見出し画像

年間読書人さんからの反論(3)

年間読書人
2025年1月26日 00:02

> スロウ・ボートさま

3回目の「反論」となります。
どうぞ、よろしく。

貴兄の〈第6号〉、ざっと拝見しました。

>今回は前回と異なり、コンパクトな記事にしました

とのことでしたが、私にとっては、十分長いものであり、失礼ながら、いささか焦点の定まらない文章だと感じられました。

無論、感じ方は人それぞれですから、ご自身で主張なさっている通りに、御文が論理的でわかりやすい文章になっていると感じる読者も、当然いるでしょう。
私と貴兄のどちらが「当たり前の感覚」なのか、それは、読者それぞれが決めれば良いことだと考えます。

それにしても今回は、

> いろいろ、年間読書人さんは書かれていますが、読んでいると、もしかしたら「年間読書人さんは「被害妄想的な何か」に憑りつかれてしまった。」のかもしれない、とわたしは考えています。

とか、

> 年間読書人さんは表向きは他者からの承認欲求から自由であるかのように装い振る舞っていますが、内実では他者からの承認「いいね」を強く希求し、見解の説得力の拠り所にしている、とわたしは思います。年間読書人さんの根本的な自己矛盾/自己分裂が図らずも露呈する形になってしまった、とわたしは考えています。

と、なかなか「挑発的なご指摘」もありましたが、これも、私と貴兄のどちらが、『「被害妄想的な何か」に憑りつかれてしまった』のか、どちらが『承認欲求から自由であるかのように装い振る舞っていますが、内実では他者からの承認「いいね」を強く希求し、見解の説得力の拠り所にしている』のかも、読者個々が判断すれば良いでしょう。

夢野久作の『ドグラ・マグラ』ではありませんが、狂人が「私は正気だ」と、いくら言い募っても、意味はないですからね(笑)。

今回の〈第6号〉で、面白いと思ったのは、次の2つの部分の対比です。

(1)
> 表現する者であれば、誰のでもその方のスタイル/文体があり、わたしにはわたしの表現のスタイル/文体がある、とわたしは思っています。わたしのスタイル/文体は、万人受けするものとして作られものではなく、わたしの思考を純化させ鮮明にする目的のための作られたスタイル/文体である、とわたしは考えています。
そして、わたしの文章のスタイル/文体はわたしが決めることである、とわたしは考えています。
とは言っても、ここは議論の場であり、自分の表現のスタイルを貫く場ではありませんから、バランスを取ることが必要だ、とわたしは考えています。

(2)
> 複数の内容が含まれている「ずらずら」と書かれた年間読書人さんの文章を、内容別に章として区切ることは、前後の文脈から可能である、とわたしは思っています。しかし、わたしの章分けが、年間読書人さんの考えている通りのものなのかは、不明である、とわたしは思います。
そこで、年間読書人さんに、項目別なり論点別なりの「(1)***について(2)***について、、、」といった形の簡単なタイトルを付けて、章を設けて、文章を書いていただけないでしょうか? とお願いしたい、とわたしは思います。

つまり、(1)の方では、記述スタイルは、本人が選ぶべきものだと、そう主張された上で、しかし、この議論の場では『バランスを取ることが必要』だとも、書かれている。
一方、(2)の方では、貴兄の記述スタイルに合わせて、私に記述スタイルを変えろとおっしゃっている。

問題は、これが、バランスの取れた主張なり要望なのか、ということです。

例えば、私は前回の反論(第2回)の最後のところで、貴兄に、

> あと、前にもお願いしましたが、せっかく論争をやっているのですから、(※「歩く水のような人の形をしたもの」名義アカウント)の方に、シンプルに「論争やってますので、ご覧ください」という、ここへのリンク付きの告知記事を出して下さい。

と要望したところ、貴兄が書かれたのが、

・千葉雅也『センスの哲学』を巡る論戦 Operation William Blake Leviathan
(https://note.com/waterwaves/n/n100099da6f13)

でした。

しかし、この「告知文」を見て私が感じたのは、ずいぶん「自家宣伝」的だなあ、ということでした。それは冒頭の、

> わたしは今、極秘の作戦/オペレーション・ウィリアム・ブレイク・リヴァイアサン/Operation William Blake Leviathan/が進行中です。コードネーム:〈スロウ・ボート〉〈滑稽と惨劇に彩られた喜劇、あるいは、悲劇〉の予感に満ちた、現在という時間/2025の中、わたしの〈行わざるを得ないこと〉があります。騒めき犇めき喚く、わが内なるダークサイドたちよ!

という部分に、すでに明らかでしょう。
私が、

> シンプルに「論争やってますので、ご覧ください」という、ここへのリンク付きの告知記事を出して下さい。

と、あえて「シンプルに」と書いたのは、論争本文を読もうとする人に「予断」を与えない(事前の印象の刷り込みを避ける)ためには、そうする必要があると考えたからです。
一一しかし、貴兄の書かれた「告知文」は、残念ながら、その真逆と言って良いものでした。

先にも引用したとおり、貴兄自身『 表現する者であれば、誰のでもその方のスタイル/文体があり、わたしにはわたしの表現のスタイル/文体がある、とわたしは思っています。』と書いておられます。
しかし、私がここに書いている「反論」が、私の「いつものスタイル」なのかと言えば、当然、そうではありません。

と言うのも、何度も書いておりますとおり、私の反論は、一投稿の字数制限がある「コメント欄」に、細切れにして投稿しなければならないものですから、おのずと貴兄のように、好きなだけ、好きなように書く、というわけにはいきません。
私の日頃のレビューと、こちらへの反論を見比べていただければ、私がいかに不自由な思いをしているかは、すでにお分かりのはずです。

つまり、私は私のスタイルで書けない、物理的な制約下で反論しなければならない、という「ハンデ」が課せられているわけです。

貴兄は、そのことを気に留めた様子もなく、かの「告知文」でも、ご自分のアピールしたいことだけを、自由にアピールなさっていた。
一一こうした態度は、果たして、論理的に正しいものなのか? フェアだと言えるものなのでしょうか?

昔、本多勝一とイザヤ・ペンダサンが、誌上論争をやった際、その舞台は、たしかペンダサン側の「文春」で、それが同社から本になった際には、両者の字組に差がつけられ、しかもカットにも恣意的な差がつけられていたので、本多がこれを「フェアではない。印象操作だ」と批判していました。そして、私は「そのとおりだ」と思いました。

また、小林よしのりが『ゴーマニズム宣言』などの批評マンガで、自身の論敵の似顔絵を、ことさら悪党ヅラに描いて「印象操作」を行なっているという批判を読んだことあります。それは、私が見た範囲では事実でした。

このような事例において、しかし、イザヤ・ペンダサンであれ、小林よしのりであれ、故意に「印象操作」をしたとは、認めていないのですが、はたして、そういう当事者申告を、鵜呑みに出来るものなのでしょうか?
「たしかに殺しはしたが、殺意はなかった」という、よくある被疑者の供述は、鵜呑みにしての良いものなのか?

> 印象操作とは「他者の何かに対する印象を、誰かにとって都合の良いものになるように、誰かが情報の出し方や内容を操作すること。」であり、わたしが年間読書人さんの文章に対して行った行為は「文章を批評的に、批判的に読む。」ことであり、印象操作には該当しない、とわたしは考えています。

とのことですが、これは、イザヤ・ペンダサンや小林よしのりの、主観的な「言い訳」以上のものではないと考えますが、いかがでしょうか?

他にわかりやすい例を挙げれば、サッカーや野球などの試合で「敵地(アウェイ)」で戦う方は、試合のルールや使う道具は同じでも、敵側の観客が多いというだけで「不利」だと言われますよね。
しかし、私の場合は、「アウェイ」であるだけではなく、字数制限なども含めて、自分アカウントで書くのとは違って、非常な不自由が強いられています。

はたしてこれは、「被害妄想」なのでしょうか? それとも「事実」なのでしょうか?

貴兄は、しばしば、ご自身の「論理性」と「フェアさ」を語っておられますが、実際問題として、「アウェイ」の私に対して、当たり前に具体的な配慮がなされていると、そう言えるでしょうか?

貴兄は、ご自身に許された「長文」に関して、

> 従って、わたしの文章は100パーセント、年間読書人さん好みの仕様で書かれているのではない、ということを年間読書人さんには了解していただきたい、とわたしは考えています。

と書かれていますが、それは当然のこととして、はたして貴兄は、「アウェイ」故に、私にだけに課された「不自由」の大きさを理解した上で、このように、まるで私が、不当な要求をしてでもいるかのように、アピールなさっているのでしょうか?

以上、いろいろお尋ねしましたが、それにいちいち個別に答えていただく必要はありません。
なぜなら、そうした回答はしばしば、批判対象の自己防衛的なアピールに終わってしまうことが、ほとんどだからで、正直な回答など、ほとんど期待できないからです。

「私は論理的だ」とか「私は冷静だ」とか「私はフェアだ」と、ことさらに主張する人が、実際に、自分の言うとおりだったためしは、ほとんどありません。

無論これは「経験則」で言っているにすぎませんが、こうした「経験則」は、どうして馬鹿にならないものだと、私は考えています。


年間読書人

年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」

年間読書人さんの千葉雅也関連レビュー

・千葉雅也『勉強の哲学 来るべきバカのために 増補版』:君たちは荒野を行け!一一私は行かないが。

・千葉雅也 『現代思想入門』:〈自慢〉できるようになる 入門書の決定
 版!

・千葉雅也、二村ヒトシ、柴田英里 『欲望会議 性とポリコレの哲学』:〈畜群〉的な争闘への「人間的」介入

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集