年間読書人さんからの反論(7)
年間読書人2025年3月23日 11:57
> スロウ・ボートさん
7回目の「応答」となります。
よろしくお願いします。
〈第10号〉を拝読しました。
まず最初に書いておきたいのは、私の「誤解」とその点に関する「謝罪」です。
つまり、私が、
「スロウ・ボートさんが、本来のアカウント(歩く水のような人の形をしたもの)の方で、どうして北村紗衣のネット記事にまで「スキ」を押しているのか? それは私の記事をチェックしているからではないのか。ならばなぜ、わざわざリンクを張って通知が行くようにしておいた、宮内悠介のレビューの方は言及がないのか? それはアンバランスではないか? スロウ・ボートさんが、北村紗衣を評価しているとは考えづらいのに」
ということで抱いた「疑念」についての、スロウ・ボートさんによる、
「もともと、北村紗衣のネット記事をアップしている書肆侃侃房のネットサイトをフォローしており、北村紗衣には興味は無かったが、あの記事に関しては、内容的に興味があったから、たまたまスキを押しただけだ」
とのご説明には、私もなるほどと納得しました。そっち(書肆侃侃房)の方に興味があってフォローしていたのかと。そっちなら、スロウ・ボートさんが興味を持っていても不思議ではないし、北村紗衣のあのネット記事にスキを押すこともあるだろうと、今回のご説明により納得できたのです。
しかし、申し訳ありませんが、こうした説明があるまでは、私はそうした可能性までは想像できなかった。そのため、スロウ・ボートさんと北村紗衣の媒介項は、私くらいしかないだろうと考えてしまったのです。
したがって、この点については、私の拙速であったと認め、お詫びしたいと思います。
読みの甘さから邪推してしまい、申し訳ありませんでした。
一一しかし、以上のように謝罪した上で言わせていただきますが、私の読みが甘かったせいで、つい邪推してしまったことが、そのまま私への「被害妄想」呼ばわりの根拠になるとまでは、私には思いません。
一見、不自然な結びつきだと見えたなら、想像の及ぶ範囲で、そこに意味を読み込むのはごく自然なことで、それは被害妄想ではなく、単なる「解釈」の試みにすぎない。
それにそもそも、私はそれ以前に、スロウ・ボートさんから「被害妄想」呼ばわりされていたのですから、そこに「悪意」を見てしまうのは、むしろごく自然なことなのではないでしょうか。
なのに、私の考えが及ばす、結果として「誤った解釈」をしたら、それを即「被害妄想」という評価に結びつけるのは、恣意的な「論理の飛躍」で、それこそ「鬼の首でもとった」かのようにしてなされた、ためにする「こじつけ」でしょう。
私はそうしたものを、「ロジック」ではなく、「レトリック」だというのです。
確認しますが、スロウ・ボートさんの場合は、上の問題以前から、私を次のように「被害妄想」呼ばわりしていました。
(1)
> いろいろ、年間読書人さんは書かれていますが、読んでいると、もしかしたら「年間読書人さんは「被害妄想的な何か」に憑りつかれてしまった。」のかもしれない、とわたしは考えています。
(2)
> 年間読書人さんは表向きは他者からの承認欲求から自由であるかのように装い振る舞っていますが、内実では他者からの承認「いいね」を強く希求し、見解の説得力の拠り所にしている、とわたしは思います。年間読書人さんの根本的な自己矛盾/自己分裂が図らずも露呈する形になってしまった、とわたしは考えています。
一一こんな具合です。これらが「先」にあった事実なんですね。
スロウ・ボートさんは、この「被害妄想」呼ばわりを、私から批判されていたんです。
けれども、スロウ・ボートさんは、こうした「被害妄想」呼ばわりの非を、どうしても認めたくない(謝罪したくない)。
そのために、是が非でも私のことを「被害妄想」者だということにしたいから、今もおかしな頑張り方をしている。一一というようにしか、私には見えません。
つまり「被害妄想」がどうの「承認欲求」がどうのと、敵意丸出し、感情むき出しで、露骨に私の人格を貶めようとするようなことを書いてしまったために、それを正当化するための、更に強い言葉を重ねなければならないようになっているように、私には見えます。
例えば、今回でも、
> (4)「もしかしたら「年間読書人さんは「被害妄想的な何か」に憑りつかれてしまった。」のかもしれない。」とわたしが考えた、3点の理由/根拠
★根拠は、以下の3点です。
〈根拠:1〉
「自分(年間読書人さん)が、スロウ・ボードから、攻撃され被害を受けているという、年間読書人さんの認識/考え(のようなもの)」が年間読書人さんの反論(2)の中に記述されている。(とわたしは思いました。)
喩えれば、「サイバー攻撃のひとつである、DoS攻撃(ドス攻撃 /サービス拒否攻撃/denial-of-service attack)のように、巨大なデータを相手に送りつけ、リソース(資源)に意図的に過剰な負荷をかけ、正常に動作できなくするフラッド攻撃(Flood/洪水)」のようなものをわたしから仕掛けられ、「自分(年間読書人さん)は、スロウ・ボードから攻撃され、被害を受けている。」という受け止め方/認識/考えを年間読書人さんが持っている、とわたしは思いましました。
以下に、わたしが「年間読書人さんがそうした受け止め方」をしていると、認識することになった根拠を、年間読書人さんご自身の記述の中から、幾つかの具体例として引用したい、とわたしは思います。
>
> 初めから、短い文章なら、細かく検討する気にもなるでしょうが、貴方の書き方では、その「文章量」に圧倒されて、細かいところまで分析するどころか、斜め読みして、大筋の印象を受け取るのが、やっとでしょう。要は、読者の集中力が、削がれる書き方だ、ということです。
年間読書人さんの反論(第2回目)
>
> こうした「言葉数で、読者を圧倒する」という手法は、例えば、口八丁の弁護士を評するのに「三百代言」と言ったり、
年間読書人さんの反論(第2回目)
>
> また、ミステリの世界でのトリックとして、自分の殺した人物の死体を隠すのに、わざわざ戦争を起こして死体の山を築き、そこに死体を紛れさせる、「木の葉は、森に隠せ」式の証拠隠滅法というのがあります。
>
> もちろんミステリの場合は、誇張されたものですが、
年間読書人さんの反論(第2回目)
(※ 以下略)
と、私が、スロウ・ボートさんの「過剰なレトリック」について「論点を曖昧にするものでしかない」と批判したのを、
> 喩えれば、「サイバー攻撃のひとつである、DoS攻撃(ドス攻撃 /サービス拒否攻撃/denial-of-service attack)
みたいなものと、私が感じているようだと、そう勝手に見做しておられます。
ですが、私が、スロウ・ボートさんの「過剰なレトリック」について問題としているのは、この「喩え」にあるような「攻撃性」の問題ではなく、あくまでも言葉数による「欺瞞」の問題です。
なのに、スロウ・ボートさんは、それを「攻撃性」の問題に、すり替えてしまっている。一一なぜか?
それは、そこから、私の「被害妄想」ということに、論点をずらそうとしているからです。
指摘された、ご自身の「欺瞞的なレトリック」の問題を、私の「被害妄想」の問題だと、論点をずらそうとするから、こんなズレた話にもなってくる。
そしてそうした「ロジックの曖昧さ」を、お得意の「三百代言的な言葉数」で押し流して、読者に気づかせないようにしようとしているのです。
そもそも、
> 年間読書人さんは、「作者のプロフィール(肩書き)」を一早く調べ上げ、「無名の人にやさしく、著名な人に強く」のポーズをとり「反/非〈権威主義的な思考〉」の持ち主であることをアピールし「孤高の勇者(ヒーロー)」の愉悦に浸り、満足する。年間読書人さんの行為は、何もかもが、「自分が気持ちよくなるための方便」でしかない、とわたしは思います。
なんてものは、「印象論」のかたちを借りた、無根拠な決めつけによる「印象操作」以外の何ものでもないでしょう。
「とわたしは思います。」と付け加えてさえおけば、根拠不提示のままで、何を書いても良いというのでしょうか?
『「作者のプロフィール(肩書き)」を一早く調べ上げ』とは、何を指して言っているのか?
例えば、評論を書くときに、批評対象のことをある程度調べるのは、ごく当たり前のことで『一早く』などというのは、何の裏付けもない、スロウ・ボートさんならではの、誇張的な「レトリック」にすぎません。
『「無名の人にやさしく、著名な人に強く」のポーズをとり』というのも、それが「ポーズ」なのか「実際」なのか、他人が見て、その区別が簡単につくものでしょうか? むしろこれは、私の人格を否定したいがための、スロウ・ボートさんの「色眼鏡」なのではないでしょうか。
それが「ポーズ」だ(偽物だ)と言うのなら、その証拠を示さなければならないはずですが、ここにはそんな「論拠」など、まったく示されてはいません。要は「印象論」を装った、単なる「決めつけ」です。
『「孤高の勇者(ヒーロー)」の愉悦に浸り、満足する。』とのことですが、たしかに私は「孤高のヒーローでありたい」とは思っていますが、自分がそこまでのものだとも思っていません。
しかし、だから私は「そうありたい」とは語っても、自分を「孤高のヒーロー」だと言ったことはありませんし、スロウ・ボートさんのように「出来もしないことを、さもしているかのように語る」こともしません(自己抑制・自己コントロールの話です)。
その点については、私の前回の指摘を受けて、スロウ・ボートさんは今回、下のように書いています。
> つまり、わたしは、ここで、〈作品への否定的な記事を書いて、noteに公開することをわたしは抑制している。〉というスタンダードは、〈可能な限り守るべきスタンダード〉であり、〈100パーセント、厳格に死守すべきスタンダード〉ではない、という意味の話を、行っているとわたしは考えます。
『わたしは抑制している。』と断言しておいて、私から「しかし、現に例外がたくさんあるではないか。例外もありだというのならそれは、ダブルスタンダードではないか」と批判されると、『わたしは抑制している。』と断言したのは『〈100パーセント、厳格に死守すべきスタンダード〉ではない、という意味の話』をしただけだと、そんな「言い訳」が、今回、後から新たにつけ加わりました。
しかし「私は約束を守る人間です」と言った人が、約束を破ったために、あの言葉は何だったんだと非難された際に「私は100%約束を守るとは言っていません。あれは希望的な原則を語っただけです」などと言って、自己正当化の言い訳をするのは、いかがなものか?
それこそ、その人の言うことは「信用ならない」ということにしかならないのではないでしょうか?
そもそも、誰だって、可能であれば「否定的なことなんか言いたくない」けれども「言いたくなる場合も必ずあるし、言ってしまうこともある」と、大概の人は、そう当たり前に自覚しています。
だからこそ、普通の人は殊更に『わたしは(※ 自身を)抑制している。』などという「わかりきったこと」を、問われてもいないのに、わざわざ他人に向けて、自分からアピールしたりはしないのです。
「おまえ、ああ言ってたじゃないか」と言われるに決まっているからです。
例えば、多くの犯罪者だって「犯したくて罪を犯したわけではない」とは言うでしょう。「私は、怒ってはいけない、怒ってはいけないと、いつも自身の感情を抑制しています。しかし、あの時はそれが、例外的に我慢できないことだったのです。あれは例外的なことだったのです」というような言い訳をします。
しかし、そんな「例外」を自分に認めるのなら、そもそも誰だって「出来る範囲での抑制」ならしているのだから、それを殊更に、世間に向けて『わたしは抑制している。』んだ、などと、普通は言わない。そんなこと「当たり前」だからです。
しかし、ではその「当たり前のことでしかない心がけ」を殊更に世間に向けて『わたしは抑制している。』などと自家宣伝して見せるのは、いったい何故でしょうか?
それは「自分は人並み以上に、抑制している」と、自身の非凡性を「どうです、立派でしょう?」と、アピールしたいからです。
そうした「非凡な人間」だとの「印象」を他人に与えたいから、実際には誰でもやってることでしかないものを、わざわざ大仰な言葉にして発するのですね。
言い換えれば、スロウ・ボートさんは、人並み以上に「承認欲求が強い」。それが、こうした言動に、ハッキリと示されています。
つまり、スロウ・ボートさんは、私のことを「承認欲求が強い」とおっしゃってますが、それはご自分の「強い承認欲求」の投影でしかない、ということなのではないでしょうか。
スロウ・ボートさんのおっしゃることは、ほぼ間違いなく、ご自身のことであり、自分がそうだから人もそうだ、ということでしかありません。
前回の「イイね」が欲しい否かの話でも、私がそれに依存していると非難しておきながら、では貴方は人に評価されたくないのか、褒められたいとは思わないのかと問い返すと、自分だってそういう気持ちはあるが、しかし「私は自身をコントロールしている」とおっしゃる。
しかし、スロウ・ボートさんほど「自制」「抑制」という言葉が似合わない人もいない、と私は思います。
それ(欲望の垂れ流し)は、後で示す、スロウ・ボートさんの書かれた文章などに、明らかな特徴(個性)だからです。
そもそもばかりで申し訳ないけれども、そもそも議論というのは「冷静」にやるべきですし、また、議論をやってる当人は、誰でも自分では冷静にやっているつもりでしょう。
しかし、普通に言って、論敵のことを「被害妄想」だの「承認欲求」がどうのと言えば、それは、そのように言う人の方が、感情的になっていると評価されるのが、普通でしょう。
それでも、スロウ・ボートさんの議論は、「冷静」なものだと、そう考えるべきものなのでしょうか?
それとも「意地になって、感情的になっている」だけだと、やはりそう評するべきなのか?
しかしその答は、前述のとおりで、スロウ・ボートさんの「文体」にも、「ロジック」にも、もはや明らかではないでしょうか。
スロウ・ボートさんの反論というのは、すべて「誘導的な印象論」です。
つまり、自分が「そう思い込んでいる」からそう言っているというのとは少し違い、読者に自分の望む、一定の「印象」を植えつけるために、故意に誇張された言葉や誇張されたロジックを並べている、ということ。つまり、確信犯的な「印象操作」です。
前にも、指摘しましたが、スロウ・ボートさんの文章というのは、もともとそういうものです。
例えば、別アカウントの方で、こちらでの論争を紹介した、下の文章。
> わたしは今、極秘の作戦/オペレーション・ウィリアム・ブレイク・リヴァイアサン/Operation William Blake Leviathan/が進行中です。コードネーム:〈スロウ・ボート〉〈滑稽と惨劇に彩られた喜劇、あるいは、悲劇〉の予感に満ちた、現在という時間/2025の中、わたしの〈行わざるを得ないこと〉があります。騒めき犇めき喚く、わが内なるダークサイドたちよ!
> わたしの、千葉雅也の『センスの哲学』に対する擁護です。いろいろ思うところがあって、昨年/2024/12月の終わりから、このオペレーションを実行しています。わたしはいつもぼんやりしている人間なので、こういうことには全く向いていないのですが、わたしの内なるダークサイドの中で騒めくものたちがいます。このオペレーションはそれらのために行われています。
> 千葉雅也の『センスの哲学』はわたしの最も最近の記事で取りあげた本ですが、なぜ、この本を巡る論戦であるのかと言えば、偶然です。特別な意味はありません。また、論戦の相手の方にも、わたしは特別な感情を全く持っていません。単なる偶然に遭遇した方でしかありません。しかし、それらが、必然ではなく、偶然だとしても、何かしらの意味がかたち作られます。わたしの生の時間の中を、不定形と定形の意味の断片が、揺れ動いています。
さて、わたしには複数の書き掛けの草稿が散在しています。2024を通過し、2025になっても、草稿が草稿のまま、わたしの中で浮遊しています。オペレーションの今後のスケジュールは未定ですが、オペレーションが終了しなければ、noteで、他の事柄を行うことが出来ないというわけではありません。空白の偶然の時間に、それは行われます。わたしには、果たさなければならない約束もあります。もちろん、忘れてはいません。約束は必ず守られるはずです。〈少しの時間〉、待っていて下さい。
・千葉雅也『センスの哲学』を巡る論戦 Operation William Blake Leviathan
https://note.com/waterwaves/n/n100099da6f13
この文章こそ、わかりやすく「自意識過剰」なもの、なのではないでしょうか?
「こんな凄いことをやるぞ」と、自分のことを自家宣伝的に語るのに、ここまで「レトリック」を駆使する人というのも、そうはいないのでは?
もちろん、ネット上には、たまにそういう人もいるから、「厨二病」という言葉もあるのですが、スロウ・ボートさんは、もうそんな年齢でもないでしょう。
> 特別な意味はありません。また、論戦の相手の方にも、わたしは特別な感情を全く持っていません。単なる偶然に遭遇した方でしかありません。
こうした「中身のない、勿体ぶった断言の多用」は、独特のものです。
そして、このように前もって極端なことを言っておいて、後でそれを否定するというやり方(レトリック)。
前の文章は、次のようにつながります。
> しかし、それらが、必然ではなく、偶然だとしても、何かしらの意味がかたち作られます。わたしの生の時間の中を、不定形と定形の意味の断片が、揺れ動いています。
そんなの「当たり前」じゃないかと、私ならそう思いますが、そう言っちゃうと身も蓋もないから、スロウ・ボートさんの場合は、その「当たり前」のことを、さも「特別なことであるかのように」書かれるのでしょう。
それも、いつも好んでそうなさるのですが、そもそも、こうした文体が「自意識過剰」な人の特徴でなくて、何だというのでしょう?
「文は人なり」と言いますが、こうした「過剰な文飾」は、スロウ・ボートさんの場合、決して例外的なものではありません。
では、「何でもっと、普通に書けないの?」という話になるのですが、それはたぶん、普通に書いたら、普通にしか見えないと考えるから、わざわざこういう書き方をするんでしょうね。
一一でも、それを世間では「自意識過剰」の「目立ちたがり」と言います。
過剰な、自意識を満足させるために、普通ではない大袈裟なレトリックを、自身について駆使する。「私はこんなに非凡なのだ」と。
前にも書きましたが、別にご自分のことを書くのに「レトリック」を駆使なさるのは勝手ですが、しかし他者との議論において、印象操作のための、仰々しいレトリックを使うというのは、間違いでしょう。
「自分はこんな人間で、相手はこんなやつだ」と言った書き方は、「議論」のためのものではあり得ません。
しかしまた、それがスロウ・ボートさんの「個性」で、それしか出来ないのなら、それはそれで仕方がないのかも知れませんが、議論を望むからには、そう言っているわけにもいかないはずです。
例えば、今回、本稿の冒頭部で謝罪した、私の側の読みの甘さについては、事実を摘示して具体的に反論することができるのに、それをまたネタにして、過剰なレトリックを駆使し、「針小棒大」に人を侮蔑するような言葉を並べ立てるというのは、議論のためのものだと言えるでしょうか?
私の人格を否定すれば、それがそのまま、私のレビューが間違いだとの証明になるとでもお考えなのか?
> (1)「年間読書人さんは、いつまでも〈論点ずらし〉を繰り返して、逃げ回るのではなく、わたしの批判の〈論理的な整合性〉を批判すべきである。」
とか、書かれていますが、それはこっちのセリフです。
私は最初から、スロウ・ボートさんの文章は、中身ではなく「三百代言的なレトリック」だと指摘しています。骨格としてのロジック自体は、ほとんど無い。
つまりそれが、他でもない「論点ズラし」であり、ここでもスロウ・ボートさんは、ご自分のなさっていることを、そのまま私に投影している。
また、そもそもですが、この議論の「論点」は、千葉雅也の『センスの哲学』についての私のレビューが、不当なものであるという、スロウ・ボートさんの批判から始まっています。
だから、まず、スロウ・ボートさんがしなければならないのは、私のレビューの、どこがどう不当なものなのか、それを端的に示すことでしょう。
なのに、スロウ・ボートさんがなさったのは、私の文章を細切れにして「と私は思う」という言葉を付け加えていくといったことでした。
そんな「印象操作」としか思えない妙なことをのをやり始めたので、私は「それは貴方だって同じでしょ」というところから、スロウ・ボートさんの「レトリック」の話になり、これに対し、今度はスロウ・ボートさんから「被害妄想」ではないかという話が出てきた。一一大雑把にまとめれば、こういう経緯ですね。
したがって、私は「論点ズラし」をしているのではなく、「論点を絞って、明確にしてください」と要求しているだけなんです。
なのに、それが今や「被害妄想の証明」みたいな話になってしまっている。
私は、スロウ・ボートさんが、どんな信念を持っているかとか、ご自分のことをどう評価しているかなんてことには、まったく興味がありません。
私は「否定的なことは書かないよう、自己抑制しています」とか「しかし、例外はあります」とか、そんなことには興味がないのです。
なぜなら、そんな自家宣伝的な「自己申告」など、その人に興味を持たない他人にとっては、意味が無いことだからです。
端的に言って、私はスロウ・ボートさんを評価していません。だから、スロウ・ボートさん自身には興味がない。
しかし、私の『センスの哲学』についてのレビューが間違っているというのであれば、それはどこがどういうふうに間違っているのか、そのことは気になったので、議論に応じただけです。
一一ところが、その肝心の論点が、一向に明らかにされない。
私のレビューの問題点とは「主観でしかない」と言いたいのか、私の「性格が歪んでいるから、その評価も間違っている」と言いたいのか、とにかくそんな、具体性の無い話ばかりです。
ですから、私が「論点ズラし」をしていると言うのであれば、どうぞ、論点を「本来のところ」へ戻して下さい。
たしかに、長々と書かなければならない場合もあるでしょうが、しかし、いつでもそうだとなると、それは「説明に必要だから、やっている」のではなく、単にそれがスロウ・ボート(=歩く水のような人の形をしたもの)さんの、いつものパターンでしかないということでしょう。何を書いても、勿体ぶったレトリックまみれで、不必要に長くなる。
しかし、議論を挑まれた私が、スロウ・ボートさんのパターンな合わせなければならない義理はない。
そんなものではなく、私のレビューに間違いがあるのなら、そこを端的に指摘して下さいと、私はそう言っているだけなのです。
ところが、肝心なそれがいっかななされないまま、実際には、絵に描いたような「人格攻撃」に堕してしまっています。
こんなことばかり書いているスロウ・ボートさんは、それでもご自身を「冷静」だとお思いなんでしょう?
でも、第三者がスロウ・ボートさんの文章を読めば「ムキになっている」と思うんじゃないでしょうか?
スロウ・ボートさんの「反論」は、もはや私の人格を否定するためのものにしか見えず、『センスの哲学』の話はどこへ行ったのやらという感じになっている。
実際、そのあたりが、今だに明確にされていません。
もちろん、私と議論する気がなく、ただ一方的にご自分の主張を並べたいだけなら、勝手に批判論文を書けば良いだけのことです。
しかし、議論したいというのであれば、私に読む気を起こさせる努力が必要なのではないでしょうか?
それなのに、
(1)
> いろいろ、年間読書人さんは書かれていますが、読んでいると、もしかしたら「年間読書人さんは「被害妄想的な何か」に憑りつかれてしまった。」のかもしれない、とわたしは考えています。
(2)
> 年間読書人さんは表向きは他者からの承認欲求から自由であるかのように装い振る舞っていますが、内実では他者からの承認「いいね」を強く希求し、見解の説得力の拠り所にしている、とわたしは思います。年間読書人さんの根本的な自己矛盾/自己分裂が図らずも露呈する形になってしまった、とわたしは考えています。
と、こんなふうに書いてしまい、そのことを「不適切だったと認めたくない」がために、さらに下のような、屋上に屋根を架すようなことを、書いてしまうことにもなる。
(3)
> 年間読書人さんは、「作者のプロフィール(肩書き)」を一早く調べ上げ、「無名の人にやさしく、著名な人に強く」のポーズをとり「反/非〈権威主義的な思考〉」の持ち主であることをアピールし「孤高の勇者(ヒーロー)」の愉悦に浸り、満足する。年間読書人さんの行為は、何もかもが、「自分が気持ちよくなるための方便」でしかない、とわたしは思います。
けれども、こういうことをやってしまうから、多くの議論は「泥試合」になってしまい、議論なんてやるだけ時間の無駄という話にもなってしまうのです。
だけど、ここでの議論が、そんな「泥試合」の実例のひとつになってしまうことは避けるべきだと私は思います。
したがって、スロウ・ボートさんが、ご自分の「レトリカルな長文主義」にこだわり、私についての「被害妄想の証明」にこだわっているかぎり、これは第三者には、まともな議論とは見てもらえないものになるしかない。「これは酷い泥試合だ」とそう思われてしまうしかないと、私は危惧しますが、いかがお考えでしょうか?
忌憚なく語ることは必要です。例えば、私がスロウ・ボートさんの文章は「物量(文字数)押しのレトリック」だとするのは、その文章の物理的特徴を指摘した上で、その問題点を評価するために必要なことだったからです。
しかし、そうした批判的な評価に反駁するために、相手を「被害妄想」だ、「承認欲求」だ、挙げ句の果てが、
> 何もかもが、「自分が気持ちよくなるための方便」でしかない
なんて、雑な総括による人格攻撃をするのは、正しいことなのでしょうか?
そもそも、『何もかもが、「自分が気持ちよくなるための方便」でしかない』なんてことを言えば、それは、スロウ・ボートさんの書かれていることが、まさにそうでしょう。
「相手の人格を否定することで、議論に勝ったつもりになる」ということですが、こういう書き方が、いちいちご自分に撥ね返ってくるものだとは、お思いにならないのでしょうか?
こんな「ためにする人格攻撃」が認められてしまうと、まともな議論なんて成立しないと、私は思います。
個人的(内的)な理念ではなく、過剰な形容詞も抜きにして、ご自身が何をしたいのか、実行可能な具体的ご意見をお聞かせください。
そのためには、まず「論点」を本来の論題に戻すことではないでしょうか。
私の『センスの哲学』のレビューにおける、不都合な点を指摘できるのは、スロウ・ボートさんであって、私ではないのです。
それが具体的に示されないのでは、私の反論が、スロウ・ボートさんの「そうした書き方」批判になるのも、やむを得ないことなのではないでしょうか?
年間読書人
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