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年間読書人さんからの反論(8)

年間読書人
2025年4月6日 10:46

> スロウ・ボートさん

8回目の「応答」となります。
よろしくお願いします。

〈第11号〉を拝読しました。

今回のご批判は、それ自体が、私が前回批判したスロウ・ボートさんの「レトリックによる印象操作」ということの本質を、わかりやすくそのまま体現したものとなっていると思います。

それが、特に「まえがき」ところに、よく現れていますね。

スロウ・ボートさんが、この「まえがき」でやりたかったのは、

(1)
> いろいろ、年間読書人さんは書かれていますが、読んでいると、もしかしたら「年間読書人さんは「被害妄想的な何か」に憑りつかれてしまった。」のかもしれない、とわたしは考えています。

(2)
> 年間読書人さんは表向きは他者からの承認欲求から自由であるかのように装い振る舞っていますが、内実では他者からの承認「いいね」を強く希求し、見解の説得力の拠り所にしている、とわたしは思います。年間読書人さんの根本的な自己矛盾/自己分裂が図らずも露呈する形になってしまった、とわたしは考えています。

なんてことを「無根拠」に書いて他人を誹謗しても、決して「謝罪することのない」スロウ・ボートさんと、間違いは間違いとして「謝罪した」私との大きな違いを、お得意のレトリックによって、「逆転」しようとする試みです。

> (1)事実関係の確認の不足により、事実に対する誤認をする。

これです。
そういうことに「したい」「しようとしている」ということ。

つまり、次のような理屈になっているわけです。

・年間読書人の「謝罪」は、形式だけで心がこもっていないものである。

・そもそも、そんな間違いは、私(スロウ・ボート)に事前に質問して「事実確認」をしておけば、防げたはずのものだ(※)。

・実際、私(スロウ・ボート)の場合は、「年間読書人は、千葉雅也の『センスの哲学』をぜんぶ読まずに、あのレビューを書いたのではないか」という指摘をしても、それは「推測」で物を言ったのではなく、「事実確認」の趣旨のものだったのであり、批判をするために必要な、段取りだったのだ。
つまり、私の場合は、当たり前に、するべき「事実確認」をしたのである(という、後づけの詭弁)。

・ところが、年間読書人は「事実確認の質問」をすることもなく、「推測」だけで、いい加減な批判をし、それが間違っていたとわかると、いい加減な「謝罪」で誤魔化そうとした。

・よって、年間読書人のやっていることは、すべて「論点ずらし」であり、それで「逃げ回る」ことでしかない。

と、こういうことですね。
それが、次の文章の本質です。

> 年間読書人さんが反論(6)の中で書かれた、「わたしと北村紗衣さんの関係性」の話は、千葉雅也さんの『センスの哲学』のレビューを巡る論戦とは、全く関係のないものです。これは、年間読書人さんが「千葉雅也さんの『センスの哲学』を巡る論戦」から逃げ回るために延々と行っている、無様で醜悪な〈論点ずらし〉の一環であることは、明白である、とわたしは考えています。
> 年間読書人さんが、今回行ったことは、必要な、しかも、簡単に行うことが出来る、単純な事実確認を行うことなく、ご自身の解釈を事実であるかのように、noteというSNS上で公開したことです。言わば「信号機が赤なのか青なのか、表示を確認することなく、車を交差点に進入させてしまう」ようなことだとわたしは思います。「事故/誤解」の発生は必然的とも言えます。>「単なる「解釈」の試みにすぎない」のではなく、「〈事故/誤解〉の発生を未然に防ぐことを(意図的に)怠った、(故意の)〈事故/誤解〉」である、とわたしは考えています。

この文章の中でも、特に『無様で醜悪な〈論点ずらし〉』というような表現が、いかにもスロウ・ボートさんらしい。

単に『論点ずらし』だと指摘するのではなく、わざわざ『無様で醜悪な』という「印象論」でしかない「形容詞」を付け加えることで、読者に一定のイメージを植え付けようとする「印象操作」の身振りです。

そして、このような、いかにも主観的な表現を用いる「根拠」は、上に続く部分で、次のような語られます。

> 年間読書人さんは、今回、わたしに「謝罪」されていますが、おそらく、これからも同じようなことを、誰かに対して行い、「事故/誤解」後に、「謝罪」を繰り返えされるのだろうと、わたしは思います。年間読書人さんの「謝罪」が形だけのものであり、そこに「反省」の欠片さえ見当たらない、とわたしは思うからです。当たり前のことですが、「謝罪」をしたからといって「事故/誤解が相手に与えた負の事柄」が消えてなくなるわけではありません。年間読書人さんは、〈「謝罪」をすれば、事足りる、という、傲慢で卑劣な考え〉を持っているとしか、わたしには思えません。「謝罪」しなければならないようなことを、行わない、という普通のことを、年間読書人さんはされるべきだ、とわたしは思います。

ここで注目すべきワードは、『おそらく』と『としか、わたしには思えません。』です。

で、文章の読めない人は、これでも、なんとなく説得されてしまうのかも知れません。
しかしこれこそが、スロウ・ボートさんの私への批判が、所詮は手前味噌な「推測」でしかなく、「事実」に基づいてなどいない、明らかに「主観によるものでしかない」いう事実を示す、証拠です。
ここには、スロウ・ボートさんがご自分で強調なさっていた「事実確認」など、まったく存在しないのです。

なぜ、あれだけアピールした「事実確認」が無いのか言えば、それは、相手に「それが事実か否か」を尋ねたところで、本当のことを答えてくれるという「保証」など無い、からです。
つまり、私(年間読書人)が可能な「事実確認」をしなかった、とか、自分(スロウ・ボート)は「事実確認」をしたのに、とかいう説明は、端的に「ペテン」です。

私に「あなたは『センスの哲学』をぜんぶ読んだのか?」と尋ねて、私が「読みました」と答えたところで、それが「事実」だという保証など、どこにも無い。
一一こんなものは「事実確認」とは言いませんし、「事実確認」にはなっていません。

同様に、私の「スロウ・ボートさんは、私とのやり取りの中で、北村紗衣の存在を知ったのだろう」という「解釈的な推測」ついて、仮に、私がスロウ・ボートさんに、事前に「スロウ・ボートさんは、私とのやり取りの中で、北村紗衣の存在を知ったのでしょう?」と質問したところで、それで「事実確認」ができるわけではない。
なぜなら、その質問に対して、スロウ・ボートさんが、正直に答えるという保証など、どこにも無いからですね。たとえ事実が私の指摘したとおりであったとしても、です。

実際、スロウ・ボートさんは、私の「推測」に対して、
一一それは事実ではない。事実は、私は、先に書肆侃侃房のnoteアカウントをフォローしていたので、たまたま内容的に興味のあった北村紗衣の記事にスキをしただけ。北村紗衣の存在自体は知っていたけれど、特に興味があったわけではない。だから、貴方(年間読書人)の記事を通して北村紗衣を知ったのだろうというのは、誤った推測です。一一
という趣旨のことを書かれました。
「説明する必要もないが」とか、精一杯もったいぶりながらも、結局はぜんぶ書いてしまうところが、いかにもスロウ・ボートさんらしいところです。

ともあれ、ここでスロウ・ボートさんの主張なさったことが、すべて「事実」である保証など、どこにもない。

確認できる「事実」とは、スロウ・ボートさんが、ずいぶん前に書肆侃侃房の「note」アカウントをフォローしていた、ということだけ、です。
つまり残りの部分は、単に、スロウ・ボートさんが、そうだと「説明」して、私の推測が「はずれていた」と主張しているだけなのです。

普通に考えて、私に批判されているスロウ・ボートさんの立場としては、私の「推測」を是認したくないから、できれば私の推測を否定するでしょう。
だから、これだって、たまたま書肆侃侃房の「note」アカウントをフォローしていたのを良いことに、北村紗衣の記事にスキを押したのも、私とは関係なく「たまたま」だったと主張しただけ、かも知れません。

つまり、その(後半の)部分での「事実」そのものは、スロウ・ボートさんの「内心の問題」なんだから、本当のことは、ご当人にしかわからない。

しかし、私としては、それが「事実かどうかは、あなたの内心の問題だから、その説明が、丸ごと事実だという保証はない」などと言い募っても、それ自体が「推測」にすぎないのだから、結局は、水掛け論になるだけだと判断しました。

また、前回書いたとおり、スロウ・ボートさんの説明が「事実である蓋然性は十分に高い」とも判断したので、意地になって言い募る「醜態」を晒すことなく、素直に謝罪したのです。

ですが、ご自身は、決して謝罪することのできないスロウ・ボートさんとしては、私のこの謝罪を、素直に受け入れることができませんでした。

なぜなら、それを認めてしまうと、彼我の差が明らかになってしまうからです。

したがって、スロウ・ボートさんは、私の「謝罪」を、心にもない形ばかりの謝罪でしかないと、そう決めつけることで、それを否定しようとしたわけです。

間違っていたと「思った」から、素直に「謝罪」しても、それに対して「それは口先だけだろう」と、主観的に決めつけることは容易です。

事実、そんな人は大勢いますよね。いくら謝罪しても「そんな口先だけの謝罪なんか認められない。もっと誠意のある謝罪をしろ」とか「誠意をかたちで示せ」とか、際限ない要求をして、可能なかぎり、相手から「むしり取ろう」とするような、クレイマータイプの人です。
そんな人は「相手の謝罪を認めて許したりしたら、損だ」としか考えないのです。

まただからこそ、自分が逆の立場に立った場合は、いくら自分が間違っていたと自覚していても、決して謝罪はしない。
日頃の自分の行いがそうだから、「謝罪したら損だ(負けだ)」としか考えられないのです。

いずれにしても、相手(他人)の「内心」などわかる(確認できる)はずもなく、所詮は、スロウ・ボートさんの「印象」と「(損得的な)都合」による「解釈」でしかあり得ません。
お得意の「事実確認」などできるわけもないからこそ、いつもは「事実確認」をせずに、ご都合主義的に、主観的に「決めつけて」いるだけなのです。

つまり、今回、スロウ・ボートさんが私に求めておられる「事実確認」などというものは、もともとできない(不可能な)もの、なのです。
だからこそ私は、「解釈的な推測」を語るしかなかった。

そして、そんなことくらいわかっているにもかかわらず、それをわかっていながら、スロウ・ボートさんは、それ(事実確認)が、さも出来る(可能である)ことのように言いつのり、自分は「事実確認」をしたが、年間読書人は「事実確認」をしなかったと、「自分がやってもしないことをやったと主張し、出来ないことを私に要求して見せることで、私が不誠実だと非難して見せている」のです。

つまりこれが、スロウ・ボート(歩く水のような人の形をしたもの)流の、「三百代言的な、レトリックによるペテン」だということです。

スロウ・ボートさんの、今回の「第11号」における、そのあとの「過去の整理」部分は、すべて、これまで長々と書いてきたものの「要約」にすぎません。
しかも、「要約」であるのをよいことに、私の発言に、お得意の「否定的形容詞」をベタベタと貼り付けて、「印象操作」によって貶めようとするものでしかない。

> 「千葉雅也さんの『センスの哲学』を巡る論戦」から逃げ回るために延々と行っている、無様で醜悪な〈論点ずらし〉

といったような「表現」が、まさにそれです。

私に言わせれば、「醜悪」なのは、そして「無様」なのは、どちらでしょうね? ということにしかなりません。

前回書いたとおり、スロウ・ボートさんが私に貼り付けようとしているイメージとは、他でもなく、すべてスロウ・ボートさんご自身のことでしかない。

> 年間読書人さんの推測が誤りであることは、『センスの哲学』が、一定数の支持を受け「売れた」という事実によって、明らかです。しかし、わたしが、ここで、年間読書人さんの推測を批判しているのは、推測が当たらなかったことに対してではなく、年間読書人さんの推測の根拠が誤った認識であること、に対して、である、とわたしは考えています。

ここでスロウ・ボートさんは『わたしが、ここで、年間読書人さんの推測を批判しているのは、推測が当たらなかったことに対してではなく』と断っているのは、しかし、事実としては、この批判の根拠が、所詮は「推測が当たらなかった」という結果によるもの(結果論)でしかない、からです。

なぜなら『年間読書人さんの推測の根拠が誤った認識であること、に対して、である』と言う時の「根拠」とは、スロウ・ボートさんが言うところの「事実確認」によって確認可能な「事実」でなければならなかったのに、という趣旨のものですが、それはそもそも、不可能な要求でしかない。「無理難題」ですらないんですね。「不可能事」なんです。

「内心の事実」は、他者からは確認不能だというのは、すでに書いたとおりです。

だから、例外的には、その「推測」が当たっていれば、素直に「当たっていますね」と認める人もいますが、ペテン師というものは、当たっていても、それを決して認めたりはしません。
だから、ペテン師の内心は、客観的には確認のしようがない。それがわかるのなら、警察も苦労はしないでしょう。

「おまえ、嘘をついているだろう?」
「いいえ、私は嘘なんかついていません。心から、そうだと思っていることを言っただけです(と私は思っています)」

と、そんなふうに答えるでしょう。
だからこそ、いくら当人に「質問」したところで、「事実確認」なんか出来るわけがないのです。

そして、その出来るわけのないことを、自分はしていると主張して恥じないところに、スロウ・ボートさんの本質がある。

ことほど左様に、スロウ・ボートさんの文章の本質は、私が第2回あたりで指摘した「三百代言的なレトリックによる印象操作」でしかありません。「論理(ロジック)」ではない。

だからこそ、前回も引用して紹介したように、

> わたしは今、極秘の作戦/オペレーション・ウィリアム・ブレイク・リヴァイアサン/Operation William Blake Leviathan/が進行中です。コードネーム:〈スロウ・ボート〉〈滑稽と惨劇に彩られた喜劇、あるいは、悲劇〉の予感に満ちた、現在という時間/2025の中、わたしの〈行わざるを得ないこと〉があります。騒めき犇めき喚く、わが内なるダークサイドたちよ!
> わたしの、千葉雅也の『センスの哲学』に対する擁護です。いろいろ思うところがあって、昨年/2024/12月の終わりから、このオペレーションを実行しています。わたしはいつもぼんやりしている人間なので、こういうことには全く向いていないのですが、わたしの内なるダークサイドの中で騒めくものたちがいます。このオペレーションはそれらのために行われています。
> 千葉雅也の『センスの哲学』はわたしの最も最近の記事で取りあげた本ですが、なぜ、この本を巡る論戦であるのかと言えば、偶然です。特別な意味はありません。また、論戦の相手の方にも、わたしは特別な感情を全く持っていません。単なる偶然に遭遇した方でしかありません。しかし、それらが、必然ではなく、偶然だとしても、何かしらの意味がかたち作られます。わたしの生の時間の中を、不定形と定形の意味の断片が、揺れ動いています。
> さて、わたしには複数の書き掛けの草稿が散在しています。2024を通過し、2025になっても、草稿が草稿のまま、わたしの中で浮遊しています。オペレーションの今後のスケジュールは未定ですが、オペレーションが終了しなければ、noteで、他の事柄を行うことが出来ないというわけではありません。空白の偶然の時間に、それは行われます。わたしには、果たさなければならない約束もあります。もちろん、忘れてはいません。約束は必ず守られるはずです。〈少しの時間〉、待っていて下さい。

・千葉雅也『センスの哲学』を巡る論戦 Operation William Blake Leviathan

https://note.com/waterwaves/n/n100099da6f13

なんて、過剰な「自己形容」も、恥ずかしげもなくやれるのです。

「ちょっと面白いことを考えているので、別アカウントでやる論争に、是非ご注目ください。」とでも書けばそれで済むことを、これだけ「大袈裟」に書いて、何やら「凄いこと」でもやっているかのように「見せかけようとする」のが、スロウ・ボートさんの「いつもの手」。

前回(7回目の応答)では、長くなるので、あえて指摘しませんでした、スロウ・ボートさんの前回(第10号)での、次のような「大袈裟」な書き方も、いかにもスロウ・ボートさんらしいものです。

> (5)〈名もなき未来の偉大なる芸術家たち〉のために〈偉大なる芸術家たち〉の作品を、「作者のプロフィール(肩書き)」を理由に、礼讃することを躊躇ってはいけない。

> 〈偉大なる芸術家たち〉の作品を前にすれば、「作者のプロフィール(肩書き)」など〈どうでもよいこと〉であるのは、明らかだ、とわたしは思います。〈名もなき未来の偉大なる芸術家たち〉のために、〈偉大なる芸術家たち〉の作品を、礼讃することを躊躇ってはいけない、とわたしは思います。

ここで言っているのは、次のような書き方のことです。

> サンドロ・ボッティチェッリ、ヒエロニムス・ボス、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ・ブオナローティ、ピーテル・ブリューゲル、ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ、ディエゴ・ベラスケス、レンブラント・ファン・レイン、ヨハネス・フェルメール、フランシスコ・デ・ゴヤ、ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー、ポール・セザンヌ、クロード・モネ、等々、美の天才たちとは、美の女神に選らばれし、美の女神に仕える美のための美の奴隷のことだった。美は人間を超えて存在していた。

偉大な先達を褒めるのは、大いに結構なことです。しかし、

> 〈名もなき未来の偉大なる芸術家たち〉のために、〈偉大なる芸術家たち〉の作品を、礼讃することを躊躇ってはいけない、とわたしは思います。

とは、どういう意味なのか?

こんな「列記式のひけらかし」が、「私はこんなにたくさんの芸術家の仕事を理解しているぞ」と言わんばかりの書き方が、人にも奨励するような書き方だということなんでしょうか?

そもそも、優れた先達というのは、画家だけではなく、いろんなジャンルにわたって、それこそ数えきれないほど存在するのだから、それをすべて列記することなど、物理的に不可能です。だから、これ見よがしに、並べ立てれば良いというわけではない。

したがって、そうした優れた先達に対する賛美や賛嘆も、「出来る時に、できる範囲で、適宜やれば良いだけ」であり、こんな「大袈裟」にやる必要など、まったくないし、とにかくレトリックのかぎりを尽くして、大袈裟に褒めればよいというものでもありません。

つまり、上のような「列記式」というのは、それが推奨されるべき正しいやり方などではなく、単に、スロウ・ボート流の「ひけらかし」にすぎない、ということです。

で、それを、スロウ・ボートさんは、臆面もなく自分で「こういうやり方が正しいんだ」とアピールしているだけなんですね。

機会をとらえて、ある時は「ボッティチェッリは、こうこうで素晴らしいですね」とか、別の機会には「ミケランジェロは、こうこうだから凄いですね」と書けばいいだけの話なのに、それでは「当たり前すぎて」、自分のアピール(自家宣伝)にはならないから、これ見よがしに、あれこれ全部ズラーッと並べ立てて見せて「どうだ凄いだろう」とやる。

その上、こうした自分流のやり方でしかないものを、自分で「こうやるのが正しいんだ。こうやるべきなんだ」と、臆面もなく他人にまで推奨してみせる。
一一これが、スロウ・ボート流なのです。

つまり、スロウ・ボートさんのやり方は、すでに何度も指摘しているとおりで、「言葉数による力押し」にすぎず、「ロジック」はほとんどありません。
だからこそ、スロウ・ボートさんの文章は、いつも必ず、無用に長い。
短く書いては、ロジックの無さがバレてしまうからです。

まただからこそ、ここはというところの書き方は、

(3)
> 年間読書人さんは、「作者のプロフィール(肩書き)」を一早く調べ上げ、「無名の人にやさしく、著名な人に強く」のポーズをとり「反/非〈権威主義的な思考〉」の持ち主であることをアピールし「孤高の勇者(ヒーロー)」の愉悦に浸り、満足する。年間読書人さんの行為は、何もかもが、「自分が気持ちよくなるための方便」でしかない、とわたしは思います。

といった、「印象論」による「印象操作」でしかないのです。
もちろん、事前に私に対して「あなたは、自分のことを孤高のヒーローだと思ってますか?」などという「事実確認」などしてこなかった。

それにしても、私がしていることが、

>「反/非〈権威主義的な思考〉」の持ち主であることをアピールし 「孤高の勇者(ヒーロー)」の愉悦に浸り、満足する。年間読書人さんの行為は、何もかもが、「自分が気持ちよくなるための方便」でしかない

のだとしたら、スロウ・ボートさんのしていることも、所詮は、

「博識」だというのを、有名芸術家を列記式で賛嘆したり、あれもこれも書き並べることでアピールし「在野の芸術理解者」だとのナルシスティックな愉悦に浸り、満足する。スロウ・ボートさんの行為は、何もかもが、「自分が気持ちよくなるための方便」でしかない

と、そう考えることが、なぜ出来ないのでしょうか?

それは無論、スロウ・ボートさんにとっては「事実」が問題なのではなく、他人に、ご大層なイメージを「刷り込む」ことが重要であり、いつでもそれが、目的だからだし、それが「文体」にもハッキリと表れている。

だからこそ、スロウ・ボートさんには、闊達な議論ということができない。

読書家なら、よく知っている事実ですが、優れた思想家や哲学者や文学者、あるいは芸術家は、自分の考えを伝えるのに、わざわざ、スロウ・ボートさんのような、無駄に煩わしいレトリックなんか使いません。
そうした人たちの方が、スロウ・ボートさんの文章よりも、よほど「普通」です。
書かれている内容は難しいとしても、わざわざ「無駄に飾り立てた、読むのに面倒な文体」で書いたりはしない。

もちろん、ジャック・デリダのような例外もいて、彼の場合は、ポストモダン式に、それまでのロジックの形式を「ズラす」ことを目的としたものだったりはするんですが、一一では、スロウ・ボートさんの場合も、デリダ式に、優れて例外的なものなのでしょうか?

もし、それほどのものなのであれば、スロウ・ボートさんが、哲学や文学方面の人から注目されていない現実は、まったく不当なものであり、アキメクラばかりかと言いたくなるところです。

しかし、世の中には、スロウ・ボートさんが列記式で賛嘆する優れた人たちが大勢いるはずなのに、どうして誰も、スロウ・ボートさんをもっと評価し、褒め称えないのか?

それこそ、スロウ・ボートさんが書いておられるとおり、そうした人たちも、

> 〈名もなき未来の偉大なる芸術家たち〉のために、〈偉大なる芸術家たち〉の作品を、礼讃することを躊躇ってはいけない

とは考えないのか?
スロウ・ボートさんが褒め称える人々とは、その程度の、物の見えていない人たち揃いなのか?

それとも、スロウ・ボートさんのことを、そこまで褒めるほどの人物だとは思わないから、あえて褒めたりはしないだけなのか?

スロウ・ボートさんが、これだけ一所懸命に褒めても、それを高く評価する人が現れないのは、なぜか?

その事実が示すのは、スロウ・ボートさんを褒めない人たちには「見る目がない」ということなのか?
それとも、見る目があるからこそ、褒めないのか?

スロウ・ボートさんの、列記式あるいは「総ざらい」式のペダントリー(衒学)が、肯定的に評価できるものなのであれば、その大変な労力に対してだって、もっと褒める人がいてもおかしくないのに、どうしてスロウ・ボートさん自身の「note」におけるフォロー数を超えるような評価を寄せられることは、絶えて無いのか?

それは、多くの人が、スロウ・ボートさんの文章を「なんだか凄いけど、訳がわからないな」とか「最後まで読む気にもならないな」という程度の評価しか、していないからではないのか?

実際、スロウ・ボートの長々とした、大袈裟で知識のひけらかし的な文章を読むくらいなら、私なら、それぞれの専門家の本を読みますが、実際そのように考えている人が多いのではないでしょうか。
スロウ・ボートさんの文章を読むよりも、スロウ・ボートさんが褒めている一流の人の文章を読む方が有意義であるし、限られた時間の有意義な使い方であると、そう考える人が、当たり前に多い、ということなのではないのか。

私自身の文章も、「note」記事としては十分に長くて、「最後まで読んでくれる人は少ないだろうな。読んでくれたなら、それだけでありがたいことだ」と思っているのだけれど、そんな私の文章の何倍にもなる、しかも「繰り返しの多い」スロウ・ボートさんの文章を、最後まで読んでいる人が、いったいどれだけいるのでしょう?

スロウ・ボートさんが、

> わたしは今、極秘の作戦/オペレーション・ウィリアム・ブレイク・リヴァイアサン/Operation William Blake Leviathan/が進行中です。コードネーム:〈スロウ・ボート〉〈滑稽と惨劇に彩られた喜劇、あるいは、悲劇〉の予感に満ちた、現在という時間/2025の中、わたしの〈行わざるを得ないこと〉があります。騒めき犇めき喚く、わが内なるダークサイドたちよ!

なんて調子で、ご自分でアピールなさっているほど、それが素晴らしいものなら、ずいぶんもったいない話ですが、それを読まないという判断は、果たして間違っているのでしょうか?

まあ、そのあたりは、私とスロウ・ボートさんの論争をお読みになっている皆さん個々の、良識的判断による「理解・解釈」にお任せするしかありません。

所詮、他人の考えていることを、「事実確認」できるわけなどないのですから。

年間読書人

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