年間読書人さんからの反論(6)
年間読書人
2025年3月9日 07:13
> スロウ・ボートさん
6回目の「応答」となります。
よろしくお願いします。
〈第9号〉を拝読しました。
今回は、私の「反論(5回目)」について、いろいろ書かれていますが、大筋は、私のいくつかの問いに対する、ご回答だと理解しました。
まず、スロウのボートさんが、
>>> いろいろ、年間読書人さんは書かれていますが、読んでいると、もしかしたら「年間読書人さんは「被害妄想的な何か」に憑りつかれてしまった。」のかもしれない、とわたしは考えています。
と書かれていたことに対し、私が、
>> 私(※ 年間読書人)が「被害妄想的な何か」に憑かれているのではないか、とそう書かれていますが、その根拠がまったく示されておりませんので、事実に即して、具体的にご説明ください。
と質問し、スロウ・ボートさんは、次のように回答します。
> わたしがここで言っている「被害妄想的な何か」とは「自分が他人から攻撃され被害を受けていると、強く確信された、誤った、変更が困難な考え(のようなもの)」という意味である、とわたしは考えています。あらためていうまでもありませんが、わたしは医師ではありませんから、当然、「医師として、医学的に、「年間読書人さんには被害妄想がある。」と診断を下した。」のではありません。とわたしは考えています。あくまでも一般の人のひとりであるわたしが、或る事態に出会い、その事態に「自分が他人から攻撃され被害を受けていると、強く確信された、誤った、変更が困難な考え/認識(のようなもの)」を見出し、その事態を「被害妄想的な何か」と表現した、ということである、とわたしは考えています。
つまり、他人について、
> 「被害妄想的な何か」に憑りつかれてしまった。」のかもしれない
と、そう評した根拠は、そういう印象を受けた、ということでしかない、ということですよね? その印象を、そのまんま書いただけだと。
要は、具体的な根拠は無い。
だから、具体的な根拠を示せない。
その一方、スロウ・ボートさんは、
>> 年間読書人さんは表向きは他者からの承認欲求から自由であるかのように装い振る舞っていますが、内実では他者からの承認「いいね」を強く希求し、見解の説得力の拠り所にしている、とわたしは思います。年間読書人さんの根本的な自己矛盾/自己分裂が図らずも露呈する形になってしまった、とわたしは考えています。
と書いたことについて、私が、スロウ・ボートさんがご自身こそが、
> 表向きは他者からの承認欲求から自由であるかのように装い振る舞っていますが、内実では他者からの承認「いいね」を強く希求し、見解の説得力の拠り所にしている
から、それを他人に投影して、無根拠な「邪推」をしたのではないか、と問いました。
また、無根拠であっても、あえてそれを書くことで、読者に対する、印象操作をしているのではないのかと、そうも問いました。
これに対して、スロウ・ボートさん前回、自分にも承認要求はあるが、自分はそれをコントロールしている(出来ている)と、そのように説明されていました。
しかし、自意識をコントロール出来ている人が、他人を公に「被害妄想的な何かに憑かれてるのではないか」とか「いいねに依存しているのではないか」などと、根拠も示さずに書いても、平気だとおっしゃる。
これは、なかなか驚くべき自己認識です。
これに対して私は、しかし「コントロールできている」と主張すること自体が、そもそも無理のある「強弁」でしかないと、そう批判しました。
事実、スロウ・ボートさんの本来のアカウントである「歩く水のような人の形をしたもの」の方では、世間ウケの良い褒め批評ばかりで、そうした世間迎合的文章によって、自分も世間から評価されたいと考えてやっているとしか見えないと、そう批判しました。
そして、そうではないという実践の証拠があるのか? と問いました。
その回答が、下のものです。
> わたしの作品についての感想のnoteの記事の、多く(いや、ほとんどすべて)「何と、素晴らしいのだろう!」といった肯定的な内容のものである、とわたしは考えています。
さて、ここで、明確に言っておきますが、わたしの感想のnoteの記事が肯定的な内容であることは、わたしが、そうなるように、意図的に慎重に選別した結果であり、それには確固とした理由がある、とわたしは考えます。
> 理由とは、noteの記事の読者の方が、仮に、わたしの作品への否定的な感想に影響され、作品を手に取ることを、結果として、止めてしまうことなるかもしれないという危険性/可能性の回避のため、である、とわたしは考えています。つまり、わたしの見立てでしかない、わたしの否定的な感想が、他の人と作品との遭遇の機会を失くしてしまう危険性/可能性を、避けたい、とわたしが考えているからです。わたしの記事に影響力があるとは思ってはいませんが、Amazonのレビューの経験から、危険性/可能性はゼロではない、とわたしは思っています。
> わたしに於いては「酷いもの、あるいは、どうにもならないもの」が、他の人には「大切な何か」である可能性は十分にある、とわたしは思っています。わたしが「酷い」と思うことと、わたしが「これは酷い」と他の人に伝えることは、切り離すべき、であるとわたしは考えています。 「駄作を駄作と言って何が悪い!」と、不特定多数の人々の前で言い切るという愚かなことを行うほど、わたしは思い上がってはいません。
まず、確認すべきは、スロウ・ボートさん自身が、
> わたしの作品についての感想のnoteの記事の、多く(いや、ほとんどすべて)「何と、素晴らしいのだろう!」といった肯定的な内容のものである
という「事実」を認めている、ということです。
しかしそのあとで、いつもの如く、しかしそれは「ウケ狙い」とは「別の意図」があって、やっていることだという、「主観」の提示による「釈明」が続きます。曰く、
> わたしに於いては「酷いもの、あるいは、どうにもならないもの」が、他の人には「大切な何か」である可能性は十分にある、とわたしは思っています。わたしが「酷い」と思うことと、わたしが「これは酷い」と他の人に伝えることは、切り離すべき、であるとわたしは考えています。
つまり、スロウ・ボートさんは、他人に自分の「主観」を押しつけて傷つけてたくないから、そうしたものは意図的に避けて書かないのだと、自身の「他者への気遣い」を語っています。
そんな「気遣い」のできる人間なんだ、とのアピールです。
したがって、他人の行いが「被害妄想的な何かに憑かれてるのではないか」とか「いいねに依存しているのではないか」などと思っても、その人にとっては、そうではないのかも知れないと考えて、あえてそのようなことは不特定多数の前で書いたりはしない、自制している人間だ、そのように「自分で自分を解説」なさっている。
しかし、端的な言えば、これは、いつもの如く、他人にはその真偽を窺い知ることの、スロウ・ボートさん個人の「内面の問題」であり「自己解説」でしかありません。
つまり、それが現実に実行できているか否かは別にして、本心からの言葉なのか、嘘なのかは、他人には確かめようがない。
ただし、こんな一方通行な理屈が通るのなら、世の中に山ほどいる「提灯持ち評論家」たちは、「私がいつも書いている褒め批評は、ウケを狙ったものではなく、スロウ・ボート氏と同じ意図から出たものだ。だから提灯持ちではない」と否定することができるでしょう。
また、それを真に受けなくてはならなくなるでしょう。
https://note.com/nenkandokusyojin/n/n99d01cc0637f
しかしながら、否定(否認)することと、その否定(否認)の理由が事実であることとは、話が別です。
例えば、犯罪者は、実際に犯行を行なっていても、そう認めることが、自分に不利になると思えば、しばしば嘘をつきます。
「犯意は無かった」と否認し、例えば「故殺」を「過失致死」か「事故」だと主張します。
したがって、問題は、その「内面の真実」とやらが、本当に「内面の真実」なのか「内面の真実を装った嘘」なのか、ということになります。
そこで、上のスロウ・ボートさんの主張を、「内面の真実を装った嘘」だと疑うに足る理由が、次の矛盾です。
スロウ・ボートさんは、
> わたしに於いては「酷いもの、あるいは、どうにもならないもの」が、他の人には「大切な何か」である可能性は十分にある、とわたしは思っています。わたしが「酷い」と思うことと、わたしが「これは酷い」と他の人に伝えることは、切り離すべき、であるとわたしは考えています。
とか
> 従って、わたしは作品についての感想をnoteに記事として書く場合、「世間の評価」の良し悪しは別のこととして、否定的な内容であることを意識的に抑制している、とわたしは考えています。誤解を招かないように鮮明にさせておきますが、わたしが出会った作品の中には、「酷い」と思うものが多々あります。しかし、だからといって、わたしはそのことをnoteの記事として書いて公開しないようにしている、だけである、とわたしは考えています。
と、いかにもご立派な主張をなさるその一方で、自ら「否定批判的な文章も書いている」とも主張している、その明らかな「矛盾」です。
つまり、
> (5)わたしの幾つかの、作品への「強く厳しい否定/批判」のnoteの記事
として、幾つも実例を挙げ、実際には、「否定批判的な文章も書いている」と認めておられる。
前には、
> わたしに於いては「酷いもの、あるいは、どうにもならないもの」が、他の人には「大切な何か」である可能性は十分にある
から、否定・批判的な文章は抑制していると言っておきながら、どうして、こうしたいくつかの場合は、「例外」に出来るのでしょうか?
これらの批判文で扱った作品についても、『他の人には「大切な何か」である可能性は十分にある』から、否定・批判的な文章はひかえようとは、どうして思わなかったのでしょう?
その時だけ、絶対に自分の認識・判断が正しいという、「主観ではない、客観的な根拠」があった、とでもいうことなのでしょうか?
しかし、現実には、それらの作品の評価も分かれているし、褒めている人も大勢います。なのに、そんな彼らの「大切な何か」への配慮は、どうして必要なかったのか?
言い換えれば、スロウ・ボートさんは、平素はいつも「主観」だけで褒めているからこそ、否定・批判的な文章は避けたということなのか?
事実、ここでの議論も、いつでも「私はこうだ」という主観だけです。
結局のところ、スロウ・ボートさんのご意見というのは、すべて「私はそう思った」という主張でしかない。
しかしまた、それはそれでもいいのに、それをどうして、文章化をひかえるべき場合と、そのまま出す場合に、二分出来るのでしょうか?
その判断は、結構のところ「自分の主観的な都合」でしかなく、「他人の大切な何かへの配慮」などではない、ということなのではないでしょうか?
結局、スロウ・ボートさんのおっしゃる「つもり」は、いつでもご自分に都合良い「自己正当化の言い訳」でしかなく、現実(実践)が伴っていません。
いつも褒めるのは「他人への配慮」で、たまに批判するのは、
> わたしのnoteの記事はすべてが、根源的に「〈現実〉への、わたしなりの「強く厳しい抵抗」」であるとわたしは思っています。不作為に、幾つかを(※ 否定・批判的な文章を)紹介したいと思います。
(※ は、年間読書人による補足)
つまり、自分の『根源的に「〈現実〉への、わたしなりの「強く厳しい抵抗」」である』と思っている、そう「主観」されているから、その場合は、否定・批判的な文章も「書く」のだとしたら、それは単なる「ダブルスタンダード」でしょう。
そして、いつでもこんな調子だから、私はスロウ・ボートさんを「三百代言」的だと言うのです。
古い表現ですが、もう少しわかりやすく言えば「ああ言えば上祐(史浩)」みたいな屁理屈です。
笠井潔がかつて、柄谷行人との対談で「昔、新左翼セクトの仲間の前で〈理屈なら、どうとでもつけられる〉と軽口をたたいて顰蹙を買った」という自慢話をしていましたが、実際「白を黒に言いくるめる理屈」というのは、いくらでも存在します。それが自慢の人もいます。
笠井潔のように、ぽろっと本音を漏らしたりはしなくても。
「多弁で白を黒に言いくるめる」というのは、詐欺師の口上がその典型的なものですが、しかしながら、そうした嘘を確信犯的に口にする人に対して、「嘘をつくな。貴方の本音はそうではないだろう?」といくらと問うても、「はい。本音は、そうではありません」などと正直に言うはずもない。確信犯的な嘘つきだからこそ、「いや、これが本音だ」と強弁するものなのです。
また、事実を認めたら、自分が損するから否認するのであって、「心からそう思っているから、そうで主張する」というわけではない。人は、よく嘘をつきますが、嘘つきほど嘘はつかないと強弁する。
例えば、上の、
> 不作為に、幾つかを紹介したいと思います。
と言うのだって、実際には「不作為(無作為)」ではなく、自分で、作為を持って「選んだ」はずです。
目を瞑って、えいやっ!と指差して選んだような「無作為」なら、圧倒的に多い「褒め文章」の方に当たる確率が高いというのは、分かりきった話です。
でも、現実には、そうなっていない。
つまり「不作為(無作為)」なんていうのは、レトリックであり、ていの良い「嘘」です。
このように、当人に都合の良い「内面の真実」の一方的なアピールというのは、客観的には、意味がない。
説明にはなっていないのです。「そんなつもりはなかった」「こういうつもりだった」で済むのなら、誰も苦労しません。
だからこそ、大切なのは「客観的根拠」と「論理的整合性」なのですが、スロウ・ボートさんの「主張」は、いつでも「私はこう考えています」「私はこうなんです」という「強弁」ばかり。
しかも、前記のような「ダブルスタンダード」まで登場するのですが、たぶん、それについても、スロウ・ボートさんなら「ダブルスタンダードだとは思いません」で終わりでしょう。
しかし、これでは議論にならない。
例えば「天国は存在する」と言う人に、客観的な根拠を求めても「私は天国が存在すると確信しています」「私には天国が見えてます」「それが証拠です」といった回答しか返ってこないのなら、議論にならないことは明白です。
スロウ・ボートさんの議論も、基本的にはすべて「この類い」であり、「主観的な否認」あるいは「主観的な自己主張」でしかない。
だからこそ、
(1)
> いろいろ、年間読書人さんは書かれていますが、読んでいると、もしかしたら「年間読書人さんは「被害妄想的な何か」に憑りつかれてしまった。」のかもしれない、とわたしは考えています。
(2)
> 年間読書人さんは表向きは他者からの承認欲求から自由であるかのように装い振る舞っていますが、内実では他者からの承認「いいね」を強く希求し、見解の説得力の拠り所にしている、とわたしは思います。年間読書人さんの根本的な自己矛盾/自己分裂が図らずも露呈する形になってしまった、とわたしは考えています。
などという「主観」だけを論拠にした「印象操作」も行えるし、それを自己正当化することもできる。
「そのつもりはなかった」「私はそう考えた」で済ましてしまえる人だからです。
なぜ、スロウ・ボートさんの文章は、あのように、やたら長くて、やたら思わせぶりなのか。
それは、前にも指摘したとおりで、「催眠商法の会場」と同様、読者を巻き込む、理屈以前の「場の雰囲気」を作るためです。
シンプルな説明では、その骨格が出鱈目なのがバレてしまうので、ゴテゴテした飾りつけで、目眩しをする。
それが、以前に喩えた『黒死館殺人事件』の名探偵・法水麟太郎の「衒学推理」と同じだ、ということです。
実際には、あり得ないことでも、ありそうな気分にさせてしまうテクニック(レトリック)。
違う例えで言えば、「ロシア正教の教会の荘厳な内装」と同じ。あれで、その気にさせられる人は多い。天国を見た気になるんですね。
スロウ・ボートさんの文章も、それと同じだということです。理屈じゃなくて、過剰なレトリック。
ここでの議論(やりとり)をざっとでも追ってくださっている読者の方なら、すでにスロウ・ボートさんの、そうした「書き手としての特質」に、すでにお気づきでしょう。
スロウ・ボートさんは、
> 「駄作を駄作と言って何が悪い!」と、不特定多数の人々の前で言い切るという愚かなことを行うほど、わたしは思い上がってはいません。
と書いて、さも私が「思い上がって」おり、ご自分の方はそうではない、かのように「自己美化」しておられます。
しかし、自分で自分を「思い上がっていない」つまり「謙虚だ」と、人前で主張できる人が、果たして「思い上がっていない=謙虚」だなどと言えるでしょうか?
普通、謙虚な人は、自分の「思い上がり」をこそ認めて、自戒するのではないでしょうか?
> わたしは思い上がってはいません。
と、自分で「断言」できる人というのは、よほど「思い上がっている」か、あるいは「確信犯的な嘘つき」しかいないと、私は思います。
私は昔から、自作の格言として、
「本を読むほどの人なら、誰しも、自分は賢いと思っているものだ」
という言葉を、何度も紹介しています。
これを、より正確に言えば、
「本を読むほどの人なら、(たとえそれが、仮にマンガだけだとしても)誰しも、自分は賢いと思っているものだ(そう露骨に口にはしなくても)」
ということになります。
当然これは「私もその一人だ」という意味ですが、スロウ・ボートさんは、
> わたしは思い上がってはいません。
と、不特定多数の前で公然と語れる人なのだから、ご自分は、この格言には当てはまらない「例外」だとおっしゃるのでしょう。
それともまた「じつは自分もそうだ」とお認めになるのでしょうか? ぜんぶ自分自身の話だ、と。
ともあれ、「私は自分を賢いと思っている。誰もがそう思いがちなようにね」と主張する者と、スロウ・ボートさんのように、
> わたしは思い上がってはいません。
と断言できる人では、はたしてどちらが「謙虚」なのでしょうか?
「駄作を駄作と言って何が悪い!」「悪は悪だ」「批判すべきものは批判すべきだ」と考えない人など、いるでしょうか?
そうした判断を人前でいっさい口にしないなんて人がいるでしょうか?
時に、判断を違えることがあっても、です。
そのような「自己の判断に対する信頼」無くして、そもそも人は生きていけるのでしょうか?
ましてそんな人が、「批評文」を書くなどという烏滸がましいことが、はたして出来るものなのでしょうか?
> わたしは思い上がってはいません。
と言っていれば、それでその人は「思い上がっていない」ということになるのでしょうか?
だとすれば、厚かましく「言った者勝ち」だということにはならないでしょうか?
> わたしは思い上がってはいません。
これは、ちょっとやそっとの神経で言える言葉ではないと、私は思います。
○ ○ ○
ちなみに、
> わたし(※ スロウ・ボート)が「芥川賞候補作家を追認して」『センスの哲学』と『エレクトリック』を評価しているわけではないことは
『エレクトリック』が「芥川賞候補」になる前に褒めていたという事実によって否定される、というのは認めましょう。
しかし、それがそのまま「権威主義的な評価ではなかった」ということにはならない。
なぜなら、『センスの哲学』や『エレクトリック』は、千葉雅也が、世間で十分に評価された後に刊行されたり、発表された作品であり、「無名の著書の作品」ではなく、「人気作家・千葉雅也」のそれに間違いないからです。
○ ○ ○
それと、
> (3)「たったひとつの「いいね」に救われた」ことの支持表明としての「宮内悠介のSF短編集 『暗号の子』 のレビューへの前回の反論(年間読書人さんからの反論(4))のリンク、の件
>
> わたしは、わたし宛てにリンクについての通知が届き、年間読書人さんのレビューの記事を開き、リンクを確認していますが、「ざっと斜めに目を通した」だけで、宮内悠介のSF短編集 『暗号の子』 のレビューの記事は引用文を含め、全く、読んでいません。従って「(レビューを)無視するも、無視しないも、何もない」とわたしは考えています。読んでいないのですから。
本当にそうでしょうか?
こちらでの議論に関係ある内容だから、わざわざリンクを張って通知が行くようにしたのに、それを読んでいない?
それほど、スロウ・ボートさんは、私の文章に興味がないにもかかわらず、「年間読書人さんはこんなことを書いて自慢している」などという文章を、よくも見つけてきたものです。
あれは、たまたまだったのでしょうか? それとも、一所懸命に探されたのでしょうか?
例えば、スロウ・ボートさんは、私が批判している北村紗衣の、ネット連載エッセイ、
・【素面のダブリン市民】第11回 ショーン・オケイシー『銀杯』に出てくる「フットボール」とは?(北村紗衣)
https://note.com/kankanbou_e/n/n285db6b2726b
に、「別名義」の方で「スキ」を押しておられますが、これは「偶然」なのでしょうか?
スロウ・ボートさんは、私と議論をする前から、北村紗衣を知っていて、そのネットエッセイまでチェックし、わざわざそれに「スキ」を押すほど高く評価していたと、そうおっしゃるのでしょうか?
それとも、私の記事を見て、北村紗衣に興味を持ち、それで北村紗衣のネット記事まで読んで、さらに「スキ」まで押したのでしょうか?
普通に考えれば、後者だと思いますが、しかしそこまで私の書くもの、そして私の批判対象までチェックしている人なのなら、わざわざリンクを張って通知がいくようにしたもの方を、まともに読まないというのは、いかにもアンバランスであり、無理のある話なのではないでしょうか。
それとも、関係のあるものでも、読みたくないものは読まない(見たくないものは見ない=故意に無視する)、ということだったのでしょうか?
まあ、これも「たまたま北村紗衣に興味を持っていただけで、年間読書人とは関係ない」と言い張ることはできるでしょう。
しかし、そんな無理な「自己申告」を、誰が信じるんでしょうね?
年間読書人
年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」
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