年間読書人さんからの反論(9)
年間読書人
2025年5月4日 12:05
> スロウ・ボートさん
9回目の「応答」となります。
よろしくお願いします。
〈第12号〉を拝読しました。
今回のご批判は、一一と言うか、今回はもう、議論ではなく「罵倒と決めつけ」ばかりといった感じですね。ご自分で「説明」だとなさっている部分も、ほとんど独り言(うわ言)のようにしか見えません。
はたして、あれをまともに読んでくれる人が、何人いるのでしょう?
今回のスロウ・ボートさんは、これまで私の指摘した「レトリックによる印象操作」というテクニックからすら完全に逸脱して、およそ「常軌を逸している」ようにしか見えません。
よほど、前回の私の反論が応えたということなんだと思います。
もちろん、そんなことをお認めにはならないでしょうが、よほど腹に据えかねて感情的になっておられるのでなければ、こんな文章、なかなか書けるものではありませんからね。
しかしながら、人間、感情的になった時にこそ、その「本性」が出てしまうものだし、それが「言葉遣い」に表れてしまう。
こう言っても、もちろんスロウ・ボートさんは、この私の指摘を否定して、これまた「印象操作」だと「おうむ返し」におっしゃるのでしょうが、その当事者見解を、どれだけの人が信じてくれるのか?
まあ、でもそうした頑なな「否定や拒絶」も、興奮して冷静な判断が出来なくなっている人や、酔っ払っている人に、よくあることです。
そういう人って、必ず「私は冷静だ」と言うし、自分では論理的に意見を述べているつもりなんですが、側から見ると、それはもう支離滅裂で、およそ意味不明なんです。
そもそも、頭の中で音を立てて渦巻いている熱した想念を、そのまま言葉にしているのだから、ご当人としてはまったく論理的なつもりでも、他人には、何を言ってるんだかわからない、ということにしか、なりようがない。
たまにニュースにもなりますが、時々いますよね、なんだかよく分からないけど、独りで腹を立てて、これ見よがしに騒ぎたてる人が。
ご当人としては、何やら「社会正義をなしている(悪を懲らしめている)」つもりなんでしょうが、それが他人には伝わらないで、単なる「変なおじさん」とか「迷惑おばさん」とか、そんな感じになってる人のことです。
本当に冷静で、論理的な思考が出来ているんなら、当たり前に「読み手・聞き手」に配慮して、誰にでも伝わるように語る(書ける)はずなんですが、それが出来ないというのは、自分の考えが、頭の中で自己完結してしまっており、周囲(外部)が見えていない、ということなんでしょう。
今回(第12回)は、冒頭から、ヒートアップなさっていて、そのあたり感情が、あまりにもわかりやすく出てしまっている。
いつもの「論理的な人」ポーズが採れなくなっているということなんでしょう。でなきゃ、こんな文章を、いい大人が素面で書けるものではありません。
以下の「第12回」の冒頭部分は、スロウ・ボートさんが、今回最も訴えたい部分でもあれば、スロウ・ボートさんの素顔が最もよく表れた部分でもあるから、どちらの意味においても、引用紹介しておく価値があると思います。
> まえがき
>
> 今回のわたしの反論は、主に、4件の事柄、第一として「〈事実確認〉とは何か?」、第二として「年間読書人さんは、〈逃げるが勝ち〉とばかりに『センスの哲学』を巡る論戦から、逃げ回っている。」という、件、第三として「年間読書人さんは真の〈論争家〉ではない。御都合主義的な、単なる〈口先だけの、自称の論争家〉あるいは〈言行不一致の人〉でしかない。」という、件、第四として「世の中の人々は、バカではないので、年間読書人さんによる議論の呼び掛けには、(ほとんど)誰も応じないのは、当然のことである。」という、件です。
>
> 年間読書人さんは〈(自称の)疑い〉まみれの存在です。
>
> ※、尚、「わたしと北村紗衣さんの関係性」の誤解について、年間読書人さんは、散々、あれだけ居直っておきながら、「心のこもった謝罪として受け入れろ」という言い草には、わたしは呆れてしまいました。まさに、「盗人猛々しい」とはこのことです。年間読書人さんの態度/姿勢は、「自分の犯した誤りを棚上げして、他人に説教する。」ようなもので、>「その口が言うことではない。」と言わざるを得ません。
>
>
> (※※★★★※※)
>
> ※noteにアクセスして、この記事を、ご覧になられている、読者の皆様方へ
>
> 年間読書人さんは〈論点ずらし〉を延々と行い、「千葉雅也さんの『センスの哲学』を巡る論戦」から、〈逃げ回るという行為〉を継続しています。〈論点ずらし〉が、無様で醜悪であり、〈逃げ回るという行為〉が「醜態」であることは、当然である、とわたしは考えています。
>
> わたしは、現在、年間読書人さんが晒し続けている「醜態」を、記録しログとして残す作業を進行させている最中です。〈もっともらしいあれこれの言い訳をして、論戦から逃げ回ることしかできない〉年間読書人さんの姿を、記録し、年間読書人さんの「言行不一致」を、ログとして残すためにです。
>
> わたしが、わたしとして、行うべきことを行い、結果を記録し、ログを残すこと、オペレーション・ウィリアム・ブレイク・リヴァイアサン/Operation William Blake Leviathan/、が、作戦/オペレーション/Operatin/であることの所以がここにあります。意味もなく、そう呼んでいるのではありません。
>
> 今回、まえがきの部分として、年間読書人さんの〈論点ずらし〉が〈レッテル貼りによる、話のすり替え、という印象操作〉の手法で行われている事例を提示しておきたい、とわたしは思います。
以上のような調子で、これでもスロウ・ボートさんは、自分は「冷静」だとおっしゃるんでしょうね。
たしかに、ご当人が「冷静なつもり」だというのは、次の部分に明らかです。
> わたしは、現在、年間読書人さんが晒し続けている「醜態」を、記録しログとして残す作業を進行させている最中です。〈もっともらしいあれこれの言い訳をして、論戦から逃げ回ることしかできない〉年間読書人さんの姿を、記録し、年間読書人さんの「言行不一致」を、ログとして残すためにです。
つまり「ログ」さえ残しておけば、おのずと年間読書人は恥を晒すことになり、ささやかな信用さえ失って、痛手を被ることにもなるだろうと、スロウ・ボートさんは、本気でそう考えていらっしゃる。
言い換えれば、こうしたログを残すことで、ご自分の方こそが、その素顔を晒し、恥を晒すことになるなどとは、かけらも考えないで、上のような文章を書いているんですから、これはかなりの「本気度」だと言えるでしょう。
でも、そう思いどおりになるでしょうかね?
と言うのも、私はこれまで何百人という、ネトウヨや元ネトウヨやその他の人と、論争なりケンカなりをしているので、もう20年以上も前から、私に関する「悪口」は、ネット上に山と残っています。
スロウ・ボートさんとほぼ同時期に、私のレビューのコメント欄に書き込みをしてきた、匿名捨てアカウントの「糞リプマン」と名乗る人も、当然、自分がネトウヨだとか、元ネトウヨだとは決して認めませんが、私の悪口を書くのに、わざわざ(ご当人の言葉で)「人肉検索」なる、いかにもネトウヨらしいことをなさり、十数年も前の「2ちゃんねる」に残された、私の悪口をわざわざ引っ張ってこられたりしていました。しかも、お仕事を休まれた日にです。
まったくご苦労なことですが、要は、私の「ログ」というのは、私自身が書いたものは無論、私を批判したもの、あるいは単純な悪口や誹謗中傷も、ネット上に数多く残っている。けれども、それで私が、特に評価を落とすこともなかったというのが、事実です。
そりゃあ、論争なり何なりをして、忌憚のない評価を語れば、恨まれ、悪口されるくらいのことは、当然のことです。
例えば「Xのフォロワー5万人の北村紗衣」を批判すれば、ひとまず私は、その5万人から憎まれるわけで、きっと「X」でも、さんざん悪口を言われていることでしょう。
しかしそれも、正直な批評をやっていれば、仕方のないことなのです。
しかしながら幸いなことに、そうした否定的評価や悪口を、いちいち鵜呑みにするほどナイーブな暇人も、滅多にいないということなのでしょうし、スロウ・ボートさんみたいな人は、5万人の中にも、滅多にいないということです。
ですから、スロウ・ボートさんが、ログを残すことに意義を感じておられるのは、そのあたりの「現実」が、まったく見えていない、ということにしかなりません。
それどころか、「スロウ・ボート(歩く水のようなもの人の形をしたもの)」さんこそ、ご自分のこうしたログが残ることの方を心配した方が良いと思うのですが、一一まあ、まさかここまで来て、北村紗衣のように「ログ削除」で逃げるというわけにもいかないので、ログを残すことが、私の痛手になると、そう「信じるしかない」んでしょう。
でも、それこそが、現実の見えていない「脳内自己完結」の証拠に他ならないのです。
新興宗教団体を扱った、社会心理学の研究書に『予言がはずれるとき』という本があります。
これには、自信ありげに公言してきた予言が外れたとき、メンツ丸潰れの教祖なり教団なりが、どんな態度をとるのかを研究紹介したものです。
amazonの紹介文は、こうです。
『予言がはずれた後、教団はどうなったか。「認知的不協和の理論」を検証する社会心理学の古典、堂々の完訳。
予言を教義の中心におく宗教グループの社会心理学的な実証研究である。予言がはずれたとき、このグループの布教活動がかえって活発化するという逆説的な現象を検証する。』
どういうことかというと、自信が決定的な揺らいだときにこそ、人はその現実を否定するために、さも確信ありげに頑張りだして、自己暗示的な自己正当化を始める、ということです。
スロウ・ボートさんの「個性」が、とてもよく表れたものとして、私が引用紹介した、次の文章。
> わたしは今、極秘の作戦/オペレーション・ウィリアム・ブレイク・リヴァイアサン/Operation William Blake Leviathan/が進行中です。コードネーム:〈スロウ・ボート〉〈滑稽と惨劇に彩られた喜劇、あるいは、悲劇〉の予感に満ちた、現在という時間/2025の中、わたしの〈行わざるを得ないこと〉があります。騒めき犇めき喚く、わが内なるダークサイドたちよ!
https://note.com/waterwaves/n/n100099da6f13
これに関して、ここをピックアップされたのが、よほど気に入らなかったのか、スロウ・ボートさんは今回、次のような説明をなさっている。
> わたしが、わたしとして、行うべきことを行い、結果を記録し、ログを残すこと、オペレーション・ウィリアム・ブレイク・リヴァイアサン/Operation William Blake Leviathan/、が、作戦/オペレーション/Operatin/であることの所以がここにあります。意味もなく、そう呼んでいるのではありません。
そりゃあ『意味もなく、そう呼んでいるのでは』ないでしょう。
意味もなくこんな文章を書いていたら、それこそ正気を疑われますからね。
でも、「年間読書人の醜悪なログを残す」というのを、こんな「独りよがり」な表現に仕立ててしまうところが、なによりもスロウ・ボートさんの「本質」であり、その「本性」を、よく示しているのではないでしょうか。
前にも書きましたが、「文は人なり」という言葉は、かなり正確に、人間の特質を突いたものだと思います。
無論、人は言葉を装い、文章を装うことも出来ますが、しかし、それをずっと続けていくことは出来ません。
自身本質を偽る行為は、不自然で無理のあることなのだから、それを続けていれば疲れるし、疲れると「地金が出てしまう」ものなんです。
で、スロウ・ボートさんの場合は、上に引用した「第12回」の「前書き」部分が、スロウ・ボートさんの「地金」であり、一方、
> 騒めき犇めき喚く、わが内なるダークサイドたちよ!
の方が、意識的に作られた、これはこれでスロウ・ボートさんの「個性」のよく表れた、「厨二病」的な、つまり「自己陶酔」的な、「過剰修飾的文章」だと言えるでしょう。
前者は「素顔むき出し」であり、後者は「自分で作った(カッコいいつもりの)仮面」なんですが、やはり、所詮は同一人物の文章ですから、そこには「相通ずる」ものとして「個性」が感じられる。
それは「自意識過剰」で「大袈裟」で「自己顕示欲」が非常に強いといった、「暑苦しさ」とでも呼ぶべき、スロウ・ボートさんの「特性」です。
この評価(スロウ・ボートの文体論)を否定できる人は、そうはいないんじゃないかな?
無論、ご当人は拒絶・否定するでしょうが、それは当然のことだし、致し方のないことなんでしょう。
なにしろスロウ・ボートさんには、冷静さを生むものとしての、「自制心」とか「自己抑制」とか「ストイックさ」なんてものはかけらも無く、ぜんぶ吐き出してしまわないと気が済まないタチの人なんだから。
そしてそれこそが、「文は人なり」ということなんですね。
たぶん、スロウ・ボートさんは、とても神経が細くて、傷つきやすい人なんでしょう。だからそれを「過剰な装飾(文)」で覆い、自己を鎧っている。
だからこそ、シンプルなかつロジカルな文章を書けないし、書こうとすると、今回の「まえがき」みたいなものになってしまう。
無論、これはこれで、スロウ・ボートさんの「個性」ではあるんですが、あまり褒められた個性ではないと、私は評価します。
私の場合は、単純に「文章が下手」ですが、スロウ・ボートさんの場合は、絵に描いたような「悪文」。
まさに、「自己中」的な、独りよがりの「悪文」です。
だいぶ最初の頃に指摘したことですが、これが小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』みたいなフィクションにおいて、「異世界を構築するため」の意図的なレトリックなのであれば「面白い」と思います。
ですが、これをご自分の「リアル」を表現したものとして書いておられるのならば、やっぱり、かなり「痛い」。
スロウ・ボートさんが、本気で、この文体に表現されている「世界」に生きておられるのだとしたら、それはやはり「厨二病」的な「セカイ」という他ないでしょう。
無論「類は友を呼ぶ」と言いますから、波長が合って、こういうのが大好きな人も一定数はいて、それなりの需要はあるのかも知れません。
ですが私は、このように身も蓋もない人間だから、まったくついていけません。生理的にダメ。
昔、ミステリ作家の芦辺拓や二階堂黎人の文体がダメだったのと、同じことだと思います。
たぶん、スロウ・ボートさんご自身としては、ある種の「華麗な文章」を書いておられるつもりなのでしょう。そうでなければ、
> わたしは今、極秘の作戦/オペレーション・ウィリアム・ブレイク・リヴァイアサン/Operation William Blake Leviathan/が進行中です。コードネーム:〈スロウ・ボート〉〈滑稽と惨劇に彩られた喜劇、あるいは、悲劇〉の予感に満ちた、現在という時間/2025の中、わたしの〈行わざるを得ないこと〉があります。騒めき犇めき喚く、わが内なるダークサイドたちよ!
なんて「自己陶酔的な文章」を、うれしげに公にすることなんて出来ませんからね。
私なら最低でも、文末に「(笑)」を付けてしまうでしょう。
しかし、考えてみて欲しいのは、まともな知性を持った人は、誰も、スロウ・ボートさんみたいな、こんな文章は書かない、という事実です。
『黒死館殺人事件』みたいなフィクションや、ジャック・デリダみたいな特殊な狙いのある文章。あるいは、自意識過剰な年頃の中坊なんかは別にして、一一内心で何かを企み、独りほくそ笑みながら、こんな思わせぶりを書いて悦にいる、というのは、あまり健康な精神のすることではないと思います。
小栗虫太郎ではなく、夢野久作寄りですよ。
前述のような、ごくごく例外的な場合を除けば、当たり前の知性を持っている人なら、おかしなことなど考えずに、普通に「伝わる文章」を書くことでしょう。
なぜならば、普通の人は、何かを他者に伝えるために文章を書くのだから、「脳内自己完結」ではいけないと自戒しながら、伝わる文章を心がけるからです。
ところが、スロウ・ボートさんには、それがどうしても出来ないご様子。
頭の中で鳴り響いている言葉を、そのまま全部吐き出さないと気が済まない、といった体の「文体」なのです。
そもそも、スロウ・ボートさんとの、このやりとりは、千葉雅也の『センスの哲学』に対する私の読解が間違っているというスロウ・ボートさんの批判的指摘から始まり、その点について「議論しましょう」と提案なさるので、私は「いいですよ。ご意見をお聞きください」と受けたのですが、結局のところ、スロウ・ボートさんの『センスの哲学』擁護論というか、私の読解の問題点批判というのは、いまだにハッキリしないままです。
たしかに千葉雅也の本をほとんど読んでおられるというのはよく分かりましたが、たくさん読んでいるから、正しく理解しているとも思えません。ことに、引用したような文章を読まされたのではね。
つまり、あまりにも「センス」が無さすぎるのです。いくら自分を褒めた人の文章であっても、千葉雅也だって、スロウ・ボートさんの「あんな文章」は褒めないでしょう。
それに、それどころか今回のスロウ・ボートさんのご説明によると、スロウ・ボートさんは、ほぼ当初から「議論」をする気などなく、私のログを取って、それを残す(晒す)のが目的だったと、おっしゃる。
つまり、私を「ハメる」つもりだったということです。
ですが、そんなことをするために、毎回、あのように長々とした文章を書き、もう何ヶ月も、貴重な時間を私に割いて下さっているというのは、ある意味で、私に大変な価値を見出して下さっているとも言えるでしょう。
つまらないザコだと思っていたなら、ここまで手間暇かけてはもらえないでしょうからね。
こないだまでお相手していた「糞リプマン」さんとは、また違ったタイプだとは言え、私に腹を立てる人というのは、どこか似たところがあるように感じるのは、はたして気のせいなのでしょうか?
それとも、例えば両者に共通するのは「自分の現実を直視できない」とかいったようなことがあるのでしょうか?
まあ、私が、お二人の神経を逆撫でするタイプだというのは、間違いのないところなんでしょうね。
私を「悪い」と評価している、と言うよりは、「憎い」「腹が立つ」という感じが強いですから。
スロウ・ボートさんと「糞リプマン」さん、そこに「北村紗衣」を加えても、やはり「共通点」が見出せそうですが、今回はこれくらいにしておきましょう。
次回は、もう少し「冷静」を装った文章を書いて来られるのではないかと、期待しております。
あ、あとついでに、啄木鳥(気突き)から一首ご紹介しておきます。
わが胸に邪悪の森あり
時折に
啄木鳥の来て たたきやまずも
(夢野久作)
年間読書人
年間読書人さんの記事「千葉雅也 『センスの哲学』:「見る前に跳べ」と言われても…。」
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