年間読書人さんからの反論(5)
年間読書人2025年2月23日 21:53
> スロウ・ボートさん
5回目の「応答」となります。
よろしくお願いします。
〈第8号〉を拝読しました。
今回は、私の「反論(4回目)」での、2つの質問に対する、ご回答だと理解しました。
しかしながら、今回のそれは、私の「問いへの回答」にはなっていないと、私には思われました。
以下では、その理由を書かせていただきます。
(1)
>>> いろいろ、年間読書人さんは書かれていますが、読んでいると、もしかしたら「年間読書人さんは「被害妄想的な何か」に憑りつかれてしまった。」のかもしれない、とわたしは考えています。
>> 私(※ 年間読書人)が「被害妄想的な何か」に憑かれているのではないか、とそう書かれていますが、その根拠がまったく示されておりませんので、事実に即して、具体的にご説明ください。
> わたしがここで言っている「被害妄想的な何か」とは「自分が他人から攻撃され被害を受けていると、強く確信された、誤った、変更が困難な考え(のようなもの)」という意味である、とわたしは考えています。あらためていうまでもありませんが、わたしは医師ではありませんから、当然、「医師として、医学的に、「年間読書人さんには被害妄想がある。」と診断を下した。」のではありません。とわたしは考えています。あくまでも一般の人のひとりであるわたしが、或る事態に出会い、その事態に「自分が他人から攻撃され被害を受けていると、強く確信された、誤った、変更が困難な考え/認識(のようなもの)」を見出し、その事態を「被害妄想的な何か」と表現した、ということである、とわたしは考えています。
これで、私の『事実に即して、具体的にご説明ください。』という当然の要求に、応えたことになるでしょうか?
一一もちろん、なりません。
なぜなら、私が「被害妄想」のようなものではなく、『自分が他人から攻撃され被害を受けている』という「被害意識的なもの」をもっているのではないか、と書きたかったのであれば、最初からそのように書けばよいだけのこと、だからです。
つまり、「被害妄想」という言葉を使う必要はなかった。
では、なぜ「被害妄想」などという「不適切な言葉」をあえて使ったのかといえば、それは、「被害意識的な何か」と書くより「被害妄想的な何か」と書く方が、読者に「強い印象を与える」と考えたから、としか考えられない。
だからこそ、医者でもないのに、わざわざこのような「医療用語」を濫用し、「不適切な表現」をしてしまったのです。
例えば「この犬畜生」と書いて、それを非難されたら、
「いや、私はあなたが人間であることは当然承知してますから、犬とか畜生だと思って、そう言ったわけではありません。人間的ではないという意味で、あくまでも、比喩的に使っただけです」
と、そんな「言い訳」をするようなものなのですが、こんな言い訳が通ると、スロウ・ボートさんは、本気でお考えなのか?
スロウ・ボートさんは、「被害妄想」でも「犬畜生」でも、自分が本気で、相手がそのようなものだとは信じてはおらず、あくまでも「比喩」として使うのなら、そうした「表現」は何ら問題は無いし、謝罪の必要もないと、そうお考えなのでしょう。
だから、説明はしても、現に謝罪はなさらなかった。
しかし、こんな「言い訳」が、社会的に通るものでしょうか?
もちろん、通りません。
「あくまでも比喩であり、その意図(悪気)はなかった」で通るのなら、他人の内心は誰に窺い知れないのだから、何でも言いたい放題で、それを批判されたら、「その意図はなかった」で済むからです。
(2)
>> 年間読書人さんは表向きは他者からの承認欲求から自由であるかのように装い振る舞っていますが、内実では他者からの承認「いいね」を強く希求し、見解の説得力の拠り所にしている、とわたしは思います。年間読書人さんの根本的な自己矛盾/自己分裂が図らずも露呈する形になってしまった、とわたしは考えています。
> これも同じで、この「素人精神分析」は、どのような具体的な根拠があって、このように書かれたのか、その論拠をお示しください。
>
> また、スロウボートさん自身『表向きは他者からの承認欲求から自由であるかのように装い振る舞っていますが、内実では他者からの承認「いいね」を強く希求し、見解の説得力の拠り所にしている』ということは、あるのか無いのかを、ご説明ください。
> そして、それが「ある」のであれば、それは「自分の欲望を、他人に投影した」結果の「邪推」だとも考えられるからです。
これに対して、スロウ・ボートさんは、私が、千葉雅也の『センスの哲学』評で書いた、次のような言葉を根拠として、私が、他人の評価から「完全に自由な人間だと主張している」かのように、主張しています。
> 一般人たちに向かって、「評価されようなんて欲望から自由になって、もっと自分らしく楽しくやろうよ」と言っても、それは無理なのだ。
> もちろん、それができるような変わり者も、稀にはいる。例えば私のように「人に評価されようがされまいが、ひとまず書きたいことを書きたいように書ければそれで良い」と、そう割り切れるような人間のことだか、そんな変わり者もまた滅多にいるものではなく、ほとんどの人は「イイね」が欲しいために、自分を偽ってでも「ウケ」を狙ってしまうものなのである。
ここで私が言っているのは、当然のことながら、「イイね」欲しさのために「媚びたりはない」ということであって、「イイね」など「欲しくない」ということではありません。
事実、私は「イイね」をくれた人に、感謝のメッセージが出るように、「note」アカウントを設定してもいます。
ところがスロウ・ボートさんは、「欲しくないと主張している」ということと「欲しくても、それには流されないと主張している」ということとを、意図的かどうかはしりませんが、完全に同一視しています。
少なくとも、私が『ひとまず書きたいことを書きたいように書ければそれで良い』と書いているところの、「ひとまず」という言葉を、完全に無視している。
言うまでもなく、この言葉は、「ひとまず」好きに書くということを優先し、「その上で」多くの人から評価されるのなら、こんな喜ばしいことはない、という意味です。
また、『そう割り切れるような人間(中略)もまた滅多にいるものではなく』の『割り切れる』という言葉も、無視している。
当然のことながら、「イイね」がありがたくも何ともない人間なら、最初から、割り切るも割り切らないもありません。
ですが、誰しも「褒められたい」という気持ちはあるからこそ、その欲望を抑えてでも、「好きなことを書こう」と割り切れる人と、そうは割り切れないで承認欲求に流される人とがいる、ということを、ここで私は書いているのですが、スロウ・ボートさんには、その区別もついていません。
当然のことながら、正常な精神状態の人であれば、褒められて嬉しくない人はいない。
しかし、それと、だから「褒められるために媚びる」ということとは、まったく別次元の問題だというのは、もはやわかりきった話でしょう。
けれども、文章を売って食っている者は、そうも言っていられないという現実があるので、千葉雅也もまたそう(媚びざるを得ない、の)ではないのかと、私は、そんな当たり前の(常識的な)疑義を呈しているだけなのです。
だが、それだけの話を、スロウ・ボートさんは、私が「自分を偽っている=嘘をついている」かのようにおっしゃる。
しかし、それこそが「ためにする決めつけ」であろうし、「印象操作」ではないでしょうか。
なぜなら、そのように判断する合理的な根拠が無いのに、そう決めつけているからです。
決めつけという言葉が強すぎれば、そちらに読者を「誘導している」と言い換えても良いでしょう。
例えば私は、先日アップした、宮内悠介のSF短編集 『暗号の子』 のレビューで、作中の、
『 そのような周囲の反応など、どうでも良いという人もいるだろう。が、少なくともわたしにはそうは口にできない。本当に心疲れたとき、たったひとつの「いいね」に救われたことは、わたしにもある。』
https://note.com/nenkandokusyojin/n/naaed81953f2b
という言葉を引用して、その下に、前回の反論(年間読書人さんからの反論(4))へのリンクを貼っておいたのは、当然のことながら、上の言葉を、正直な気持ちを語るものとして肯定した、支持表明としてです。
そして、当然スロウ・ボートさんには、このリンクについての通知が届いており、このレビューの存在をご承知のはずのなのに、なぜか、こちらの方は無視なさっている。
どうして無視なさるのかと言えば、それは私が「イイねなんか、まったく気にならないと主張している」という、スロウ・ボートさんのよって「単純化された構図」に、この部分は邪魔だったからでしょう。
スロウ・ボートさんは、ご自身の内面については、根拠を示さず「そうではない。こうだ」と自分の内面を自身に都合よく断定的に主張なさる一方、他人の内面を、実に簡単に「否定的なものとして決めつけ」、その上で「被害妄想」などといったレトリックを使うことも、なんら問題がないと主張なさる。
私は、スロウ・ボートさんご自身の「承認欲求」について、
> それが「ある」のであれば、それは「自分の欲望を、他人(※ 年間読書人)に投影した」結果の「邪推」だとも考えられる
と、そう問うた点については、それを否定できる根拠を、何ら示していない。
実際、自分にも「承認欲求」があって「イイね」を欲しいと思っているということを、曖昧ながら認めてもいる。
下のように「他人事」のような書き方だったとしてもです。
> わたしは他者からの承認欲求が〈適度な欲望〉である限り、誰にとっても、必要なものである、とわたしは思っています。時には、「他者からの承認「いいね」を強く希求し」ても、全然、悪いことではない、とわたしは思います。
(※ ゴシック強調は、年間読書人)
しかし、例によってスロウ・ボートさんは、
> 繰り返しますが、それが〈過度な欲望〉に変貌しなければ、悪いことではない、とわたしは考えています。
> しかし、だからといって、わたしは「他者からの承認「いいね」を、見解の説得力の拠り所にする。」ことはありませんし、それは誤った危険な考え方である、とさえ、わたしは考えています。自分の見解/表現の正当性を他人に譲り渡してはいけない、とわたしは考えています。自分の見解/表現の正当性を他人に譲り渡すことは、自己を他者へ譲り渡すことに他ならない、とわたしは思います。
と、「欲望の存在」は認めても、自分はそれには「流されない」と、また無根拠に断言なさっている。
スロウ・ボートさんの場合、自身の「公式見解」が、そのまま自身の「実践」であるかのごとく語られるのですが、そこには天と地の開きがあるというのは、言うまでもないことでしょう。
「それを良くないことだと考えてさえいれば、それを絶対にしない」という具合には、人間は出来てはいないのですが、スロウ・ボートさんの場合は、あたかもそれが同じことのように主張されているのです。
「自分はこう考えるから、そんなことは、しない」と。
一一しかし、人間とは、そんな便利なものではないということくらいは、誰だって、我がこととして知っているはずです。
それに、そもそも「私は、過度に承認を求めている」などと自覚自戒できる人が、どれほどいるでしょうか?
むしろ、そんな自己省察をしているのなら、それは大したものだと評価すべきで、普通は誰だって、自分は「過度な承認欲求」など持っていないし、そのせいで世間に媚びたりもしてはいないと、そう考える(自己合理化する)のが、人間の自然ではないでしょうか?
しかし、スロウ・ボートさんは、自分はそんな「主観」や「願望」に流されることはないと、断じておられる。
しかしそんな、それこそ「主観的な断言」に、なんの意味があるでしょう。
そもそも、そう言っている段階で、「自己正当化の欲望」に流されており、欲望のままに「自分は非凡だ(欲望に流されない人間だ)」と、そう主張してしまっているだけ、なのではないでしょうか?
だから問題とすべきは、そう主張するほどのことを、実際にやれているのか否かであり、またそれでしか、自他ともに、その人の実態を判断することはできないはずです。
ところが、スロウ・ボートさんが、「世の権威」に対して、媚びないで批判するという実践を、日々なさっているという事実が、どこにあるというのでしょう?
そもそも、スロウ・ボートさんは、世評の高い千葉雅也の『センスの哲学』を絶賛し、「芥川賞候補作」である千葉の小説を絶賛する立場の人であり、私はそうした多数派の立場に異を唱えた立場(それによって、スロウ・ボートさんから批判された立場)なのですが、どっちが「世間ウケの良い立場」かは、言うまでもないはず。
ましてや今の世の中は「売れてナンボ」の新自由主義経済。マーク・フィッシャー言うところの「資本主義リアリズム」の世界なのですから、芥川賞候補作家を追認する立場の方が、主流・多数派だというのは、論をまたない事実です。
https://note.com/nenkandokusyojin/n/n13bbfc479c48
スロウ・ボートさんは『だからといって、わたしは「他者からの承認「いいね」を、見解の説得力の拠り所にする。」ことはありません』と断言しています。
しかし、所詮これは、スロウ・ボートさんの「内面の問題」であり、「そのようなことは無い」と主張する根拠は、客観的には、ほぼ皆無です。
実際、前述のとおりで、千葉雅也の評価に関して、スロウ・ボートさんは「世間の評価」に迎合的ではあっても、そこからの独立性など、どこにも見いだせない。むしろ、世間の評価を、何倍にも増幅するような立場だと言ってもいい。
そんなスロウ・ボートさんの、『わたしは「他者からの承認「いいね」を、見解の説得力の拠り所にする。」ことはありません』という、単なる主観的な断言に、いったい何の意味があるでしょう?
事実、スロウ・ボートさんは、他人を「被害妄想」呼ばわりしておいて、その場合にも「本気でそう思って言ったのではない」と釈明すれば、そうした「比喩」表現は許されると、手前勝手に主張なさっていますが、これが、自身の「感情」を「客観視」してコントロールできる人の言うことなのでしょうか?
むしろ、普通の人なら「つい、感情的になって、不適切な言い方をしてしまいました。その点はお詫びします」と、そう言うのではないだろうか?
つまり、スロウ・ボートさんは、しばしば「私はそうは考えない」とか「そんなことは考えていない」などと主張しておられますが、それはあくまでも当事者の「主張」や「否認」に過ぎず、何の説明にもなっていない。
むしろ、そうした「強弁」的な態度こそが、「感情に流されやすい」ということの、なによりの証拠なのではないでしょうか。
> いろいろ、年間読書人さんは書かれていますが、読んでいると、もしかしたら「年間読書人さんは「被害妄想的な何か」に憑りつかれてしまった。」のかもしれない、とわたしは考えています。
> 年間読書人さんは表向きは他者からの承認欲求から自由であるかのように装い振る舞っていますが、内実では他者からの承認「いいね」を強く希求し、見解の説得力の拠り所にしている、とわたしは思います。年間読書人さんの根本的な自己矛盾/自己分裂が図らずも露呈する形になってしまった、とわたしは考えています。
などという「書き方」を、説明を求められるまでは、何の疑問を持つことなく当たり前のように書き、説明を求められれば「内面の事情を一方的に語るだけ」の人が、本当に、自分の欲望をコントロールできていると、そう言えるでしょうか?
はたしてスロウ・ボートさんは、「自分には、なんらやましいところはない」からと言って、これからも「被害妄想」といった言葉を、論敵を評するときに「使い続ける」つもりなのでしょうか? それとも、こっそり自粛するのでしょうか?
繰り返しますが、「議論」をしようと持ちかけてきた人が、相手を批判するのに、『被害妄想』だの『他者からの承認「いいね」を強く希求し、見解の説得力の拠り所にしている』だのと書くのは、果たして「議論」の名に値する「言葉遣い」だと言えるでしょうか?
もちろん「忌憚なくやる」のは良いことです。しかしそれは、相手を「被害妄想」だと言っても「犬畜生」と呼んでもかまわない、といったことではないはずです。
それともそんな言葉の飛び交うものが、スロウ・ボートさんの考える「忌憚のない議論」なのでしょうか?
> わたしは他者からの承認欲求が〈適度な欲望〉である限り、誰にとっても、必要なものである、とわたしは思っています。時には、「他者からの承認「いいね」を強く希求し」ても、全然、悪いことではない、とわたしは思います。
と言い、自分もそうだと暗に認めることは、何ら難しいことではないでしょう。
だって、みんなそうだからです。
しかし、自分は、そんな自分をコントロール出来ていると主張するのであれば、せめて、その実績がなければ、信用のしようもない。
そう思うとか思わないとかいった単なる「手前味噌な断言(主張)」だけでは、無意味でしょう。
したがって、本当に難しいのは、
> それが〈過度な欲望〉に変貌しなければ、悪いことではない、とわたしは考えています。
と、さも自分だけは「過度な欲望」を抱かないかのごとくと主張したくなる、そんな「欲望」の方をこそ、認めることではないでしょうか?
スロウ・ボートさんの言っているのは、「年間読書人には承認欲求があって、それを否定しているが、実際にはそれに流されている」ということ、つまり「批判」なのですが、「しかし、自分はそうではない」と、そう自分で否定してしまうことこそが、自身への「甘さ」の証明にしかなっていないのではないか?
もしも、そうではないと言うのであれば、単に「そうではない」と否定するだけではなく、それを「実践」しているという事実を示すしかないはずなのですが、スロウ・ボートさんが、本来のハンドルネームである、
「歩く水のような人の形をしたもの」(https://note.com/waterwaves)
の方で書かれている批評文は、はたしてそのように「ストイック(欲望自制的)」なものになっているだろうか?
それとも、これまでに何度か指摘したとおり、むしろ、欲望たれ流し的ものになってしまっているのか?
例えば、千葉雅也の『センスの哲学』を扱った文章の冒頭部分を、少し読んでもらうだけでも、それはわかるでしょう。
『千葉雅也が記述した『センスの哲学』について、わたしは語ることができない。理由は残酷なくらい鮮明だ。『センスの哲学』が「センスについての哲学を語り、語り終えた場所が〈哲学の始まりにして終わりの場所〉である」からだ。千葉雅也は読み手を〈哲学の始まりにして終わりの場所〉へ導く。そして、その場所は〈芸術の始まりにして終わりの場所〉でもあることになる。千葉雅也が哲学者にして小説家であるということの論理的な必然として』
まるで、イエス・キリストか何かの話ででもあるかのような仰々しい評価で、私などは千葉雅也がそれほどのものだなどとは、まったく思えない(哲学史や文学史に名を残すようなレベルの人だとは思わない)。
だから、この千葉雅也評価のどこが「論理的」なのか、私にはさっぱりわからないし、これは当たり前に読めば、高度に「レトリカルな文章」と言うほかないだろう。
もちろん、論理的ではない批評文も、「文学的修辞(誇張表現)」としてはありでしょう。
しかし「議論」において、論敵を「被害妄想」呼ばわりすることに、どんな「論理的な必要性」があるでしょうか?
また、「ある」と思い、そう主張するだけで、それが正当化されるのなら、どんな誹謗中傷だって「私は誹謗中傷だとは思わない。私の意図はこれこれで」と説明するだけで許されることになるのだが、スロウ・ボートさんは、それで良いと主張しているも同然なのです。
スロウ・ボートさんの文章は、レトリックが勝った、その意味では面白いものだとは思います。
けれども、決して「論理的」ではないし、最後はいつでも「こうだ」という決めつけが強い、そんな極めて「主観的」なものでしかないと、私にはそう見える。
別に、スロウのボートさんが嘘つきだとは言いませんが、百遍断言すれば、それが真実であるかのように誤解され、流通していまいがちだと言うのは、世間でも良くあることでしょう。
ファッションに限らず、多くの「ブームは作られる」というのは、間違いのない事実だと思います。
何はともあれ、スロウ・ボートさんのように、「比喩であるなら、被害妄想呼ばわりも、ぜんぜん悪いとは思わない」といった主観的自己正当化で済むのなら、そもそも「議論」や「論争」は成立しないと思うのですが、皆さんは、いかがお考えであろうか?
年間読書人
年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」
年間読書人さんの千葉雅也関連レビュー
・千葉雅也『勉強の哲学 来るべきバカのために 増補版』:君たちは荒野を行け!一一私は行かないが。
・千葉雅也 『現代思想入門』:〈自慢〉できるようになる 入門書の決定
版!
・千葉雅也、二村ヒトシ、柴田英里 『欲望会議 性とポリコレの哲学』:〈畜群〉的な争闘への「人間的」介入
