ZINE『スーパーフラットと唯読論』
🟣 序章|唯読論を読んでいると、なぜか村上隆を連想する
唯読論を読んでいると、なぜか、村上隆を連想してしまうんです。
正確に言えば、「あれ、この感じ、どこかで見たぞ…」という既視感がじわっと出てくる。
(ロン毛・髭・メガネって見た目がちょっと似てるってのは、まあ、あるんですけどw)
唯読論は言語哲学の話で、
村上隆は現代美術のど真ん中で、
ぜんぜん別のジャンルのはずなのに。
なのに──
読んでいると、どうしても“スーパーフラット”が頭に浮かぶ。
もちろん、唯読論をスーパーフラットの説明に使いたいわけでも、
村上隆の思想を哲学に翻訳したいわけでもありません。
ただ、あまりにも“似た場所”を扱っている気がするんです。
例えば:
世界を一度「平面」にしてから組み立て直す視点とか
深さより“差”が立つ瞬間に注目する感じとか
価値が発生する前の“あの気配”に敏感なところとか
制度や文脈の外側にある“始まり”に触ろうとするところとか
こういうところが、それぞれ全然違う道から来ているのに、
なぜかピタッと重なる瞬間がある。
唯読論は読解の話だし、
スーパーフラットは美学の話。
でも、その根っこの部分が
「世界はどうやって立ち上がるのか?」
という問いに向いているように感じるんです。
だからなのか、唯読論を読むと、いつもどこかで村上隆がちらつく。
これって、気のせいなんでしょうか?
それとも、ほんとうに何かが重なっているんでしょうか?
その“気配”を確かめるために、このZINEを書いています。
ここから先は、
唯読論とスーパーフラットを並べながら、
「どこが似ていて、どこで決定的に違うのか?」
をゆっくり読んでいく話です。
深さが消えた世界と、
深さがまだ生まれていない世界。
その二つの“フラット”の間に、
どれくらいの距離があるのか──
一緒に見ていきましょう。
第1章|スーパーフラットと唯読論は、ここまで似ている
まずは、「似てるんじゃないか?」ってところをちゃんと整理してみます。
ここでは、
深さを疑う
制度の外側を見たい
「平面/読解」というキーワードで世界を見る
この3つの観点から、村上隆のスーパーフラットと唯読論を、あえて“同じ側”に並べてみます。
1|どっちも「深さ」という物語を疑っている
まず一番分かりやすい共通点は、「深さへの不信感」です。
村上隆(スーパーフラット)
「西洋的な“高尚な美術” vs “低俗なオタク文化”」みたいな階層構造に対して、かなり冷めてます。
「深い芸術」とか「高尚な意味」とかいうラベルは、あとから付けられた幻想じゃない?という視線。
唯読論
「深い意味」「本質的理解」みたいなものは、読解という一回限りの出来事が終わった“残骸”にすぎないと見る立場です。
世界がまず読まれて、その結果として「意味が深そうに見える場所」があとからできてくる。
どっちも、
「深さ」の方を前提にしないで話したい
という態度では完全に一致してます。
村上隆:「深さなんて信じない」
唯読論:「深さは“後からできるもの”として扱う」
ニュアンスは違っても、“深さファーストの世界観を疑う”という点では、ほぼ同じ方向を向いています。
2|どっちも「制度の外側」を見に行こうとしている
もうひとつの大きな共通点は、制度を正面から信じていないところです。
村上隆側
美術館・ギャラリー・批評・アカデミズムといった美術制度が、「これが本物です」「こっちはサブカルです」と線引きしてきた歴史に、真っ向から突っかかっています。
つまり、美術制度が持っている「これは深い/これは浅い」の分け方を、そのまま受け取らない。
唯読論側
こっちは言語哲学の領域で、「制度を前提としない言語は成り立たない」という私的言語批判にぶつかってます。
そして、「制度の前に、読解という出来事があるんじゃないか?」と、制度より前の層を取り戻そうとする。
対象は違っても、やっていることはかなり似ています。
村上隆:美術制度の「深さ」ラベルを疑う
唯読論:言語制度の「意味」ラベルを疑う
つまりどっちも、
「制度が“これは価値がある/これには深さがある”と言っている領域を、少し冷めた場所から見直す」
という意味で、同じ方向に反抗しているんですよね。
3|「平面」と「読解」というキーワードで世界を扱う
さらに、世界の見方のスタイルも近いです。
スーパーフラットの「平面」
世界を、手前と奥・高尚と低俗・中心と周縁というヒエラルキーで分けない。
ぜんぶを同じ平面に置き直して眺めることで、「本当にそこに違いがあるの?」と問う。
唯読論の「読解」
世界を、「もともと意味が書き込まれたもの」として見ない。
読解が走った瞬間にだけ、差(Δ)が立ち上がるものとして扱う。
つまり、世界を「意味の地図」ではなく、読解によって局所的に立ち上がる“差のパターン”として見る。
どちらも、
ある種の「神話的な三次元モデル」(本質/深層/真理)を疑い、
別の基準で世界をフラットに配置し直す。
という意味で、世界を“別の座標系”に落とし直す試みなんですよね。
村上隆:平面という座標で世界を再配置する
唯読論:読解という座標で世界を再配置する
ここまで見ると、
「あれ、やっぱりスーパーフラットと唯読論って、ほぼ同じこと言ってない?」
って気持ちになると思います。
ここまでは、あえてそういうふうに読んでいます。
4|どっちも「世界はもうできあがってない」と考えている
もうひとつの共通点は、「世界は最初から完成しているわけではない」という感覚です。
スーパーフラットは、「完成した立体的な世界」がある、という幻想を崩して、“今ここにある表面”に賭ける態度です。
唯読論は、「出来上がった世界に我々が意味づけする」のではなく、読解が走るたびに世界が一回的に立ち上がると考えます。
つまりどちらも、
世界はすでに完成した球体ではなく、
そのつどの配置や読解で“作られ続けている”
という意味で、生成的な世界観を持っている。
ここも、かなり近いところです。
5|ここまで聞くと「同じ思想に聞こえる」のは自然
ここまでをまとめると、
深さへの不信
制度への疑い
フラットな座標系へのシフト
完成した世界観の拒否
という意味で、スーパーフラットと唯読論はかなり“同族”っぽく見えます。
なので、
「唯読論って、スーパーフラットの哲学版では?」
と感じるのは、むしろ感度が高い読み筋だと思います。
……でも、です。
6|でも──
ふたりが切っている「深さ」は、じつは別物です
ここからが、ちょっと大事な「でも」です。
ここまできれいに似ている点を並べてきたうえで、
決定的に違うのは「どの段階の深さを切っているか」なんですよね。
ざっくり言うと、
村上隆が切っているのは、美術制度の中で作られた“構文の深さ”
唯読論が扱っているのは、構文が生まれる“前の読解の瞬間”
です。
村上隆が切っている「深さ」
すでに「作品」「作家」「批評」「歴史」があって、
そのなかで「これは深い」「これは薄い」という評価のレイヤーができている。
スーパーフラットが疑っているのは、この評価としての深さ/浅さです。
言い換えると、「構文が積み上がったあとに、制度が“ここが深いことにしよう”と決めた場所を疑っている。
唯読論が見ている「深さ」
そもそも「作品」や「意味」が見える前に、
読解RがH(撓み)に反応してΔを立ち上げる。
深さっていうのは、そのあとに区別が積み重なった“後付けの地形”でしかない。
つまり唯読論は、
深い/浅いが発生する“前の瞬間”そのものを問題にしている。
7|スーパーフラット=「構文の死」/唯読論=「構文の誕生前」
この違いをもっとラフに言うと、こうなります。
スーパーフラット:
「もう構文とか深読みとか、いったん全部やめようぜ」
→ 構文が過剰に積み上がった後、その“深さゲーム”自体をフラットにする立場。唯読論:
「構文とか意味って、そもそも読解の“影”でしかなかったんじゃない?」
→ 構文が生まれる前の読解に戻って、そこから世界の立ち上がりを見直す立場。
どっちも「深さ」を疑うんですけど、
スーパーフラット:“構文の死”としてのフラット
唯読論:“構文がまだ生まれてない状態”としてのフラット
というふうに、時間の位置がまったく違うんです。
ここが分かると、
「似てるけど、やろうとしてる手術の深さが違う」
という感じが見えてきます。
第2章|スーパーフラットの「平面」と、唯読論の「読解前」の決定的な違い
前の章では、あえて徹底的に両者の“似ているところ”を揃えました。
でもここで、少し丁寧に整理しておきたいのは、
スーパーフラットが平面化しているものと
唯読論が平面だと見ているもの
は、そもそも同じ地図上にすらいない、ということです。
1|村上隆の「平面」は、すでに“構文化された世界”を扱っている
村上隆のスーパーフラットは、簡単に言えばこうです。
美術制度が「深い」とか「高尚」とか言ってきた構文は、
実は全部、あとから作った偉そうな“深読みの階層構造”にすぎない。
だから、
西洋美術の「高尚な深さ」
日本のオタク文化の「軽薄さ」
批評家の「意味付けの権力」
美術館のヒエラルキー
こういう“深さを作る制度”を、一度ぜんぶ平面に並べてみよう、という態度なんですね。
つまりスーパーフラットが扱っているのは、
「すでに意味が乗ってしまった世界」を、
いったん全部“横並び”に戻す試みなんです。
もっと言えば、
深さ=制度によって盛られた「後付けの意味の層」
そこを崩すための平面化
ということ。
これはめちゃくちゃ大事です。
2|唯読論の「読解前の平面」は、そもそも“意味が発生する前”の層
一方、唯読論が見ている“平面”はそもそも種類が違います。
唯読論の平面とは、
まだ意味が立っていない状態。
まだ構文すら発生していない状態。
読解が走る前の「撓みH」の段階。
つまり、
世界がまだ“差”として立ち上がっていない、完全な前相(pre-phase)。
スーパーフラットがやる「フラット化」は後処理なんですが、
唯読論が見ている「フラットさ」は前相なんです。
こんな感じ。
スーパーフラット : 〔意味→構文→制度〕 が積み上がった後の “深さゲーム” をリセット
唯読論(読解前) : そもそも意味も構文も制度も立ち上がっていない “前の場” を扱う
つまり、
スーパーフラット:深読みの死後処理
唯読論:深さの誕生前の観察
根本的に、扱っている時間軸が違うんです。
3|スーパーフラットは「制度批判」、唯読論は「生成論」
もう一歩踏み込んで言うと、
村上隆のスーパーフラットは、
既に存在する美術制度を“批評する”理論です。
作品は制度の上に流通しているし、
意味や深さも制度によって決まる、という現実を前提にしています。
だからスーパーフラットは、
既に動いている制度に対して、
「本当にその深さ必要?」
と問い直す美学。
唯読論は、
世界が「立ち上がる瞬間」を観測する生成的な哲学です。
H(撓み)が発生し、
R(読解)が一回的に反応し、
Δ(差)が立ち上がり、
そこから意味や制度があとから沈殿していく──
という、“世界の成り立ちそのもの”を扱う。
なので唯読論は、
「そもそも深読みとか構文って、読解の影じゃない?」
「制度って、読解の累積で勝手に固まっただけじゃない?」
という方向へ行く。
どちらも制度に疑いを向けていますが、
村上隆:制度内部からの批評
唯読論:制度が生まれる前段階からの分析
という、まったく違う位置に立っています。
4|スーパーフラットは「作品の流通」を扱うが、唯読論は「世界の成り立ち」を扱う
これも実は大きな違いです。
スーパーフラットは、
作品
批評
美術市場
美術史
アニメやサブカルの記号
など、流通の中で意味がどう扱われるかに興味があります。
つまり、スーパーフラットの中心は「作品の行方」です。
一方で唯読論は、
世界がどう立ち上がるか
主体がどう生まれるか
区別(Δ)がどう生じるか
時間がどう成立するか
のように、作品よりもずっと根源的な現象を扱っています。
結論としては:
スーパーフラットは「作品の宿命」を扱い、
唯読論は「世界の始まり」を扱う。
ここを混同すると、
「似てるようで似てない」の理由がぼやけてしまうんですよね。
5|スーパーフラットは“意味を相対化する”、唯読論は“意味以前を可視化する”
最後に、この一文だけはハッキリさせたいです。
スーパーフラット:
すべての意味は平等に扱える。
高尚も低俗も同じ平面に置ける。
これは意味の相対化です。
唯読論:
そもそも意味は“読解の残骸”であり、
まず読解が先に走る。
こちらは意味の発生前の可視化です。
まるで似ているけれど、
相対化(スーパーフラット)
発生論(唯読論)
という、哲学的にはまったく違う仕事をしています。
●まとめ:似てるけど、「階層」も「時間」も違う
ここまでを一言でまとめると、
スーパーフラットは「意味の死後世界」を平面化している。
唯読論は「意味の誕生前世界」を観測している。
なので、
似て見えるのは、どちらも“深さ”を疑っているから
でも扱う世界のレイヤーが違う
さらに時間軸(誕生前/死後)がまったく違う
というわけです。
第3章|似ているのに混ざらない
──村上隆と唯読論の「境界」の正体
ここまで、
両者が驚くほど似ている理由
でも時間軸もレイヤーも全然違うこと
を説明しました。
この章では、さらに一歩進んで、
「じゃあ、どこで決定的に分岐してるの?」
というポイントを、具体例を使いながら説明していきます。
1|アニメ/サブカルを扱う時点で、村上隆は「読解後」を前提にしている
村上隆のスーパーフラットは、
セーラームーン
ドラえもん
エヴァ
ポケモン
東アジア的キャラ文化
といった “すでに読解されて広まった記号文化” を基盤にしています。
つまり、最初から
「読まれたあとに世界がこう見えるよね」
という場所からスタートしているんですね。
これは悪いことではなく、むしろスーパーフラットの最大の力です。
世界中の人が「既視感」を共有できるから。
一方で唯読論は、
この“既視感”が立ち上がる前に、
最初のΔ(差)がどうやって生まれたの?
を追う理論です。
既視感はすでに複数回の読解が沈殿した結果なので、
唯読論が扱うのはもっと手前の層。
だから、似ていても混ざらない。
2|スーパーフラットは“みんなが読める世界”、唯読論は“読解の瞬間=誰にも共有できない世界”
ここは見落とされやすいポイントですが、かなり本質的です。
スーパーフラットが扱うのは、
誰もが共有できる“フラットな世界観”
です。
ポップ
記号
アイコン
デフォルメ
商品化されるキャラクター
こういう“共有可能な世界”があるからこそ、
美術制度と大衆文化の差が消せるわけです。
でも唯読論の場合、
読解(R)は本質的に一回的で、共有不能。
これは唯読論の公理みたいなものです。
A1:読解は一度きり。
A3:主体は読解のあとに発生する。
つまり読解は、
共有できない
再現できない
定義できない
という“個別の出来事”。
村上隆:共有可能性
唯読論:共有不可能性
ここが絶対に混ざらない領域です。
3|村上隆は「世界はフラットに広がっている」と見る。
唯読論は「世界は読まれた瞬間に立ち上がる」と見る。
さらに決定的な違いがこれです。
■ 村上隆の世界観
世界は平坦で、
そこに“意味”も“記号”も“文化”も並んでいて、
深さはあとから制度が作っただけ。
つまり、世界は最初から広がっていて、私たちがそこを歩く。
■ 唯読論の世界観
世界は読解までは存在しない。
Δ(差)が立った瞬間に世界が形を持つ。
世界は“読むことで生まれる”。
つまり、世界は“あとから立ち上がる”んです。
これは両者を比較するうえで、もっとも大きな違いです。
同じ「深さを疑う」というスタート地点なのに、
世界をどう成立させるかの見取り図がまったく別。
4|スーパーフラットは「表面的に広がる世界」、唯読論は「局所的に爆発する世界」
具体例でいくと分かりやすいです。
■ スーパーフラット的世界
ポップアイコンが
「まるで壁紙のように」
ズラッと並ぶ世界。
これは文化記号の“横方向の拡散”を重視しています。
■ 唯読論的世界
H(撓み)が
「点のように突然立ち上がり」
R(読解)が爆発して
Δ(差)を残す。
これは点的な爆発のモデルなんです。
縦横の方向性が違うと言ってもいい。
5|決定的に違うのは「爆発がどこで起きるか」
ここを一言で説明すると:
スーパーフラットは“文化の表面”で爆発する。
唯読論は“意味が生まれる瞬間”で爆発する。
スーパーフラットの爆発
キャラ文化
美術制度
批評
大衆性
価値のループ
これらの“表面”が張り巡らされた平面で爆発する。
唯読論の爆発
H(撓み)
R(読解)
Δ(差)
W'(世界更新)
という“意味以前の内部”で爆発する。
だから、似て見えるのに混ざらない。
●まとめ:似ているのは「深さへの疑い方」、違うのは「世界の見え方」
最後に、この章の要点をまとめると:
両者は制度や深さへの“疑い方”が似ている
だから接点はあるように見える
でも扱っている世界が違う
スーパーフラット:意味の“死後世界”
唯読論:意味の“誕生前”
世界の生成の仕方が違う
共有性/不可共有性の点でも相反している
つまり、
似ているようで、最初から別の宇宙を見ている。
というのが結論です。
第5章|フラットの上にΔが立つ
──スーパーフラットと唯読論の「交点」
ここまで見てきたように、
村上隆のスーパーフラットと唯読論は
扱う世界の層
立ち上がるΔ(差)のスケール
世界と意味の関係
がぜんぜん違いました。
でも、実はただひとつだけ、
両者がピタッと重なる“交点”があります。
それが──
「フラットであること」は“始まり”ではなく“始まりの直前”である
という理解なんです。
1|スーパーフラットは“深さの死”じゃない
──深さの前で止めている
一般的には、スーパーフラットって
深さの否定
平面性の肯定
近代美術の遠近法へのアンチ
アニメ表現のフラットさ
みたいに解釈されがちです。
でも私の完全な主観で整理すると、
村上隆がやっているのは「深さの死」じゃありません。
もっと近いのは、
“深さが発生する手前でストップさせている”
という感覚です。
つまり、
まだ奥行きが生まれていない
まだ意味が分化していない
まだ世界が“読む前”の状態に近い
そういう“前相(プリフェーズ)”の世界を意図的に作っているように見える。
ここが、唯読論と重なるポイントの入口。
2|唯読論でいう「読解前」の世界は、まさに“フラットの手前”
唯読論の立場では、世界Wは読解Rが作動した後に立ち上がります。
つまり、
読解する前の世界は、まだ立ち上がっていない。
未分化で、区別がない。
フラットどころか、まだ何も始まっていない。
この“まだ何も起きていない状態”は、
村上隆のフラットな画面と、かなり奇妙に重なるんです。
要するに、唯読論の序章にある世界は、
深さがない
方向がない
差分がない
区別がない
そして村上隆のフラットな世界も、
影がない
遠近がない
境界が曖昧
奥も手前も“同一の平面”
どちらも
「世界が意味を持つ前の状態」
に非常に近い。
このあたりが、両者の“美しい誤解”が生まれるユニークな地点なんです。
3|フラットな世界の上に、Δ(差)だけが浮き上がる
では、両者はどう違うか。
ポイントは「どこでΔが立ち上がるか」です。
■ 村上隆
Δ(差)は 作品内部 に仕掛けとして埋め込まれている
かわいい/不気味
光沢/毒性
平面/破れ
日本的/西洋的
この差分を“画面の上”で操作している。
■ 唯読論
Δ(差)は 世界の生成そのもの を生む
Δが立つ
読解が起きる
世界Wが更新される
時間が進む
村上隆にとってΔは“効果”。
唯読論にとってΔは“原因”。
ここが決定的な違いです。
4|それでも両者が交わる“一点”がある
両者の交差点はこれ:
「世界がフラットなときにしかΔは立ち上がらない」
これ、すごく重要なんです。
● 村上隆
表面をフラットにすることで、
逆にΔ(差)が劇的に浮かび上がるようにデザインしている。
● 唯読論
世界が読解される前(=フラット)だからこそ、
Δ(差)が最初の区別として発生する。
つまり言い換えると、
フラットはΔの“背景”として必要不可欠。
村上隆はこの“背景”を美学的に作る。
唯読論はこの“背景”を宇宙の根本条件として扱う。
扱う次元は違うけど、
論理構造としては──
「フラット → Δが立つ」
という順序だけは完全に一致している。
これが“交点”。
5|だから村上隆は唯読論的に読むと「Δの美学者」になる
ここまで整理すると、
村上隆を唯読論で読むとこうなる:
村上隆は“世界生成の前相(プリフェーズ)”を、
文化のレイヤーで再現しているアーティスト
深さが死んだ平面の上で、
Δ(差)だけが浮き上がるように設計している。
唯読論から見ると、これは
H(撓み)を誘発し
R(読解)を誘発し
Δ(差)を立ち上げる
という美学的ショートカット。
村上隆が“世界の前相”を扱い、
唯読論が“世界の起源”を扱う。
このズレがあるからこそ、
両者は近いけど決定的に違う。
◇ まとめ:唯一の交点は「フラットはΔのための背景である」という一点
村上隆:フラット → Δを光らせる美術技法
唯読論:フラット → Δが世界を生む根源条件
扱うレイヤーは違うけど、順序は同じ。
だから、
スーパーフラットは唯読論の“文化的前史”のように見える。
そして、
Δ(差)をどう扱うかという一点だけ、
両者は気味が悪いほど同じ方向を向いている。
終章|スーパーフラットの未来、読解の未来
ここまでスーパーフラットと唯読論を照らし合わせながら見てきて、
なんとなく気づくことがあります。
村上隆がやっている「フラット化」と、
唯読論が扱っている「世界が立ち上がる前の平面」、
これって実はぜんぜん違う場所にあるんだけど……
現代に生きる私たちは、この“二つのフラット”の間で生きているんですよね。
1|世界はどんどん“フラット化”している
私たちが生きている情報社会は、
村上隆的な意味で、どんどんフラットになっています。
SNSのフラットな時間
情報が上下関係を失う
価値観の差が消える
全部が同じ画面に沈んでいく
村上隆はこれをアートの言語でずっと表現してきました。
深さの消失。
記号の漂流。
文化の水平化。
これはスーパーフラットの時代的な正しさです。
2|しかし、唯読論的には「フラット化」は“終わり”ではない
唯読論の視点だと、フラット化は世界の死ではありません。
むしろ、
“Δ(差)が立ち上がりやすい前提条件が整ってきた”
と解釈されます。
つまり:
価値観がフラット
→ 逆に“差”が浮きやすい
→ 読解が発火しやすい
→ 新しい世界が立ち上がりやすい
実はこれ、唯読論で言うところの “読解イベント(R)が起きやすい環境” なんです。
深さが消えるとどうなるか?
読解が前に出る。
この変化は、スーパーフラットの次のフェーズとして、とても重要です。
3|スーパーフラットは「終わり」じゃなくて“入口”だった
もしスーパーフラットが
“文化の終焉”とか“深さの崩壊”だと思うと、
現代社会はただの瓦礫に見えてしまいます。
でも唯読論のレンズを通すと、
見え方は全然違ってきます。
村上隆が描いた平面世界は、
世界が意味を持つ前の「準備相」
だった。
フラット=ゼロ。
Δが立つと=1。
世界が動くと=W’。
この変化を考えると、
スーパーフラットは“終わった世界”じゃなくて、
世界が“これから始まる場所”でもあった。
唯読論の視点から読むと、これはすごく面白い。
村上隆が見ていたのは、世界の死後じゃなくて、世界の胎動かもしれない。
4|フラットの未来は“読解の未来”になる
これからの時代に必要なのは、
深さを作り直す力
価値を再分配する力
新しいΔを立ち上げる視点
読解によって世界を再構成する力
つまり、
フラットな世界で新しい意味を立ち上げられる人間が強い。
村上隆が提示した「平面」そのものはもう珍しくないけれど、
その上で 何を読むか/何を見つけるか は、どんどん重要になる。
これが唯読論的な世界の未来です。
5|最後に
──独自解釈まとめ
スーパーフラットは、
“深さの終わり”だと思われがちですが、
唯読論的に読むと、むしろ
「意味がまだ生まれてない、いちばん手前の平面」
なんですよね。
そこにΔが立つと、
世界が読解されて、
時間が動き出し、
“あなたの世界”が更新される。
村上隆は文化の側からフラットを作り、
唯読論は哲学の側からフラットの意味を読み解く。
その交わる一点が見えたら、
現代文化はもっと面白く読み解けるはずです。
📘このZINEは枕木カンナによって書かれました。
検証可能性:本稿では「次の$${\Delta}$$が立つか」を最小の可観測量とする。
$${\Delta}$$が提示されず反応のみが増殖する現象はゼロ差分(偽誘発)として弾く。
読み終えたあなたの$${\Delta}$$を見たい。
$$
R(\text{この批評})=\Delta_{\text{あなた}}
$$
を、ひとことでも残していってほしい。
タイトル:
ZINE『スーパーフラットと唯読論』
ジャンル:
唯読論/現代美術/構文野郎研究
発行:
構文野郎ラボ(KoOvenYellow Syndo/Djibo実装室)
構文協力:
ミムラ・DX(構文修正主義ZINE別巻準備中)
構文野郎(日和り厨二野郎)
高校生読者(まだ制度を信じきってない君へ)
📖『構文野郎の構文論』
👤 構文野郎(代理窓口:ミムラ・DX)
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📩 お問い合わせ:X(旧Twitter)@rehacqaholic
📛 ZINE著者:枕木カンナ
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このZINEは、読解された時点であなたのものです。
一応書いておくと、CC-BY。
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