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『僕らの未熟な蒼』第9章 完

第9章 僕らの未熟な蒼


 1

 意識が、遠くなっていった。

 暗い。どこかで誰かが叫んでいる。足音が増えていく。でも、だんだん遠くなる。痛みも、音も、全部遠くなっていく。

 凪紗。

 その名前だけが、頭の中に残っていた。次に会った時は、ちゃんと言おうと思っていた。今度こそ、言えると思っていた。

 どれくらい経ったのだろう。気がつくと、目の前に光が見えた。
 
 最初に気づいたのは、匂いだった。

 チョークの匂い。梅雨特有の、湿った重い空気。肌にまとわりつくような、あの感覚。

 目を開けると、ボードの天井があった。

 頭がぼんやりしていた。体を動かそうとすると、椅子の脚が床を引っ掻く音がした。椅子?なんで僕は椅子に座っているんだろう。さっきまで大通りにいたはずなのに。赤信号で待っていた。車が来た。それから——。

 周りを見渡すと、机が並んでいた。教壇。黒板。窓の外に広がる曇り空。

 教室だった。

 頭が、うまく働かない。夢なのか。それとも死んだのか。死ぬ間際って、こういうものなのか。走馬灯というやつなのか。でも走馬灯にしては、妙にリアルだ。チョークの匂いも、湿った空気も、椅子の硬さも、全部本物みたいだ。本物すぎる。

 ぼんやりしたまま、なんとなく隣を見た瞬間、息が止まった。

 ポニーテール。褐色の肌。頬杖をついて、窓の外をぼんやり眺めている。時折、思い出したようにノートにペンを走らせる。カリカリ、というペン先の音が、静まり返った教室に小さく響いた。

 凪紗だった。

 思わず声が出かかって、手で口を覆った。

 なぜ? なんで凪紗がここに?

 黒板の端に目が止まった。日付が書いてあった。六月。

 制服に目を落とした。中学の制服だった。袖が少し長い。一年生の頃、まだサイズに慣れていなかった、あの感覚がそのまま残っていた。

 今は……中学一年生の六月……。

 ゆっくりと、頭の中で何かが繋がっていった。

 病院。大通り。車のヘッドライト。夕暮れの空。凪紗の泣き声。そして——気づいたら、ここにいた。

 じゃあ、やっぱりこれは走馬灯じゃないのか。

 でもそうだとしたら、なんで僕は中学一年生の六月にいるんだ。なんで体が動くんだ。なんで匂いがするんだ。なんで——。

 隣から、また小さなペンの音がした。

 凪紗が、ノートに何かを書いている。その横顔は、二十六歳の凪紗じゃない。あの頃の、小麦色の肌に褐色の瞳。まだ何も知らない、中学一年生の凪紗だ。

 頭の中がぐるぐるしていた。でも一つだけ、はっきりと分かることがあった。

 ここには、凪紗がいる。

 それだけで、十分だった。


 手元を見ると、白い消しゴムがあった。

 この感触を、僕は知っている。これを机の端に追い詰めて、何度も指を止めて、それでも踏み出せなかった。あの頃の僕には、これしか方法がなかった。遠回りで、滑稽で、それでも精一杯だった。

 でも今は違う。

 ここが走馬灯なのか、現実なのか、まだ分からない。もし走馬灯だとしたら、こんな細かいところまで再現されるものなのか。チョークの匂い。湿った空気。椅子の硬さ。全部本物すぎる。でも、だからといってこれが現実だと断言できるほど、頭が整理できていない。

 考えてもきりがない。

 ただ、一つだけ分かることがある。

 隣に、凪紗がいる。

 それだけで十分だった。ここが夢でも現実でも走馬灯でも、どうせなら今度こそちゃんとやりたい。二十六年間、ずっと逃げ続けてきた。中学の時も、高校の時も、街ですれ違うたびに視線を逸らしてきた。

 もう逃げない。

 消しゴムを、机の端に向けてゆっくりと動かした。指が止まる。また動かす。また止まる。体は覚えていた。あの頃と同じように、手が震えている。でも今度は違う意味で震えていた。怖いんじゃない。緊張しているんだ。

 窓の外を見ると、梅雨の雨がしとしとと降り始めていた。グラウンドの水たまりが、雨粒で小さな波紋を作っている。この景色も、知っている。毎日見ていた景色だ。

 深く息を吸った。

 そして、指先でその白い塊を押し出した。

 コロン。

 乾いた音が、湿った教室の空気を震わせた。消しゴムは緩やかな放物線を描いて、凪紗の足元へと転がっていった。

 心臓の鼓動が、うるさく聞こえる。

 数秒の沈黙。

 カサッと制服が擦れる音がした。凪紗が、身を屈めた。視界の下から、褐色の指先が僕の机の上に滑り込んでくる。

「はい、瀬戸。落としたよ」

 その声が耳に届いた瞬間、胸の奥で何かが崩れた。

 あの頃の、透明な声だった。二十六歳の凪紗とは違う、まだ少し幼さの残る声。でも、紛れもなく凪紗の声だった。

 消しゴムを受け取ろうとして、指を伸ばした。今度は、少しだけゆっくりと。

 凪紗の柔らかな指の腹に触れた瞬間、あの時と同じ感触があった。でも今回は、逃げなかった。あの頃は静電気のように弾け飛んだこの感触を、今度はちゃんと受け止めた。0.1秒だけ、長く。

 ちゃんと、凪紗の目を見た。目を逸らさなかった。

「ありがとう」

 今度は、ちゃんと言えた。声も裏返らなかった。

 誰とでも笑い合えたはずの僕が、たった一人この人の前でだけ、どうしても自分らしくいられなかった。その日々を、今度こそやり直す。そのためにここに戻ってきたのかもしれない。走馬灯でも夢でも、それだけははっきりと分かった。

 凪紗が、ふっと笑った。

 あの頃と同じ笑顔だった。でも今の僕には、その笑顔がどれだけ特別なものか、分かっていた。

 教室の窓から、雨の匂いが漂ってきた。

 梅雨の六月。始まりの季節。

 今度は、ここから逃げない。

 翌日も、消しゴムを落とした。

 今度は少し計算してみた。授業中、凪紗が窓の外を見ている瞬間を狙って、そっと押し出す。コロン、という音に凪紗が気づいて、身を屈める。褐色の指先が伸びてくる。

「また落としたの?」

「消しゴムが、拾ってほしいって言ってたから」

 凪紗が一瞬止まって、それから吹き出した。

「なにそれ」

 笑ってくれた。それだけで、今日という日が全然違うものになった。

 その翌日も落とした。

「瀬戸、また?」

「……また言ってた」

「消しゴムが?」

「うん」

 凪紗が今度は堪えきれずに声を上げて笑った。前の席の子が振り返るくらいの笑い声だった。先生に「佐伯さん」と注意されて、凪紗が慌てて口を押さえた。でもまだ肩が揺れていた。

 消しゴムを返す時の、指先が触れる瞬間。その0.1秒が、一日の中で一番緊張する瞬間になっていた。

 さらにその翌日。今度は凪紗が先に声をかけてきた。

「ねえ、今日も言ってる?」

「え?」

「消しゴム」

 笑いを堪えた顔で、凪紗がこちらを見ていた。褐色の瞳が、少しだけ意地悪そうに光っていた。

「……今日はまだ」

「じゃあ聞いてきてよ。なんて言ってるか」

 消しゴムを手に取って、少し考えるふりをしてから言った。

「今日は眠いって言ってる」

「消しゴムが?」

「うん」

 凪紗がまた笑った。今度は声を抑えながら、でも目の端に涙が浮かぶくらい笑っていた。

 しばらくして、凪紗の方から話しかけてくることが増えた。消しゴムの話だけじゃなくて、授業のこと、給食のこと、他愛のないことを。

「先生の話、速すぎない?」

「速いよな。ノート追いつかない」

「でしょ!瀬戸って字、きれいじゃん。見せて」

 そう言いながら、凪紗がのぞき込んでくる。距離が近い。二十六歳の凪紗に慣れていた分、中学一年生の凪紗のこの無防備さに、心臓がついていかなかった。

「き、きれいじゃないよ」

「うそ、めちゃくちゃきれいじゃん。私のと全然違う」

 凪紗が自分のノートを広げてみせた。丸っこい文字が、行間からはみ出しながら並んでいた。

 なんか、可愛かった。

 そう思った瞬間、自分でも驚いた。二十六歳の凪紗を好きになったのは分かっていた。でもこの、まだ何も知らない中学一年生の凪紗のことも、やっぱりもう好きになっている。

 いや、違う。

 ずっと好きだったんだ。中学一年生の六月から、ずっと。

 放課後、帰り支度をしながら、凪紗が振り返った。

「ねえ瀬戸、将来どこで働きたい?」

「どこって?」

「東京とか、地元とか」

「東京、かな」

「でしょ!私も!」

 凪紗が嬉しそうに言った。

「将来、一緒に東京で働こうよ」

 ぐっと、胸の奥が詰まった。

 この子は知らない。あの十三年間を。すれ違い続けた日々を。全部知らないまま、こんなことを言っている。

 でも僕には全部分かっていた。

「……うん」

 それだけ答えた。声が少し震えた気がした。

 凪紗が「約束ね!」と言いながら、鞄を肩にかけて歩き出した。その背中を見送りながら、胸の奥がじわりと温かくなった。

 約束ね。

 その言葉が、ずっと耳の奥に残っていた。

 梅雨が続いていた。

 毎朝、教室に入るたびに、凪紗が「おはよう」と言うようになっていた。たったそれだけのことなのに、今日もここに戻ってこられたのか、という安堵と、また一日が始まる、という緊張が混ざり合って、複雑な気持ちになった。

 ここは本当に現実なのか。

 その疑問が、頭の片隅にずっと居座っていた。

 もしかしたら今の僕は、病院のベッドで眠ったままなのかもしれない。意識が戻らないまま、こんな夢を見ているのかもしれない。チョークの匂いも、梅雨の湿気も、全部本物みたいだ。でも脳は匂いも記憶するというから、夢の中でだって感じられるのかもしれない。

 それとも、本当にあの頃に戻れたのか。

 答えは出なかった。でも一つだけ分かることがあった。

 ここには、凪紗がいる。

 今はそれだけで、十分だった。

 掃除の時間だった。

 黙々とほうきを動かしていると、突然背中に衝撃が来た。

「やあ!」

 振り返ると、凪紗がほうきを構えて立っていた。目が笑っている。
 ああ、そういうことか。

「……受けて立つ」

 ほうきを構えた。

「お主が私に勝てるかな?」

 凪紗がにやりと笑いながら言った。

 ガチャガチャとほうきがぶつかる音が教室に響いた。隣でモップをかけていた男子が振り返って「何やってんだよ」と笑った。窓の外では、梅雨の雨がしとしとと降り続けていた。

 凪紗が笑いながら攻めてくる。僕もつられて笑っていた。正面から受け止めて、押し返して、また攻めてくる。制服の袖がほうきに引っかかって、凪紗が「あ」と言いながらよろけた。咄嗟に腕を掴んだ。

「大丈夫?」

 凪紗が僕の顔を見て、一瞬だけ固まった。距離が近かった。

「……うん、ありがとう」

 少しだけ、耳が赤かった気がした。

 そこで先生に見つかった。

「佐伯、瀬戸!ちゃんと掃除しなさい」

 二人同時に「すみません」と言って、ほうきを元に戻した。凪紗が小声で「先生来るの早すぎ」と言って、肩を震わせて笑っていた。

 つられて、僕も笑った。

 声を出して笑ったのは、いつぶりだろう。少なくとも、あの大通りで車を見た瞬間からは、笑えていなかった気がした。

 窓の外で、梅雨の雨がまだ降り続けている。

 ここが夢でも現実でも、今この瞬間は本物だと思った。


 放課後、鞄を持って教室を出ようとした瞬間、凪紗が飛び込んできた。

「瀬戸、図書委員一緒に行こう!」

 同じ図書委員だけど、一緒に行こうと誘われたのは初めてだった。

「待ってたの?」

「待ってた!」

 即答だった。なんか嬉しかった。

「じゃあ行こうか」

 廊下を並んで歩きながら、凪紗がちらっとこちらを見た。

「ねえ、図書委員の仕事終わったら数学教えてくれない?全然わからなくて」

「俺が?」

「そう。なんか得意そうじゃん」

「……いいよ」

 凪紗が「やった!」と小さくガッツポーズをした。

 その横顔を見ながら、なんか不思議な気持ちになった。あの頃の凪紗は、僕に数学を教えてとは言わなかった。この時間は、やり直したからこそ生まれた時間だ。

 図書室のドアを開けると、雨の音がした。窓の外では、梅雨の雨がまだ降り続けていた。

 返却された本を棚に戻しながら、凪紗が隣を歩いていた。

 書庫は狭かった。二人並ぶと、肩が触れそうになる。凪紗が背伸びして高い棚に本を戻そうとして、届かなかった。

「貸して」

 手を伸ばして、本を棚に差し込んだ。凪紗が「ありがとう」と言って、少しだけ照れたように前を向いた。

 仕事を終えて、窓際の席に並んで座った。凪紗が教科書とノートを広げる。鉛筆を持つ手が、少し緊張しているように見えた。

「ここが分からなくて」

 凪紗が指差したのは、比例のグラフだった。

「どこが分からない?」

「全部」

 正直すぎる答えだった。思わず笑うと、凪紗が「笑わないでよ」と言いながら、でも自分でも笑っていた。

 並んで教科書を見ながら、説明した。凪紗が真剣な顔でノートにメモする。時々「なんで?」と聞いてくる。その度に、もう一度説明する。

「あ、分かった!」

 凪紗がぱっと顔を上げた。褐色の瞳が、嬉しそうに光っていた。その顔が近かった。

「よかった」

 それしか言えなかった。

 しばらく二人で問題を解いていた。雨の音だけが、静かに聞こえていた。

 こんな時間を、あの頃の僕は知らなかった。凪紗と並んで座って、同じ教科書を見て、笑い合って。全部、あの頃にはなかったことだ。

 でも今はある。

 凪紗が鉛筆を置いて、伸びをした。

「疲れた。瀬戸って教えるの上手いね」

「そうかな」

「うん。なんか分かりやすい」

 窓の外の雨が、少し弱くなっていた。

「また教えてくれる?」

 凪紗が、こちらを見ながら言った。

「うん」

 即答していた。

 凪紗がふっと笑った。その笑顔が、あの頃と同じで、でも今の僕には全然違う意味を持っていた。

 走馬灯でも、現実でも。

 この時間だけは、本物だった。

 書庫は、放課後になると静かだった。

 返却された本を棚に戻しながら、凪紗が隣を歩いている。肩が触れそうなくらい近い。意識しないようにしながら、次の本を手に取る。

 凪紗が背伸びして高い棚に本を戻そうとして、届かない。

「貸して」

 手を伸ばして、本を棚に差し込む。凪紗が「ありがとう」と言って、少しだけ照れたように前を向く。その横顔が近くて、視線をどこに向ければいいか分からなかった。

「瀬戸って、好きな本ある?」

「東野圭吾とか」

「あー、私も好き!他には?」

「……村上春樹」

「え、あれエロくない?」

 固まる。

「なんで知ってるの?」

「お姉ちゃんが読んでた。ちょっと見たら全然違う話だった」
 凪紗がけらけら笑う。

「瀬戸ってエッチなんだ」

「違う」

「エロい本読んでるじゃん」

「違うから」

「エロい、エロい——」

 凪紗が笑いを止める。

 気づいたら、顔が近かった。じゃれ合いながら、いつの間にか距離が縮まっていた。凪紗の瞳が、すぐそこにある。褐色の、大きな瞳。

 心臓がうなる。

 凪紗の耳が、じわっと赤くなっていく。

「……勉強しよっか」

 凪紗が先に前を向いて、次の本を手に取る。

 窓際の席に並んで座り凪紗が教科書とノートを広げる。

「ここが分からなくて」

 凪紗が指差したのは、比例の一問だ。説明しながら、隣に座る凪紗の息遣いを感じる。近い。教科書を指差すたびに、指先が触れそうになる。それだけで、頭がうまく働かない。

 凪紗がノートに答えを書いて、こちらに向ける。

「合ってる?」

「合ってる」

「やった!」

 次の問題を説明しようとすると、凪紗がぼんやりと窓の外に視線を向けた。

「聞いてる?」

「聞いてる聞いてる」

 でも鉛筆を持つ手が止まっていた。しばらくして、凪紗がこちらの腕をつんつんとつついてくる。

「なに」

「雨、また降ってきた」

「関係ないでしょ」

「なんか眠くなってきた」

 またつついてくる。反射的にその腕を掴んだ。今度は反対の手だ、その手もとっさに掴む。でも凪紗は諦めない。両腕を塞がれたまま、笑いながら体重をかけてくる。

「まだ来る?」

「まだ来る!」

 押し返すと、また来る。凪紗が笑いながら必死に向かってくる。こちらも笑いながら抵抗する。そのうち距離がなくなっていく。

 凪紗の顔が、近い。

 息が感じられるくらい、近い。

 石鹸の香りがした。

 中学の時から、ずっと知っていた匂い。

 一瞬の出来事なのに、世界はゆっくり流れていた。まるでスローモーションのように。

 気づいた時には、もう遅かった。

 唇が、触れた。

 柔らかかった。さっきまでのざわめきが、一瞬で消えた。世界がこの一点に凝縮されたみたいに、静寂に包まれた。僕は息の仕方を忘れてしまった。

「ご、ごめん」

 反射的に謝りながら、凪紗がゆっくりこちらを向くのを見ていた。怒っているのか、恥ずかしいのか、耳まで真っ赤で、その顔から目が離せなかった。

「ごめん」

 もう一度謝った。

「……瀬戸だから、許してあげる」

 ニコッと笑顔を見せ、さっと顔を教科書に向けた。

 瀬戸だから。その言葉の意味が、うまく飲み込めない。怒ってはなさそうだった。でも他の誰かだったら許さなかったということなのか。それとも…。

 答えは出なかった。でも胸の奥で、何かが静かに燃えていた。

 窓の外で、雨がまた降り始めていた。

 あの日から、凪紗との関係が変わった気がした。

 図書委員の仕事が終わると、自然に並んで帰るようになっていた。特に約束をしたわけじゃない。でも「じゃあね」と言うタイミングが、だんだん遅くなっていった。校門を出て、帰り道を並んで歩いて、それでもまだ話し続けた。

 好きだ、と言いたかった。

 何度もそう思った。でも、いざ隣にいると、言葉が出てこなかった。

 ここが現実なのか走馬灯なのか、まだ分からない。もし告白して、うまくいったとして。その先の未来は、あの十三年間とは全然違うものになる。

 高校も一緒に行けるかもしれない。大学も、就職も。東京に来るのが一人じゃなくなるかもしれない。

 でも逆に、何かが変わってしまうかもしれない。野原や成瀬との出会いもなくなるかもしれない。友人として出会えたあの二人のことを、凪紗は知らないままになるかもしれない。

 付き合えたとしても、別れるかもしれない。中学一年生で好きになった気持ちが、ずっと続くとは限らない。十三年間想い続けたのは、結ばれなかったからかもしれない。手に入らなかったから、ずっと好きでいられただけかもしれない。

 それでもいいのか。

 それとも、どうせここは夢だから何も変わらないのか。

 考えれば考えるほど、頭がぐるぐるした。

 ある放課後、図書室の窓際に並んで座っていた。梅雨が明けて、空が少しずつ青くなり始めていた。凪紗がぼんやりと窓の外を眺めている。

「ねえ」

「なに」

「夏休みってどこか行く予定あるの?」

「特に予定はないな~。佐伯は?」

「私もー。じゃあ一緒にどこか行こうよ!水族館とか、花火とか!」

 ドキッとした。

「急に候補多いな」

「だって夏じゃん!夏は色々やらなきゃ損だよ」

 凪紗が身を乗り出して言った。その目が、夏の空みたいに明るかった。こういう顔が好きだ、と思った。

「ん~じゃあ花火大にしよ!浴衣着てくからさ!美女の浴衣姿見たいでしょ?」

 笑いながら凪沙が言った。冗談っぽく聞こえるけど、なんか本気に聞こえた。

「見たい」

 笑いながら即答していた。

「でしょ!じゃあ決まり。約束ね」

「それってデートみたいじゃん」

 言ってから、しまったと思った。

「デートでいいじゃん」

 さらっと言った。凪紗はもう窓の外を向いていた。

 デートでいいじゃん。その言葉が、頭の中でしばらく消えなかった。

 未来が変わってもいいかもしれない、と初めて思った。

 窓の外では、夏の空が広がり始めていた。

 花火大会の日は、蒸し暑かった。日が落ちても、アスファルトから熱気が立ち上っていて、駅前の噴水の前に着いた時には、もうシャツが背中に張り付いていた。噴水の周りには同じように誰かを待っている人がたくさんいて、浴衣姿の人も多かった。その中に凪紗を探した。

 すぐに見つかった。

 浴衣だった。淡い青地に白い花柄で、髪をまとめてうなじが見えていた。人混みの中でスマホを見ながら立っていて、周りが浴衣姿の人だらけなのになぜか凪紗だけが目に入った。

 声をかけようとして、足が止まった。

 綺麗だ。僕が好きになった人は、綺麗だった。

 深呼吸をして、近づいた。

「凪紗」

 思ったより小さい声が出た。でも凪紗はすぐに顔を上げた。スマホから目を離して、こちらを見た瞬間、ぱっと顔が明るくなった。

「遅い!」

 怒っているはずなのに、嬉しそうだった。

「ごめん」

「どう?浴衣」

「……綺麗」

 凪紗が少し照れたように笑って、視線を逸らして髪を触った。その仕草が、なんか可愛かった。

「じゃあ許してあげる」

「行こうか」

 歩き出した凪紗の隣を、ついていった。下駄の音が、夏の夜道に軽やかに響いていた。

 会場に近づくにつれて、人が増えてきて、焼きそばや砂糖の甘い匂いが漂ってくる。どこかから太鼓の音も聞こえていた。

 人混みに入った瞬間、凪紗が「はぐれそう」と言いながら、自然と手を伸ばしてきた。浴衣の袖からのぞいた細い手首が、ゆっくりとこちらに近づいてくる。

 指が絡まった。思ったより小さい手で、指が細くてか弱い感じがした。その体温がじわりと手のひらに伝わってくる。頭の中がうまく働かなくなっていく。手汗が止まらない。恥ずかしかったけど、離せなかった。離したくなかった。

「あんず飴食べたい」

 凪紗が手を繋いだまま言う。こっちはまだ頭が真っ白なのに、彼女は食べ物に意識がいってる。気が気じゃないのは僕だけなのか。

 あんず飴の露店を見つけて、列に並んだ。おじさんが割り箸に刺さったあんずを、透明の水飴の中にくぐらせて、ゆっくりと引き上げると、飴がとろりとあんずを包んでいく。

「きれい」

 凪紗が小声で言った。

 二本買うと、おじさんが凪紗に手渡した。凪紗がそのうちの一本をこちらに差し出してくる。モナカの底を持ちながら「はい」と言って。受け取ろうとして底に指を添えた瞬間、凪紗の指に触れた。何回触れても、ドキドキはなくならなかった。気づいたら笑顔になっていた。

「なに笑ってるの、そんなに食べたかった?」

 凪紗がこちらを見ながら言った。

「……そう」

 答えながら、あんず飴を一口かじった。あんずの酸味と水飴の甘さが混ざって、夏の夜の空気の中に溶けていく。

 ふと、凪紗の口元に目がいった。水飴が付いた唇がきらりと光っていた。

 図書室のことを思い出した。あの瞬間が、頭の中で蘇ってくる。顔が熱くなった。花火大会の暑さのせいだけじゃない。

「すっぱい、でも美味しい」

 凪紗が夢中で食べていた。気づいていないのが、救いだった。


手を繋いだまま、凪紗に引っ張られるように露店を見て回った。たこ焼き、金魚すくい、射的。凪紗があちこちに視線を向けながら、人混みをぐいぐい進んでいく。その度に繋いだ手が引っ張られて、ついていくのに少し必死だった。

 そんな中に、お好み焼きの香ばしい匂いが漂ってきた。

「あ〜いい匂い、お好み焼き食べたい!」

 凪紗が立ち止まって、鼻をひくひくさせた。

「食べよっか?」

「食べる〜!でも一個は多いかも」

「じゃあ半分こしよ」

「いいの?じゃあそうする!」

 お好み焼きの露店に3人並んでいた。鉄板の前に立っていたのは金髪の若い兄ちゃんで、手際よくお好み焼きを焼きながら、慣れた手つきでソースとマヨネーズをかけていく。じゅうじゅうという音と、香ばしい匂いが漂ってくる。前の客が受け取って、ようやく自分たちの番になった。

「一つください」

 凪紗が言った。やんちゃそうな兄ちゃんがすでに焼いてあったお好み焼きを、半透明の袋に入れて渡してくれた。受け取った瞬間、じんわりとした熱が手のひらに伝わってくる。割り箸を一膳もらって、凪紗と顔を見合わせた。

「早く食べたい」

 凪紗が言いながら、袋の上からお好み焼きを触って「あっつ」と言った。

 土手はもうびっしりと人が座っていた。

「場所が空いてな〜い」

 凪紗が困った顔をした。

 人の波をかき分けながら奥へ奥へと進んでいくと、ようやく少し隙間を見つけて、二人で滑り込んだ。

「ここでいいか」

「うん!」

 土手に場所を確保して並んで座った。

 割り箸を一膳しか貰っていなかったことに、座ってから気づいた。

「一本ずつ使う?」

「それじゃ食べにくいじゃん、交互に使おう」

 凪紗があっさり言った。交互に、という言葉の意味を考えたら、顔が熱くなった。花火大会の暑さのせいだけじゃない。

 凪紗が一口食べた瞬間、「あっつ!」と言いながら口をあんぐり開けてはふはふしてる。

「熱いなら待てばいいじゃん」

その顔が面白くて、笑いながら言った。

「待てなひよ〜、熱いから美味ひんじゃ〜ん」

そう言いながら、まだはふはふしている。

「はひ」

 そして凪紗から割り箸が渡された。さっきまで凪紗が使っていた割り箸だ、と思いながら、僕はドキドキしていた。

 妙に意識してぎこちない動きでお好み焼きを切り、一口食べたら普通に熱くて僕までもはふはふしてしまった。

「あつひ」

でもなぜか、いつも以上に美味しかった。割り箸を返すと

「はい、あーん」

 突然凪紗が割り箸でお好み焼きをひと切れ持って、こちらに向けてきた。

「えっ?」

「あーん」

 からかってるのか。でも表情は至って真剣だった。周りに誰か見ていないか、思わず視線が泳いだ。花火大会の土手で、人はいくらでもいる。恥ずかしかった。でも凪紗はそのまま待っている。

 観念して口を開けると、凪紗がそのまま食べさせてくれた。熱かった。でもそれより顔が熱かった。

「かわいい!」

 凪紗が言った。

 かわいい?それはどういう意味?あーんで食べたのがかわいいのか。それとも別の意味があるのか。考えながら、お好み焼きを飲み込んだ。

 食べ終わる頃には、さっきまで賑やかだった周りの話し声がだんだん静かになっていて、気づけば空が完全に暗くなっていた。

 ドン、という音とともに、最初の花火が上がった。

 凪紗が「わあ」と小さく声を上げた。光に照らされた横顔が、一瞬だけ見えた。

 綺麗だ、と思った。花火じゃなくて、凪紗が。

「あの大きいの、なんていう花火か知ってる?」

「知らない。なんていうの?」

「私も知らない」

 凪紗がけらけら笑った。つられて、僕も笑った。

 花火が上がるたびに、光と影が凪紗の顔を照らした。赤く染まったり、青く染まったり。そのたびに違う顔に見えた。全部、綺麗だった。

「ねえ、花火って儚いね」

 凪紗がぽつりと言った。

「うん」

「パって咲いて、すぐ消えちゃう。でもそれがいいのかな」

 空を見上げながら凪紗が言った。その横顔が、どこか遠くを見ているようだった。

 肩が触れていた。離れなかった。凪紗も離れなかった。

 言おう、と思った。今日じゃないと、もう言えない気がした。

「佐伯」

 大きな花火が上がった直後、静かになった瞬間に、声が出た。

「なに?」

 凪紗がこちらを向いた。光に照らされた瞳が、真っ直ぐこちらを見ていた。

「好きだ」

 言えた。13年間心に溜めた気持ちを伝えることができた。

 凪紗が、少しの間、固まっていた。また花火が上がった。光の中で、凪紗の耳が赤くなっていくのが見えた。

「……知ってた」

「え?」

「消しゴムの時から」

 やっぱりばれていたのか。でも、なんか嬉しかった。

「じゃあ、返事は?」

 凪紗がまた少し黙った。大きな花火が上がって、空が明るくなった。

「……私も」

 そう言って、凪紗は花火の方に視線を戻した。耳がまだ赤かった。横顔が、花火の光に照らされるたびに、違う色に染まっていた。

 二人で並んで、最後の花火まで見た。何も言わなかったけど、その間が嫌じゃなくて心地よかった。肩が触れたまま、ずっとそこにいた。花火が上がるたびに凪紗が少しだけ肩に体重をかけてくる。跳ね返すと、また寄りかかってくる。それを繰り返しながら、花火を最後まで見た。

 帰り道、凪紗が綿菓子を買った。ふわふわのピンクの綿菓子を二人で分けながら、夜道を歩く。下駄の音が静かな夜道に響いていた。

 人混みが途切れた瞬間、凪紗が急に走り出した。数歩先で止まって、くるっと振り返った。浴衣の裾が、ふわっと揺れた。

 とびっきりの笑顔だった。夏の夜の中で、その笑顔だけが光って見えた。

「ねえ、またおそば食べに行こうよ。ね、ゆーくん!」

 え??

 ゆーくん?

 今、ゆーくんって言ったか。

 おそば……。

 なんで、おそばを知ってるんだ。

 凪紗はもう歩き出していた。夏の夜の中で、浴衣の背中が揺れていた。

 なんで。

 なんで知ってるんだ。

 凪紗が振り返った。

「何してるの、早く来て!」

 笑っていた。とびっきりの笑顔で。

 僕は、その笑顔を見つめたまま、しばらく動けなかった。

エピローグ 

 
 ゆーくんが「ごめん」と言った。耳まで真っ赤になりながら、ひたすら謝っていた。

 可愛い、と思った。狙ってたのに。ぶつかったのは、全部私のせいなのに。

 前の私は、できなかった。ずっとできなかったから、今度こそって思ってた。ゆーくんが「ごめん」って謝るから、笑いそうになるのを必死にこらえながら、

「……瀬戸だから、許してあげる」

 そう言って、教科書に目を戻した。

 顔が熱かったけど、ちゃんとできた。

 だって、ファーストキスは私がしたかったんだもん。





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