見出し画像

永遠に紡がれる生命の詩:20世紀最大の生物学的発見と、その裏側

#人類を変えた足跡
シリーズ物語 第六十八回

1953年4月25日

生物学者WatsonとCrickがDNAの二重らせん構造を初めて提唱

1951年の秋、23歳のWatsonはアメリカからイギリスのケンブリッジ大学へ渡り、キャヴェンディッシュ研究所に加わった。そこで彼は、一回り年上でありながら未だ博士号を取得していなかったCrickと出会い、共にDNAの研究に乗り出すことになる。当時、この若き二人が歴史的な謎を解き明かすことになろうとは、誰一人として想像していなかった。

それまで細胞遺伝学を専攻し、野鳥観察を趣味としていたWatsonと、物理学者であったCrick。歩んできた道が全く異なる二人であったが、Schrödingerの著書『生命とは何か』に触発され、生命の暗号を解読したいという抗いがたい熱狂を共有していた。出会ってすぐに意気投合した彼らは、DNAの構造さえ解明できれば、生命の神秘は次々と白日の下に晒されるはずだと固く信じていたのだ。

当時、世界では少なくとも3つの陣営がDNA構造の第一発見者になろうと、水面下でしのぎを削っていた。1つ目は、X線回折法を用いてDNAの結晶構造を研究していた、ロンドン大学キングス・カレッジのWilkinsらが所属する生物物理学研究室。2つ目は、すでにタンパク質のαへリックス構造を提唱していたカリフォルニア工科大学の偉大な化学者、Linus Paulingの陣営。そして3つ目が、WatsonとCrickのいるキャヴェンディッシュ研究所である。先の2つのグループと比べると、彼らのチームはいささか素人じみて見えた。何しろ、この二人の若者には、確固たる化学のバックグラウンドが欠けていたからだ。

しかし幸運なことに、二人の専門知識は実に見事な相互補完関係にあった。生物の構造に対するWatsonの独自の見解と、CrickのX線回折分析に関する知識が融合することで、当時入手可能だったDNA構造に関するあらゆるデータを驚異的な速さで消化することができたのである。そして、彼らはFranklinから完璧なDNA結晶学のデータを入手し、ある1枚のX線回折写真から、DNAが2本の長い鎖からなる二重らせん構造であることを確信した。

後年、Watsonは当時の衝撃をこう振り返っている。「その写真を見た瞬間、口は開きっぱなしになり、鼓動は激しく鳴り響いた」。ただし、今日に至ってもなお、彼らがそのデータを入手した経緯については議論の余地が残されている。

ほどなくして、二人は寝食を忘れてDNAの三次元モデルの構築に没頭し始めた。そしてついに1953年4月25日、学術誌『Nature』にWatsonとCrickによる簡潔にして洗練された歴史的短報「核酸の分子構造:デオキシリボ核酸の構造」が掲載された。ここにDNAの二重らせん構造モデルが誕生し、生命科学への探求は分子レベルへと突入したのである。

1962年、この論文によりWatsonとCrickはノーベル生理学・医学賞を共同受賞した。興味深いことに、人類の科学史を根底から覆したこの短報の結びにおいて、意気揚々とした若き二人は、極めて抑制を効かせた、いささかイギリス的なユーモアすら感じさせる筆致でこう記している。「我々が仮定した特定の塩基対形成が、遺伝物質の複製機構の可能性を示唆していることを見逃してはいない」。

生命の最も深遠なる秘密は、このさりげない一言によって、扉を開け放たれたのである。

1953年、タバコの煙と冷めたコーヒーの匂いが染み付いたケンブリッジの一室。そこにあったのは、ただの塩基とリン酸、そして糖が織りなす螺旋の階段ではない。それは、天才たちの閃き、終わりのない暗闘、そしてRosalind Franklinが残した「51番の写真」への消えることのない感傷……幾重もの人間の業が絡み合った、息を呑むほどに美しい「理性の結晶」だった。

科学の歴史は、決して白百合のように無垢な物語ではない。泥臭い野心と狂気じみた執念を抱えた人間たちこそが、神がひた隠しにしてきた生命の設計図を無理やりこじ開けたのだ。

我々という個の肉体は、やがて等しく灰となり、時の彼方へと消え去る運命にある。しかし、あの優雅に螺旋を描く二重の鎖だけは違う。解きほぐされては結びつき、永遠の複製を繰り返すことで、生と死の境界線すら軽やかに飛び越えていく。「生きるとは何か」——その根源的な問いに対する答えを、終わることのない一篇の壮大な叙事詩として、今も我々の細胞の中で歌い続けているのだ。

いいなと思ったら応援しよう!