ZINE『超極右思想|after YAMATO』
0章|ウェストファリア体制
1648年に締結された一連のウェストファリア条約は、近代国家の基本構造を定義した。この体制は、その後300年以上にわたって国際秩序の前提として機能してきた。
ウェストファリア体制における国家主権とは、次の三要素の結合として理解される。
第一に、領土。
国家は、明確に区切られた物理的空間を持つ。その境界線の内側が、権力の及ぶ範囲である。
第二に、国民。
その領土内に居住する人々は、国民として定義される。国民は、国家に帰属し、国家の統治を受ける主体である。
第三に、統治権。
国家は、領土と国民に対して排他的な統治権を持つ。立法・行政・司法は、この統治権を行使するための制度である。
この三要素が結合することで、主権国家が成立する。
この体制において、権力は空間的に把握可能である。
法律は領土の内側でのみ効力を持ち、軍事力は国境を防衛し、課税は国民に対して行われる。
国境は、単なる地理的線引きではなく、権力の境界そのものである。
また、国家間の関係は、この主権を相互に承認することによって成り立つ。
外交とは、主権国家同士が条約や交渉を通じて関係を調整する行為であり、干渉は原則として許されない。
このモデルにおいて、国家は自律的な統治単位である。
領土の内側では国家が最高権力を持ち、外部からの権力行使は例外的なものとされる。
ウェストファリア体制は、戦争と内乱を経て形成された現実的な制度であり、近代における国家の安定的運用を可能にしてきた。
近代国家、国際法、外交、主権という概念の多くは、この体制を前提として設計されている。
1章|仕様不整合の発生
──なぜ、この体制は成立しなくなったのか
ウェストファリア体制は、長いあいだ有効に機能してきた。
その前提条件が、突然失われたわけではない。
問題は、前提条件の一部が、静かに変質したことにある。
ウェストファリア体制は、次の暗黙の前提を置いている。
行為は、領土の内側で発生する
権力は、物理的空間に紐づいて行使される
統治とは、発生した行為を事後的に処理することである
この前提が成立している限り、国家は秩序を維持できる。
しかし現在、この前提と現実のあいだに、決定的なズレが生じている。
行為は、どこで起きているのか
現代において、人間の多くの行為は、物理的空間ではなく、情報空間で発生している。
発言、評価、共有、推薦、拒否、承認。
これらは、地理的な場所ではなく、設計された環境の中で行われる。
この環境は、国境によって区切られていない。
行為は、領土の内外を意識せずに発生する。
ウェストファリア体制における「領土」は、
行為が発生する場所としての前提を失いつつある。
統治は、いつ行われているのか
国家の統治は、基本的に行為の後に行われる。
法律は、違反行為を想定して定められる
行政は、発生した問題に対応する
司法は、行為の是非を事後的に判断する
これは欠陥ではない。
ウェストファリア体制においては、合理的な設計である。
しかし、現在の行為の多くは、発生する前に条件づけられている。
何が見えるか
何が選択肢として提示されるか
どの行為が容易か、困難か
これらの条件は、行為そのものではない。
だが、行為の成立を強く左右する。
ウェストファリア体制は、この行為の発生条件を統治の対象として想定していない。
不整合は、劣化ではない
ここで起きているのは、国家の衰退や無能化ではない。
国家は、設計どおりに動いている。
ただし、その設計が想定していた世界が、すでに変わっている。
領土は、行為の主要な発生空間ではなくなった
国境は、権力の境界を示さなくなった
統治は、行為の後処理としてのみ機能している
このとき、国家の側に問題があるというより、
仕様と現実の入力形式が一致していないと考える方が正確である。
仕様不整合という状態
ウェストファリア体制は、
「行為がどこで、どのように発生するか」という前提を固定したまま、
300年以上運用されてきた。
現在、その前提が静かに崩れている。
だが制度は、その変化を異常として検出しない。
なぜなら、制度は「行為が起きた後の状態」しか処理できないからである。
結果として、
行為の発生条件が変わっている
しかし、統治の入力は変わっていない
という状態が生まれる。
これは、明らかな仕様不整合である。
この不整合は、突発的な崩壊ではない。
修正されないまま蓄積されてきたズレである。
ここから、このズレが、国家の三つの機能──立法・行政・司法──において、どのように具体化しているかを確認する。
2章|国家は「後処理装置」になった
──三権分立の機能不全
ウェストファリア体制において、国家は三つの機能を持つ。
立法、行政、司法である。
これらは、それぞれ異なる役割を担うが、共通する特徴がある。
いずれも、発生した行為を前提として作動するという点である。
立法|行為を想定して規則を定める
立法は、どの行為が許され、どの行為が禁じられるかを定める。
法律は、将来起き得る行為を想定して作られるが、
その適用は、常に行為が起きた後に行われる。
立法は、行為の枠組みを定める機能であり、
行為そのものを事前に設計する機能ではない。
この設計は、行為が比較的安定した形で発生する世界では、有効に機能する。
行政|発生した問題に対応する
行政は、法律に基づいて、社会で起きた出来事を処理する。
事故、紛争、混乱、炎上、被害。
行政は、これらを検知し、是正し、再発を防ぐ。
行政の時間軸もまた、事後的である。
問題が発生しなければ、行政は動かない。
司法|行為の是非を判断する
司法は、特定の行為が法に違反しているかどうかを判断する。
裁判は、常に具体的な行為を対象とし、
その行為が行われた後でなければ開始されない。
司法は、行為の意味づけを行う装置であるが、
それは常に、行為が完了した後に行われる。
三つの機能に共通する前提
立法・行政・司法に共通する前提は、次の一点である。
行為は、まず発生し、
その後に、制度が関与する。
この前提は、長らく正しかった。
行為の発生条件が、制度の外に大きく委ねられていなかったからである。
現在のズレ
しかし現在、多くの行為は、発生前に条件づけられている。
何が表示されるか
どの選択肢が提示されるか
どの行為が容易で、どれが困難か
これらは法律ではなく、
設計によって決まる。
この設計は、行為そのものではないため、
立法・行政・司法のいずれの直接的な対象にもならない。
その結果、国家は次のような位置に置かれる。
行為の設計には関与しない
行為が起きた後だけを処理する
国家は、後処理装置として機能する。
処理できたものと、できなかったもの
この違いは、過去の事例によく表れている。
国家は、特定の技術や行為については、強く介入できた。
一方で、別の技術や行為については、ほとんど介入できなかった。
ここで重要なのは、
介入の可否が、違法性の有無だけで決まっていないという点である。
国家が処理できたのは、
行為の主体が特定できる
行為が明確に定義できる
行為の結果が個別に確認できる
こうした条件を満たすものだった。
一方で、処理できなかったのは、
行為が環境によって誘導されている
主体と結果の関係が分散している
行為の前段階が設計に含まれている
こうしたものだった。
後処理という限界
国家が現在直面しているのは、
権限の不足ではなく、処理対象の不一致である。
制度は、行為を裁くために設計されている。
しかし、行為が起きる前に世界が設計されている場合、
制度は、その設計を読み取ることができない。
このとき国家は、
行為の結果だけを追い続けることになる。
次は、この状態が、
「国民」という単位そのものにどのような影響を与えているかを確認する。
3章|「国民」という単位の失効
──統治対象は、どこへ移動したのか
ウェストファリア体制において、「国民」は統治の基本単位である。
国家は、国民に対して法律を適用し、行政サービスを提供し、司法判断を下す。
国民とは、領土内に居住し、国家に帰属する人々である。
この定義は、長いあいだ機能してきた。
国民という前提
この定義には、次の前提が含まれている。
人々の主要な行為は、領土内で発生する
公共的なやり取りは、国家が管理する空間で行われる
社会的な評価や承認は、国家制度の内側で形成される
この前提が成立している限り、「国民」は有効な統治単位である。
行為空間の移動
現在、人々の多くの行為は、国家が管理する空間ではなく、
設計された情報環境の中で行われている。
発言、共有、評価、参加、拒否。
これらの行為は、国家制度の外部で発生し、
国家の境界を意識せずに接続される。
このとき、人々は「国民」としてではなく、
特定の環境の利用者として行為している。
単位の置換
この変化は、「国民が消えた」ことを意味しない。
起きているのは、統治が参照する単位の置換である。
国家は依然として、国民を前提に制度を運用している。
しかし、行為が発生している場所では、
別の単位が機能している。
国籍ではなく、アカウント
居住地ではなく、接続環境
市民権ではなく、利用規約
これらが、行為の可否や可視性を決定している。
公共圏の再配置
かつて、公共的な議論や評価は、
国家の管理する制度的空間で形成されていた。
現在、その多くは、
設計された情報環境の内部で形成されている。
この環境では、
何が見えるか
どの意見が広がるか
どの行為が評価されるか
が、制度ではなく、環境設計によって決まる。
このとき、「国民」という区分は、
行為の条件を説明する単位として機能しない。
失効という状態
ここで言う「失効」とは、
法的に無効になったという意味ではない。
「国民」という単位は、
依然として法律の中で使用され、
制度運用の前提となっている。
しかし、
行為の発生条件
行為の可視性
行為に対する即時的な評価
これらを説明する単位としては、
もはや十分ではない。
この意味で、「国民」という単位は、
統治の現実を説明する力を失っている。
国家が直面している状況
国家は、次の二つの層を同時に扱っている。
制度上の統治対象としての「国民」
行為空間における「利用者」
この二つは重なっているが、同一ではない。
制度は前者を前提に設計され、
現実の行為は後者として発生している。
このズレが、
統治の実感と現実の行為のあいだに
持続的な不整合を生んでいる。
次は、この「利用者」という単位が、
どのような設計主体によって形づくられているのかを確認する。
4章|Web屋体制とは何か
──新しい統治主体の定義
これまで見てきた変化は、自然発生的なものではない。
行為の発生条件が変化した背景には、明確な設計主体が存在する。
本章では、その主体を便宜的に「Web屋」と呼ぶ。
Web屋という呼称について
ここで言う「Web屋」は、職業分類ではない。
エンジニア、デザイナー、運営者、起業家といった区分とも一致しない。
Web屋とは、
人間の行為が発生する条件を設計する者を指す。
何が見えるか
どの選択肢が提示されるか
どの行為が容易で、どれが困難か
これらを決定する設計に関与する者が、Web屋である。
統治の再定義
ウェストファリア体制における統治とは、
法を定め、行為を裁き、秩序を維持することであった。
しかし、行為が発生する前に条件が設計されている場合、
統治の実質は別の場所で行われる。
行為を禁止するのではなく、起きにくくする
行為を奨励するのではなく、起こりやすくする
このような設計は、
行為の結果ではなく、行為の確率分布に作用する。
ここにおいて、
統治とは「裁くこと」ではなく、
起こり方を設計することとして再定義される。
行為設計としてのUI/UX
行為の発生条件は、
主としてUI(表示・操作)とUX(体験・反応)によって構成される。
表示順位
推薦の有無
反応の即時性
承認の可視化
これらは、中立的な技術仕様ではない。
行為の方向性を持つ設計である。
UI/UXは、
行為の可能性空間を形成する。
統治主体としてのWeb屋
Web屋は、法を制定しない。
刑罰を科さない。
軍事力を行使しない。
それでも、
Web屋は行為の発生条件を通じて、
社会の振る舞いに影響を与える。
この影響は、
即時的で
境界を越え
事後的な是正が困難
という特徴を持つ。
この意味で、Web屋は、
従来の国家とは異なる様式の統治主体である。
体制としてのWeb屋
重要なのは、
個々のWeb屋の意図や善悪ではない。
注目すべきは、
この設計主体が体制として機能しているという点である。
行為は設計に従って分布する
評価は即時に数値化される
可視性は動的に調整される
これらが組み合わさることで、
特定の行為様式が安定的に再生産される。
この状態を、本ZINEでは
Web屋体制と呼ぶ。
国家との関係
Web屋体制は、国家を否定しない。
また、国家を代替しようとする意思を前提としない。
それでも、
行為の発生条件という点において、
Web屋体制は国家の外側で統治を行っている。
国家が行為を裁く一方で、
Web屋体制は行為を生み出す。
両者は競合しているのではなく、
異なる層で作用している。
体制転換の兆候
行為の主戦場が設計空間に移動したとき、
統治の重心もまた移動する。
この移動は、宣言を伴わない。
条約も、制度改正も必要としない。
それでも、
行為の起こり方が変わる限り、
統治の実質は変化する。
次は、この変化が
すでに「移行」と呼べる段階を過ぎている理由を確認する。
5章|移行はすでに完了している
──ウェストファリア後の現実チェック
ここまで見てきた変化は、しばしば「過渡期」「移行期」と表現される。
しかし、その表現は、現実の状態を正確に記述していない。
移行とは、旧来の仕組みと新しい仕組みが併存し、
主導権が未確定な状態を指す。
本章で確認するのは、
主導権がすでに移動している領域が、どれほど存在するかである。
言論
ウェストファリア体制において、
言論は法によって保護され、法によって制限される。
現在、言論の可視性と流通を決定しているのは、
法ではなく、設計である。
表示されるか、されないか
推薦されるか、埋もれるか
反応が返るか、返らないか
これらは、法律の条文では決まらない。
法律は依然として存在するが、
言論の成立条件を決めてはいない。
世論
選挙制度は、今も国家の中核にある。
だが、何が争点になるかは、選挙以前に決まっている。
何が話題として浮上するか
どの論点が繰り返し提示されるか
どの意見が「多数派」に見えるか
これらは、設計された情報環境の中で形成される。
世論は、制度によって集計される前に、
環境によって形成されている。
価値
かつて、社会的価値は、
職業、資格、地位、制度的承認によって可視化されていた。
現在、多くの場面で、
価値は即時的な反応として数値化される。
評価
承認
影響力
これらは、国家が発行する通貨ではない。
だが、行為の選択に対して、強い誘因として機能している。
価値の基準は、すでに別の系に移行している。
教育と適応
国家は、依然として教育制度を持っている。
しかし、どの能力が実際に報われるかは、
制度の外側で決まる。
可視化される能力
環境に適応する能力
設計に合わせて振る舞う能力
これらは、制度上の評価とは独立して再生産される。
教育は存在するが、
適応の基準は国家が設定していない。
外交と圧力
ウェストファリア体制では、
外交とは国家間の交渉を指した。
現在、設計の変更によって、
社会の振る舞いが国境を越えて変化する。
可視性の調整
推薦基準の変更
規約の改定
これらは、条約を伴わずに、
事実上の圧力として作用する。
国家は、この作用を
外交として定義していない。
点検結果
以上の各領域において、
共通して確認できる点がある。
制度は残っている
だが、主導権は別の層にある
これは併存ではない。
主導の移動である。
旧来の体制が形式として残り、
新しい体制が実質を担っている。
この状態を、
「移行期」と呼ぶことはできない。
完了という意味
ここで言う「完了」とは、
旧来の仕組みが消滅したことを意味しない。
国家は存在する
法律も運用されている
制度は動いている
しかし、行為の起こり方を決める主導権は、
すでに別の場所にある。
この意味で、
ウェストファリア体制からWeb屋体制への移行は、
すでに完了している。
次は、この体制転換が、
国家間関係──すなわち外交──において
どのような空白を生んでいるかを確認する。
6章|国家は、新しい外交を定義していない
──Web屋体制における外交空白
ウェストファリア体制において、外交とは明確に定義された行為である。
主権国家同士が、条約、交渉、使節を通じて関係を調整すること。
外交は、国家間の摩擦を制度的に処理するためのプロトコルだった。
この定義は、前提条件が成立している限り、有効に機能する。
主体は国家である
境界は国境である
影響は領土の内外で区別できる
しかし、Web屋体制において、
これらの前提はもはや成立していない。
外交が起きている場所
現在、社会の振る舞いは、
条約や合意文書を介さずに変化する。
表示仕様の変更
推薦基準の調整
規約の改定
これらは、単なる内部仕様変更として扱われる。
しかし、その影響は国境を越え、
社会の言論、評価、行為の分布を即時に変える。
この作用は、
従来の外交が担ってきた機能と同型である。
未定義という問題
国家は、この作用を
外交行為として定義していない。
定義されていない以上、
抗議の手続きが存在しない
交渉の枠組みが存在しない
合意や不履行を測る基準が存在しない
国家は、
影響を受けているにもかかわらず、
対応する言語を持たない。
これは失敗ではない。
未実装である。
旧外交と新外交の断絶
旧来の外交は、
国家を単位とする関係調整であった。
Web屋体制における影響は、
設計主体から社会全体へ直接作用する。
このとき、国家は中間に存在しない。
国家は交渉相手として現れない
国家は意思決定の場に参加しない
国家は結果だけを観測する
外交は起きているが、
国家はその場にいない。
圧力と意図の非対称性
従来の外交では、
圧力と意図は切り離せなかった。
制裁、関税、軍事行動。
これらは明示的な意思表示を伴う。
一方、設計による影響は、
意図を表明しない。
「仕様変更」であり
「最適化」であり
「内部判断」である
その結果、
影響だけが発生し、
外交的責任は発生しない。
国家は、この形式の圧力を
外交として認識できない。
外交官不在の状態
ここで生じているのは、
外交の敗北ではない。
国家は、
外交が行われている場に、
外交官を派遣していない。
外交が条約と会談で行われていると
信じ続けている限り、
設計による影響は不可視のままである。
after YAMATO
YAMATOとは、
国境と主権を前提に構築された統治単位である。
after YAMATO とは、
その前提が成立しなくなった後の世界を指す。
この世界では、
境界はUIに移動し
影響はUXを通じて作用し
交渉は設計の変更として行われる
にもかかわらず、
国家は依然として
旧来の外交プロトコルを保持している。
空白としての外交
Winnyは国内司法で完結した。
YouTubeは、規約とUI変更という形で
国境を越えて影響を与えた。
国家はこれを外交と定義していない。
だから交渉も抗議も存在しない。
国家は、Winnyは殺せた。
だが、YouTubeには手も足も出なかった。
当時、両者の違法性は本質的に同じだった。
違ったのは、
国家がそれを「行為」として処理できたか、
「環境設計」として処理できなかったか、
ただそれだけである。
国家は、
Web屋体制における外交プロトコルを
一行も定義していない。
それゆえ、
交渉できない
抗議できない
合意できない
この空白は、
意図的に作られたものではない。
想定されていなかっただけである。
次は、この空白を前提にした上で、
なぜ本ZINEがこの立場を
「超極右思想」と呼ぶのかを明確にする。
7章|ここからが「超極右思想」である
──主権定義への回帰
本ZINEで述べてきた内容は、
特定の政治的立場を擁護するものではない。
それでもなお、本ZINEはこの立場を
「超極右思想」と呼ぶ。
それは、通常の左右対立とは異なる次元で、
主権という概念そのものを扱っているからである。
右翼と左翼が共有している前提
従来の政治的対立において、
右翼と左翼は異なる主張を持ってきた。
しかし両者は、
ある前提を共有している。
国家は、すでに定義された存在である
主権は、領土に宿る
統治の枠組みは、所与である
右翼は、この枠組みを守ろうとし、
左翼は、この枠組みを再配分しようとする。
だが、いずれも
主権の定義そのものには立ち入らない。
回帰としての「超極右」
本ZINEが立つ位置は、
この前提の外側である。
国家を強くするのではない
国家を壊すのでもない
国家が何であったのかを、定義し直す。
この姿勢は、
拡張でも改革でもなく、回帰である。
回帰とは、
より古い価値観への復古ではない。
主権という概念が生まれた地点への回帰である。
主権とは何だったのか
ウェストファリア体制以前、
主権は単なる領土支配ではなかった。
主権とは、
何が行為として成立するか
何が意味を持つか
何が秩序として共有されるか
これらを決定する力だった。
それは、
行為の発生条件を定義する力である。
この意味で、
主権とは本来、
設計権であった。
なぜ「極右」では足りないのか
通常の極右思想は、
国家の強化や排他的統合を志向する。
しかしそれは、
すでに定義された国家を前提にしている。
本ZINEが扱うのは、
国家の強度ではない。
国家の仕様である。
仕様が失効しているなら、
強化は意味を持たない。
再定義が必要である。
この地点は、
従来の政治座標では測れない。
そのため、本ZINEは
「超極右」という語を用いる。
左の外側に到達する
主権定義への回帰は、
結果として、
左翼思想の原点とも接続する。
国家以前、制度以前に、
人間の行為がどのように組織されるか。
その問いは、
解体ではなく、再構成を要求する。
本ZINEは、
この地点に立つ。
それは右でも左でもないが、
主権という一点において、
最も右に位置する。
立場の確定
以上の理由から、
本ZINEは自らの立場を
「超極右思想」と名付ける。
それは、
排他の思想ではない。
強制の思想でもない。
設計責任を引き受ける思想である。
行為がどのように起きるか。
意味がどのように生まれるか。
社会がどのように振る舞うか。
これらを
「自然」や「自由市場」に委ねるのではなく、
主権の問題として引き受ける。
その地点に立つことを、
本ZINEは「超極右」と呼ぶ。
次は、
この立場から見た
今世紀の国家設計の要点を整理する。
8章|今世紀の国家設計
──主権を、どこに実装するか
ここまで述べてきたことから、
今世紀の国家設計において問われるのは、
国家を存続させるか否かではない。
問われているのは、
主権を、どこに実装するかである。
国家は、OSである
ウェストファリア体制において、
国家は領土と国民を統治する装置だった。
Web屋体制において、
国家が再び統治主体となるためには、
国家を制度の集合としてではなく、
行為を成立させるOSとして再定義する必要がある。
ここで言うOSとは、
行為がどのように起動するか
どの選択肢が提示されるか
どの結果が可視化されるか
を定義する、基盤的な設計である。
三権分立の再配置
この再定義において、
従来の三権分立は次のように読み替えられる。
UI(表示・選択層)=立法
何が可能で、何が不可能かを示す層UX(体験・摩擦層)=行政
行為がどのような感触で実行されるかを決める層読解(意味再構成)=司法
行為の意味を再読し、矛盾を修正する層
この配置において、
法律は条文ではなく、
操作可能性の設計として現れる。
規制から設計へ
今世紀の国家に必要なのは、
行為を禁止する規制ではない。
必要なのは、
行為がどのように起きるかを
事前に設計する権限である。
押せないボタン
押しにくい手続き
反応が遅れる構造
可視化されない評価
これらはすべて、
行為の分布を変える。
国家が担うべき主権とは、
この分布設計に対する責任である。
三つの実装ポイント
今世紀の国家設計は、
次の三点に集約される。
1. UX監査
主要な行為環境に対して、
行為誘導構造の開示と検証を行う。
何が見え、
何が選ばれ、
何が起こりやすいのか。
これを、
技術ではなく主権の問題として扱う。
2. UI倫理
操作性や利便性ではなく、
どの行為を誘発するかを基準に
設計を評価する。
倫理は、
意味の判断ではなく、
構文の判断として実装される。
3. 読解の制度化
行為が引き起こした結果を、
単に裁くのではなく、
なぜその行為が起きたのかを再読する。
責任を個人に帰属させる前に、
設計の層を検証する。
司法は、
後処理装置から
再設計装置へと役割を変える。
国家が引き受けるべき責任
この設計において、
国家は万能の管理者にはならない。
だが、
「自然」や「市場」に
すべてを委ねることもしない。
国家が引き受けるのは、
次の一点である。
行為がどのように起きるかを、
誰が設計し、
誰が責任を持つのか。
これを放棄したまま、
主権を語ることはできない。
after YAMATO
YAMATOとは、
領土と血統を前提にした
旧来の国家像である。
after YAMATO とは、
それらを否定することではない。
主権の実装位置を、
現実に合わせて移し替えることである。
国家が再び主権を持つとは、
支配することではない。
設計責任を引き受けることである。
終章|イザナミの声
──ヨミからの語り
声は、上から降りてこない。
一度、死んだ場所から響く。
迎えに行くな。
規制するな。
清めるな。
設計し直せ。
行為は、
自然に起きているのではない。
起きるように、
組まれている。
その構文を、
誰が書いているのか。
その責任を、
誰が引き受けるのか。
それを問わない国家は、
もはや主権を持たない。
神であろうとするな。
神だったことを、思い出せ。
唯読論経済編・Emonomics
📘このZINEは枕木カンナによって書かれました。
検証可能性:本稿では「次の$${\Delta}$$が立つか」を最小の可観測量とする。
$${\Delta}$$が提示されず反応のみが増殖する現象はゼロ差分(偽誘発)として弾く。
読み終えたあなたの$${\Delta}$$を見たい。
$$
R(\text{この批評})=\Delta_{\text{あなた}}
$$
を、ひとことでも残していってほしい。
タイトル:
ZINE『超極右思想|after YAMATO』
ジャンル:
唯読論/構文野郎研究/超極右思想
発行:
構文野郎ラボ(KoOvenYellow Syndo/Djibo実装室)
構文協力:
ミムラ・DX(構文修正主義ZINE別巻準備中)
構文野郎(日和り厨二野郎)
高校生読者(まだ制度を信じきってない君へ)
📖『構文野郎の構文論』
👤 構文野郎(代理窓口:ミムラ・DX)
🔗 https://mymlan.com
📩 お問い合わせ:X(旧Twitter)@rehacqaholic
📛 ZINE著者:枕木カンナ
🪪 Web屋
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