話でもない。

それでも女将は、湯飲みを棚へ戻しながら言った。

「帰る場所、ないんやろ」
その一言だけで十分だった。

豪は何も返せなかった。


 外では波の音が続いていた。

港の夜は、静かだった。
そこに、玄関の引戸が開く音が、妙に大きく響いた。

「まだ、起きとるか?」

入ってきたのは、港の老人だった。
あの日、「月でええんやないか」と言った老人だ。

女将が、呆れた顔をする。
「また、こんな時間に」
「缶コーヒーな、買いすぎた」

「そんなもん、買いすぎるか」

老人は、構わず豪を見る。
「お前、ちょっと来い」

「え?」
「外や」

豪は戸惑いながら後を追った。

夜の港は静かだった。波の音だけが聞こえる。

老人は立ち止まり、缶コーヒーを一本投げた。

「飲め」
「……ありがとうございます」

二人で海を見る。
しばらく何も話さなかった。

やがて老人がぽつりと呟く。

「親父さんに似てきたな」
豪の動きが止まる。
「……え?」

老人は海を見たまま続けた。
「昔、何度も来とった」

豪は言葉を失う。

「知ってるんですか」
「港の連中は、よう覚えとる」

老人は小さく笑った。
「荷物の扱いだけは、えろう細かい人やった」

「荷物……?」
「運送会社やろ」

豪は黙って頷く。
「台風の日でも来とった」
「え?」

「道路止まりかけとったのにな」
豪は初めて聞く話だった。

「赤字路線になる言う話もあった」
老人は缶コーヒーを開ける。

「でも親父さんな」
一拍置く。

「届かんなったら町が死ぬ、言うとった」

波の音だけが響いた。

豪は海を見る。
誰もいない夜の港。暗い道路。遠くの灯り。

父は、その道を走っていたのだろう。
雨の日も。
台風の日も。
誰かが待つ荷物のために。

「魚はな、」老人が言った。

「獲るだけじゃ駄目なんや」
豪は顔を上げる。

「届かな、腐る」
静かな声だった。

「港だけあっても意味ない」
老人は海を見る。

「運ぶ人間がおらんと、全部止まる」
その言葉が胸へ落ちる。

魚。
荷物。
人。
町。
全部どこかで繋がっている。 

父は荷物を運んでいた。
港と人を繋いでいた。

「親父さんな」
老人が少し笑う。

「よう怒っとったぞ」
「何にですか」

「若い衆が、荷物を雑に積むとな」
豪は思わず笑いそうになる。

なんとなく想像できた。
父らしかった。

「その荷物の向こうには生活がある!っていつもそう言っとった」


豪は自分の手を見る。
父は荷物を運んだ。

町へ。
人へ。
生活へ。
では、自分は。

会社の会議室。数字。再生数。炎上。評価。売上。
ずっと数字ばかり見ていた。

けれど、港で見たものは違った。

魚を並べる人。朝市へ来る人。笑う子ども達。手を振る老人達。
数字の向こうにいる人達だった。

「……俺、全然分かってなかった」
思わず言葉が漏れる。

老人は鼻を鳴らした。
「若い時なんてそんなもんや」


 海風が吹いた。
港の向こう。
夜空には月が浮かんでいた。昔と同じ場所に。
静かに。変わらずに。

 父が何を見せたかったのか。
その答えは、まだ全部は分からない。

それでも、あの日、この港へ連れて来られた少年よりは少しだけ近づけた気がした。

「若い時なんてそんなもんや」

第13章 消えかけの月は、まだそこにいた

 翌朝の市場は、いつも通り早かった。

空が白み始める前から、港には魚箱の擦れる音が響いている。
氷を砕く音。フォークリフトの警告音。漁師たちの怒鳴り声。

炎上していようが、活動停止していようが、港の朝だけは止まらない。

 豪たちは、しばらく浦活町を離れられずにいた。

女将が「部屋空いとるで」と言ってくれたことで、ルミナスの四人と豪は、そのまま旅館へ滞在している。

会社からは依然として「表へ出るな」という指示が出ていた。
配信も停止中だ。

だが、だからといって何もしないわけにはいかなかった。

市場の管理組合も、漁港の人たちも、どこか気を利かせるように言った。

「手ぇ空いとるなら、手伝え」

それは追い出す言葉ではない。

むしろ、
ここに居てもええ。

そんな響きだった。

だから今、ルミナスの四人は半分ほど市場の作業員になっていた。

「重っ……!」
日向が、発泡スチロール箱を抱えて顔をしかめる。

「腰で持て、腰で!」
「アイドルに、何教えてるんですか!」

怒鳴られながら走る姿に、小さな笑いが起きる。

美月は、魚の仕分けだ。
「それサバちゃう。ゴマサバや」
「違い、まだ分からん」

「見りゃ、分かるやろ」
「分からんから聞いてるんですけど」

ぶっきらぼうな会話なのに、以前ほど空気は悪くない。

莉乃は値札を書き続けている。
「字、うまなったな」
「毎日書かされた結果です!」

凛は魚箱洗いを任されていた。
冷水を浴びながら黙々と箱を積み上げている。

「姉ちゃん、もう港で働けるな」
「アイドル辞めたら考えます」

「給料安いぞ」
「じゃあやめます」
また笑いが起きた。

 豪は、その光景を少し離れた場所から見ていた。

配信は止まった。会社案件も消えた。スポンサーも離れた。

それでも、ここにはまだ人の声があった。

それだけで、不思議と救われる気がした。


 朝の作業が終わる頃には、空もすっかり明るくなっていた。

 港の隅に積まれた魚箱へ腰を下ろし、全員が缶コーヒーを開ける。

「生き返る……」
日向がぐったりする。

「まだ、朝九時なのに」

「港、時間の流れおかしいって……」

豪は、苦笑しながらスマートフォンを取り出した。

通知が溜まっている。どうせまた炎上関連だろう。
半ば癖のように画面を開いて、、、
手が止まった。

「……え?」
並んでいたのは、見覚えのある罵倒ではなかった。

『切り抜きしか見てなかったけど、元動画見たら全然違った』

『普通に町の人と仲良くなってるだけだった』

『朝の四時すぎに、港通うの正直すごい』

『叩いてた人、本編見てる?』

豪は無言でスクロールする。

さらに続く。

『地方で頑張る若者を笑う社会の方が嫌だ』

『うちの会社にもこういう若手いる』

『浦活町、ちょっと行ってみたい』

『切り抜きって、怖いな』

空気が変わり始めていた。

少しずつ。
本当に少しずつ。
だが確実に。

今までのような「叩いていい空気」ではなくなっている。

元動画を見た人たちが、自分の言葉で語り始めていた。

「なんやそれ?」
横から、老人が覗き込む。

「ネットです」
「網のことか?」

真顔だった。
豪たちは、思わず吹き出しそうになる。
「違います」

「ややこしいな」老人は首を傾げる。
「魚は見りゃ分かるのに」

「俺もそう思います」

「確かにそうよね」
日向も頷く。

老人は満足そうに頷いた。
「やっぱ港の方が分かりやすいな」


 その時だった。
市場の入口の方から、遠慮がちな声が聞こえた。

「あの……」全員が振り返る。

高校生くらいの女子二人組だった。
スマートフォンを握りしめ、少し緊張している。

「もしかして……お月さん達ですか?」
一瞬、空気が止まった。

ルミナスの四人が顔を見合わせる。

日向が少し戸惑いながら、笑った。
「……はい」

二人の顔がぱっと明るくなる。
「やっぱり!」
「配信、ずっと見てました!」

勢いよく頭を下げられ、今度はルミナス側が戸惑う。
「切り抜きじゃなくて、本編です!」「朝のやつ!」

凛が小さく笑った。
「ありがとう」

すると、高校生の一人が照れくさそうに言った。
「私、朝起きるの苦手なんです」
「うん」

「でも配信見たくて、頑張って起きてました」
一瞬、誰も言葉を返せなかった。

もう一人も続ける。
「おじいちゃん、漁師なんです」

そう言って港の方を見る。
「だから何か……勝手に応援してました」

日向が、小さく目を見開いた。

豪は静かにその様子を見ていた。

数字じゃない。
再生数でもない。
炎上でもない。

確かに届いていた人がいる。
その現実が、目の前に立っていた。

 少し話をして、二人は帰ろうとした。

その時だった。

「また配信、やってください」
振り返った高校生が言った。

日向の表情が少し曇る。
「今は……難しいかもしれない」

本当のことだった。
会社の判断はまだ変わっていない。
活動停止も続いている。

だが、高校生は首を振った。
「待ってます」

ただ、それだけだった。

待ってます。
責めるでもなく。
急かすでもなく。
ただ信じるように。

そう言って笑った。

二人は何度も手を振りながら、市場を後にする。
しばらく誰も喋らなかった。

豪は海を見る。

まだ終わっていない。そう思った。

根拠なんてない。
会社の状況も変わっていない。
炎上も完全には消えていない。

それでも。
届いていた人がいた。待っている人がいた。
それだけで、人はもう一度立ち上がれるのかもしれない。

 海風が吹く。
港の向こう。
朝の空には、まだ白い月が残っていた。

消えかけている。
だが、確かにまだそこにあった。


第14章 止まったままでは、終わる

 その日は、日曜日の観光者向け朝市の日だった。

まだ朝7時だというのに、会場となる市場には普段よりずっと多くの人が集まっている。

豪は魚箱を運びながら、ふと入口へ目を向けた。

「あ、お月さん達や」
観光客らしい女性が、小さく声を上げる。

その隣では、若い夫婦が市場の様子を写真に撮っていた。

以前なら考えられない光景だった。

浦活町へ来る人間は、魚を買って帰るだけだった。

だが、最近は違う。

市場を見学する人。商店街を歩く人。定食屋で朝食を食べて帰る人。
そして時々、「配信見てました」と声をかける人。

配信は止まっている。
会社の活動停止も続いている。

それなのに、人は少しずつ増えていた。
豪には、それがまだ信じられなかった。

インターネットの中では、今も叩く声が残っている。
会社の判断も変わっていない。
なのに現実だけが、静かに前へ進み始めていた。

まるで、誰かが別の時計を動かしているみたいだった。

日曜朝市の作業が一段落すると、ルミナスの四人は魚箱へ腰を下ろした。

「今日は人が多いね」
日向が、首に掛けたタオルで汗を拭く。

「商店街も」
莉乃が缶コーヒーを開けた。

「お店で、朝ごはんを食べて行く人も多い」
「配信止まってるのに不思議だよね」

凛が呟く。
「元動画見た人が増えたんじゃない?」

美月が魚箱へもたれた。
「最初から見ろ、って話だけど」
口調は相変わらずだったが、その顔には少しだけ余裕が戻っていた。

豪は少し離れた場所から四人を見る。

最初はアイドルだった。だが今は違う。

魚箱を運び
氷で手を真っ赤にして
市場で怒鳴られ
魚の名前を覚え
朝四時に起きる。

気づけば、町の中へ自然に混ざり始めていた。

 その時だった。

「おーい!」
市場の入口から、小学生達が駆け込んでくる。

「お月さん!」
「今日もおる!」

「祭りどうなった!?」
一瞬で囲まれる。

日向が苦笑した。
「だから、まだ決まってないって」
「えー!」

子ども達は本気で残念そうな顔をした。

その様子を見ながら、豪の胸が少し重くなる。
期待されている。
それが今は少し怖かった。

会社の活動停止は続いている。先の見通しもない。
下手な期待だけを残せば、余計に傷つけるかもしれない。

豪は、どうしてもそう考えてしまう。

 すると。

「やろうや」低い声が飛んだ。

全員が振り返る。
魚箱を運んでいた老人だった。

「祭りや」
まるで当たり前の話をするように言う。

「いや……でも」
豪が言葉を探す。

「人手も要るし、金も要るし、会社の方だって、まだ、、、」
「そんなん分かっとる」
老人は即座に返した。

そして魚箱を下ろす。

市場が少し静かになる。
「祭りいうんはな」

老人は腰へ手を当てた。
「成功するからやるもんやない」

誰も喋らなかった。
魚を並べていた漁師達も、いつの間にか話を聞いている。

「続けるから、祭りなんや」
老人は海を見る。

「昔の祭りかて、毎回うまくいっとったわけやない」
別の老人が笑う。

「台風で中止になった年もあったな」

「担ぎ手おらん年もあった」

「酔っぱらい同士でケンカして終わった年もある」

市場に笑いが起きる。
だが老人は続けた。
「それでも次の年は、またやった」

海風が吹く。

「やめたら終わる」
その声だけが静かに残った。

豪は言葉を失う。

祭り。
簡単な話ではない。
現実を並べれば、難しい理由はいくらでも出てくる。

だが不思議だった。

市場の誰一人として、諦めた顔をしていなかった。

地域創生なんて言葉は、似つかわしくない。
観光振興なんて話もしない。

ただ。
当たり前みたいに続ける話をしている。

 その時だった。

「だったらさ」
日向が小さく口を開いた。

子ども達が一斉に振り返る。
市場も静かになる。

日向は少しだけ照れ臭そうに笑った。
「絶対やろう!」

一瞬。
市場の空気が止まる。

「中止とか、無くなったとか」
日向は子ども達を見る。

「そういう話ばっかり聞くの、嫌じゃん」
子ども達の顔が一気に明るくなった。

「やるん!?」
「みこしある!?」

「太鼓は!?」「花火は!?」

「ちょ、待って!」日向が慌てる。

「まだ何も決まってないから!」

「配信する!?」

「それも分からん!」
市場に笑い声が広がった。

 美月が呆れた顔をする。

「日向ぁ、完全に火つけたね」
「いや、だって!」

「後で、大変になるよ」
「それ言う!?」
さらに笑いが起きる。

豪は、その光景を見つめていた。

少し前まで。
ルミナスは、この町を変えようとしていた。

だが今は違う。
町の人達自身が、続けようと言い始めている。

子ども達が期待し、老人達が動こうとし、市場の人達が笑っている。

そしてルミナスの四人も、いつの間にかその輪の中へ入っていた。

「お月さん!」「太鼓やろうな!」「みこしも!」

「だから決まってないって!」
日向の悲鳴に、子ども達が笑う。

市場の朝へ、その笑い声が広がっていく。

港の向こうでは、昼の海が静かに光っていた。

止まったままだと思っていた町は、気づかないうちに、もう少しだけ前へ進み始めていた。


第15章 撮る側の目

 祭りの話が出始めてから、町の空気は少し変わっていた。

日曜日の観光者向け朝市には、以前より明らかに人が増えている。

市場を歩く家族連れ。
スマートフォンを片手に写真を撮る若者。
配信を見て来たという観光客。
商店街で買い物をして帰る人達。

配信は止まったままなのに、人だけが少しずつ増えていた。

豪は、その光景がまだ信じられなかった。
炎上は終わっていない。
会社からの停止命令も解除されていない。

それでも現実の町だけが、少しずつ前へ進み始めている。
まるで、ネットとは別の時間が流れているみたいだった。


  昼前。

市場の裏手で、凛は魚箱を洗っていた。
冷たい水を流しながら、黙々と箱を積み上げる。

すると背後から声がした。
「いたいた」

若い男二人組だった。
二人ともスマートフォンを構えている。

「ルミナスの人だよね?」凛は手を止めた。

「……はい」
「ちょっと、話聞いていい?」

男達は笑っていた。観光客にも見える。
だが、どこか違和感があった。

市場を見ていない。魚を見ていない。
最初から凛だけを見ている。

「活動停止になったんでしょ?」
「今どんな気持ち?」
「会社から怒られた?」
「もう終わりそう?」

質問は続く。

だが豪は気づいていた。
答えを聞きたいわけではない。
使える言葉を探している。
そんな目だった。

凛は静かに答える。

「今は市場を手伝っています」
「いや、そういうのじゃなくてさ」

男が笑う。
「炎上した時の、はーなーし!」

もう一人も続ける。
「結構病んだ?」
「泣いた?」
「メンバー同士ギスギスした?」

凛は返事をしなかった。
すると男が、不思議そうな顔をする。

「撮られるの、慣れてるでしょ?」

凛が顔を上げる。

「アイドルなんだし」もう一人も笑った。

「むしろ仕事じゃん」
「SNS出るの嫌ならアイドルやらなくね?」

豪は、その言葉に少しだけ寒気を覚えた。

悪意はない。だからこそ厄介だった。
相手を人としてではなく、“見られる側の存在”として扱っている。
そんな空気だった。

 その時だった。

「ねえ」低い声。
美月だった。
魚箱を抱えたまま、二人の前へ立つ。

「何?」男達は少し笑う。

「取材?」
「まあ、そんな感じ」

「どこ映した?」
「え?」

「市場?」
男達は黙る。

「魚?」答えない。

「港?」沈黙。

美月は真顔だった。

「魚も撮ってない」
「市場も撮ってない」
「港も撮ってない」

海風が吹く。
「じゃあ何しに来たの?」

男達が顔を見合わせる。
「いや、別に」「ルミナス見に来たし」「動画にしたいから」

あまりにも自然な答えだった。
「みんな興味あるじゃん」「再生も回るし」

豪は思わず目を伏せた。

その理屈は、あまりにも身勝手だった。
だが、きっと本音でもあった。

美月は静かに続ける。
「凛しか映してないじゃん」

「そりゃアイドルだし」男が肩をすくめる。

「だから?」美月の声は静かだった。

「アイドルなら勝手に撮っていいの?」
男達が言葉に詰まる。

「仕事中でも?」

「嫌がってても?」

「炎上してても?」

市場の空気が静まる。
美月は視線を逸らさなかった。

「説明が欲しいんじゃない」
一拍。

「市場を知りたいわけでもない」男達を見る。

「傷ついた顔が欲しいだけでしょ」

風だけが吹いた。

「それ」美月は静かに言った。

「取材じゃなくて」少しだけ目を細める。

「狩りでしょ」

男達は何も言えなかった。やがて気まずそうに笑う。

「すみません」そう言いながら、美月たちから離れていく。

だが去り際まで、スマートフォンだけはこちらへ向いていた。

  その時だった。

「お前ら」漁師の男が前へ出る。

「魚買う気ないならなぁ、邪魔や」

さらに別の老人も続く。
「市場は、見世物ちゃうぞ」

男達は頭を下げ、そのまま去っていった。

静けさが戻る。

 しばらくして。

「……言い過ぎたかな」美月が呟く。

「いや」豪は首を振った。
「その通りだったと思う」

美月は少しだけ驚いた顔をした。

豪は市場を見る。
魚を並べる人。
値段を書き換える人。
発泡箱を運ぶ人。

ここには毎日の生活がある。

だがネットの中では、それが簡単に消えてしまう。

港も。魚も。人も。
全部消えて。
『炎上中』その一言だけになる。

豪は胸の奥が少し痛かった。

 
 その時だった。

「豪さん」振り返る。

凛だった。
「ちょっと見てほしいものある」

差し出されたスマートフォンには動画が映っていた。

市場の朝。
魚を並べる老人。
魚箱を運ぶ漁師。
値札を書く莉乃。
魚種を教わる美月。
子ども達に手を振る日向。
港で働く人達の笑い声。

派手な編集はない。BGMもない。
流れているのは港の音だけだった。

魚箱の擦れる音。波の音。フォークリフトの音。誰かの笑い声。

豪は黙って見ていた。

「凛が作ったのか?」
「うん」

凛は少し照れ臭そうに頷く。
「配信止まってるから、まだ出してないけど」

そして画面を見つめたまま続けた。
「切り抜きってさ」

豪が顔を上げる。
「前後が消えるんだよね」
凛は小さく笑った。

「空気も、人も」
市場の音が遠くで響いていた。

凛はスマートフォンを胸に抱く。
「だから、ちゃんと残したい」

豪は言葉を失った。

同じスマートフォンだった。同じカメラだった。
それなのに向ける先が違う。

傷を探す人もいる一方で、残そうとする人もいる。

父が言っていた。「荷物の向こうには、生活がある」

数字の向こうにも、本当は人がいる。
凛は、その人達を映そうとしていた。

豪は市場の向こうを見る。

昼の海が光っていた。
港では今日も、人が働いている。

その当たり前を。
誰かがちゃんと残そうとしていた。


第16章 届く声

 朝の港は、まだ薄暗かった。

魚箱の擦れる音。
氷を砕く音。
フォークリフトの警告音。
怒鳴り声。

炎上していようが、活動停止中だろうが、港の朝は変わらない。

ルミナスの四人も、いつものように市場を走り回っていた。
だが、以前と違うことが一つある。

見物人の視線が減っていた。
代わりに増えたのは、自然な声だった。

「お月さん、おはよう」

「凛、その箱こっちな」

「美月、魚種を間違えとるぞ」

「莉乃、値札まだかー」

気づけば誰も、「アイドル」として呼ばなくなっていた。

港で働く若い衆。
そんな扱いに変わり始めていた。

凛は、魚箱を抱えながら走る。

「っ……重っ……!」
「腰入れろ!腰!」
漁師が怒鳴る。

「入れてます!」
「入っとらん!」

「だから、それ毎回言うじゃないですか!」
凛が思わず声を張り上げた。

「え?」漁師が止まる。
周囲も少し静かになる。

凛は魚箱を抱えたまま続けた。
「怒鳴るだけじゃ分かんないんですって!」

「どう入れるのか教えてください!」

一瞬だけ空気が止まった。
豪も思わず振り返る。

凛自身も、言ったあとで少し驚いた顔をしていた。

今までなら、こんな言い方はしなかった。
空気を壊さないように。嫌われないように。
それが凛だった。

だが。

「ははっ!」
魚屋の男が吹き出した。

「やっと言ったな!」
「最初から言え!」

別の漁師も笑う。
「そんなん言わな分からんわ!」

「こっちは当たり前やと思っとるからな!」

「知らんことは、聞け!」

港に笑い声が広がった。

凛は、ぽかんとする。
「……え?」

「え、じゃない」
魚屋の男が笑う。

「分からんのに黙っとる方が困る」

「聞け」
凛はしばらく呆然としていた。

それから、少しだけ笑った。
「じゃあ教えてください」
「おう」

漁師は当然みたいに答えた。
「こうや」

  
豪は、その様子を少し離れた場所から見ていた。

東京では違った。
空気を読むこと。察すること。波風を立てないこと。
それが大人だった。

だが港は違う。

言わなければ伝わらない。
分からないなら聞け。嫌なら言え。怒るなら怒れ。
その代わり、相手の言葉も受け止めろ。

荒っぽい。
だが、不思議なくらい真っ直ぐだった。

  休憩時間。

市場の隅に積まれた魚箱へ腰掛けながら、凛はスポーツドリンクを飲む。

「港って、怖い人が多いと思ってた」

隣で美月が笑う。
「今さら?」

「いや、怖いは怖いんだけど」
凛は海を見る。

「でもさ」
一度言葉を探してから続けた。
「ちゃんと言うと、ちゃんと返ってくるんだね」

豪は少しだけ目を細めた。

その言葉は、この町そのものだった。

 
 その時だった。

「おい、豪」
魚屋の男が、スマートフォンを持ってくる。

「なんか増えとるぞ」
「え?」

豪が画面を見る。
そこには短い動画が映っていた。

市場の朝。

魚箱を抱える凛。
魚を仕分ける美月。
値札を書く莉乃。
子ども達へ手を振る日向。

そして港で働く人達。

豪は気づく。

「これ……」
凛が作った動画だった。
まだ公開していないはずの映像ではない。

だが似ている。
市場へ来た観光客が撮った動画だった。

派手な編集はない。煽る字幕もない。
港の音が、そのまま流れている。

コメント欄。

『市場の音、なんか落ち着く』

『魚ってこうやって並ぶんだ』

『港行ってみたい』

『お月さん達だけじゃなくて、町が好きになった』

『朝市見てみたい』

豪は静かにスクロールする。
そこには炎上の言葉がほとんどなかった。

代わりに。
町を見ている人達がいた。
港を見ている人達がいた。

凛は、少し驚いた顔をする。
「ルミナスじゃなくて……」

「市場見とるな」
魚屋の男が言った。

豪は小さく頷く。

そうだった。
ずっとルミナスを見てもらおうとしていた。

だが本当に届き始めているのは、港の朝だった。
市場の空気だった。
町そのものだった。

 
 その時だった。

「お月さん!」

市場の入口から、登校前の小学生達が走ってくる。

「今日もおる!」

「おはよー、凛ちゃん!」

「見たよ!」

凛が顔をしかめる。
「何を!?」

「怒られとった!」
市場に笑い声が起きる。

「うるさい!」凛が真っ赤になる。

だが子ども達は気にしない。

「祭りやるんやろ!?」

「太鼓あるんやろ!?」

「うちも手伝う!」

「俺も!」

「私も!」

一斉に声が上がる。
日向達が顔を見合わせる。

まだ何も決まっていない。
祭りの復活なんて簡単な話ではない。

それでも、子ども達は信じていた。
やるものだと思っていた。

その時。
魚箱を運んでいた老人が、ぽつりと言った。

「人手、確保できたな」
子ども達が振り返る。

「え?」
老人は当然みたいに言う。

「祭りのや」
一瞬だけ静かになる。

それから、市場のあちこちで笑い声が起きた。

 海風が吹く。
港の朝は今日も忙しい。

けれど気づけば、
止まっていたはずの何かが、少しずつ動き始めていた。

「凛ちゃん 怒られとった!」

第17章 祭りを知らない子ども達

 祭りの準備が、本格的に始まった。
とはいっても、大掛かりなものではない。

 倉庫の奥から古い提灯を引っ張り出す。
ほこりを被った太鼓を磨く。
使われなくなっていた子どもみこしを修理する。

そんな、小さな準備だった。

 それでも港の空気は、不思議と少し浮き足立っていた。

「おい、それ雑に持つな!」

「縄、そこ通せ!」

「違う違う、そっちやない!」

怒鳴り声ばかり響いている。
なのに、どこか楽しそうだった。

 日向は、提灯の紐を結びながら笑う。
「文化祭前みたい」

「文化祭より重労働じゃん」
美月が即答する。

「筋肉痛で死ぬ……」
莉乃がへたり込む。

凛は少し離れた場所で、古い祭りの写真を眺めていた。

海沿いを進むみこし。
提灯で埋まった夜道。
港いっぱいに集まった人々。

「……すご」思わず呟く。

 そこへ豪がやって来た。

「昔は、もっと大きかったらしい」
「豪さん、見たことある?」

「小さい頃に、一回だけ」
豪は写真を見つめる。

記憶は曖昧だった。
太鼓の音。潮の匂い。夜空に揺れる提灯。

それだけが、ぼんやり残っている。

その時だった。

「ねえ!」
小学生達が、倉庫へ飛び込んできた。

「みこしってどんなの!?」

「太鼓、叩いていいの!?」

「祭りって、何するん!?」

一瞬、作業の手が止まる。
老人達が顔を見合わせた。

「そっか……」

「知らんのか」
静かな声だった。

子ども達は、不思議そうに首を傾げている。

「祭りって花火やろ?」

「テレビで見るやつ?」

「みこしって、何なの?」

悪気はない。本当に知らないのだ。
祭りが消えた後に、生まれた世代だから。

 豪は、その現実の重さを初めて理解した。

祭りがなくなるとは、行事が一つ減ることではない。
町の記憶が途切れることだった。

老人達は少し黙った。
説明できないわけではない。

だが、本当は説明するものでもなかった。

見て。
走って。
怒られて。
笑って。

そうやって覚えるものだった。

だから老人達も、うまく言葉にできない。

「みこしはな……」誰かが言いかけて。

「重い」別の老人が言う。

「え?」

「めちゃくちゃ重い」

「それ説明になってないやろ」

周囲から笑いが漏れた。
子ども達は、ますます興味津々になる。

「重いん!?」

「持ちたい!」

「太鼓叩きたい!」

倉庫が一気に騒がしくなる。

日向は、その顔を見ていた。
まだ始まってもいない。
何も見ていない。

それなのに、こんなにも目を輝かせている。
少しだけ羨ましいと思った。

大人になると、始まる前から無理だと考える。
失敗する理由を探してしまう。

でも子ども達は違う。
面白そうだからやりたい。ただ、それだけだ。

日向は笑った。
「じゃあさ」

全員が振り返る。
「今年、最初の思い出にしよっか」

一瞬、静かになる。

「思い出?」
「うん」日向は頷く。

「見たことないなら、最初になればいいじゃん」
子ども達の目が、一気に輝いた。

「やる!」

「太鼓叩く!」

「みこし持つ!」

「祭りだー!」

一斉に走り回り始める。
倉庫の中が途端に騒がしくなった。

老人達が苦笑する。

「うるさなるぞ、今年は」

「ええやないか」

「久々や」

豪は、その光景を黙って見ていた。

イベントではない。観光企画でもない。数字でもない。
これは、記憶を作る作業だった。

子ども達の中に残るもの。
十年後も。
二十年後も。
ふと思い出すかもしれないもの。

父はきっと、こういうものを運んでいたのだ。

荷物ではない。
暮らしを。季節を。町の時間を。

豪は港の方を見る。

海風が吹く。
倉庫の入口で、古い提灯が小さく揺れていた。

 その時だった。

「豪さん!」振り返る。
子ども達が、みこしの縄を抱えている。

「これ、どこ結ぶん!?」
「知らん!」

「豪さん、やって!」
「なんで、俺なんだよ!」

笑い声が広がる。
豪は困った顔のまま、思わず笑ってしまった。

子ども達は、そのまま縄を引っ張りながら走り回る。

老人の一人が、その様子を眺めていた。
「祭りなんぞ、もう無理やと思っとったがな」
誰に言うでもなく呟く。

そして小さく笑った。
「案外、そうでもないかもしれんな」

倉庫の中、
修理中のみこしが、静かに朝の光を受けていた。


第18章 数字の向こう側

 数日後、朝の港には見慣れない車が並んでいた。

黒いワゴン車。三脚。大型カメラ。
豪は、その光景を見ながら立ち尽くしていた。

 昨日の夜。
島崎から一本だけ連絡が来た。
『明日、取材が入る』それだけだった。

詳しい説明もない。
何の取材なのかも分からない。
だから豪は、半信半疑だった。

 だが今。

本当にテレビ局の取材班が港へ来ていた。

「え、ちょっと待って」
日向が小声で言う。
「なんでテレビ?」
「しかも、全国ネットっぽくない?」

凛も目を丸くしている。
「ドッキリじゃないよね……」

美月だけが眉をひそめる。
「いや、私たち何も聞いてないんだけど」

その時だった。
「おはよう」背後から声がした。

島崎だった。いつもの濃紺のスーツ姿。
無駄のない立ち姿は相変わらずだったが、その表情は少し柔らかかった。

「部長……」豪が近づく。
「これ、どういうことですか」

島崎は港を見回した。
「向こうから来た」

「え?」
「取材依頼だ」

豪は言葉を失う。

島崎は続けた。
「炎上の件を追っていた記者がいたらしい」

「だが最近、様子がおかしいと」
「様子?」

「元動画を見る人間が増えた」

「朝市へ来る人間も増えた」

「祭り復活の話まで出ている」

島崎は肩をすくめる。

「なら、現場を見たいそうだ」

豪は思わず港を見る。

ここ数週間。
自分たちは何も派手なことはしていない。

魚を運び、怒鳴られ、市場を手伝い、祭りの準備をしていただけだ。

それなのに、誰かが見ていた。

「会社は?」豪が聞く。

「正式再開ではない」
島崎は即答した。

「だが取材を断る理由もない」
少しだけ口元が緩む。
「市場の手伝いをするなとは言われてないからな」

豪は思わず苦笑した。

相変わらずだった。
規則の中で動きながら、ぎりぎりの道を探す。
それが島崎という人間だった。

 その時。

「島崎ぃー。」
大きな声が飛んだ。
ラフな服装の中年記者が手を振っている。

「お前が言ってた港ってここか」
「そうだ」

「魚はうまいんだろうな?」
「保証する」

記者は笑った。
「だったら、夜が明けないうちにも来た甲斐がある」

周囲から小さな笑いが起きた。

豪は少し驚いていた。
島崎がこんな風に自然に笑うところを、初めて見た気がした。

記者はルミナスへ視線を向ける。
「で、君たちか」

四人が緊張したように頭を下げる。

すると記者は言った。
「安心しろ」

「今日は炎上を撮りに来たんじゃない」

少し港を見回す。
「祭りを復活させようとしてる町を撮りに来た」

全員が黙った。
その言葉は、思っていた以上に重かった。

取材は、まだ夜が残る時間から始まった。

 朝四時。
港はすでに動いていた。

いつもの漁港の音と共に、市場全体が暗闇の中で働いている。

「そっち運べ!」

「氷足りん!」

「競り始まるぞ!」

取材班は、慌ただしくカメラを回していた。

若いスタッフが驚いた顔をする。
「めちゃくちゃ大変ですね……」

年配の記者が笑う。
「だから来たんだよ」

ルミナスの四人も作業へ入る。

日向は魚箱を運ぶ。
美月は氷を砕く。
莉乃は値札を整理する。
凛は発泡箱を抱えて走る。

「凛!逆や!」
「ごめんなさい!」

怒鳴られ、走り、また怒鳴られる。

だが誰も演技はしていない。
できる余裕もない。

記者は黙ってそれを見ていた。

市場の空気。魚の匂い。冷たい海風。
テレビのスタジオでは絶対に再現できない現実が、そこにあった。

 
 朝の作業が一段落した頃だった。
ランドセル姿の子ども達が、港へ走ってくる。

「お月さん!」

「今日もおる!」

「祭り、いつ!?」

一斉に声が飛ぶ。

凛が思わず笑った。
「学校行きなさい!」

「行く!」

「でもさ、祭りやるんやろ!?」
「やる予定!」
子ども達は歓声を上げた。

記者がその様子を見ながら小さく呟く。
「演出じゃ、出ないな」

豪は、その言葉を聞いていた。

本当にそうだった。

子ども達は、カメラがあるから来たわけじゃない。
毎日来ている。祭りを楽しみにしている。
それだけだった。

 取材班は、昼前まで港へ張り付いた。

市場。旅館。祭りの準備。提灯を磨く老人達。
みこしを囲む子ども達。縄の結び方を教える漁師。

誰も特別なことはしていない。
ただ町の日常が流れていた。

 やがて休憩中。

記者が豪の隣へ座った。

「真海くん」
「はい」

「なんでここまでやる?」
豪は少し考えた。

以前なら違う答えをしていた気がする。
地方創生や地域の活性化、という言葉を並べていたかもしれない。

だが今は違った。
魚を運ぶ老人。笑う子ども達。提灯を磨く人達。旅館の女将。
そして、ルミナスの四人。
みんなの顔が浮かんだ。

「最初は仕事でした」
記者が黙る。

豪は少し笑った。
「でも今は違います」

波の音が聞こえる。
「朝来たら、待ってる人がいるんです」
それだけだった。

豪は続ける。
「だから来てました」

記者は何も言わなかった。ただ静かに頷いた。
カメラだけが回っていた。


 その翌週、特集番組は放送された。

驚くほど静かな内容だった。
煽りはない。過激な字幕もない。

朝四時の港。働く若者達。魚を運ぶ漁師。

祭りの準備をする老人達。みこしを楽しみにする子ども達。

それらが淡々と映し出されていく。

番組の終盤。
ナレーションが静かに流れた。

『地方が消える、と言われる時代に』

『この町では、祭りを知らない子ども達のために、大人達が再び動き始めている』

旅館のテレビ前。
豪達は黙って見ていた。

女将もいた。老人達もいた。
誰も途中で喋らない。

最後。
朝焼けの港が映る。

海の向こう。
空には、薄い白い月が残っていた。

番組が終わる。

しばらく沈黙。

やがて。

「で」
老人が一人、口を開いた。

「提灯、まだ足りんのやろ?」
一瞬の静寂。

そして。
「足りません」
豪が答える。

「ほな、倉庫探すか」
「まだ、あるんですか?」

「知らん」
周囲から笑いが起きた。

「知らんのかい!」
旅館の食堂に、笑い声が広がる。

テレビは終わった。
放送も終わった。

だが、祭りの準備はまだ続いていた。


第19章 名前で呼ばれる

 放送の数日後。

旅館の玄関を開けた瞬間、潮の匂いと一緒に新聞紙の音が飛んできた。

「載っとるよ」女将だった。
豪は新聞を受け取り、思わず足を止めた。

地域面の大きな写真。
魚箱を運ぶ日向。氷を砕く美月。値札を書く莉乃。焼き魚を手渡す凛。

見出しには、『港に戻った朝の声』と書かれていた。

その下には、小さく。
『全国放送をきっかけに、浦活町の朝市へ注目』

豪はしばらく記事を見つめた。
そこには炎上の話はほとんどなかった。

朝四時から始まる市場。祭りの準備。子ども達の声。
そして港で働く若者達。
そんなことばかりが書かれていた。

「……ちゃんと見てくれてる」
莉乃がぽつりと言う。

日向も記事を覗き込みながら笑った。
「なんか不思議」

「何が?」
「同じ町の話なのに、全然違う話みたい」

凛も頷く。「分かる」

豪は少しだけ笑った。
「多分、前からあったんだと思う」

「え?」
「こういう町だったんだよ」

ただ見えてなかっただけで。

 その時だった。

旅館の前へ軽トラックが滑り込んでくる。
「おーい!」

魚屋の男だった。
「新聞見たか!」
「見ました」

「今日は覚悟しとけ!」
「え?」

「人来るぞ!」
男は豪快に笑った。

 その予言は当たった。

その日の日曜朝市は、これまでで一番賑やかだった。

今日は、朝市イベントの日。
港の入口には県外ナンバーの車が並び始めている。

「ここか」

「テレビで見た港」

「思ったより活気あるなぁ」

観光客達は、どこか遠慮しながら市場を歩いていた。

炎上を見に来た人達ではない。
魚を見ている。人を見ている。
港の空気を感じようとしている。

それが豪には分かった。

「通路、塞ぐなよー!」

「子ども走るな!」

「魚触ってもええぞ!」

市場では、いつも通り怒鳴り声が飛ぶ。
その中へ観光客が自然に混ざっている。

日向は相変わらずだった。

「おすすめは?」
「今日なら鯵ですね!」

「刺身最高ですよ!」

すぐに人の輪ができる。

市場のおばちゃんが笑う。
「日向ちゃん、こっち手伝って!」

「はいはい!」
日向が駆けていく。

一瞬だけ立ち止まる。
そして少し照れ臭そうに笑った。

日向ちゃん。
そう呼ばれたことが、少し嬉しかったのだ。

美月も忙しかった。

「美月!」
「鯵お願い!」

「今やる!」
もう誰も説明しない。

アイドルだから。ルミナスだから。
そんな前置きがない。

ただ美月として呼ばれている。

美月は包丁を動かしながら、小さく鼻を鳴らした。

「雑に切るなよー」
「分かってる」

「ほんまか?」周囲が笑う。

その輪の中に、美月も普通にいた。

 莉乃は、会計と案内で走り回っていた。

「こっちが、最後尾です!」

「現金はこちら!」

「お待たせしました!」

市場関係者が感心する。
「莉乃ちゃんおらんと回らんな」

「やめてくださいよ」
「ほんまやぞ」

莉乃は困ったように笑った。
だがその顔は嬉しそうだった。

 そして、凛。

「熱いので気をつけてくださいね」
焼き魚を配りながら動いている。

その時。
小さな男の子が足を滑らせた。

「わっ!」

凛が反射的に腕を掴む。
「危ない!」

転ぶ寸前で止まる。
男の子が目を丸くした。

「だいじょうぶ?」
「う、うん」

少し遅れて母親が駆け寄る。
「すみません!」

「大丈夫ですよ」
凛は自然に笑った。

すると母親が頭を下げる。
「ありがとうございます、凛さん」

凛の動きが一瞬だけ止まった。

凛さん。
その呼び方が不思議だった。

お月さんでもない。アイドルでもない。

凛さん。
それは自分の名前だった。

「いえ」
凛は、少しだけ照れながら笑った。

「気をつけてくださいね」
その様子を見ていた老人達が笑う。

「凛ちゃん、港の姉ちゃんみたいやな」

「最初あんなオドオドしとったのにな」

凛は真っ赤になる。

「やめてくださいって!」
市場に笑い声が広がった。

 豪はその光景を見ていた。
不思議だった。

以前なら。

来場者数。
再生数。
売上。

そんな数字ばかり見ていた。

だが今、耳に残るのは別のものだった。

「日向ちゃん!」

「美月!」

「莉乃ちゃん!」

「凛ちゃん!」

名前を呼ぶ声。
それが市場のあちこちから聞こえてくる。


 その時だった。

「真海くん」

振り返る。
地方紙の記者だった。

「先週の放送、反響大きかったみたいだね」
「そうですか」

「うん」
記者は港を眺める。

「でもね」少し笑った。

「数字より大事なものがある」

豪は黙る。
記者は市場を指差した。

「人口減少はな」

「すぐには町を壊さん」

波の音が聞こえる。

「でも」

記者は静かに続けた。

「名前を呼ぶ相手がおらんなると、一気に寂しくなる」

豪は市場を見る。

「日向ちゃん!」

「美月!」

「莉乃ちゃん!」

「凛ちゃん!」

声が飛び、笑い声が返る。

誰かが呼び、誰かが応える。
それだけのことだった。

だけど、それだけのことが、この町には戻り始めていた。

 その時。
「豪!」振り返る。
魚屋の男だった。

「何ぼーっとしとる!」

「魚運べ!」

「なんで俺ですか!」
「そこおるからや!」

市場が笑いに包まれる。

豪も思わず笑った。

真海くん。
豪。
お前。

呼び方は色々だった。
だが、どれも肩書ではない。
ちゃんと自分を見て呼ぶ声だった。

 豪は海を見る。
賑やかな日曜日。

この声がある限り。
この町は、まだ終わらない。

そんな気がしていた。


第20章 会社が動き出す

 観光客向けとはいえ浦活町の日曜朝市は、確実に景色を変え始めていた。

以前は地元の人間が魚を買いに来るだけだった港へ、今では県外ナンバーの車が並ぶ。

「ここやろ?テレビ出とった港」

「お月さん達、おるかな」

そんな声が普通に聞こえるようになった。

 市場の老人達も、最初こそ戸惑っていたが、今では半分楽しんでいる。

「兄ちゃん、鯵なら今日ええぞ!」

「そっち並ばんと滑るぞ!」

「魚触ってみるか?」

怒鳴り声まで、どこか嬉しそうだった。

魚が売れる。人が来る。子どもが笑う。
それだけで町の空気は変わるのだと、豪は初めて知った。

そして最近の豪は、市場だけでなく旅館の手伝いもするようになっていた。

朝市が終われば、帳場へ顔を出す。
電話を取ったり、宿泊客へ周辺案内をする他、予約表を整理する。
女将一人では回らない仕事を、少しずつ手伝うようになっていた。

 そんなある日だった。

朝食の片付けが終わった食事処で、豪は予約管理用のノートパソコンを開いていた。

「……え?」
思わず声が漏れる。

予約一覧を見直す。

もう一度見る。
間違いではない。

「どうした?」
帳簿をつけていた女将が、顔を上げた。

「予約です」
豪は画面を見つめたまま言う。

「来月、かなり埋まってます」
女将が鼻を鳴らした。

「気づいたか」
「例年、この時期って落ち着く頃ですよね?」

「せやな」
女将は湯飲みを片付けながら答える。

「でも今年は違う」
豪は予約理由のメモを見る。

朝市見学。港散策。祭りの日程問い合わせ。市場体験。
そんな言葉が並んでいる。

「朝市をな、見たい言う客が増えた」
女将が言う。
「港に行きたい、言う客もな」

「祭りはいつ?って、聞かれることも増えました」
「昔はそんなこと聞かれんかった」

豪は小さく笑う。

港だけじゃない。旅館にも人が来ている。町へお金が落ち始めている。
それが数字として見え始めていた。

 豪のスマートフォンが震える。

画面を見る。島崎だった。

豪は自然と背筋を伸ばした。
「はい、真海です」

『港、賑わってるらしいな』
相変わらず感情の読みにくい声だった。

「はい」豪は答える。
「正直、想像以上です」

『だろうな』短い沈黙。

そして島崎が続けた。
『上が無視できんようになった』

豪が目を瞬く。
「……え?」

『数字が出始めた』
島崎は淡々と言う。

『観光協会サイトの流入』

『宿泊予約』

『朝市関連の問い合わせ』

『全部報告が上がっている』

豪は黙る。

会社は夢で動かない。数字で動く。
それは豪自身がよく知っていた。

『広報が資料を集め始めた』

『営業企画も興味持っている』

『観光関連企業からも問い合わせが来とる』

豪は思わず息を呑んだ。

『もう炎上案件としては、処理できん』

島崎が言う。
『成果が出てるんだ』
その一言が重かった。

港で笑う子ども達。
祭りの準備。
市場の賑わい。
旅館へ泊まる人達。

それらが今、会社の数字になっている。

『来週、本社で会議やる』

豪は思わず姿勢を正した。
「会議……」

『地域連携事業の再編だ』
心臓が小さく跳ねる。

『真海』
「はい」

『企画、出せるよな』
豪は言葉を失う。

『港だけ成功しても意味がない』

島崎の声が少し低くなる。

『人が来ても泊まらんかったら終わりや』

『泊まっても町を歩かんかったら終わりや』

『朝市だけ盛り上がっても続かん』

豪は静かに聞いていた。

『点じゃなく、線にしろ』

市場。旅館。商店街。祭り。子ども達。学校。漁港。

頭の中で、一つずつ繋がっていく。

『お前、今なら見えるはずだ』

豪は窓の外を見る。

市場から帰ってくる観光客。
旅館へ向かう家族連れ。
祭りの準備をしている老人達。

全部が同じ町の景色だった。

「……はい」豪は静かに答える。

「今なら、少し」
電話の向こうで、島崎が小さく笑った気がした。

『なら考えろ』

そして最後に言う。

『会社を使え』

通話が切れた。

 豪はしばらく動けなかった。

 その横から。
「どしたの?」
日向が顔を覗き込む。
美月も。莉乃も。
凛も集まってくる。

豪は四人を見る。

「会社が動く」
一瞬、全員が固まった。

「え?」日向が目を丸くする。

「それって……」
「まだ決定じゃない」

豪は苦笑する。

「でも、本社で会議やるらしい」
「マジで?」

莉乃が声を上げる。
「炎上で終わりじゃなかったの?」
「終わりじゃないみたい」

美月が腕を組む。
「つまり?」
「多分ね、」

豪は言葉を探した。
「次の話になる」

凛が小さく聞く。
「……じゃあ」

全員が凛を見る。

「私達、まだ続けていいの?」
凛は少しだけ不安そうに笑った。

静かな沈黙。

豪は少し考えた。そして答える。
「分からない」

凛が少し肩を落とす。

だが豪は続けた。
「でも、終わりではなさそう」

今度は誰も何も言わなかった。
ただ、少しだけ笑った。

 その日の夕方。

豪は一人で旅館の外へ出た。

海風が吹いている。

最初は港だけだった。
だが気づけば、全部が繋がり始めている。

 豪のスマートフォンが震えた。

会社のグループチャット。
新しい通知だった。

豪は画面を見る。
そこには新しいスレッド名が表示されていた。

『浦活町再編プロジェクト(仮)』
豪はしばらく、その文字を見つめていた。

そして静かに顔を上げる。

夜の港には、祭りの準備を続ける人達の声が聞こえていた。


第21章 会議室の海

 東京へ向かう車の窓の外を、灰色の街並みが流れていく。

凛は、落ち着かなさそうに何度も窓の外を見ていた。
「……ビル多すぎん?」

「当たり前やろ」日向が笑う。
「てか、本当に行くんだね。本社」

後部座席では、美月が腕を組んだまま黙っている。

莉乃は、膝の上のタブレットで資料を見直していた。

豪は運転しながら苦笑する。

数ヶ月前まで、これはただの炎上案件だった。
それが今、本社から呼ばれている。

人生は、本当に分からない。

  

 本社ビルは、空へ突き刺さるように高かった。

自動ドア。カードキー。無音のエレベーター。磨き上げられた床。

潮の匂いも、魚の声もない。

凛が小さく呟く。
「……なんか病院みたい」

「分かる」日向も小声で返した。

受付を通る社員達が、ルミナスに気づいて振り返る。

「あれ、ルミナス?」

「本物?」

以前とは違う。
そこにあるのは嘲笑ではない。

興味と好奇心だった。

     

 会議室前の控室。

広報部や営業企画部の社員達が、慌ただしく資料を整理している。

そこへ島崎が現れた。

濃紺のスーツ。銀縁の眼鏡。
相変わらず隙のない姿だった。

「ルミナスの4人は、後半からだ」
開口一番だった。

「後半?」
日向が首を傾げる。

「まずは、会社の会議をやる」
島崎は淡々と続ける。

「数字の話だ」

美月が顔をしかめた。
「聞くだけで眠くなりそう」

「俺もそう思う」島崎が真顔で返す。

一瞬だけ空気が和んだ。

凛が、恐る恐る聞く。
「私たち、何か準備した方がいいですか」

「無理に喋るな」
島崎は即答した。

「見たことを話せ」

「それで十分だ」

莉乃が少しだけ息を飲む。

島崎は四人を見回した。

「現場にいたのはお前らだ」

「資料より、お前らの方が価値がある」

そう言い残し、豪を連れて会議室へ向かった。

     

 大会議室。
長机に、大型モニター。並ぶ役員達。

豪は席へ座りながら、少しだけ息苦しさを覚えた。
以前なら、この空気が普通だった。

だが今は違う。
港の潮風を知ってしまった。

だから、この静けさがどこか冷たく感じる。

会議が始まる。

「朝市来場者数、前年比240%」

「宿泊予約、回復傾向が継続」

「若年層接触率、既存企画を上回る」

モニターへグラフが映し出される。

売上。流入数。滞在時間。SNS推移。
会議室では、町が数字になっていた。

豪は資料を見ながら思う。
数ヶ月前なら、自分も同じ見方をしていただろう。

だが今は違う。

数字を見るたびに顔が浮かぶ。

魚を分けてくれた老人。
旅館の女将。
祭りを知らなかった子ども達。
市場で名前を呼び合う人達。

数字の向こうに、人が見えてしまう。

「一過性では?」
役員の一人が言う。

「継続性に疑問があります」

「地方事業は利益率も高くない」

空気が少し重くなる。

だが、島崎は動じない。

「これは、地方への支援ではありません」
静かな声だった。

「市場開拓です」

資料が切り替わる。

観光消費。地域流通。自治体連携。二次消費。
数字が並ぶたび、役員達の表情が変わっていく。

 その時、一人の役員が資料を見ながら言った。

「浦活町はとても映える地域ですね」
豪の眉が僅かに動く。

「港と若者の組み合わせも強い」

「観光コンテンツとして十分商品化できるでしょう」

正論だった。間違ってはいない。
だが、どこか引っかかった。

   

 島崎が静かに口を開く。

「数字だけでは伝わらないので」

会議室後方の扉を見る。
「現場にいる人間を呼んでいます」

扉が開いた。
ルミナスの四人だった。

緊張が歩いているようだった。
凛は明らかに顔が硬い。
日向も珍しく口数が少ない。
美月も落ち着きなく周囲を見ている。
莉乃は、静かに前を向いていた。

島崎が席を示す。
「座ってくれ」

四人が着席する。
役員達の視線が集まる。

島崎が言った。
「難しい話は要らない。見たことを皆さんに話してください」

     

 最初に日向が話した。

朝市のこと。
市場の人達のこと。
子ども達のこと。

「最初は正直、みんな怖かったです」
会議室に小さな笑いが起きる。

「でも今は、怒鳴られても嬉しい時があります」
さらに笑いが広がる。

 次は凛だった。

名前で呼ばれるようになったこと。
港で教わったこと。
市場の人達が自然に声をかけてくれるようになったこと。

 美月は魚を捌くようになった話をした。

「最初は包丁も持たせてもらえませんでした」

「今は普通に仕事振られます」

役員達が興味深そうに聞いている。

 そして最後。

莉乃だった。

少しだけ手が震えている。だが前を向いていた。

「皆さん、数字の話をしています」
静かな声だった。

「それは大事だと思います」
役員達が耳を傾ける。

「でも」一度だけ息を吸う。

「この町は、映えるようになったんじゃありません」

会議室が静まる。

「人が戻ったんです」

誰も喋らない。

「市場で名前を呼ぶ人が増えました」

「子ども達が祭りを楽しみにしています」

「旅館の人が笑うようになりました」

莉乃は拳を握る。

「だから」少しだけ声が震えた。

「それを、数字だけにはしないでほしいです」

静寂。
空調の音だけが聞こえる。

豪は莉乃を見ていた。

彼女はずっと空気を読む側だった。
失敗しないように。迷惑をかけないように。

そんな彼女が今、自分の言葉で立っている。

島崎が静かに言った。

「……以上が現場です」

誰も、すぐには反論しなかった。

     
 会議終了後。

夕焼けが本社ビルの窓を赤く染めていた。

エレベーターホールで、莉乃が大きく息を吐く。

「……やば」
「何が?」
日向が吹き出す。

「心臓」
「今さら?」

「途中から止まってた気がする」
凛も笑う。
「私も」

美月が壁にもたれながら言った。
「でも、あれで良かったと思う」

莉乃は少し照れ臭そうに俯いた。

豪は少し離れた場所から、その姿を見ていた。

気づけば彼女達は変わっていた。
守られるだけの存在じゃない。

港の中で人と関わりながら、自分の言葉を持ち始めている。

     

 「真海」
隣に島崎が立つ。

窓の向こうには夕焼けの東京。

「会社と町って、もっと近いと思ってました」
豪が呟く。

島崎は鼻を鳴らした。
「遠いぞ」即答だった。

豪が少し笑う。

島崎は窓の外を見たまま続ける。

「会社は利益を見る」

「町は暮らしを見る」

「だから放っとけば、すぐ離れる」

夕焼けがガラスに反射する。

「だから」島崎が言う。
「繋ぐ奴が要る」

豪は静かに頷いた。

その言葉が、今は少しだけ分かる気がしていた。

港と会社。数字と暮らし。その間を繋ぐこと。
それが今、自分の役目なのかもしれない。

 窓の向こう。

夕焼けに染まる東京の空には、薄く白い月が浮かんでいた。


第22章 広がっていく波

 東京での会議から数日後。

日曜朝市の始まる前、一台の白いワゴン車が浦活町の港へ入ってきた。

市場の老人達が、顔を上げる。
「またテレビか?」

「今度は、何の取材や」

だが、車から降りてきたのはカメラマンではなかった。

ノートパソコンを抱えた会社員達だった。
営業企画部。広報部。データ分析担当。

そして最後に現れたのは、島崎だった。
濃紺のスーツ姿は、相変わらず港の景色から浮いて見える。

「ほんまに来たな」

「都会の空気や」

漁師達が笑う。

島崎は、周囲を見回しながら豪に伝える。
「勘違いするな」

「助けに来たんじゃない」

市場の空気が少し止まる。
だが島崎は続けた。

「見に来た」

「何が起きているのかを」

その言葉に、豪は少しだけ笑った。
島崎なりの最大級の評価なのだろう。

 会社の社員達は、朝市の様子を歩いて回った。

魚を買う観光客。
焼き魚を頬張る子ども達。
市場の人達との会話。
港の音。
潮の匂い。

どれも、資料では伝わらないものばかりだった。

若い社員の一人が驚いたように言う。
「思ったより普通ですね」

豪が振り返る。
「普通?」

「いや」社員は慌てる。

「もっとイベント会場みたいなの想像してました」

市場の老人が笑った。
「市場やぞ」

「魚売るとこや」

周囲から笑いが起きる。


 昼前。

旅館の広間で小さな打ち合わせが開かれた。

営業企画の社員が資料を映す。

「会社としては、この事例を分析したいと考えています」

「将来的に、他地域との連携も視野に入れています」

日向が目を丸くする。
「え、そんな話になってるの?」

社員が頷く。
「かなり注目されています」

すると別の若い社員が言った。
「もっと港らしさを前面に出してもいいかもしれません」

「映像映えする演出とか」

その瞬間だった。

「それ」低い声。
美月だった。

部屋が静かになる。
「ここ、テーマパークじゃないです」

社員が少し戸惑う。
「いや、そういう意味じゃ、、、」

「朝四時過ぎから、働いてる人がいます」
美月は真っ直ぐ言う。

「魚運んで」

「氷運んで」

「毎日、同じこと繰り返してる」

少しだけ間を置く。

「だから、映えるためだけに変えるのは違うと思います」

誰もすぐには返せなかった。

島崎が静かに口を開く。
「現場意見として、しっかり記録しておこう」

社員達が慌ててメモを取る。

豪は少し驚いていた。
以前の美月なら、感情で反発していた。

だが今は違う。
ちゃんと理由を言葉にしている。


 午後。

会社側の提案で、若手研修生達が港を見学に来た。
まだデビュー前の女性三人組だった。

港へ降りた瞬間。

「魚の匂いすごい……」

「床濡れてる……」

「滑りそう……」
三人とも完全に固まっている。

その様子を見て、日向が吹き出した。
「懐かしい!」

凛も笑う。
「うちらも最初こうだったよね」

美月は発泡箱を渡した。
「持ってみる?」

新人が持ち上げる。

数秒後。
「重っ!」

市場に笑い声が広がった。

 その後。

ルミナスの四人は、新人達としばらく話をした。

最初に怒鳴られた日のこと。
魚の名前が全然覚えられなかったこと。
氷で手がかじかんだこと。
市場の人達と少しずつ仲良くなったこと。

そして。

炎上したことも。

だが、最後に日向が言った。
「でもね」

新人達が顔を上げる。
「ちゃんと向き合えば、ちゃんと返ってくる人達だったよ」

凛も頷く。
「最初は怖かったけどね」

新人達は真剣な顔で聞いていた。

 夕方。

新人達を乗せた車が帰っていく。

港には赤い夕日が落ちていた。

「変な感じ」
美月が海を見ながら呟く。
「前まで、うちらが教わる側だったのに」

豪が笑う。
「今も教わってるだろ」

市場の奥から、声が飛んだ。

「美月ー!」

「発泡箱まだ残っとるぞー!」

「分かってます!」
市場に笑い声が広がる。

豪はその光景を見ながら思った。
この町はもう、ただ助けられる場所ではない。

人を迎え。人に伝え。
次の誰かへ繋いでいく場所になり始めている。

港へ吹く夕方の海風は、少しだけ遠くまで届くような気がした。


第23章 止まらない町

 夏が近づくにつれ、浦活町はさらに変わっていった。

日曜朝市には、県外ナンバーの車が並び始める。
旅館の予約表の空白が減る。
市場では、以前より多く魚が動くようになった。

だが、豪が何より変化を感じていたのは、数字ではなかった。

「兄ちゃん、今日はどっから来た?」

「干物ならそっちも見てけ!」

「子ども、走るなよー!」

市場に声が増えた。

以前は必要最低限だった会話が、自然と飛び交うようになっている。
怒鳴り声すら、どこか明るい。

豪は魚箱を運びながら、その光景を見ていた。

町が動いている。
誰かに言われたからではない。誰かに助けられたからでもない。

自分達で、少しずつ前へ進み始めている。
そんな気がしていた。

    

 ある日の夜。

旅館の広間には、町の関係者が集まっていた。

市場関係者。旅館組合。観光協会。そしてルミナスの四人と豪。

議題はひとつだった。

『夏祭り』

女将が湯飲みを置く。

「せっかく、人戻ってきたんや」

「今年は、ちゃんと祭りやろう」

市場の老人達が頷く。

「何年ぶりやろな」

「子どもみこしも倉庫に残っとる」

だが、すぐに別の声が上がる。

「問題はな、人や」
空気が少し静かになる。

「担ぎ手がおらん」

「準備する人間も足りん」

「昔みたいには集まらんぞ」

現実だった。

祭りをやりたい気持ちはある。
だが、人が足りない。

しばらく沈黙が続く。

「だったら」日向が顔を上げる。
「集めればいいじゃん」

老人達が首を傾げる。
「どこからや」

日向は当然みたいに言った。
「うちらが呼ぶ」

豪が顔を上げる。
日向は笑っていた。
「見てくれてる人、いるじゃん」

凛も頷く。
「放送見て来てくれた人とか」

「朝市に来てくれる人とか」

莉乃がすぐにメモを取り、豪に尋ねる。
「募集フォーム作れませんか?」

豪の視線が、自然とスマートフォンへ向く。

会社。
島崎。

あの言葉が浮かぶ。
『会社を使え』

    

 翌日。

豪は島崎へ電話をかけていた。

『祭りの担ぎ手募集?』

「はい」

『面白いな』
即答だった。

豪が少し驚く。

『広報に作らせる』

『募集ページも作る』

『申込管理もやらせる』

相変わらず話が早い。

『ただし、』

島崎の声が少し低くなる。

『集まる保証はない』

「分かってます」

『それでもやるか?』

豪は窓の外を見る。

港。市場。子ども達。祭りを知らない世代。

「やります」

島崎が小さく笑った気がした。

『ならやれ』

    

 募集は、思った以上に大きく広がった。

ルミナスが配信などで呼びかける。
会社が情報を流す。
地方紙も記事にする。
観光協会も協力した。

それでも、市場の老人達は半信半疑だった。

「来るわけない」

「みこし担ぐだけやぞ」

「そんな物好きがおるんかな」

そんな声ばかりだった。

 ところが。

三日後。
豪は募集一覧を見て固まった。
「……え?」

日向が覗き込む。
「なに、なに?」

次の瞬間。

「うわっ!」声が上がる。

県内。名古屋。大阪。京都。東京。

応募が並んでいる。

さらに。

『放送を見ました』

『祭りを手伝いたいです』

『祖父が漁師でしたので』

『町の祭りを残したいです』

『担ぎ手やります』

そんなコメントまで添えられていた。

凛が目を丸くする。
「本当に来るの?」

莉乃が画面を確認する。
「人数、もう予定超えてる」

美月も思わず言葉を失う。
「マジか……」

    

 その様子を見ていた老人が近づいてきた。

「なんや騒がしいな」

豪が画面を見せる。
「祭りの応募です」

老人は、老眼鏡をかけながら覗き込む。

「東京……?」

「大阪……?」

しばらく黙る。

「みんな来るんか」

「来たいそうです」

老人は再び画面を見る。

 静かな時間が流れた。

やがて。

「ほうか」小さく呟く。

そして。

「あの時の網やな」

豪が首を傾げる。

「網?」
「ネットや」

一瞬、全員が止まる。

日向が吹き出した。
「あー!」

豪も思い出す。
以前。

老人は真顔で言っていた。
『ネットて、網のことか?』

あの時の話だ。

老人は応募一覧を見ながら言う。
「魚の網は魚しか捕れん」

市場が静かになる。
「けど」

老人は画面を指差した。
「この網はの、人がかかるんやな」

女将が笑う。
「言い方がねぇ、、、」

周囲からも笑いが漏れる。

だが老人は真面目だった。
「よう分からんけど」

少しだけ目を細める。
「大した網や」

 豪は思わず笑った。

父のことを思い出す。

魚を運ぶ人。
荷物を運ぶ人。

そして今。

見えない網が、人を運んでくる。
そんな時代になっていた。

   

 その夜。

祭りの準備はさらに慌ただしくなった。

提灯の点検。みこしの修理。太鼓の確認。
子ども達は、倉庫の周りを走り回っている。

「早く祭りやりたい!」

「みこし担ぐ!」

「太鼓叩く!」

その声を聞きながら、豪は港を見た。

夜の海。
潮風。
古い提灯。
そして笑い声。

以前なら。
この町は、静かに終わっていくものだと思っていた。

だが違った。

止まりかけていたのは町じゃない。
諦めていた人の心だったのかもしれない。

 海風が吹く。

古い提灯が、小さく揺れた。

祭りは、まだ始まっていない。
それでも、浦活町はもう止まっていなかった。


第24章 祭りの準備

 祭り本番まで、2週間を切っていた。

浦活町は、これまでにない慌ただしさに包まれていた。

提灯の点検。みこしの修理。出店の調整。
交通整理の計画。駐車場の確保。安全対策。

やるべきことは山ほどある。

そして、そのたびに誰かが言う。
「人が足りん」

もはや合言葉のようだった。

    

 そんな中、一番先に動いたのは女将だった。

「せっかく来るなら、泊まっていけばええやん」

その一言から始まった。

旅館のホームページ。観光協会のSNS。会社の広報。ルミナスの発信。

あらゆる場所へ掲載された。

『祭り準備ボランティア宿泊プラン』
 〜手伝うなら、安くしとくわ〜

文字通り、祭りの準備を手伝う代わりに、通常より安く宿泊できる。
朝市の朝食付き。市場見学付き。祭り準備体験付き。

女将の発想だった。
豪も最初は半信半疑だった。

 だが。

1週間後。

「満室や」
女将が予約表を見ながら笑った。

「え?」豪は思わず聞き返した。

「ほぼ全部やな、埋まった」
旅館の予約表には、空いている部屋がほとんど残っていなかった。

日向が目を丸くする。
「マジで?」

「マジ、や」
女将は得意そうに笑った。

「人手不足言うなら、人呼んだらええんや」

豪は思わず苦笑した。

島崎とは違う。
だが、この人もまた経営者なのだと思った。

    

 数日後。

本当に人がやって来た。

大阪から来た会社員。
名古屋の大学生。
神奈川から来た家族連れ。
昔、浦活町に住んでいたという男性までいた。

市場の老人達は最初、半信半疑だった。
「ほんまに来るんか」

「口だけちゃうんか」

そう言っていた。

 だが。

朝六時。
旅館から出てきた若者達が、頭を下げる。

「おはようございます!」

老人達が固まる。

「来よったな」

「来ましたね」

「ほんまに来よった」

市場に笑いが広がった。

    

 それでも準備は楽ではなかった。
旅館の広間では、祭り実行委員会の会議が続いていた。

「ここ、人の流れが詰まります」

莉乃が資料を広げる。
地図へ線を書き込む。

「出店を一つ移してください」

「休憩スペースはここ」

「救護所はここが見やすいです」

市場関係者が唸る。

「なるほどな」

「それやと、動きやすい」

豪は少し離れた場所から見ていた。

以前の莉乃は、誰かの意見をまとめる側だった。

今は違う。
自分で考え、自分で決めている。

祭りを成功させたい。
その思いが、莉乃を前へ押し出していた。

 一方。
港では、美月が声を上げていた。

「違う!」

発泡箱を運んでいた大学生が飛び上がる。
「はい!」

「それ先に積んだら崩れる!」
「すみません!」

市場の老人達が、腹を抱えて笑う。

「美月、完全に港の姉ちゃんやな」

「最初は魚触るんも嫌がっとったのに」

本人は聞こえないふりをしている。

「包丁、そこ置くな!」

「危ない!」

口調は厳しい。
だが、その後は必ず教える。

「こう置く」

「こっち向き」

「怪我したら終わりだから」

市場で教わったことを、今度は自分が返していた。

 凛は子ども達と一緒だった。

倉庫の前に並べられた長机。色紙。絵の具。
祭りで使う飾りを作っている。

「凛ちゃん!」

「見て!」

魚の絵。船の絵。・・・なぜか恐竜。

「恐竜いる?」凛が笑う。

「いる!」即答だった。

周囲が吹き出す。
凛も笑った。

以前の自分なら、人の輪の真ん中にいることは苦手だった。

だが今は違う。
子ども達の笑い声が好きになっていた。

「祭り楽しみ?」凛が聞く。

「うん!」

「初めてやもん!」

その言葉に、凛は少しだけ立ち止まった。

祭りを知らない世代。

絶対に成功させたいと思った。

 そして日向。
相変わらず人と人を繋いでいた。

「どこから来たんですか?」
「大阪です」

「遠い!」
笑い声が起きる。

気づけば初対面同士だった人達が話し始めている。

市場の老人。大学生。会社員。観光客。

日向が間に入るだけで、不思議と輪ができる。
それはアイドルとして培った才能なのかもしれなかった。

    

 夕方。

港の一角で、みこしの最終確認が行われていた。

修理された木部。
張り直された縄。
磨かれた金具。

老人達が真剣な顔で見つめている。
「どうや?」

「いけるな」

「今年は担ぎ手も集まりそうや」

その言葉に、豪が振り返る。

募集フォームには、想定を超える応募が届いていた。

全国から。
この町の祭りのために、担ぎ手が集まろうとしている。

 その様子を見ていた老人が、ふと呟いた。
「大した網やな」

豪が笑う。
「またその話ですか」

老人はスマートフォンの画面を見る。
そこには全国から届いた応募一覧。

老人は、続ける。
「この網は人を連れてくる」

女将が吹き出した。
「魚みたいに言うな」
「間違っとらんやろ」

港に笑い声が広がる。

 最初は人を傷つけたネットだった。
炎上もあった。誤解もあった。

だが今は違う。
この町へ人を運んでいる。

父が荷物を運んでいたように。
見えない網が、人を繋いでいる。

    

 夕暮れの港。

提灯が一本、また一本と吊り下げられていく。

まだ全部ではない。
それでも景色は変わっていた。

走り回る子ども達。
準備を続ける大人達。
遠方から来たボランティア達。

笑い声。怒鳴り声。工具の音。

全部が混ざり合っている。

豪は立ち止まった。

祭りは一日だけのものではない。
この準備の時間そのものが、祭りなのかもしれない。

海風が吹く。
提灯が揺れる。

本番まで、あと数日だった。


第25章 カメラを置いた日

 いよいよ迎えた、浦活町の夏祭り当日。

朝から港は、人で埋まっていた。
海沿いには提灯が並び、屋台の煙が潮風に流れていく。

市場の空間には、子どもと大人のみこし。
その奥には特設ステージ。

港沿いの駐車場には、県外ナンバーの車が何列も並んでいる。

去年まででは考えられない光景だった。

「人、多っ……」
凛が思わず呟く。
肩には配信用カメラ。

今日は、祭り全体を長時間配信する企画だった。

編集なし。切り抜きなし。
祭りの空気そのものを流す。
それが今回の方針だった。

 朝。

島崎は短く言った。
「止めるな」それだけだった。

「上手く撮ろうとするな」
続けて言う。
「空気を切るな」

凛は、その言葉をずっと頭の中で反芻していた。

カメラの向こうではコメントが流れている。

『すごい人!』

『祭り本気やん』

『町全体が盛り上がってる』

『行けばよかった』

画面越しにも熱気が伝わっていた。

 日向は、子ども達に囲まれている。

「お月さん!」

「みこし見て!」

「太鼓叩いた!」

笑顔が絶えない。

 美月は、担ぎ手達と一緒に汗だくで走り回っていた。

「そっち詰まってる!」

「水持ってって!」

「休憩、入って!」

完全に現場監督だった。

 莉乃は、本部テントで資料と無線を持っている。

「誘導班、交差点側をお願いします」

「救護テント、確認済みです」

誰より忙しそうだった。

 豪は、会場全体を見渡していた。

市場。旅館。商店街。観光協会。
会社。ボランティア。担ぎ手。

町中が動いている。
数ヶ月前には想像もできなかった景色だった。

 祭りは、順調に進んでいく。

午後、祭り会場の特設ステージ前には、人だかりができていた。

港祭りのいち企画。
ルミナスのミニライブだった。

とはいえ、主役は祭りである。
会場中央には神輿が置かれ、提灯が並び、太鼓の音が絶えない。

ルミナスは、その賑わいの中の一つとして組まれた。

 ステージ袖。
日向が人混みを見て、思わず口を開く。
「ちょっと待って」

「人、多くない?」

凛も、客席を見て固まる。
「……多い」

市場の人達。町の人達。観光客。子ども達。

港へ集まった人々が、ステージ前を埋めていた。

その様子を見ながら、美月が腕を組む。
「今さらでしょ」

「いや、でも」 日向が苦笑する。
「最初の頃のライブ、客席十人とかだったじゃん」

「言わないで」

莉乃が即座に返す。

四人が笑って、呼びかける。
「カメラさん、撮れてる?」

「もちろん」豪だった。
手には、配信用のビデオカメラ。

今日はルミナスではなく、豪が撮影担当だった。

「ちゃんと撮ってるの?」
日向が疑いの目を向ける。
「撮ってる」

「絶対、下手」
凛が言う。

「うるさい」

「顔切れてそう」莉乃が続ける。

「切れてない」豪が即答する。

美月が覗き込む。「ほんとだ」

「失礼やな」

四人が笑う。
少しだけ緊張が解けた。

 
 ステージ下から声が飛ぶ。

「お月さーん!」
小学生達だった。手を振っている。

「頑張れー!」
その後ろには市場の老人達。旅館の女将。観光客達。

さらに少し離れた場所には、腕を組んだ島崎の姿もあった。

凛は、その光景を見て小さく息を呑む。

最初は、
誰もいなかった。

炎上して。

逃げ場もなくて。

終わったと思っていた。

それが今、
目の前には、こんなにも人がいる。

日向が肩を叩く。

「行こうか」凛が頷く。

四人はステージへ上がった。

歓声が上がる。
港へ響く拍手。
音楽が流れ始める。

豪はカメラ越しに、その光景を見ていた。

ルミナスは歌う。

観光客へ向けてではない。
数字のためでもない。

目の前にいる人達へ向けて。
市場の人達へ。子ども達へ。
この町へ向けて。

ステージの向こうで、小学生達が飛び跳ねている。

漁師達は、照れ臭そうに手を振る。
女将が満足そうに頷いている。

島崎だけは、相変わらず腕を組んだままだった。
だが、その口元は少しだけ緩んでいた。

 
 ルミナスのライブが終了してひと段落、会場はしばしのクールダウン。

しかし、まだまだ祭りは続く。

 太鼓が鳴る。
威勢の良い掛け声が、響いてくる。

とうとう、メインイベントの神輿が動き出す。

そして、この数時間後。
誰も予想していなかった出来事が起きる。

「わっ!」
小さな悲鳴。
子どもみこしの列だった。

押し合った拍子に、一人の女の子が足を滑らせる。
前へ倒れる。周囲がざわつく。

さらに。
後ろから来た人波が小さく押し寄せた。

その流れが、近くの大型提灯台へ伝わる。

提灯台が揺れた。

周囲の空気が変わる。

「危ない!」誰かが叫ぶ。

凛は、反射的にカメラを向けた。
画面が揺れる。

コメントが一気に流れ始める。

『やばい!』

『危ない!』

『大丈夫!?』

『撮れてる!?』

凛の手が止まる。
目の前には、転んだ女の子。

揺れる提灯台。泣きそうな顔。

一瞬だけ。
本当に一瞬だけ。
頭をよぎった。

配信。数字。映像。

次の瞬間。

凛は地面へカメラを置いていた。

「危ない!」走る。
女の子を抱き起こす。

地面へ置かれたカメラは、そのまま映し続けていた。

揺れる映像。慌ただしい足音。

そして。

「支えろ!」
漁師達が飛び込む。

「こっち持て!」

「押すな!」

市場の、老人達が集まる。

日向が、泣き出した周りの子どもを抱き寄せる。
「大丈夫だから!」

「怖くないよ!」

 莉乃が叫ぶ。
「後ろ下がってください!」

「通路空けて!」

美月は、担ぎ手達へ声を上げる。

「支えて!」

「人を先に逃がすの!」

誰も指示を待たない。
誰も損得を考えない。

人が。
人を助けていた。

提灯台が大きく傾く。

 その瞬間。

「っ!」豪が飛び込んだ。
肩で提灯台を押し返す。

漁師達も飛びつく。
担ぎ手達も支える。

ギシギシと音を立てながら。
提灯台は持ちこたえた。

 静寂。

そして。

「子ども無事や!」誰かが叫ぶ。

歓声が上がった。

凛は女の子を抱えたまま、その場へ座り込んでいた。

女の子は泣いている。でも怪我はない。

凛は力が抜けたように笑った。

「よかった……」

祭りは安全確認のため、一時中断になった。

だが大きな事故にはならなかった。


 しばらくして、祭りは再開された。

太鼓が鳴る。みこしが動く。歓声が上がる。

そして夕暮れ。

港の空が茜色に染まる頃、祭りは無事に終わった。

最後の拍手が響く。その音を聞きながら。

豪は空を見上げた。

港の上に。
白い月が浮かんでいた。

     

 祭り終了後。

市場の隅で、凛は一人で座っていた。

配信用カメラが膝の上にある。

「……私」小さく呟く。
「カメラ置いちゃったな」

声が少し震えていた。
「配信者としては失格かも」

 その時。

「だから良かったんだ」低い声。

島崎だった。
缶コーヒーを片手に立っている。

凛が顔を上げる。

島崎はスマートフォンを見せた。
配信の録画だった。

そこには、地面へ置かれたカメラが映していた光景が残っていた。

漁師達。子ども達。担ぎ手達。市場の老人達。

そして。
走る凛。
人を助ける人達。
町全体が映っていた。

島崎は静かに言う。

「撮るために人を使う映像は、残らない」

凛は黙って聞く。

「でも」島崎は画面を見る。

「人を助けようとした人間は残る」

潮風が吹く。

「凛は、数字より先に人を見た」

凛の目が揺れる。

「だから、この映像は残った」

祭りの片付けを始める声が遠くから聞こえる。

笑い声も聞こえる。

凛は目元をこすった。

「……そうですか」
「ああ」

島崎は短く答えた。
その表情は、少しだけ柔らかかった。

 港には、祭りの余韻がまだ残っていた。

そして市場のあちこちからは、これから始まる宴会の準備をする声が聞こえ始めていた。

浦活町の長い一日は、まだ終わっていなかった。

   


第26章 祭りのあと

 祭りが終わった。

本来なら、ここからが大仕事だった。

提灯を外す。屋台を片付ける。みこしを倉庫へ戻す。掃除をする。

港の人間なら誰でも知っている。
祭りは閉幕した瞬間には、終わらない。

後片付けまでが、祭りだ。

 だが。

「明日の競り場所だけ、確保して。他の片付けは、明日や!」
市場の中央で、老人が叫んだ。

一瞬の静寂。
次の瞬間。

「おおーっ!!」
歓声が上がる。

「今日は飲むぞ!」

「待ってました!」

「それでこそ、祭りや!」

市場全体が笑いに包まれた。
提灯はまだ灯っている。
屋台も一部が残されている。

港の夜風が吹く。
祭りの余韻が、まだ町に残っていた。

市場の中央へ長机が並ぶ。
発泡箱をひっくり返した即席の椅子。

焼き魚。貝焼き。刺身。大鍋。
差し入れ。紙コップ。

市場は、いつの間にか巨大な宴会場になっていた。

「すごいな……」豪が呟く。

隣で女将が笑う。
「祭り終わった後なんて、昔からこんなもんや」

「市場でですか?」
「市場でやるからええんや」

確かにそうだった。

ここで祭りが生まれた。ここで祭りを支えた。
だから最後もここなのだ。

その時だった。

「主役さまが、来たぞー!」
市場の奥から声が飛ぶ。

豪が振り返る。
「提灯に勝った男や!」
漁師が大声で叫ぶ。

市場中が爆笑した。

「勝ってません」豪が即座に返す。

「負けてもない」
老人が真顔で言う。

さらに笑いが広がる。

「肩、大丈夫なんか?」
女将が尋ねる。

「打撲だけです」

「なんや」漁師が肩を落とした。
「つまらん」

「何がですか」
「骨折くらいしとけ」

市場中がまた笑った。
豪も思わず吹き出した。

痛いのは事実だ。
だが、こうして笑われている方が気が楽だった。    

 県外から来たボランティも、もちろん参加していた。
「東京から来ました!」

「大阪です!」

「名古屋です!」

市場の老人達が笑う。
「遠すぎやろ!」

「何時間かかったんや!」

「来年も来ます!」

その言葉に歓声が上がる。

「逃がさんぞ!」

「来年も担げ!」

笑い声が響く。

すると若い担ぎ手の一人が豪へ頭を下げた。
「さっきは本当にありがとうございました」

豪が首を傾げる。
「え?」

「提灯です」
「ああ」

「正直、ヒヤッとしました」
周囲の担ぎ手達も頷く。

「助かりました」

「ありがとうございました」
豪は少し困ったように笑う。

「俺だけじゃないですよ」

市場を見る。
漁師達。担ぎ手達。ボランティア達。ルミナス。

「みんなで止めたんです」
 担ぎ手達が振り返る。

確かにそうだった。

あの場で動いたのは豪だけではない。
町全体だった。

    

 日向は、相変わらず人の輪の中心にいた。

「乾杯、何回目?」

「知らん!」

「もう10回は、超えとる!」

周囲が大笑いする。

 美月は、市場の女性陣に囲まれていた。

「美月ちゃん、最初よりだいぶマシになったな」
「誰のおかげですか」

「まだまだや!」
「知ってます!」

口調は強い。でも楽しそうだった。

 莉乃は、担ぎ手達から質問攻めに遭っている。

「この祭り、来年もやるんですよね?」
「やります」

「絶対来ます」
「その時は手伝ってください」

「もちろんです」

気づけば自然に笑っていた。

 そして凛だった。

「凛ちゃん!」振り返る。

昼間に助けた女の子だった。
その母親もいる。

「今日はありがとうございました」
母親が頭を下げる。

「いえ……」凛が慌てる。

すると、女の子が言った。
「凛ちゃんが助けてくれた」

凛が固まる。

「ありがとう」
小さな声だった。でも、まっすぐだった。

凛は何も言えなかった。ただ少しだけ笑った。

「よかった」それだけだった。

けれど、その言葉は自分自身へ向けた言葉でもあった。


 その頃。

市場の隅では、別の騒ぎが起きていた。

「島崎!」漁師が叫ぶ。

「なんですか」

「飲め!」

「仕事中です」

「終わったやろ!」

周囲が爆笑する。

紙コップが渡される。
「いや、私は、、、」

「部長!」

「乾杯!」

「断るな!」

完全包囲だった。

豪は少し離れた場所から見ていた。

島崎が困っている。
初めて見た。
会社では絶対に見られない顔だった。

結局。
島崎は観念した。

紙コップを受け取る。歓声が上がる。

「おおー!」

「ようやく人間になった!」

「失礼ですね」

市場中が笑った。


 少しして。

豪が港を眺めながら休んでいると、隣へ島崎がやってきた。

紙コップを片手に持っている。

「肩は?」
「大丈夫です」

「そうか」

短い沈黙。

潮風が吹く。
遠くで笑い声が聞こえる。

島崎が海を見ながら言った。

「よく飛び込んだな」

豪は少し苦笑する。

「考える暇なかったです」

「そういうもんだ」

それだけだった。だが豪には分かった。

島崎なりの労いだった。


 その後。

宴会場に戻った豪は、老人と並んで座っていた。

老人はスマートフォンを見ながら言う。

「すごいもんやな」
「何がです?」

「網や」豪が笑う。

「またですか」
「魚の網は、魚を捕る」

老人は市場を見る。
担ぎ手。観光客。ボランティア。子ども達。ルミナス。
みんなが笑っている。

「でもな」老人が続ける。
「この網は、人を連れてくる」

豪は黙った。
最初に聞いた時は冗談だと思った。

だが今は違う。

本当に。
この網は、人を運んできた。

遠くから。町の外から。

そして人と人を繋いだ。

老人が笑う。
「便利な時代になったな」

「ですね」豪も笑った。

     

 夜は更けていく。

提灯の灯り。
笑い声。
潮風。
遠くで鳴る太鼓。

市場の中央では、まだ宴会が続いていた。

「真海ぃー!」
市場の中央から声が飛ぶ。

「何やっとる!」

「来い!」

「今日は主役やろ!」

豪が苦笑する。

「主役じゃないです」

「うるさい!」

老人が即座に返す。

「今日は主役や!」

拍手が起こる。

日向が立ち上がる。
「異議なし!」

美月も笑う。「異議なし」

「異議なし!」莉乃も手を挙げる。

凛も笑顔で頷いた。

周囲からさらに拍手が起こる。


 すると。
「豪さーん!」

子ども達まで集まってきた。

今日は無礼講なのか、子ども達が遅くまで会場にいても誰も咎めない。

「主役!」

「ヒーロー!」

「提灯倒した人!」

「倒してない!」

市場中が爆笑する。
豪も思わず吹き出した。

 そして。

笑い声の輪へ向かって歩き出す。

灯りの中へ。
人の輪の中へ。

 あの日。

この町は消えていく町だと思っていた。

でも違った。
町はずっと、ここにあった。

人も。声も。笑いも。

ただ、それに気づいていなかっただけだった。

豪は市場の輪へ加わる。

誰かが紙コップを押し付けてくる。

誰かが肩を叩く。

誰かが笑う。

港の夜は、まだ終わりそうになかった。


最終章 ただいま

 祭りが終わってからの数週間は、まるで嵐の後のようだった。

祭り当日の配信映像は、想像以上の広がりを見せた。

提灯が倒れかけた瞬間。

カメラを置いて走った凛。
泣きそうな子どもを抱きしめる日向。
混乱する人の流れを整理する莉乃。
声を張り上げながら安全確保に走る美月。

そして、倒れかけた提灯台の下へ飛び込み、子ども達を守った豪。

動画は何度も共有された。
だが誰も、それを事故動画として扱わなかった。

広がったのは別の言葉だった。

『誰も見捨てなかった町』

『カメラより人を選んだ配信』

『地域ってこういうことかもしれない』

『お月さん達、本当に町の人みたい』

コメント欄には、そんな言葉が並んでいた。

ルミナスの登録者数は、大きく伸びた。
全国ネットの番組出演も増えた。

地方イベントだけでなく、首都圏ライブや企業案件も入るようになった。
収益も安定し始めていた。

 だが、それでも四人は朝市配信をやめなかった。

早朝の港。市場の声。子ども達とのやり取り。
それが、ルミナスの原点になっていた。

 やがて国の地方創生関連イベントにも呼ばれるようになり、新聞やテレビでは「地方創生アイドル」と紹介されるようになる。

それでも、市場の老人達との関係は変わらない。

「お月さん、魚運べ」

「凛ちゃん、焼き場頼む」

「日向、観光客来とるぞ」

全国的人気と港の仕事が、同じ場所に並んでいた。

 そして会社も変わった。

地域連携事業は、正式な事業部門となった。
予算が付き、人も増えた。

島崎は相変わらず無愛想だったが、社内では珍しく機嫌が良いらしいという噂まで流れていた。

そんな中、市役所から一軒の空き家が紹介された。

観光客の予約が増え始めた旅館では、ルミナス4人の部屋確保が難しくなり、女将が悲鳴を上げたのだ。

女将が市役所に強権を発動させようとする前に、なんと市役所も迅速に動いていた。

用意されたのは、海の見える平屋だった。
市場のある港にも、歩いて数分の距離。
会社は、正式にその家を借り上げた。

名目は「地域連携事業活動拠点」。
実質的には、ルミナス4人の新しい住まいだった。

浦活町での活動時間が増えるように、歌やダンスが練習できるスペースもそこに整備された。
他にもしっかりとした住環境の整備が行われ、会社の本気度が伺えた。

しかし、
畳を替えたのは、近所の職人。
網戸を直したのは、市場の老人。
冷蔵庫を持ってきたのは、女将。

気づけば家の中には、誰かが持ち込んだ家具や食器が並んでいた。

「なんで増えるの?」
凛が首を傾げる。

「町やからや」
女将は当然のように答えた。

その隣で豪は苦笑していた。

 豪自身は旅館に残った。

会社が正式に、旅館の一室を借り上げたのだ。

表札には、
 『スターリーフエンターテイメント株式会社 浦活町出張所』
と書かれていた。

豪はここで出張所長兼ルミナスマネージャーとして働き、隣の部屋で寝起きも行なうことになる。

会社から正式な辞令も出ていた。
『地域連携事業部 浦活町出張所長』

肩書きだけを見ると、間違いなく昇進だった。
もっと大きな部署へ行く道もあったらしい。

だが、豪は迷わなかった。

「断ったんか?」
女将が、呆れたように聞く。

「断りました」
「もったいないな」

「かもしれません」
豪は港を見る。
だが不思議と後悔はなかった。 


 ある日の夕方。

豪とルミナスの四人を乗せたワゴン車が、浦活町へ戻ってきた。

東京での収録。首都圏でのライブ。地方創生イベントへの出演。

以前なら考えられない仕事が続いている。

それでも、5人が最後に帰ってくる場所は、いつも浦活町だった。

「やっと着いたー」
日向が、シートに沈み込む。

「明日、朝市だよ」
莉乃が言う。

「聞こえない」
美月が即答する。

「私も聞こえない」
凛も続いた。

豪が苦笑する。
「聞こえてるだろ」

「聞こえてません!」
4人が揃って返した。

笑いが起きる。

やがて、ルミナスの家の前へ車が止まった。

「ん?」
凛が首を傾げる。

玄関先に紙袋がいくつも置かれていた。
中には野菜。手作りの漬物。お菓子。

そして、

『ライブおつかれさま』

『また配信見たよ』

『朝市で待っとる』

そんな手書きのメモが何枚も入っていた。

日向が笑う。
「増えてる」

「増えてるね」
莉乃も苦笑する。

その中に、一枚だけ小さな紙があった。
凛が拾い上げる。

子どもの字だった。

『おかえり』

たった、それだけ。
5人はしばらく黙った。

港の方から、かすかに人の声が聞こえる。
潮風も届いてくる。

豪が空を見上げた。

「帰ってきたな」

誰も否定しなかった。

おかえり

【エピローグ 町の出張所】

 秋の始まり。
日曜日の穏やかな日の午後。

旅館の一室にある会社の出張所は、正式オープンの日を迎えていた。

小さな式だった。

市役所。観光協会。市場関係者。ルミナス。女将。
そして、会社の責任者である島崎と、ほか数名が来ていた。

「お菓子が撒かれる」という触れ込みに惹かれてか、小学生達もたくさん集まっている。

豪は人前に立つ。
少し照れながら咳払いをした。

「本日は、地域連携室の正式オープンということで」

周囲が静かになる。

「これからも、浦活町のお役に立てるよう」

「地域と会社を繋ぐ拠点として」

「よろしくお願いします」

すると、市場の老人が言った。

「固いぞー」

笑いが起きる。

豪が苦笑する。

「いや、会社なんで、、、」
「会社でも固いわ」

「それじゃ、観光客みたいや」

さらに笑いが広がる。

 豪が困った顔をすると、魚屋が言った。

「お前、何年ここおる?」
「……まあ、それなりに」

「今さら、挨拶やないやろ」

女将も頷く。
「そうや、そうや」

豪は苦笑した。
「何て言えばいいでしょうか」

市場の老人が、当たり前のように言う。
「ただいま、で十分や」

一瞬だけ静かになる。

豪は言葉を失った。
周囲を見る。

女将がいる。ルミナスがいる。
市場の人達がいる。子ども達がいる。

誰も笑っていない。みんな本気だった。

豪は少しだけ目を細める。
そして、小さく笑った。

「……ただいま」
すぐに声が返ってきた。

「おう」

「おかえりー」

「魚運べ」

「働けー!」

大きな笑い声が起きた。

小学生向けの菓子撒きが、豪、ルミナス、島崎ら会社関係者、女将によって行われた。


 その後、豪たちは出張所へ戻る。

机の上には、会社資料。

だが壁を見ると、
祭りのポスター。朝市の案内。子ども会募集。
ボランティア募集。地域行事のチラシ。

・・・いつの間にか増えている。

「なんですかこれ」
豪が呆れる。

女将が答える。
「掲示板や」

「会社です」
「細かいな」

豪はため息をつく。

そこへ島崎が入ってくる。
壁を見て、少しだけ笑った。

「完全に、町の施設だな」
「部長、止めてください」

「困るか?」豪は少し考える。
そして首を振った。
「……困りませんね」

「ならいい」
島崎は、それだけ言った。

豪は少しだけ迷った。
「部長」

「なんだ?」
「ありがとうございました」

島崎は、眉一つ動かさない。
「結果を出したのは、お前らだ」

「珍しいですね」
「何がだ?」

「褒めるの」
「褒めてない」

豪は思わず笑った。
多分、一生この人は変わらない。

でも、それで良かった。


 出張所の入口には、会社の看板が掛かっている。

その下には、いつの間にかお手製の木札が増えていた。

誰が付けたのか分からない。
いや、多分分かっている。

そこにはこう書かれていた。

『町の出張所』
豪は苦笑する。

窓の外から声が飛ぶ。

「豪ー!」

「相談あるー!」

「お月さん達呼んできてー!」

豪は立ち上がる。
会社員として。ルミナスのマネージャーとして。
そして、この町の仲間として。

窓を開く。

潮風が吹き込んだ。

港には今日も声がある。

笑いがある。

人がいる。

「ただいま」「おかえり」
そんな声が、今日もどこかで聞こえていた。

そして空には、昼の月が浮かんでいた。                       


#創作大賞2026 #お仕事小説部門

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