26年間の実家ぐらし。ヘラクレスオオカブトの飼育ビジネスをするまで
ぼくは夢がない人間だと思っていた。高学歴で立派な大企業に就職して、かわいい奥さんをもらう、敷かれたレールでのし上がっていく、その予定だった。
しかし、現実はどうだ。
18歳で起業して、大東文化大学に進学し、ナンパして情報商材を売るようになり、大学中退して、ヘラクレスオオカブトを趣味で育てるようになったら気づけば会社を設立していた。
「高校時代に起業して、若くして自由を手に入れた成功者」だなんてサクセスストーリーは表面的なものでしかない。
ぼくがどこで生まれ、どんな家族のなかで、どんな人生を歩んできたのか。なぜナンパしたり、大学を中退して、ヘラクレスオオカブトを飼育して販売するようになったのか。
親や同級生には話せないようなことまで、腹を割って話していく。
父は印刷業で人事部の部長に勤めていた。今は還暦をこえて朝は散歩をし、猫にエサをあげて、資格勉強にハマっている。
ぼくが小さいころ、会社では「鬼部長」と、陰で呼ばれてたらしい。毎朝5時に起きて、家族に弱音を吐かずに「それじゃあ行ってくる」といって出勤をしていた。
いつも重そうなカバンを右肩にかけて、少しサイズ感の大きい分厚いスーツを着て、革靴を履く、父の後ろ姿はザ・大人だった。
レンズが厚い、細い銀縁のメガネをかけて、常に眉間にしわが寄っているイメージだった。真夏なのにスーツを着ていて、
「なんで真夏なのに長ズボン履いてるんだろ?短パンのほうが涼しいのに…」
と、子どもながら不思議に思った。
そんな会社で「鬼」と呼ばれる父でも、家では母の尻に敷かれていた。母は、本当に厳しいひとだった。他人の意見をひとつも聞かないまま独断で物事を進めるタイプだ。
たとえば、小学1年生のころ学校から帰ってきてソファでテレビを見ていると、スタスタと母が目の前に現れて、「これからスイミングスクールいくよ、早く支度して!」と腕をつかまれた。
スイミングスクール?支度?
なんのことかさっぱりなまま自転車の後ろに乗って、スイミングスクールに連れてかれた。それから毎週2日、火曜と金曜はプールで泳がなければならなかった。
友だちと遊びたい、と言っても聞いてくれない。有無を言わさず、いつも「やりなさい!」である。出てくる言葉はいつも命令形で強引だった。
学校から家に帰って、20分かけてチャリでプール場に通い、2時間の猛練習をして、いつも鼻水が止まらなかった。水泳のあとはいつも風邪をひいていた。5年かけてスイミングスクールで最後の階級までいき、帽子が黒色になってやっと辞めることができた。
ときには溺れそうにもなったし、体力の限界まで泳がないといけない練習もあった。とにかく水泳のあとに必ず風邪をひいてしまうのがキツかった。
あるとき水泳の練習を黙ってサボったときがある。休んで友だちと遊んでいたのが発覚して、「もうウチの子じゃありません!」と言われ、夜遅くに追い出された。どんなに玄関のドアを叩いても入れてくれない。
本当に家に入れてくれないんだと思い、真っ暗のなか公園まで行き、ブランコに座って沈んでいた。外灯がひとつしかなく、たびたび通る人影にビビっていた。
過去に一度、不審者に遭ったこともあり恐怖で足が震えていた。不審者に会ったらどうしよ…。トイレにも行きたいが、公園にはない。
1時間近く経っても、母は迎えに来なかった。今思えば、まだ小3の8才なのに20時すぎまで外に追い出してるなんて頭がおかしい。
父が帰ってくるのを祈って、公園からもどりマンション玄関口、エントランスの隅にしゃがんで、ぐずぐず泣いていた。すると、近所の友達であるゆうきんママが通りすがった。
「どーしたの?」
泣きながら上手く言葉にできず、家から追い出されたことを話すと、
「まぁ〜、そうだったの。こうちゃん(おれ)は夕飯たべたの?」
「ぐっ、、、うっ、、、まだ・・・」
「これから家で食べない?ここじゃ寒いでしょ」
「うっ、、、まっ、、、、ママにっ、お、、怒られないっ?」
「わたしから話しとくから、ユウもいるからいっしょに夕飯食べてこうよ」
夕飯ででてきたのはカレーだった。いつも夕飯は牛乳かお茶しか飲んじゃダメで、オレンジジュースが出てきたときは衝撃だった。カレーも味が濃くて家じゃしないのにおかわりをした。ゆうくんの家には、うちにはないゲーム機とカセットもたくさんあった。
そこで思ったのだ。
「もしかしたら、ぼくん家ってお金持ちじゃないかも」
貧乏ではないんだろうけど、中の下くらいなんだと感じた。
ゆうくんにゲームでボコボコにされて、それはそれで泣きそうにながら、そのあいだにゆうくんママが母をマンションの廊下で説得してくれた。ぼくは夕飯におじゃましてなんとか帰ることができた。
この経験から母を怒らせたら居場所がなくなると、強くトラウマになって反発することがなくなっていた。
母は、いわゆる教育ママだった。5つ離れた姉は、バレエ→ピアノ→習字→塾と習い事と教育にめちゃめちゃお金をかけていた。
姉は中学受験をして、都内にある私立のお嬢さま学校に通っていた。自分にはあまりお金をかけてもらえてないのに、なぜ姉だけこんなに金がかかっているのか子どもながらに不気味だった。
母はよく書店でドリルを買ってくるようになり、自分にそれを解く時間を定期的に作っていた。進研ゼミをやるようになると、母がエアロビに行っているあいだに指定されたページ数を解き終わっていないと雑誌を丸めて、ぼくの頭をひっぱたいていた。
ミスをすると、「なんでこんなこともわからないの!」とゲンコツが飛んでくる。しかし、解き終わって満点になるとアイスを食べてよかったり、ミスドを食べてもよかった。そのスパルタ教育のおかげで小学校の勉強で困ることはなかった。
なぜそこまで勉強熱心だったのか、大人になってから訊くと、どうやら母は大学に入れなかったのを心底、後悔していたそうだ。
「一人暮らししてたときに知らない男が家に入ってきたり、就職に困った、いろんな大人から舐められてた」
それ以上のことは今でも話してくれない。学歴コンプレックスの塊だった。
親からやらされていた習いごとのなかで唯一、夢中になれたものがあった。それが、サッカーだった。
小さい頃から家族といっしょに高校サッカーの試合を見に行って、応援している市船(市立船橋)が勝つと自分のように嬉しかった。
幼稚園からサッカーを始めて、実際は下手くそなんだけど、 なぜか「世界一上手い」という謎の自信があった。なにを基準に上手いのかさえ知らなかった。
常にみんなの先頭に立ち、「俺が!キャプテン!」と言い張る目立ちたがり屋だった。サッカーをしているときだけ、無敵のヒーローになれた気がした。
小学生になると、周りよりも上手い状態でサッカーができた。チームで強いやつと肩を並べ、ドリブルでディフェンス陣をするする抜くと、簡単に点が入る。これが楽しくて仕方がなかった。
そしてチームもまあまあ強くなり、市の大会で初めて優勝することになる。初の金メダル、大会が終わったあと車の中で親から褒められるのも嬉しくてしょうがなかった。将来の夢が、サッカー選手だった。
どんどん練習してチームが強くなっていく。そして大会に出て順位が上がったり下がったりを繰り返す。いつも試合に出られてチームに貢献できる。厳しい両親もサッカーのときだけは褒めてくれた。それだけでよかった。
しかし小学 4 年生になると一気に変わった。まずコーチが入れ替わって、コーチが大学生コーチになった。そいつになってから練習内容が急激に変わっていく。とにかく、ひたすら走らされる。
6対6から、8対8になったりコートがだんだんデカくなっていくので体力をつけないといけないのはしょうがなかった。しかし、当時の小学生チームはその練習に追いつけずにいた。地獄のはじまりだった。
ビリから5番以内になったらグランドもう一周。
制限時間内に全員が間に合わなければもう一周。
とにかく走る。高校サッカーと似たようなメニューだった。それで強くなるならまだしも、チームはだんだんと大会で勝てなくなった。
順位が下がるにつれて厳しくなる練習メニュー。最初 30 人 いたチームが 11 人までに減った。すると 1 つ下の学年から選手を借りる頻度かも増えた。
練習に出るたび、目が死んでいく。ぼくが試合に出る頻度も少なくなった。
練習試合でいくら点やアシストを決めても、県のトレセンで選手に先発されたときがあっても、学校チームの公式試合には使われなかった。ガリガリだったぼくは年下のガタイのいい奴にポジションを奪われた。
そのタイミングで父の役職が、部長→課長に役職が下がった。原因は、会社のパソコンを紛失してしまったからだ。
ここから親の機嫌も悪くなり、ケチ具合に磨きがかかるようになる。
たとえば、そのころ流行っていた『ムシキング』があっても、やらせてくれなかった。友だちから要らなくなったカードだけもらって、たまに友だちママたちといっしょに遊んだときだけ母にねだると遊ばせてくれた。
母は、他人からの目を異常に気にする性格だった。その場だけ、気の良い母を演じる。それ以外のときは、ムシキングに100円でもやらせてくれない。
周りがDSや、PSPをもっていても自分はとなりで眺めているだけ。輪のなかに入っていっしょに遊びたいけど遊べない。
やっとPSPが手に入ってモンハンを買っても、まわりはG級になっている。バグ猫を使って追いついても、下手なままだから楽しめない。
DSを持つことができたタイミングには、まわりはすでに任天堂Wiiで、Wiiスポーツやスマブラをしていた。流行に一歩、二歩と遅れていた。
自分でお金を使わずに、おこぼれをもらう価値観ができあがっていた。
父は、会社だけではなく家でも鬼の顔になっていた。
とくにサッカーの大会や練習試合の終わりに親の車に乗るのが恐くなった。だんだん説教を食らうようになった。
「なんであそこもっと相手に強く当たらないんだ、ビビっ てる場合じゃないだろ!ミスも多いしもっと試合中、集中してプレーしろ!」
車をわざわざ停めて父に散々、怒られた。母もいたら便乗して怒られていた。練習や試合に、母や父がくると極度にビビってしまいミスを連発していた。
全身に力が入ってしまって上手くトラップやパスができないのだ。その様子を大学生コーチが、こっちの背景も知らずブリキのおもちゃのように真似てディスるようになった。
コーチに怒られていると、帰りの車でも父に怒られる。もう説教が嫌すぎて耳を両手で塞いでいた。練習試合でも自分の車で来ているのに、友だちの車に乗せてもらうようにした。好きなサッカーがどんどん嫌いになっていく。
試合に出なければミスをすることもない、親から怒られることもない。土日の練習もしなくていい。気軽に友だちと遊ぶことができる。早く楽になりたい。
そう思って親に何回も何回もサッカーをやめたいと伝えた。しかし通じなかった。
「男なんだからひとつくらいやり抜きなさい。辞めるなんて絶対に許しません、辞めるのは逃げなんだよ。みんな苦しくても苦しくても耐えてやっているの、あなたも頑張りなさい」
母にそう言われたが、理解できなかった。頑張っていても報われない。試合に出れない。仲いい友だちも辞めていく。頑張ったとしても誰からも褒められない。やめたい、ただ早くやめたかった。
約2年間、サッカーの練習にただ耐える時間だった。試合にろくに出られず、惰性で練習に行く日々。最後の試合も、ぼくの出番もなく何の思い入れもないまま終了のホイッスルが鳴った。
チームメイトは、「うぅ...」と鼻をすすりながら泣いている。しかし、ぼくは涙ひとつ流れない。ただ気まずいので、腰に手を当てて顔をうつむき、悲しいフリをしていた。
最後の練習会。最後までいた 6 年生全員にプレゼントが渡されていく。最優秀選手賞の人はサッカーボールがプレゼントされるのが恒例になっている。
「誰なんだろ...?」
キャプテンのユウキか。
ストライカーのリオか。
最後、調子よかったヒロキか…
そう思ってたら「まつもと」と、自分の名前が呼ばれた。
想像もしていなかったので驚いた。はぁ?おれ?ってなった。呼ばれた瞬間がピークだった。
不思議で仕方がなかった。おれなんもしてなくね? もっと他にもらうべき人いるでしょ。なんで最優秀選手なのか、監督から学年全員に発表される。
内容としては、「自分が試合に出ていなくても不満を言わずに、ただ愚直に、一生懸命チームのために練習に取り組んでいた。」みたいなことだった。もちろん納得できなかった。
ボールを受け取る際、憎きコーチと握手をしてこう言われた。
コーチ「よく頑張ったな、中学でもサッカー続けろよ」
ありがとうございます…、と言いつつも目は合わせられなかった。
なにが中学いってもサッカー頑張れだあ?てめぇが俺の好きなサッカーを嫌いにさせたんだろ。ふざけんな、 こんなんで俺が試合に出れなかった気持ちをチャラにできると思ったのか?
最後の練習から家に変える途中で、近所の公園に寄った。もらったサッカーボールで怒りのままに壁に向けてぶち当てていた。すると、勢い余って壁を越してしまいフェンスに運悪くボールが刺さってしまった。
急いでフェンスをよじ登って、取りに行くもののプレゼントされたボールはすでに破れていて貰って1時間で台無しになった。この頃から拗らせていた。
中学になると小学生まで一緒にサッカーをし続けていた仲間から、「中学もサッカーしようぜ」て誘われたが断った。もう疲れたくなかった。練習したら足が痛くなるのもイヤだった。もう楽になりたい。
案の定、サッカーの練習がない日々が天国すぎた。放課後に友だちと遊んで、休日はソファでアニメみたり、寝たりゲームざんまいの日々だ。もう後戻りできなかった。
うちの中学のサッカー部は朝練がきついことで有名だった。朝からグランド 10 周走るトレ ーニングがある。聞いてるだけで無理だ。
よし、卓球部に入ろう。
卓球はできたてほやほやの部活だった。3年生の男子部員はいなくて、男の先輩は2年だけ。部員と話す内容は、アニメやゲームの話ばかり。わかりやすくオタクの集いである。
しかし中学1年では、「陽キャ」たちと絡めた。これは元々ぼくがサッカーしてたのを知ってる友だちが多かった。
今までサッカーの大会では敵同士だったのが、同じ中学になり、「あのときの〇〇じゃん!!」で、仲良くできた。さらに、ぼくのいたクラスは異彩を放っていたらしい。
思春期まっ最中の中学生なのに、下の名前で呼び合うとか当然だった。他クラスからは「仲よすぎて気持ち悪い」と評判だった。
いま思えば、学生時代で一番楽しかった時期だった。先生にも恵まれて、何しても受け入れてくれる”やさしい世界”。バカとテストと召喚獣というラノベを読んでいて、ゲラゲラ笑っていても、「うっせえww黙れww」くらいで心地よかった。
ずっとニコニコしていて明るい松本くんだった。これがずっと続くもんなんだと思っていた。
スクールカーストの底辺。
中学 2 年になり、クラス替えをした。教卓に置かれている紙に座席表が書いていて、自分の名前が書かれているとこに座った。
席で待っていると、続々と新しいクラスメイトやらが入ってくる 「きゃー!同じクラスだったの!?うれしーー!」と騒ぐ女。やばい、かわいい女が全然いない。
「おー!お前がいてよかった~~」と仲間同士で安心している男共。やばい、全然知り合いいない。
テンションが上がらない。唯一、救われたのは小学時代に一緒にサッカーをしていた友達のシュンがいた。
オリエンテーションが終わってシュンとサッカーの話をしていると、後ろから話しかけられた。
「お前だれ?」
野球部の坊主頭だった。後々、こいつはクラスの番長みたいな立ち位置になっていた。こっから坊主野郎と呼ぶ。
「えっと、まつもとだけど」
「まつもと?部活どこだよ」
「…卓球部」
「卓球部!?ハハッ!オタクの部活じゃん、 きっしょー」
「...(どういうこと?)」
「シュンとはどういう関係よ」
「小学校のとき一緒にサッカーやってて...」
「なんで卓球?クラブチームとか行ってんの?」
「いや...別に行ってないけど」
「なんだ、サッカーやってないんだ。あんまりシュンに近づくなよ」
「...??」
最初の印象は、治安わるっ!だった。本当にヤンキーみたいなひとっていたんだって、漫画とかドラマをみてる感覚だった。『低能乙ww』 というニコニコ動画のコメント弾幕が脳内のなかで流れていて面白がっていた。
べつに坊主野郎とは関わらなきゃいいだけだからいいっか。
そう思っていたが、スクールカーストの恐ろしさをこのときはまだ知らなかった。
最初は坊主野郎とその仲間に無視されたり、すれ違うときにぶつかってきて舌打ちされるくらいだった。
このときはゲームやアニメの話で盛り上がれる友達もいたし、さほど気にしていなかった。頭悪いな〜、民度ひくすぎワロタwくらいだった。その話題で共感できるクラスメイトも、それなりにいた。
とある朝、教室に入るとみんなの様子がなんだかよそよそしかった。不審に思い、自分の席につき机にカバンを置いた。毎朝、一緒にしゃべっていた後ろの席の A 君が登校してきたので、いつものように声をかけた。
しかし、返事がこない。「昨日のNARUTOみた?」と訊いても、「…ウン」だけで終わり。
何日も経たないうちにクラスの全員が無視をするようになった。無視するだけで飽き足らなくなったのか、廊下で後ろからケツを蹴られるようになったりした。さすがに恐くなった。
カバンから教科書を机の中にいれようとするとガサッと奥のほうに紙切れが敷き詰められていた。いつも一人のときに読んでいたラノベが、ビリビリに破かれている。
それを見てハッとしていると、それを見た坊主野郎たちのグループがくすくすと笑っていた。
込み上げる怒りを抑えつつも授業が始まるので席に戻った。授業が始まっても、坊主野郎はこちらをチラッと見てはニヤニヤしていた。
これはさすがに大事だろ。先生にいじめられてること話してみようかな...。一瞬、そう思った。だけど、もし担任の教師に報告されたら次、何されるか分からない。きっと言ったらもっとひどくなる。チクったらダメだ。
結局、ぼくは誰にも、家族にも言えなかった。
唯一の救いは、中学2年から通うようになった塾である。そこにはスクールカーストも、いじめもない。それなりに勉強ができるひとたちが集まってるだけでここまで民度が変わるのかということに驚いた。
そこから高校デビューのことしか考えていなかった。なるべく偏差値の高い高校を目指そうと、真面目に勉強するようになった。わからないところがあったら授業が終わったら、先生に質問しにいった。
だんだん先生との距離が縮まり、気に入られて坊主野郎も手が出しにくくなっていた。真面目で優等生になるメリットがでかいと気づいて、やりたくなくても学級委員になったり、率先して授業中に手を挙げたり、卓球部の副部長に選ばれてたりした。
父と同じようなメガネをかけるようになって、メガネがダサすぎて授業中でしかつけないようにすると目つきがどんどん悪くなっていた。他のクラスの野球部からも廊下でうしろから蹴られるようになった。目つきの悪さに気づいたのは、成人を超えてからだった。
となりの席の小柄なこじるりみたいな美人が、学年2位で定期テストの順位でうざいくらい煽ってくれたおかげで 110位/300人 だったのが、20位/300人 くらいみるみる成績が伸びていった。
そして高校受験、直前になって好きな子がチャラついた男と目のまえで手をつないでるのをみて絶望した。
「なんで、おれは必死に単語カードを覚えているのにこいつは、おれの好きな子と手をつないでんだ?え、このまま家にでも行くのか??てか、家ってどこなんだ?」
ふたりのあとを追って、バレないように家までストーカーしてたときもあった。それをすることでさらに敗北感と虚しさが際立つようになった。なるべく思い出したくないため学校から帰ってくると、授業がなくても塾に行くようになった。
勉強している内容も頭に入ってこない。自分が負けた敗因は、ガラケーを持っていなくてメールできなかっただけだ。と、だってアイツら学校でしゃべってるところ見たことねえし。なんだあれ。姉は中学から携帯をもっているのに自分には持たせてくれなかったと怒りの矛先をケチな親に対する恨みだけが募っていた。
塾で過去問を解きながら、何もしていない手は頭をかきむしる。気づけば頭のつむじが2個できて、スレトスで髪の毛がポロポロと抜けていた。
結果、高校入試は第一希望を受けて不合格だった。ただ千葉県の高校入試の制度で後期試験があったので、偏差値60くらいの「時をかける少女」のモデル校にもなってる公立高校を受けたら、合格した。あきらかに内申点のおかげだった。
中学を卒業した日、 周りがしんみりしているなか一人だけ「あーやっと終わった」と解放感に満ち溢れていた。卒アルには、真面目ランキング2位に自分の名前が載っていた。
ほんとは笑顔が素敵なひとランキング1位とかになりたかった。
高校デビュー。失われた青春を取り戻す。
高校というか、もはや大学だった。全校生徒は、約2,500人。公立なのに7階まであって2棟もあるし移動もエレベーターを使っていた。同じ学年にひとがいすぎて、卒アルで顔すらも知らないひとが何人かいる。大学のように履修を組んでいくため、同じクラスなのに一言も話していないひともたまにいた。
マンガの影響もあって、高校は青春する場所だと本気で信じていたため一気に勉強することをやめた。制服がブレザーになり、あきらかに中学とのルックスの差が歴然だった。かわいい子も、かっけえ奴も多すぎる。
くっっっつ!!!まぶしいいい!!キラキラしてやがる!!
学校の近くには映画館もアウトレットもあって、少し歩けばラウンドワンもある。後にイオンモールも建つことになる。デート場所に困らない、かなり都会を感じた。
イケメンたちをみて、まずは髪型からだとはじめてワックスの使い方を覚えるようになった。高校デビューだ。あまりにも中学のときモテなさすぎた。さらに好き勝手できなかったから、 中学でできなかったことを高校でリベンジしてやるという気合いだった。
ただ中学時代のとき、ひとつの真実にたどり着いていた。部活という「肩書き」だけでどれだけ人の評価が変わるのかを身を以って知っていたのだ。
卓球という身分でいかに蔑まされたか、知るものにしかわからないこの屈辱。もしおれがサッカー部だったらどれだけ中学ライフが変わっていたのか。今こそ妄想を現実にするのだ。
そして高校では、サッカー部に入った。部員の数は 150 人。県内屈指の強豪校。当時、県リーグがあるなかで関東リーグでJリーグのユースと戦っていた。かわいい!と思う一軍女子は、だいたいサッカー部と付き合っていた。
もちろん中学 3 年間、卓球部だったぼくは何も対策できていない。そんななか入部説明会が行われた。
ごっつい体格で、刃牙の愚地独歩が来たかと思った。「鬼の小池」と呼ばれていた部長は、入部希望者の新1年生に向けてこう言い放った。
「生半可な気持ちで入るんだったら今すぐやめろ、俺たちは本気で全国を目指しているから付いてこれる奴だけこい。弱い奴はいらない、中途半端な奴が入ってもチームを乱すだけだから。それでも俺らと一緒にサッカーしたいやつは来い。以上」
そう言って、部長は質問も受け付けず教室を去った。あとから知ったのだが、この部長のスピーチが恐すぎて入部を諦めたひとも少なくなかった。おれも恐かった。ションベン漏れるかと思った。
小学校から嫌いになったサッカー。この教室のなかで一番サッカーをやりたくない自信がある。はっきり言ってやりたくない。
でも、中学のような監獄生活にはしたくない。卓球部だから陰キャいわれて、好きなかわいい子もとられてたくない。どんな練習が待ち受けていてもサッカー部にいるだけでモテるんだったらそれでいい。
なんとしてでも彼女が欲しい…!!放課後、友達と一緒にカラオケ行ったり映画見に行ったり、 部活終わりに飯食いに行ったり、夏休みとかみんなでプール 行ったり、かわいい彼女とか作って一緒にディズニーとか言って真っ当な青春を送りたい!!!!
そんな理想の高校ライフが送れるんだったら、ゲロ吐いたって、死ぬほど走らされたって乗り越えてやる。部員だって 150 人くらいいるんだから一人くらい俺みたいなサッカーやってなくて下手っぴな仲間くらいいるだろ?
ビビりながらも、「まあなんとかなるだろ」精神で、入部届を提出。なんとかなるわけなんてなかった。
心も体もボロボロになっていく高校1年
小学校 6 年でサッカーを辞めてから 3 年の空白の時間。ぼくは卓球部のオタク仲間と呑気にポケモンをしていた。ひたすらポケモンに努力値を振っていた。
しかし他の奴らは必死こいて体作りしていた。同じ新 1 年生の部員は元々クラブチームに入っていたり、中学のときにエースで県の選抜メンバーだった。
それこそ子どものときから応援していた、いつも全国の選手権やインターハイで優勝争いする市船に入りたくても、ギリ入れなかったひとたちが推薦で入ってくるようなところだった。上手くて、強いヤツしかいない。
練習時間は、3 時間あるのに最初の 30 分の練習だけでヘトヘトだった。走りではいつもビリ。練習で6対6のミニゲームをするたびに、
「なんでお前と一緒のチームなんだよ」と言われ続けた。みんな監督に気に入られようと練習で必死にアピールをする。ぼくは必死にボールを受け取らないように敵の背中に隠れていた。
中学の球技大会で、「あれ?俺まだサッカーできんじゃん♪」と思っていた自分を殴りたい。あんなものとは比にならない。
ただ真っ直ぐボールを蹴るだけなのに、極度のビビリであがってミスる。
「おい!!どこ蹴ってんだよ!」怒鳴られてばかりだった。早く終われ、早く終われ、スキあればずっと時計をみていた。練習後は、いつも足の裏の皮がめくれていて絆創膏のうえにテーピングを巻いてグロかった。
雑魚すぎて、練習試合や遠征にいくたびに荷物を持たされた。ボールが 10 個入ってる荷物を本来ならジャンケンして決めるのに自分だけ強制的に持たされた。荷物持ちのシード枠だった。
いつも疲れ切って、玄関やトイレのなかで寝て母に起こされる日もあった。とある日の練習後、制服に着替えてるなか、ぼくを一番嫌っている奴が話しかけてきた。
「そういやお前なんでサッカー部なんて入ってきたんだよ」
「...」
「マジなぞなんだけど、ねえなんで?」
「そ、それは...」
どう応えるか迷った。陽キャになりたいとか女子からモテたいとか、そんなダサいことは言えない。
「お前、女にモテようとか思って入ってきたんだろ?」
「...」
「図星だろ?」
「い、いやー...その...」
そいつは、はぁーとため息をついてこう言った。
「お前みたいなカスがいると迷惑なの、早く辞めてくんね?」
ぶっちゃけ本心めっちゃ辞めたかった。砂浜トレーニングが、きつすぎて吐く日もあった。いつも練習するたび体が悲鳴をあげている。ボールがいくつも入った袋をもちながら帰りのチャリもふらふら。
それでも辞めるわけにはいかなかった。
陽キャを演じる陰キャ
過酷なサッカー部だったが、ぼくには辞めれない理由があった。 ぼくはサッカー部にいるというブランドから、中学とは違い内心ビビりながらも女子(となりの席限定)と話せるようになった。
それが唯一のオアシスだった。しかしサッカー部をやめたら女子と話せなくなるんじゃないか。クラスのみんなから馬鹿にされるんじゃないか、早々に辞めていじめられるんじゃないか、それだけが恐かった。
だから、ぼくはクラスの中で必死に陽キャを演じるようになった。中学は卓球部なのに、サッカー部にいたという嘘もついていた。陽キャが集まっている集団と絡んで、陽キャがどんな音楽、服を着ているのか真似ていった。
人から好かれたい、嫌われたくない。そんな想いから他人の目を気にしながら生きていくことになった。常に笑顔をふりまき、八方美人。ひどい扱いをされているのに、ずっとニコニコしているのが時に恐かったと人づてに聞いたことがある。
中学のころ、親からは携帯を持たせてくれなかったのでメールのやりとりを飛んで、いきなりスマホだ。知らないのは罪だ。ここから数々の誤爆と事故を引き起こしていくのが、LINEになる。
スタンプ連打。追いLINE。長文LINE。やっちゃいけないことを知らずに全部やっていたら関係性を壊しまくっていた。もはや連続テロリストだ。
そして、しまいに好きな子から「気持ち悪いし、恐い」と直接会って言われるようになる。そこではじめて失敗をし、LINEでのやりとりでの痛みを知った。
サッカー部のキツイ練習が終わったあとの密かな楽しみだった。気になってる子から返信がきて、舞い上がっていた。部活以外の人間関係が順調にいってるのは全て勢力の強いサッカー部に所属しているからだと本気で信じていた。
それでも過去は変えられない
「どうやらあいつ、クラスのなかでイキってるらしい」
その情報を嗅ぎつけてやってきた、ぼくのアンチ。主にサッカー部の連中ら。ぼくがクラスで調子に乗ってることを気にくわないのか、昼休み中にお弁当を食べているなか教室に入ってきた。
教室のなかで、大声でぼくのことをディスる。
「なんでお前、部活じゃないときイキってんだよ。雑魚なのに」
「もやしが調子に乗ってんじゃねえぞ、お前はやく卓球部に戻れよ」
中学のとき卓球部だったこと、陰キャだったのを隠していた。小学校からずっとサッカーやってる陽キャでいたかった。今思えば、しょうもないことに意地はっていた。
それからどんどん便乗して自分をイジる、舐めてくる奴がサッカー部以外からも出てきた。
「え、頑張ってキャラ作ってんの?」
「高校デビューってやつww」
だんだんイジリだったものが苛烈なものと発展する。遂にはスマホを奪われて、LINE のトーク内容を見られるようになった。そして女子との LINE を晒される。
さらに勝手に、「好きです」「俺と付き合って」というLINEもスマホを奪われて勝手に送られた。「友達にやられた」という謝罪メッセージを送りまくる。奪った奴らはゲラゲラ笑っていた。
それを、ぼくはイジメではなくイジりだと解釈するようになっていた。自分も、ひどい扱いされてるにも関わらずヘラヘラしていた。居場所がなくならないように。
部活以外は全て遊びに注ぎ込んでいた。友達と映画に行き、ひとりカラオケして、ネトゲにはまったりした。
気づけば、模試の学年順位は下から2番目のときもあった。もはや勉強できていないことが高校を充実している証拠とも思うようになった。勉強は受験期になってから決めればいい。友だちと中学ではできなかった楽しい思い出をたくさん作ることに専念した。
学祭も修学旅行も、夏休み一緒に海に行くのもどれも楽しかった。サッカー部で、いっしょにプールに行ったときは水着を脱がされまくって、おち◯ち◯丸出しで、ずっと顔を水中に沈められてマジで溺れ死にそうになった。それ以外はだいたい楽しかった。
ただ一向に、彼女はできない。ラインで会話はできても直接、好きな子と話せない。近くの席だったら話せるのに、そうじゃないと一向に話すことができない。
結局、好きな子を校舎の裏に呼んで、告白したが見事に撃沈。このまま念願だった彼女を作ることは高校時代できなかった。
母から、「あんた手先器用なんだから建築士になれば?」 と言われた。それ以来、建築士を目指すようになり、建築士になるためと大学受験の勉強をはじめた。
姉は、中高大とどれも私立に通っているため、母からは「なるべくお金をかけないようにね」 と言われていた。家族に迷惑をかけないためにも 「自分は国立大学を目指すしかない」と千葉大の建築学科を目指すようにした。
これがどのくらいの難易度なのかというと、千葉大建築 = 慶應理工(建築専攻) > 上智くらいのレベル。高望みにもほどがあった。高2の冬、サッカー部を辞めてから河◯塾に通うことになった。
一気に受験モードに切り替わり、授業が終われば、そこから 40 分かけて塾まで自転車で向かっていた。そして閉館まで自習。学校の授業も参考書を開いて内職をし、今までの遅れを必死に取り戻していた。
高3の夏、受験生にとっては天王山。遊びや女の子にも目を向けず、ひたすら勉強した。だが成績は一向に伸びない。第一志望の「千葉大 建築学部」は E 判定。滑り止めで受けようとしている日東駒専あたりの大学も D 判定。
受験まで残り4 か月。部活をやめて勉強し始めたのが入試まで 1 年あったはずなのに目標に届かなかった。最低でも「C 判定」は欲しかった。
「1日 10 時間以上、勉強してるのに E 判定...こんなの親にも見せれない」
それから進路について1週間、本気で考えることにした。このままでは高学歴、大企業、かわいい嫁の「夢」が掴めなくなる。そもそも本当に建築士になりたいのか。自分でもわからなくなってきた。
もっと将来やりたいことあるんじゃないか?
このまま建築系の大学に行ったらそれしか仕事を選べなくなるんじゃ?
社会にどんな仕事があるのか知らないのに、このまま自分の進路を決めていいのかな...。
進路を変えるならこれが最後だと思って、スマホで血眼になって色んな職業をググった。
「建築士なー、中学のとき職業体験でやったけど夏でも長袖 長ズボンだったじゃん。絶対耐えられないよな、無理だわ」
「秋元康って放送作家からなんだ。なんかカッケエなー、でもオレには秋元康みたいなひらめきとか才能とかないし。凡人だから無理でしょ、しかも最初 AD からやるんでしょ?這い上がるの厳しいわ」
「サラリーマンとか絶対ムリ、満員電車を毎日乗るのはシンドイ、せめてチャリ通であってくれ」
「銀行員とか一生安泰だよなー、けど真面目すぎるし俺エリ ートじゃないし結局、俺じゃ無理やんけ」
無理無理無理無理無理...。
どれが自分に合う職業なのか分からない。いまいちパッとしない。
まあそもそもずっと見てきた大人なんて、サラリーマンの父と銀行でパートしている母、学校の先生しか見たことない。
そんな知見しかないんだから、働きたい職業なんて見つかるわけもない。
結局、親に言われたことは100%正しいという価値観から、やっぱ建築士になるのか...と、そのときは現状維持を選んだ。
とある本との運命的な出会い
性欲が爆発して、「Jメール」という出会い系サイトに登録した。コンビニでプリペイドカードを買ってチャットレディと有料で会話をしていた。友だちにやめたほうがいいと言われたが、やめられず。いざ実際に会うと約束しても、相手からの返信もなく”ひかり”という女は現れなかった。
死んだ魚のような目で、勉強する気力もない。惰性で塾に行 っては英単語をルーズリーフの紙にずらーっと書き連ねている日々。
ついにぼくはペンを置いた。そして気晴らしにと、滅多に行かない TSUTAYA の書店へ訪れた。ぶらぶら本棚を眺めながら歩いていると、1 冊の本がぼくの目にとまった。
『僕たちは就職しなくてもいいかもしれない』
著者:岡田斗司夫
ん?と近づいて、書籍を手に取ってみる。なんだこの胡散臭いデブのおっさん。それが第一印象だった。しかし、思ってしまった。就職しなくていい道なんて本当にあるのだろうか。そんな道知らないんだけど、なにそのチートみたいな選択肢。
「高学歴な大学に行き、大企業に勤めるこそ人生の勝ち組だ」そう信じていた。もし就職しなくていい世界があるのなら、大学受験もがんばる必要がない。
その本にはこんなことが書かれていた。
“会社が人を雇わない理由は以下の三つ”
1 企業の平均寿命が五年を切り、これからずっと安泰な会社が存在しない(公務員も安心ではない)。つまり「半年先の未来がだれにも予測不能」だから
2 新人を雇って仕事を教える余裕がない。面倒な仕事しかもう残っていない。いま固定給を払っている人たちでやりくりするので精一杯だから。
3 怖くて人が増やせない。新しいアイデアが出てくるたびに一つの産業や業態がつぶれたり、もしくは会社の売上が半減したりするから
「企業に就職すれば安定」という常識が一気に崩壊した瞬間だった。今まで親や学校で教わってきたこととは全然、違う。
そもそも自営業なんて当たり前で近所の八百屋さん、ラーメン屋だって自営業でしょ。要はラーメン屋のおっちゃんも社長であり、全然珍しくない。
疑心暗鬼しながら立ち読みしてみた。のちにこの本がぼくを起業させる、人生を変えるキッカケとなるのだ。
パソコン1台で1000万円を稼ぐ東大生
塾をサボり、TSUTAYAやブックオフで、自己啓発本や起業本を読み漁る日々が続いた。自分で稼ぐことに憧れを抱きつつも、ビジネスなんて縁のないもの。目指してなれるもんじゃない、「どうせ無理...」と思っていた。
自分に才能がなかったとしても、ラクにお金を稼げる方法を知りたかった。受験勉強そっちのけでツイッターで、「自由」 とか「月収100 万稼ぐ方法」とか検索していた。
すると、『東大生がパソコン1 台で1000万稼いだ』というブログに行き着いた。いかにも胡散臭いし、詐欺の匂いがプンプンする。
当時、受験生のぼくからしたら東大生は神だった。日本一賢いひとが集まる東京大学の学生が言うんだったら、すごいはず(語彙力)
ていうか、本当に東大生だったらこんな怪しいことしないだろ。ふつうに考えておかしいって。もっとお堅い商売するでしょ。なんでこんなアホみたいな…論破する勢いで、ひまつぶしにブログを読んでみた。
その自称東大生 T氏は、『情報発信ビジネス』というのを勧めていた。
なぜ、情報発信ビジネスなのか?
せどり転売は即金性もあって稼ぎやすいが、自ら動かないといけないため結局は労働になってしまう。
ブログや youtube から広告費で稼ごうとするとアクセスを集めなければならない。人気ブロガーだったりカリスマ性がないといけないから再現性低いし、トレンドを追って集客するブログもずっと記事を更新しなければならない。しかも単価も低い。
1クリック、0.1 円。youtube だと 0.01 円。結論、割に合わない。労働だ。 しかし労働から脱却する方法として、ネットで稼ぎやすいもので、他人の商品を売るというアフィリエ イト制度がある。
アフィリエイトとは他人の商品を売ると、 その紹介料、報酬がもらえる仕組みであって、やっていることはシンプル。自分で商品を作る必要もないし、これなら実績がなくても自分に才能がなくても稼ぐことができる。
さらに巷ではサイトアフィリで終わることが多いが、実際に検索してサイトに訪れてそのまま購入するひとは1割ほどしかいない。残りの9割にひとがまたサイトに訪れることはほぼないので、そこで商品に興味あるひとは逃さずに無料メルマガに登録させる。
そして、メルマガでは元々、日にちを選んでこちらから自動でメールを送ることができるシステムを使えばいい。これで購買意欲を高めさせることができる。そうすれば有名にならずに少ないアクセス数で紹介した商品が購入されて、月20万〜30万円を安定して半自動的に稼ぐことができる。
私はこの方法で 3ヵ月で、1000 万を稼いだ。そう書かれていた。
「このひと本物かも…」
速攻でページを閉じる予定だったが気づけば、深夜になっても夢中で読んでいた。顔出しもせずに匿名で人気にならなくていい。さらに薄利多売ではなく、少ない集客数で高い商品を売ることができる。
今となれば当たり前だが、少なくともぼくのまわり、高校生でアフィリエイトを知っているひとは一人しかいなかった。唯一、アフィリエイトを知っていた彼は、supremeのTシャツやらグッズやら、なにかしらのイベントチケットを転売してバイトせずに儲けていた。
履修も卒業できるギリギリの単位数だけ取得して、卒業か留年というギリギリを攻めて卒業するような男だ。そんな彼にひそかに憧れと嫉妬を抱いていた。自分もあんなふうに裏技みたいなやり方で、人生を謳歌したい。
この情報発信ビジネスという方法だったら、夢にも思わなかったお金持ちになれるかもしれない。もし月 100 万が振り込まれて、さらに自由な時間があったら...おれはいったい何がしたいんだろ...。
あふれでる衝動に身を任せて、キャンパスのノートに「月 100 万あったらやりたいこと」をガーッと書き出した。魂が震えた、純粋にワクワクした。
「これ今やらないとヤバい!やらなきゃ絶対あとあと後悔する!」そう思った。それから約 8 か月続けていた受験勉強を、建築士になる道を早々にして捨てた。親に内緒で、河◯塾をやめたのだ。
誰にも宣言せずにひとり起業。
まず情報発信するなら英語だろとなって始めた。なぜ英語なのかというと、当時のぼくには何の才能もスキルもなかったので他人の才能を借りることしかできなかった。
それが当時、スタディサプリで教わっていた慶應義塾大学文学部(英米文学専攻)卒業の人気講師だった。その講師は、英文法を非常にわかりやすく教えてくれて、英文法を学んだときわかりやすすぎて勉強が面白いと思ってしまった。
まだスタディサプリができたばっかりだったので、「この講師を知ってる人少なくね?」となり、その講師が授業している英文法の教え方を真似て、発信していった。それが英語で情報発信した経緯だ。根拠のない自信に満ち溢れていた。
親には、「勉強で使うから」と言って自分の部屋にパソコンを持ってきてアメブロで記事を更新しつづけた。ローマ字入力の下敷きを見ながら、人差し指でポチポチと打っていた。深夜に作業していると、タイピング音がうるさいと父から注意されてパソコンを没収された。
動きはじめて10日くらいで、自分でブログを書き続けることに限界を感じた。そもそもビジネスを何一つ学んでいない奴がいきなり稼げるわけがない。実際に稼いでる人から学んだほうが効率的だし、圧倒的に早いのが目に見えてわかってしまった。
ちょうどそのとき東大生T氏の情報発信ビジネススクールが、メールで案内されていた。約20万円くらいのスクールだった。
日雇いのバイトを 1 ヶ月すれば手に入る代物だった。しかし、ぼくは今まで部活と受験ざんまいで、バイトなんかしたこともなかった。親からのお小遣いのみ。
財布のなかにあるお金は、たった5000 円。ただめっちゃ入りたい。でも金がない。1秒でも早く自由になれる世界に飛び込みたい。より確実に結果が出る方法を知りたかった。
しかし親に相談もすることができない。相談するとなると今やってるブログを明かさなければならない。死ぬほどケチな親が、こんな怪しいスクールにお金を出してくれるわけがない。
うわ、どうしよう…。
そう悩んでいるなか、突然ひらめいてしまった。
「親のクレジットカード使えばよくね?」
当時 18 歳のぼくにはこれしかなかった。今思えばアホな行動だし、自分だったらこんな息子を持ちたくない。クレジットカ ードについてよく知らなかった高校生のぼくでも、さすがに勝手に使うのは犯罪であることは知っていた。
もし勝手に親のクレカを使って、それがバレたら...警察に逮捕されるだろう。いやまだ逮捕されるならマシだ。問題は、親が包丁を持って、殺しにくる可能性がある。命の危険性を感じた。
でも衝動を止められない。両親が寝ている夜中、クレカを盗ることを決意した。母の財布のなかにクレカがある。母の財布は、仕事に持って行くカバンのなかだ。
父と母の寝室に、そーっと物音をたてず忍び込む。スマホで光を照らすこともできないので、手の感覚だけでカバンを探る。
母が寝返りをうって、ヒヤッとしたが起こしてはいない模様。財布を手に取り、自分の部屋へと戻る。財布からクレジットカードを抜き出し、単なる紫色なのに禍々しい色を放っているように感じた。
スクールの販売ページをひらいて、ぷるぷる手を震わせながら、スマホでカード番号を入力していく。途中、暗証番号がわからなくてパニくる。「クレジットカード 暗証番号」とググると、カードの裏に書いてあることが判明してしまう。
「え、この3桁でいいの...?カードに表記してたら暗証番号の意味なくね?」
念のため 3 桁の数字を打ち込む。あとは決済ボタンを押すだけ。しかし、これがなかなか押せない。
詐欺だったらどうしよ...。さすがに黙って親のクレカを使うのはまずいという良心。稼げなかったらどうしよという押し寄せる不安。
かれこれ一時間くらい悩んだ。
しかしこれで人生が変わる。パソコン 1 台で飯を食っていけるレベルに到達することができる。大丈夫、この人なら信じられる。もうなんならこの人になら騙されてもいい。もはや騙されたほうが受験勉強に専念できていいじゃん。
ぼくの知識はこの義務教育で培われた18 年しかない。ネットビジネスが怪しいのは言うまでもない、新しいものに人は恐怖し本能的に拒絶する。
ただ今まで習ったことが、これまでの経験から成り立っている考えがこのビジネスという大人の世界で通用するわけがない。今から踏み出す一歩以外に道は拓けない。
頭があきらかに「自己啓発」脳になっていた。バンジージャンプのように「えいやあああ」の覚悟で、24分割払いで決済ボタンを押した。
心の中で 3 桁の暗証番号が違うことを期待している自分もどこかいた。だがしかし、20 万を決済することに成功していた。やってしまった。もう後戻りはできない。やばい、やばい、やばいと焦る自分がいた。
このビジネスが失敗したとき俺は親に殺される。バレないようにするためには通知書が来るまえに、20万円以上を稼げなければならない。それで親を説得するしかなかった。命がけだ。
しかし、この決断に後悔はなく。なぜか清々しく爽やか無い気持ちのほうが大きかった。
20万円のスクールに入ってから、1分1秒が惜しかった。本来、1年かけて学んでいくカリキュラムを運営にメールして、1年ぶんを一気にまとめてコンテンツが視聴できるようにしてもらった。
すると高校生という贔屓 (ひいき)もあってか特別に対応してくれた。朝起きたら、すぐさまイヤホンを耳にはめて、スクールで配布されてる動画の音声を聞く。英単語でも聞いてると思わせるくらい、のめりこんでいた。
受験勉強と違い、不思議とネットビジネスの勉強は楽しかった。歯磨きしてるときも、朝食のときも通学中でチャリこいでるときも寝る前も耳にイヤホンをつけて聞き続けていた。ずっと付けすぎて耳の穴が痛かった。
授業中は、スマホでPDFを読み込んでいた。放課後は教室に残って、誰もいないなか会員サイトのなかでWi-Fiも繋がないまま公開されてる動画を視聴した。家族でソフトバンクのギガ放題みたいなものに契約していたから通信制限がなんのことだか知らなかった。
21時になると担任の先生がきて帰りなさいと言われた。寝る以外は、ほとんどコンテンツを消化していたため1年かけて学ぶ量を、たった1週間で合計2周していた。受験勉強は現実になんの役に立つのかわからなかったけど、ネットビジネス(DRM)は明らかにお金に直結する学びだとわかるのが興奮した。
クレカの通知書がくるのは残り1か月...。それまでには最低20万円を稼がなければならない。喉元にナイフを当てられた状態で日々を過ごしていた。
母に内緒で、河◯塾もやめたのがバレて怒られたが、塾にいても成績が上がらないと言って、参考書だけで勉強するとほざいて塾に行かなくなった。
英語の情報発信をし続けて、約3週間が経った。
30 人くらいの読者から感想メールをもらっていた。なかには 40 代 のおじさんから、『内容が面白く、かつわかりやすくて勉強になりました!ありがとうございます。引き続き楽しみにしております』という感想もいただいていた。
これを読んで、ぼくは泣きそうになった。今まで肩書きばかりを気にして、何の取り柄もないと思っていた自分が、見ず知らずの二回りも年を取っている年上から感謝されたのだと。
同級生からも学校の先生からも、親からも褒められないのに顔も知らない、どこにいるのかもわからない、文字だけのやりとりだけで褒めてくれるひとがいることに涙がこぼれそうになった。
親のクレカを無断で使うようなカス人間でも、こうして他人に価値を届けることができる。やりがいしかないなと昂(たか)ぶる。その夜、うれしすぎてハーゲンダッツ抹茶味を買っていたのを鮮明に覚えている。誕生日とクリスマスだけの特別な味だった。
『なにかオススメの教材とかありますか?』というメールも届くようになり、そろそろ頃合いだと確信した。あとはもう商品をアフィリエイト紹介して収益を待つのみ。本当にリンクだけを載せたらいい、ただそれだけだった。
親に怪しいスクール入ってるのがバレる。
母のクレカの通知書は、郵便で届くのをあらかじめ知っていた。それでしかクレカの明細を確認できないため、その通知書をこちらでひそかに持ち続けていれば数日耐えれる。
バレる瞬間はそこでしかないため、常に朝早く起きて家のポストをみて、ついでに郵便物と新聞を取って父に渡していた。とある朝、その日に限って見ていなかった。父に叩き起こされてて、意識が朦朧(もうろう)としたまま髪の毛を引っ張られる。「イタッ!いたタタタ」と上手く歩けないままリビングに連れてかれる。
リビングのソファにはクレカの明細書をみて、呆然とする母がいた。父は、顔を真っ赤にさせてものすごい剣幕で怒っていた。なにを言っているのかわからない。とりあえず「そこに正座しろ!」は聞き取れたので黙って、正座をする。
そこに覆いかぶさるように父からバキッと拳で顔を殴られ、みぞ落ちに蹴りを入れられる。口のなかで鉄の味がした。涙をボロボロこぼしながら今までの経緯を全て明かした。そして、 なんとか両親を説得しようと試みた。
「稼ぐことができたら、大学に行くお金も必要ないし、家族でいっぱい旅行することだってできる。肩書を気にして生きていく必要がない」と、しかし無駄だった。
その夜、会社から帰宅した姉も招集されて家族会議が行われた。食卓で父は過去にオウム真理教で亡くした、いとこの話を泣きながらしていた。母と姉も、その話を聞いてぽろぽろと泣いていた。ぼくも泣いたが、「それとこれとは話が違うじゃん!」と反抗した。コノヤロッ!!と、またぶん殴られた。
もうヘトヘトだった。家族会議のあと、親にむけて土下座をし謝罪した。ビジネスは最悪また、やり直せばいい。腹の底では親の言うことを聞いた体(てい)にして、また隠れて情報発信すればいいやと思った。
ただ、納得できなかった。家族とは自分のやりたいことを応援してくれるものだと信じていた。アニメとかドラマでも、いっかいは反対されてもなんやかんや自分のやりたいことって応援されるものだと思っていた。
本気で今までで一番やりたかったものなのに、どんなに説明しても頭ごなしに否定され、論理で反論してくれないのも悲しかった。サッカーをやめたかったときや携帯を欲しがっていたときと同じだ。どうせ否定される。
とにかくマトモに話し合いができずに一方的にやられたのが、ただただ悔しかった。親に相談せずに勝手にクレジットカードを使ったのが悪いのは承知の上だが、それからぼくは家族を信用することをやめた。赤の他人と同類、そうわきまえた。今思えば、塾に通わせて参考書がほしいと言ったら財布から札を出してくれたりと母からは”いたせりつくせり”だったのに。遅めにやってきた反抗期だった。
変なタイミングでパソコン一台で稼ぐ方法に出会ってしまったがために母の念願だった大学に入学させるという目標が遠のいた。そればかりか自分のことしか考えてなく心のなかで、ふつふつと絶対リベンジして成功してやると復讐心が芽生えていた。
結局、20万円の怪しいスクールは消費者センターに行って返金されることになって終結した。ぼくは実質ゼロ円で有料コンテンツの中身を学んだことになってしまった。そのスクールの内容はめちゃめちゃよかった。運営しているスタッフもめちゃめちゃていねいで良いひとだった。
応援してくれていたにも関わらず、そのひとたちに成果を報告できないのもまた悲しかった。返金の代わりとなる条件に、集客のメインになっていた2万人いたツイッターのアカウント、更新を続けていたアメブロ、収益源となるメルマガスタンド(MyASP)それぞれ全てが使えなくなった。
無料でビジネスの知識を得ることができたが、丹精込めて作り上げたビジネスが大人の手によって封鎖された。そして、まわりが現役で大学生になるなか自分ひとり浪人生になった。起業して失敗したショックで、半年は自堕落な生活をしていた。
Amazonのプライム会員になって、はじめて映画のおもしろさを体験した。わかりやすく「ショーシャンクの空に」で感動して、こんな自分でも生きていいんだと背中を押してくれた。また昼はブックオフで立ち読みして、ジョジョ7部とバガボンドに出会ってまた鼓舞された。この浪人期間中で、映画とマンガにハマったことが今の人生観に大きく影響されている。
いろんな遠回りが、無駄なことではなくすべて人生に繋がっている。そんな生き方をしようとバシッとではなく、ふわっと決まった気がした。
浪人の夏に四谷学院に入るものの、2日だけ行って3日目でやめた。残りのあまった授業料を返金という形で、親の口座ではなく自分の口座に振り込むようにした。
もう二度とパソコンで、こそこそブログを書かれないようにとパソコンを使うのを禁止されていた。パスワードも変更されていた。その塾から振り込まれたお金と日雇いのバイト費でジャンク品のMacBookを買った。ジャンク品のため、途中で熱暴走して電源が落ちた。記事のデータが消えるのもしょっちゅうあった。
大学受験生むけにTwitterやブログ、公式LINEを使って2万円の勉強法の教材を売ろうとしたが、親の説得がないと買ってくれないよな…と思ってしまい売ることもしなかった。
月1~2のペースで、無料だったり5000円のセミナーに参加してバイト代でメルカリの無在庫転売のスクールに18万円くらいで入った。メルカリとAmazonで差額をだして、Amazonで安いものを仕入れてメルカリに出品するものだった。ダンベルやヘアアイロンを売りまくって、月30万くらい売上がたった。
そのお金でホリエモンのサロンに入ったり、自分がよくみるブロガーの美味い店に行ってたらそこに自分も行ってみたり、アイドルの握手会にいったり、平日の昼間から行き交う大学生を横目にみながらボッチ生活を満喫していた。
半年が経ち、メルカリで自動出品を使っていたらアカウントが何の警告もなく即BANされた。その影響で無在庫転売スクールも成り立たなくなっていた。やはりプラットフォームに依存するのはよくないと目が覚めたものの、そろそろ勉強しないとヤバいとなり焦った。
たった3か月でE判定から早慶を射程圏内に。
慶應だったら商学部がいいなと思ったが、小論文の対策ができなすぎて早稲田の社会科学部を目指すようにした。大学受験の勉強法を発信していたため、その内容をそのまま実践したらすぐ成績が伸びた。
朝4時に起きて、机だとすぐ寝てしまうため外にでて単語帳をひらいてぶつぶつと復唱していた。雨や雪が降っていても、熱を出さない限りはずっとそれを繰り返していた。コンビニやサービスエリアまで歩いていって、フードコートで赤本を解き続けていた。ネットから過去20年分の過去問をあるだけ集めて、5万円で早稲田対策に特化した動画講座を自腹で買ったりして、12月には過去問でミスをすることがなくなった。
しかし、現在地の自分を知りたくなかったので模試はいっさい受けずにいた。赤本でミスしないのも実力がついているのか、それともただ単に答えを暗記しているだけなのか自分でもわからなくなっていた。確かめるのが怖かった。
結局、付け焼き刃な勉強では歯が立たなかった。早稲田しか対策していなかったため、他の大学はことごとく落ちていった。メンタル崩壊して、母に「早稲田なんて受けてる場合じゃないでしょ」言われただけで、受験料を払っているにもかかわらず記念受験すらしなかった。
その年の試験問題がでたタイミングで図書館で試験とまったく同じ時間で解いてみた。時間が足りないものもあって、最後テキトーにマークしたものもあった。早稲田の試験はすべてマーク式だ。解き方にはコツがあって対策できることがいくつもある。自己採点したあと、図書館でひとり頭を抱えた。しばらくそこから立てなかった。
自暴自棄になって都内だったらどこでもいいと片っ端から入れそうな大学に出願した。補欠合格で大東文化大学の国際関係学部に入学した。レベルでいうと、日東駒専の下だ。なんの思い入れも施策もしていない大学。母と父は、ほっとした表情で嬉しそうだった。
ナンパ師を志す。
1年間、女性との接触は姉しかいない宅浪19歳のぼくちん、童貞は、女の子を目の前にして話せる自信がなかった。推していたアイドルが、最上もがで握手会やチェキ会に行ってたけど全然しゃべれんかった。
浪人生のあいだにナンパブログを読み漁り、たまたま面白いと思っていたナンパ師のひとがナンパ師てを集う飲み会があると宣伝していた。ビビりながら、なけなしの1万円札を握って参加した。
完全にアウェーな空気だったが何とか人と話すことができた。そこには浪人期間中に読み込んでいたナンパ師が、そこら中にいた。正直いって、このルックスで経験人数100人!?とか思った。もちろん見た目も高身長でカッコいいひとはなかにはいた。
そのナンパ師の飲み会にひっそりと参加していたウーロン茶を飲んでいる若いひとに声をかけたら、たまたま1個しか年が変わらないスネークという男がいた。山梨大学に通っていて、週1で山梨から渋谷や新宿にナンパしに来ているとのことだった。
そこのナンパ飲み会で意気投合し、仲良くなって後日いっしょに渋谷でナンパすることになった。やったことがあるひとならわかると思うけど、ブログで読んでいたものと実際にやるのとじゃ雲泥の差があった。
見知らぬ人に声をかけることがハードルが高すぎて、最初は「いや無理無理無理!!」ってなった。なんでかはわからないけど、死を感じた。親のクレジットカードを抜くときと同じくらいの心臓バクバク感があった。
いきなり見知らぬ女性に声をかけるのはムズすぎるため、スネークといっしょに2人組の女の子に声をかけることにした。ぼくは声かける女の子を見るだけで精一杯。口をアワアワしていた。なに言えばいいか分からない。声をかける彼は、もう一方の女の子と会話が盛り上がってそうだ。
オレは、なにを話せばいいんだ...?
頭が真っ白になったまま立ち尽くした。なんで彼は、あんなにトーク上手いんだろ。初対面のひとにあんなベラベラと喋べれねえだろ。頭の回転が早すぎたる。レベち。
「みんな最初はそうだって、どんな凄腕でもはじめは地蔵 (声をかけられない状態)するもんよ」
そうやって励まされながら丸2時間が経過した。自分から声をかけようと思ってもなかなか声をかけることができない。ようやく声をかけることができても、道を聞くことができてもその罪悪感からそのお店でビスコを買うまでやった。
それから必死に声をかけるものの無視が続いた。バイトでやっていたティッシュ配りとは比べ物にならない。そんな惨めなぼくを、一度たりとも彼は責めなかった。失敗の連続をイジることもせず、「また声かけれたじゃん!いいねえ!」と鼓舞してくれる。聖人かと思った。
失敗したら怒鳴られるか、バカにされる世界で育ってきた自分にとって別世界の住人だった。今までは、“失敗=恥”という世界だったからだ。
しかし、彼はぼくが失敗しても何も責めずむしろ挑戦したことにたいして「伸びしろですねぇ」ってチョケながら褒めてくれた。
「マジか、失敗しても大丈夫なんだ...」
そのやさしさに心が沁みた。美人に声をかけて失敗しても、ふりかえってみれば何も失っていない。失敗しても、ぼくの声かけを見ていた人は平然とスルーしていた。みんな結局、自分にしか興味がないのだ。
ナンパ師の彼といっしょに渋谷にいたら、女優の中条あ◯みを見かけて、彼は声をかけにいった。彼はナンパに失敗した、ぼくはそのあとを追いかけて本当はナンパしたほうが面白かったんだけど、ビビって自分はファンというていで握手しにいった。
ワンチャン女優とも繋がれてしまう、そんな無限の可能性を秘めたロマンに魅せられてしまった。まんまとナンパの虜になり、気づけば千葉から渋谷に片道2時間かけて繰り出す日々が続いていた。
大学の入学式で、まさかの事態が発覚した。キャンパスが都内の板橋だと思っていたのが、高坂という埼玉の田舎であったことが判明した。実家が千葉なので、埼玉のキャンパスまで行くのに2時間半かかった。
普通ならひとり暮らしするのにたいして、過保護である母はひとり暮らしを許してくれなかった。「姉ちゃんも、神奈川の大学まで片道2時間かけて通ったんだからあなたにもできるでしょ」という理屈だった。意味がわからなかった。
春休みにナンパしたおかげもあり、大学に入って1か月くらいで運よく彼女ができた。最初の2か月は彼女に会うために大学に通えていたが、3か月目から「往復5時間かけて何やってんだこれ」って、時間の無駄さに気づいてしまった。
朝早く起きて、大嫌いな満員電車に乗らないといけない。空いた時間で、地元の飲食店でバイトして、皿を割ったりとヘマして怒られる。彼女と遊ぶ時間も、サークルに行ける時間もそこまでない。
そして、ぼくは大学に行かなくなった。大学に行くふりをして昼はナンパブログ書いて、夕方からナンパしに渋谷に行く生活が始まった。彼女から「大学こないの?」とLINEしてくれるものの「行かない」と冷たく接してしまい、気づけば別の男とディズニー行ってるアイコンに変わっていた。
ちなみに、まだ童貞卒業できていなかった。カラオケで、前戯でチ◯コにソフトクリームを塗って、それが気持ちよすぎて暴発してしまいそれ以来デートしていなかった。彼女にフラレるよりもナンパできる喜びと、一刻でも早く稼いで独立して自由を手に入れるほうが重要だった。
そして自分の力だけじゃ限界だと気づき、ネットビジネスとナンパで合計110万円のコンサルを受けるようになった。それぞれ講師は違うひとだった。貯金がなかったため、リボ払いでカード2枚を使って払った。
お金が足りないため治験というバイトをした。ざっくりいうと国から認められてる薬の実験台になる怪しいバイトだ。今でもなんも後遺症はなく、なんか飲み薬を飲んで1日3食、規則正しい生活をしながら採血をされた。それだけで40万近くが手に入った。
北里大学で1週間くらい入院していて、治験が終わり学食にいくと女子大生がいた。コンタクトもメガネもせずに雰囲気かわいいくらいで声をかけたら、ラッキーしてLINE交換できた。後日、新宿で会うとバリ可愛くてびっくりした。HUBで飲んで、ナンパ師の鉄板パターンでホテルを打診すると「チャラい、無理」ってことで余裕でフラレた。
そして、この治験に行っていたのが母にバレてしまった。治験がバレた原因は、治験を受けたときの記録の紙を部屋の机に広げたまま外に出たのが問題だった。まじでいつも詰めが甘くて、自分のバカさ加減に腹が立つ。
治験で入院してる期間は「友だちの家に泊まっている。そこから大学に通う」と嘘をついていた。そして、そこで大学に行っていないのもバレるようになった。当然ながら、母は激怒した。父も帰ってきたときに、母にチクられて勝手にクレカを使ったときと同じ展開になり、2度目の家族会議が行われた。
もうどんなに父や母が怒っていても、別のことを考えて時間を潰す思考になっていた。なんの言葉も響かない。耳から入ってくるものはノイズとして処理されていた。2回目の土下座をして、今度は契約書まで書かされた。
・大学に行ったら必ず写真を撮ること。
・バイトをして、バイトに着いたらそれも写真をとって送ること。
母からの監視が続くようになった。
学習塾、仕分け作業、イベントスタッフ、どれも長く続かなかった。唯一、それなりに続いたのが叙◯苑のバイトだった。まかないで肉が出てくるという噂で入ったが、肉がまかないで出てくることは一生なかった。たまに客が残した焼いてない肉を営業時間後に焼いて食っていた。
しかし、バイトだけでは110万円のコンサル代を払っていくには限界があった。これではまったくナンパ活動も進まない。情報発信のコンサルでは、マッチングアプリの攻略法を売ることを勧められた。
ナンパ講師からもマッチングアプリを、ストリートナンパと並行して攻略しろと言われていたのでちょうどよかった。しかし、大学に行ってバイトしてたらナンパも、ビジネスも進まない。
時間とお金に余裕がないからこそ精神的にも必要以上にプレッシャーがかかっていた。大学に行っている時間がもったいなかったので、毎週火曜日だけ大学に行って、親からのミッションである写真を撮りだめしていた。そのためた写真を毎朝、母親に送っていた。
さらに叙◯苑のバイトも、シフトをなるべく少なくするように調整した。ここでも一回の出勤で角度を変えて撮りだめしていた。
20歳の7月、タップルから年上OLと出会って念願の童貞卒業を達成した。そこからいっきにメルマガ読者が増えて、Twitterのフォロワーも2000人くらい増えていた。そして、マッチングアプリの攻略法を販売できる手順が整っていた。
募集開始ギリギリまで、販売ページを修正して、案内開始の日はドキドキで仕方なかった。ミスがないかギリギリまで導線をチェックして、講師のひとにも添削してもらって改行の位置も最後まで修正した。
今までそう簡単にいかない人生だったからこそ、やれることをすべてやった。ポチッと設定したあと、売れることを期待しないようにしてバイトに行くことで気分を紛らわせていた。
バイトが終わり、更衣室に入ってからすぐさまポケットからスマホを取り出しメールボックスを開いた。ひとつくらい売れてくれーって祈りながらメールを確認すると、
『〇〇の商品が購入されました』
という通知が届いていた。自分で作った教材が売れていて、思わず声がでる。今日バイトした、5倍の金額が売り上がっていた。高校3年のときから、約2年間この瞬間を待ちわびていた。やっと報われた。
さらに続々と売れるようになって、購入者のひとから読モをしている巨乳の彼女ができたという報告をもらって有頂天だった。味を占めたぼくは店長にLINEを送り、とくに確認もしないままバイトをやめた。
そのタイミングで、ナンパを教えてくれたスネークから「いっしょに渋谷で部屋を借りてナンパ合宿しないか?」というお誘いがきた。そこには、同じナンパ講師からコンサルを受けている同期もいっしょだった。監視がつづく牢屋から脱獄するには、絶好の機会だった。
とある日曜日。両親が買い物しているあいだに家出をする予定だった。しかし、玄関まえで名残り惜しくなりキャリーケースを玄関に置き、録画していたアメトーークをみてから家を出ようとしていた。
そして、ちょうどアメトーークが終わったタイミングで親が帰ってきてしまった。思ってるよりも早く帰ってきて焦った。玄関にはキャリーケースが置いたままだ。
「このキャリーケースなんなの?」
母に、友だちの家にしばらく泊まるとか言えばよかった。しかし、その嘘は治験で使ってしまっている。なぜか覚悟を決めて、言ってしまった。
「渋谷にナンパしに、友だちと泊まる」
それから、たまっていたダムの水が崩壊するようにすべてを暴露してしまった。ネットでマッチングアプリの講座を販売して、感謝の声ももらっていて、youtubeもしている。チャンネル名も教えてしまった。ちゃんとサービスとして成り立っているんだということを証明したかった。認められたかった。
ただ当然のように、また母と父はまた激怒した。今度は何も悪くないと思って、居ても立ってもいられなくなり、はじめて父と殴り合いのケンカになった。ずっとボコされるだけだったから、初めて対等で殴れるのがうれしかった。少しスカッとした。でもお互いケンカ慣れしてないから、ゼーゼー言いながら服がしわしわになって決着がつかなかった。
結局その日は説教されていた。いい加減に飽きたので、こっそり録音をとってネタにしようとした。荷物をバラされて、日曜日に渋谷に行くことができなかった。スネークと、その仲間のナンパ友だちとの食事会をただLINEから見守ることしかできなかった。
後日の月曜。両親が仕事に向かったあとに、バラした荷物をキャリーケースに再度まとめた。そしてナンパ仲間が待つ、渋谷へと向かう。何も伝えていない姉には本当に申し訳なかったが、家出するのと同時に家族全員のLINEをブロックし、着信拒否まで至った。親不孝すぎる。
渋谷に着いてからは、極貧生活がはじまった。商品が売れても、銀行口座に振り込まれるまで時間がかかるし、お金が振り込まれてもコンサル代に吸われていく。
『マルコメの味噌汁パック32 食分』を500円で購入し、1日1食みそ汁生活を送ってみた。腹が鳴るたびに水を飲み、どうしてもお腹がすいたら味噌汁を飲む。
となりでラーメンを食べている友人をみて、よだれが止まらなかった。所持金は約2万円とTポイントカードのポイントが 2000円分。これでなんとか生活していた。ただ、実家にいるときよりも楽しく居心地がよかった。実家は、当時のぼくにとって監獄だった。心安らぐ場所がトイレくらいしかなかった。
友人が渋谷でナンパしているなか、ぼくはスタバでペットボトルのミネラルウォーターを買って作業していた。お金がもったいないので、次の日からスタバで買ったペットボトルを洗って、水をいれてスタバに行って作業というライフハックを手に入れた。
店員から、「注文してないですよね?」と言われるリスクもあったが、わりと広くてひとも混雑していたので注意されずにいた。初期投資130円で、スタバの環境を1か月近く使わせてもらっていた。親譲りのケチである。
夕方までスタバで作業して、それからナンパして女の子を居酒屋やカフェに連れ出す。できるだけ女の子に奢ってもらうよう乞食していた。ナンパでゲットできなくて、気分と股間は悶々としていたが食に困ることはなかった。
そのころ、ぼくはマッチングアプリで経験人数100人突破していた同い年の京都の大学生と連絡をとっていた。彼は、マッチングアプリで女子大生を大量にゲットしていた。顔を出さないで雰囲気イケメンのプロフィールをつくり、それでマッチング数を最大化させるノウハウが魅力的だった。
そして話がはずみ、お互いのリストを共有してネットナンパの講座を売ろうぜという話になった。相手はノウハウはあるが、売り方がわからない。こちらはノウハウや実績がほぼないが、売り方だけは一通り”わかる”状態だった。
ふたりとも初めての試みだったのでどうなるかわからない。通話して3日しか経っていない。契約書も結ばずに、お互いの顔も知らないまま進んでいった。もしかしたら相方が飛ぶかもしれない。お互いをネットという薄いつながりで信じるのみ。成功するか、失敗するかわからなかった。
当時まだzoomがなくて、Skypeをつかってオンラインセミナーを行った。その結果、16万と50万くらいの講座を案内して約140万円を売り上げることができた。ふたりで70万円ずつ山分けした。
彼の集客と実績、ノウハウのおかげでもあるが確実に自分の力でお金を稼ぐという手応えを感じた。オレの時代がやっと来た!と確信した。
渋谷で借りていた部屋も、間もなく終焉をむかえていた。せっかくいい調子なのに、このまま実家という監獄に帰るわけにはいかない。勢いに乗ったまま人生を進めたい。
すると、いっしょに講座を売った彼から「京都くる?」と連絡がきた。ベストタイミングすぎて、「今からそっち行くわ!」と、その日に速攻で夜行バスを予約して京都へ向かった。
彼は3日くらい家に泊まるくらいかなと思っていたらしいが、Amazonで布団を買って、3万円のクロスバイクを買ったことで、なんやかんや2か月くらいそこに住ませてもらうことにした。
京都の生活では、彼から大学生がやってる遊びをいろいろ教わった。彼がアプリで繋がった女子大生と2対2で朝まで梅田のカラオケで遊んだり、今までやったことがないビリヤードを教えてくれたりした。いっしょにスロットをして当たったら、ふたりでグータッチ。トータルで勝ったほうがメシを奢るという平和で楽しい日々が続いた。
終電を気にする必要もなく、行き帰りはタクシーを使う機会が多くなっていた。さらに関西に染まっていき、エセ関西弁をしゃべるようになった。
当時は、ナンパ教材をメルマガを使って販売するひとは数えられるほどしかいなかった。無料メルマガから金に変える仕組みを作り、そこにTwitterのbotを複数運営して、ブログにアクセスを流す。
他のナンパ師が有益なツイートをして反応がよかったものをbotにコピペして、自動ツイートさせて集客。リスト数を増やしたかったら、アカウントを増やすだけでいい。フォロー作業も、ツイートもすべて自動。
1日たった5分の作業で、月100万円といった怪しいキャッチコピーは別に嘘でもなかった。女の子と遊んで馬刺しを食べて、酒のんで酔っ払ってもメールボックスを開けばお金が増えている。お金は貯めるものではなく、生み出すものだとこの辺から思うようになった。
家出してから1ヶ月半経ったころ。住んでるところが渋谷から京都に変わっているし、親にむけて手紙を書いて送った。LINEで連絡するのも、通知がうざそうなのでやめた。
ある日、非通知から電話がかかってきた。家族との縁を切っていたが、直感で親からの連絡だとわかった。会社の電話から、かけたのは父だった。
「もしもしー?」
「もしもし…」
「こうき?今なに?渋谷じゃなくて京都にいるの?」
「うん」
「ったく、ごはんは食べれてるの?」
「食べてるに決まってんじゃん」
「大学はどうするの?」
「いや、やめたいんだけど…」
「やめるのはさ、ちょっと待とうよ。せっかく入ったんだからさ、とりあえず今のままじゃ授業費かかってお金の無駄じゃん」
「まあ、そうね」
「ママ、毎晩のように泣いてるよ。もう困らせないでくれよ」
「うん、それは本当にごめん」
「ママとも話したんだけど、休学にしとかない?」
「え、おれ払わないよ?」
「いいよ、それくらい出すから」
「あざっす」
休学になってラッキーだった。1年間、親と揉めずに好き放題に生きていられる。その時間は、ぼくにとってかけがえのないものになるだろう。そして、いっしょに住んでいた彼に「休学するわ!」と伝えて、彼も同志社を休学することになった。それからもう京都で、彼と出会うことはなくなった。
行きは夜行バスだったのに、帰りは新幹線に乗っていた。できれば、母と出会いたくなかったが休学するために親のサインがいるため帰えざるを得なかった。
「ただいまー」と細々しい声でドアを開けた。リビングに向かうと母は、ソファに座っていつも通り韓ドラをみていて、ほっとした。
「おかえり、なーんだ帰ってくるときくらい連絡しなさいよ」
「ま、まあいいじゃん」
2 か月くらいしか経っていないのに明らかにシワが増えていた。そんな気がした。
「あんたちゃんとごはん食べてるの?」
「うん、食ってるよ」
「ちょっと痩せたんじゃない!?ガリガリじゃない!」
「いや元からだわ!休学届けもらってきたから、そこサインしておいて」
平然を装っているが、母親も心中おだやかではないだろう。
「お昼はもう食べたの?」
「うん、食べた」
「夕飯は?」
「いらない」
「なんで?家族でいっしょに夕飯たべようよ、久しぶりに」
「友だちと予定あるし」
「友だちって誰よ」
「ママの知らんやつ」
友だちとの予定なんて入れてなかった。
「いいじゃない、今日くらい断っても」
「無理。」
「えー、じゃあ行く前にカレー作ってあるから食べていきな」
「えぇーー」
母の作るキーマカレーが大好物だった。しかし、これを食べるとたぶん食べてる途中になんかめっちゃ話しかけれる。それは、だるい。さっさとずらかりたい。
食べるか迷いに迷ったけど、速攻で食べていけばいいっかとなり
「じゃあ、ちょっとだけ」
と、誘惑に負けて食卓についた。母は、ぼくを「今まで何してたのッ!!」と高いキー音で、ひすって叱ってくるのかと思った。けどいつも以上に静かだった。なんだか腫れ物のように触られているようで気持ち悪かった。
いつものキーマカレー。縁を切ったと覚悟していたから、それでも帰ってこれる場所があって、ほっとした。味わうとほころびが出ると思って、急いで飲むように5分くらいでカレーを平(たい)らげた。
ストーブの横に寝そべってる重いリュックを肩にかけて、再び出かける準備をした。もう夕方だ。父とばったり会うのも恐い。さらに一緒にいてもどうせグチグチ言われるだけだろう。
「なにもういくの?」
「うん」
そう言って食べたカレーの皿を洗面台にさげた。軽くティッシュで拭き取り、ジャーと水に浸しておく。もう親の機嫌を気にして生活するのが辛い。家族なのに、自分のほうが気を遣っている。家族なのに言葉を選ばないといけないのが心苦しい。
ふつうの家族だったら、もっと簡単に悩みとか打ち明けられるのかな。本音とか、恋愛話とかそういうことも楽しく話したりできるのかな。おれにはできない。恐い、勇気をふりしぼって出した言葉が、行動が、真っ向から拒否されたらへこむ。期待したくない。へこむくらいなら話さないほうがマシだ。
本当は家族を愛したいのに、愛せない自分が嫌い。
リュックを背負(しょ)って出かける準備をする。すると母は戸棚から引き出しをあけて茶封筒を手に取った。いやそんなはずがない。うちのケチな母がそんなことをするわけがない。
母は必死に涙をこらえながら、茶封筒を渡してきた。
「少ないけどこの10 万と、ママから3 万。これで1 年間がんばってね。無理すんじゃないよ、応援してるからね。」
母の声は少しうわづっていた。そして小さな腕でぼくを抱きしめた。今まで散々、否定してきたはずなのに...自分のやること成すこと全て...。こんなもので…。必死に涙をこらえていたが、ついにこぼれてしまった。
母とハグをしたのは小学生のときにサッカーで点をとって喜んだ以来だった。あのときは背中まで手が届かなかったのに。抱いた腕のなかで母はいつのまにか小さくなっていた。ぼくが大きくなったのか、どちらにせよこんなにもやせ衰えてしまった。
母は、息子がなんやかんやで帰ってくるもんだと思っていたらしい。だけどなかなか帰ってこない 1 か月経っても帰ってこない。息子がどこにいるのかも生きているかもわからない。
警察にいつ伝えるか死ぬほど悩んだけど通報はせず、毎晩泣いていたらしい。姉は、当時付き合っていた彼氏といっしょに渋谷で探していたとのことだった。家族に心配をかけてしまったのは本当に申し訳ない。
母はワインを飲んで酔っ払ってる最中に、「わたしの育て方がいけないんだ...どこで間違えたんだろう」と言っていた。もう何回聞いてきたか分かんないけどしょっちゅう言っていた。聞いていくうちに慣れたつもりだったが、心のどこかでぽっかり穴が空いたまま寂しさを感じていた。
母が望むような息子にはなれなかった。できることなら大学を卒業するという母の夢も叶えてあげることもしたかった。だがそれでも自分の生き方を優先した。
たった2か月の家出だが、ぼくにとっても母にとってもかなり長く感じた。けどこれを機に家族とモヤモヤしたのが和解できてよかった。
大学生カップルと孤独のおれ
ほどなくして、浪人時代に推していたアイドル、最上もがの追っかけをしていたとき。オタク仲間の高校生男子が大学生になって「稼ぎ方を教えてほしい」とのことでコンサルすることになった。その子は、大学生になり大阪から引っ越し神田のマンションに住みはじめた。
リビングも寝室もかなり広く、鍵もオートロック。これ家賃20万くらいはすんだろっていう快適なマンションにピカピカの大学生が暮らしていた。おれでもまだ住めていないのに悔しい…。
とてもバイトだけで暮らせるような場所ではない。話を聞いてみると、そいつはおじいちゃんが不動産会社の社長でお坊っちゃまだった。思い返せば、心当たりがいくつもあった。
アイドルの握手会や、ライブ、最上もがのトークイベントにも握手会もグッズもかなりお金を積んでいた。大阪から毎回のように東京にきて、めっちゃバイトがんばってるやんけコイツと思ったら、お坊っちゃまだったんかい。
これはかなりいい物件だと思い、コンサル費をもらわない代わりにそこにしばらく居候させてもらうことになった。翌日、スーツケースを持って自宅に訪れる。すると彼のよこに、お目々くりっくりの少女マンガのなかから出てきたようなヒロインがいた。
ぼく「えーっと、たかちゃん(オタク仲間)このひとは?」
たかちゃん「あっ、彼女できた」
「彼女?!」
「いっしょに住むことになったからよろしく!」
まるで理解が追いつかない。どうやら東京にきて、飲食のバイトをしてたら出会ってしまったらしい。たまたま同じ大学で、たまたま同学年で、たまたまめっちゃタイプですぐ同棲が始まったのだ。
どっちからの提案かはわからないけど、彼女も彼女で遠慮はしないのか?そんなすぐ同棲なんてしてしまっていいのか?!まさかこんないい家に住んでるとは思っていなかったんだろう。彼女からしても大学からもバイトからも近いし、さぞ生活はラクになるのだろう。こうして大学生カップルと、休学中のナンパ師との暮らしがはじまった。
最初はいっしょにご飯食べたり、ゲームしたりしてかなり楽しかった。たかちゃんには申し訳ないが、なにかビジネス的な稼ぎ方を教えられたかといえば全然教えられていない。大学が終われば、バイトに行って、バイトが終わったら家にもどり彼女とぼくとでゲームで遊んで。たかちゃんには、ぼくには実現できていなかった眩しいキャンパスライフがあった。
彼らはお風呂とかいっしょに入って、キャッキャいちゃいちゃしていた。それが聞こえるのちょいしんどくてイヤホンをつけてyoutubeをみてたりした。ぼくが寝るときはリビングに布団をしいて、彼らはクイーンベッドで寝ていて、こっちが寝ているフリして、いびきかいてるようにして勝手におっぱじめないかドキドキしながら妄想にふけていた。それとも実はこっちに聞こえないようにすでにおっぱじめているのではないかとひとりで悶々としていた。
さすがに居候している身なので、家政婦のごとく掃除やら皿洗い、洗濯などを一通りやった。洗濯をしたら、風呂場で乾燥をさせて干す。その際に、彼女の下着を無神経に他といっしょに干していた。ふだん姉とかで見慣れていたから、1ミリも欲情するとかはないから問題ないと思っていた。しかし、それが恥ずかしかったのか、洗濯は別々でするようになった。平日は、彼らの家に泊まって、土日はひとりでネカフェに泊まるという生活を繰り返していた。
「松本さんは、なにして稼いでいるんですか?」
と彼の彼女から聞かれたときに返答に困った。ナンパの教材を売って稼いでるだなんて言えない…。「ブログで稼いでるよ!」と嘘ではない返答でごまかした。
神田に住みはじめて2週間後。とある経営者に「おもろいことやってるやん」とTwitterからDMをもらった。W氏だった。20歳のときになけなしのお金で品川や名古屋の懇親会などにも参加したことがある億を稼ぐ起業家だ。
大学受験のときに、まず慶應を目指すようになったのも、その起業家とビリギャルの影響で東大生T氏の次に発信を参考にしていた。W氏は、都内各所で学習塾だったり、会社も人材だったり今では不動産やシーシャ屋さんだったりを経営していて、かつ情報商材屋の側面もあった。
顔出しせず匿名で発信をしていて、家の貧乏エピソードだったり、コンプレックスまみれの学生時代だったり自分と重なる部分が多く、ブログやYoutubeがとにかくおもしろかった。
当時、顔出ししてナンパの発信をしていたのが中星一番とゲンキジャパンと、ぼく。この3人くらいしかいなかった。W氏から懇親会で顔を覚えられていたこともあって、「こいつどこかで見たことあるなと思ったら、名古屋にきてたアイツやんけ」ってことで誘ってくれたらしい。
場所は、六本木。ドンキの近くにあるすしざんまいで待ち合わせをした。ここだけの話、ナンパ師の習性でボイスレコーダーを忍ばせながら訪れた。聞きたいことをスマホにメモして、上座とか下座とか調べてピンと背筋を伸ばしながら待っていた。
しばらくすると、180センチ近くあるW氏がアロハシャツと短パン、サンダル姿で現れた。慣れてる手つきで、注文の紙にシャッシャッと頼みたい寿司を記入して、それを見よう見真似で自分も食べたいものを注文した。
「ナンパしてんの?」
「はい、ナンパしてます」
「顔出ししながらってリスク高くね?すぐバレんじゃん」
「あんまり、バレてないですね」
実際、女の子にナンパしてるのがバレるほどナンパで結果を出してはいなかった。
「ただアプリの解説動画をyoutubeにあげたときにこれってあなた?みたいなメッセージをもらったことありますね」
「やばすぎ笑 活動に支障でとるがな」
といった感じで、最近のナンパ師事情やらW氏の塾経営してる内情の話だったり、ネットビジネスの歴史話などで盛り上がった。緊張しすぎて、ボイスレコーダーの録音を押し忘れていた。せっかく忍ばせていたのに無念。
たまたまW氏が気になっているひとと、ぼくが過去に対談動画を撮っていたこともあり、「ご紹介できますよ!」と言ったら、「がち?それはアツい」ってことで六本木の会員レストランで後日、会食が行われた。その会がW氏にとって、ずっと気になってたひとに出会えて感激したらしい。
W氏「まじ今日は楽しかったわ、さんきゅーな」
「こちらこそありがとうございました!!ぼくもめっちゃ楽しかったです!」
W氏「おれにできることあったら言って!なんか求めてることってあったりする?」
と、突然めっちゃ重要なこと聞かれて焦った。この返答次第で人生が大きく変わってしまう予感がしてしまった。頭をフル回転させて言葉を選んだ。
「なにを求めている…え〜なんですかね…。今のぼくはWさんに何かを求めるほどのレベルじゃないというか、今の時点で何かを求めるのはもったいないと思っているので…。欲を言えば、これからもこうした機会があったら、いつでも空いてますし、どこでもいいのでご飯に行けたらって、まあそれもおこがましいって思うんですけど、そんな感じですかね!」
と、応えた。すると、
「じゃあそれこそ六本木とか、近くのところに住んじゃえばいいじゃん。結局ひとが変わるのは環境なんだから、金持ちがわんさかいるところでしばかれとかんと成長せんよ。メシいく関係だって、ただふっ軽であればいいわけじゃいし、今住んでるのが千葉だったら、誘っても1時間後か〜ってなるし。サクッとメシいきたいなったら近所のすぐ来れるやつがいい」
なるほど、そこから神田の居候先に電車でもどっているなか六本木、麻布十番あたりで住めるところがないか、すぐsumoで調べた。そして不動産に内見の予約をして、麻布十番あたりで家賃10万いかないくらいのところを巡った。お金はさほど問題ない。ただ家を契約する信用がない。母と和解したものの、一人暮らしの保証人としてのサインはまだくれなかった。
「応援するんじゃないのかーい」
そこで保証人代行のサービスを調べたり、どうにかいっしょにルームシェアできる友人がいないか六本木のスタバでひたすら連絡を取り続けた。
そして、W氏が繋げてくれたおかげもあって赤坂の一室に住むようになった。W氏に六本木近くで住むのを検討してるって言ったら、ぼくと同じ名前のコウキを紹介してくれた。裏で家賃も半分になるんだし、いっしょに住んじゃえば?と勧めてくれて、身長190センチ、100キロの巨漢と1Kの部屋で暮らすようになった。
家賃4万円の港区男子
複数運営していたTwitterのアカウントが凍結された。ナンパの教材の集客を自動化させるのが難しくなり、広告で集客しようと試した。しかし、「ナンパ」というワードで審査が通らずに苦戦していた。
広告で集客できなければ、真の自動化なんて実現できない。そう思い、広告でも通用するようにナンパから「情報発信」を教える、いわば稼ぐ系のジャンルに路線を変えた。Twitterのアカウントもナンパからビジネスに変えた。ナンパで稼いだ実績と経験をもとに、Twitterと広告からビジネス系でも5万、10万…と売れるようになった。ジャンルは変わっても、基礎さえ間違えていなければ売れるのがネットビジネスのよさだ。すぐ月70万、100万円を稼ぐことができた。
しかし、稼いだお金は女遊びにすぐ消えていく。パパ活アプリを手当なしで攻略しようとしたら逆にお金がかかったり、六本木で初めてラウンジに行ったら方言がかわいすぎて、好きな子ができてしまい、そこから毎週のように通っていた。
自分の器以上にお金は残らない。常に来月のクレカ支払いを気にして、巨漢と1Kの部屋で轟音のいびきに耐えながら、運動会で使うイヤーマフと耳栓をつかって寝袋で生活していた。
お金は稼いでるはずなのに、お金はたまらない。たまに隣の部屋から外国人が奇声をあげている1Kの部屋から出れない。そもそもここに住んでる理由としては、W氏と過ごせる時間を多くしたかっただけだ。いっしょに磯丸水産いったり、赤坂の中華屋さんに行ったり、家で懐かしのデュエマやスマブラをやるのが楽しかった。
巨漢は、W氏からとても可愛がられていた。ネットビジネスでそれほど稼いでいなくても、電話で呼び出されたら寝ていてもワンコールで起きてすぐ着替えずにW氏のマンションに走って向かっていた。部屋の掃除をしたり、皿洗いやゴミ出しをいっしょに手伝っていた。
ナンパで売上が伸び悩んでいることを打ち明けて、ビジネスの発信をすすめてくれたのも、W氏のおかげだった。よく飲みにつれていってもらうようになり、とある会員制バーの常連にもなった。
港区界隈の飲み会
港区の夜は、とにかく激しかった。ぼくが通っていた六本木ミッドタウン前のバーで、シャンパンやワインがぽんぽん空いていった。どんちゃん騒ぎで飲みまくっていた。それどこに売ってんの?と思うような戦国時代にでてくるくらいどデカい盃(さかずき)で赤ワインを飲んでいた。思い出すだけで吐きそうになる。。大学で本格的な飲み会に参加したことがなかったから、お酒の恐さを初めて知ったのがこのときだった。ここで初めて女子トイレの便器のとなりでつぶれて倒れて、女が座ってションベンしてるのに自分は寝そべていてカオスな世界だと痛感させられた。
たまにバーに来たお客さんが中国系の金持ちで、その金持ちはマジで嫌いだったが金払いがよかった。銀座の高級クラブからアフターできた嬢たちがくるので個人的にかなりテンションは上がっていた。まだ当時21歳だったので、「可愛い〜」って子ども扱いされて乳首をさわられたりしてパンツがカピカピだった。抱けなくて悔しくて情けなかったけどそこでMの性癖が目覚めはじめた。って、これなんの話?キモすぎるw
「お店が営業していない時間は、勝手にこのお店にきてカラオケ歌っててもいいよー」
そうバーのオーナーに言われて、いつのまにかそのバーで手伝うようになった。店の売上を立てるために、ナンパ師の友だちと協力して、六本木で女の子をナンパしていた。そのバーに3時間くらいで12人くらい女の子をパパ活アプリも使いながら送客していた。
その甲斐(かい)もあって、六本木のバーを経営してるオーナー陣に気に入られるようになった。LP制作の仕事をもらったり、法人コンサルにつながったり良い経験になった。よくも悪くも無法地帯で、そのバーは2年で潰れた。
そのあと、怪しい投資案件に複数手を出してことごとく失敗した。パパ活アプリで知り合った、ダイエットの発信をしている美人インフルエンサーと講座を売ろうとしたが途中で頓挫(とんざ)した。京都で生活をともにした友人に紹介したら、そいつが美人インフルエンサーを囲ってしまった。たぶんセフレになっていた。
ぼくのことをよいしょしてくれると思ったら、逆手に取られて背負投げ〜である。自分のグリップの弱さに絶望した。もともと京都にいた彼は六本木に引っ越して羽振りがよくなっていた。ボスと呼ばれるひとの傘下になり、キャバクラに通い詰めるようにもなった。そのボスとやらにドライブに誘われてフェラーリーに乗って、それで営業されてコロッと顧問として契約したらしい。
ぼく「いやそれネオヒルズ族の鉄板営業やん」
そうツッコむと、
「それで落ちない男はいないから、ふつうは」
そう、ちょいキレていた。そうか、ふつうの男になってしまったのかとどこかさみしい気持ちになった。その思いとは裏腹に彼の収入は飛躍的に伸びた。月5万円のコミュニティを開始して、2〜3か月ほどで100人くらい集まっていた。それだけで月500万円だ。さらに金持ちには投資案件を売っていき、お金のないひとには不動産を売って、営業に隙がなかった。わかりやすいように着るものもハイブラばかりになった。
直接対面で営業するのは、美しくないと謎のこだわりを自分で持っていた。嫉妬で狂いそうになったので、彼を避けるようになった。そして彼は持ち前のトークのうまさとふるまいで、次々にキャバ嬢を口説いて持ち帰っていく。順風満帆にみえた。
いつしか彼は、コミュニティやコンサル生へのサポートが間に合わなくなりTwitterで炎上をしてしまった。返金対応をして、金持ちから集めた投資案件もほぼ同じタイミングで運営もとが海外に飛んで1000万近くの負債を抱えることになった。そして彼は、ぼくが知る限りネットから突如として消えた。
イタリアからタイに行って帰国し、鬱。
お世話になっていた起業家のW氏から「イタリアいかん?」と誘われ、ルームシェアしていた巨漢コウキと、もうひとりの経営者と共にイタリアに行った。クレカの支払いに追われていたぼくは、その費用を巨漢に立て替えてもらっていた。
イタリアから、W氏のノリで「タイって、もはや近所じゃね?」という話になり日本に帰国するチケットをキャンセルもできずにいた。イタリアからタイに向かう航空券をとった。そこでタイを案内してくれるW氏のコンサル生である古着転売をしているS氏が現れた。
そのS氏とふたりだけで話す機会があって、「松本くん、キミかなり相当こきつかわれてるんだね」と言われてからハッとした。
「僕は、Wさんからは知識を利用するだけの関係にして、それ以上は関わらないようにしているよ」とそのあとW氏のいろんな良くない話と噂をきいてしまった。
思い返してみれば、心当たりがあった。大事なひとには誕生日を祝うと言っておきながら、自分はW氏の家の引っ越しの手伝いをしていた。
「今日、誕生日なんすよーw」
って言うと、「その辺から好きなマンガ取ってええよ。キングダムとかいいじゃん」となって、もうすでに最新巻まで読んでるのでしょーみいらなかったのだが、巨漢コウキが「あざっす!!」とか言うもんで遠慮もできなかった。
とくに報酬をもらわずにLPの制作を手伝ったり、ブログの更新を続けたり、旅行中はチェックアウトが何時なのかとか、朝食はいつからなのかとかタクシーの手配を自分が代わりにホテルのフロントでGoogle翻訳をみせながら進めていた。
いろんなところに連れて行ってもらったり、ビジネスについての相談もしてもらったりしてたので本来お世話になっている身としては、感謝しかないし頭が上がらない存在なのだが、雑に扱われている感覚が否めなかった。
W氏とアフリカにあるセネガルという国に行って、ふいに肩を組まれたときに「こんな親父がいたら最高だな」と女なら今惚れてるどぉってなったが、タイ旅行中に「ユニクロでパンツ2枚買ってきて」とLINEがきてプチンと切れてしまった。
帰国後、早く六本木から逃げないとヤバいと感じて、港区から実家にもどった。友人にはすぐ戻るとラインしたが、戻れなかった。巨漢コウキの連絡も無視してブロックしていた。立て替えの旅行費も返せず、クレカの支払いも滞納したまま気づけばブラックになった。
高額のコンサルや情報商材を売れば、すぐ返せるはずだった。しかし、ベッドから起き上がることができず、高熱を出し続けて動けなかった。クレカ会社から電話が鳴り続けて、機内モードにしていた。今でも電話が鳴ると、そのときのことを思い出してビクッとしてしまう。
常に現実逃避して、寝るかアニメを見るか、サウナに行くかだった。近くのスーパー銭湯まで歩いてサウナでゆらりと整っていた。整っていない人間が整いにいっていた。ぼーっとしている時間だけ、返済のことも人間関係のことも、なにもかも考えなくていい。ある程度、忘れられるのが心地よかった。
半年後、ぼくが外出中。巨漢のコウキが、実家のインターホンを押しにきた。父がインターホン越しに相手をして、「本人に聞いてみる」と、いったん巨漢コウキには帰ってもらった。お金を返していないことの経緯が伝わった。そのときは怒鳴られることなく、静かに同じ年くらいの男が来たと説明されて「お金返していないって、本当なのか?」と確認された。
「まごうことなく事実、本当だ」と親に伝えた。それ以外にもクレカの支払いを滞納していることも伝えた。とても働けるような状態ではないことを親も知っていたため、「お金はあとでいいから」と友人の返済代とクレカの滞納分を支払ってくれた。こればかりは本当に頭が下がらなくて、感謝しかなかった。
最初は人間関係のいざこざから、ショックで立ち直れなかっただけだった。しかし次第にお金のトラブルに発展していき、わかりやすく金がなくて貧乏な状態がいかに人をバカにさせて無気力にさせるか痛感した。
支払いを親に肩代わりしてもらってから、悔しいくらいわかりやすく肩の荷が下りてラクになった。人間関係までダメにしてしまって、こんなことなら早く親に話しておけばよかったとも思えた。
それからはまず自分がやれることを始めるようになった。Twitterを再開して、会える人と積極的に会うようになった。人と会っていたら元気になってきて、発信もするようになりコロナの追い風もあって、収入が800万円ほどまでに回復した。
Twitterで会っているうちに仕事のつながりで年上の彼女ができた。千代田区のお家で半同棲するようになった。固定費は相変わらずケチっていて、家賃も払わずにいてヒモのように好意に甘えて尽くしてもらっていた。
大学は2年休学していた。コロナに入ってから復学するようになった。リモートで授業が受けれることになって、単位を取るのが今までより簡単になった。動画で配られる講義は、外注して200〜300円くらいで主婦にレポートを書いてもらったりして、必修の語学はzoomで受けて、試験はカンニングし放題。気づけば前期は、フル単だった。
しかし後期から通わなくてはいけなくなり、通えなくて大学を中退することになった。親も猫を飼い始めてから、ぼくに対する興味が薄くなってくれて「このままお金をドブに捨ててもしょうがない」と割り切ってくれた。
大学中退して、株式会社を設立。
京都や六本木にいたときよりもお金も増えて、自由な時間が増えるようになった。彼女もいて、毎晩おいしい料理を作ってくれたりと何不自由なく暮らしていた。不満があるとしたら、彼女のことを好きになることができなかった。
お金が貯まってきたので、念願の株式会社を設立した。名前は、株式会社Future Diver である。元ネタは、”最上もが”が所属していたでんぱ組.
incというアイドルの曲から取ってきている。本当は10代のうちに会社を設立したくて、浪人中に公民館のジムで筋トレしながら会社名をずっと考えていた。
「シナプスとか、シナジーとかカッコいいな」とは思っていたけど、べつに自分になにか縁のある名前じゃないなと妄想にふけていた。そこで近所の公園で休憩しているときに日本語がしゃべれないスリランカ人と出会い、いっしょに筋トレするようになって、パッと思い浮かんだのが「Future Diver」だった。
歌ってるアイドルの曲は、きゃぴきゃぴ系だけど単体でみたら超かっけえじゃん!となった。”未知なる絵になるさらなる世界ハッケーン♪”という歌詞は歌い方はふざけてるけど、どんぴしゃで自分が思い描く理念にあてはまった。
当時、付き合っていた彼女も起業したてで販売ページの添削とかしていた。気づけば自分よりも稼ぐようになって好調だった。自分のほうはステップラインの構築ができたり、Youtube広告を開始するようになったが、なにか突き抜けるわけでもなく収入は横ばいだった。
アホのクズ
いつしか彼女は自分にとって、姉のような存在になっていた。いっしょの空間にいてイラッとはしないし、なんなら落ち着くし、ゲームとかいっしょに楽しめる趣味もあって、仕事の話もできて居心地はいいけど、だんだんキュンキュンするとか、女としては見れなくなっていた。手をつなぐのも自分のなかで抵抗が芽生えていた。
そして刺激を求めて、近所の秋葉原にあるコンカフェを制覇することに決めた。そのときナンパ師だったスネークは山梨にある大学をやめて、東京大学に合格するために再受験をするようになった。そんな彼を週1で誘って、新規のコンカフェを開拓して遊んでいた。
その開拓が進んでいくうちに、コンカフェ嬢とLINEを交換してそのあとデートにいき一夜ロマンスというのを繰り返すようになった。また秋葉原にはリフレといった不健全なマッサージ屋さんがあり、そこにも通い詰めるようになり「神のエステ」ができるまえからメンエスの虜になっていた。
六本木にいた頃よりかは、金使いがおとなしくなってはいたほうだが日々の積み重ねというのは怖いものので気づけば、コンカフェに100万円以上つかっていた。さらに都内各地のアミューズメントポーカーで遊ぶ内にお金がまた尽きはじめていった。
さすがにヤバいとなり、LINE構築の業務委託をしたり、一時的にコンサルを募集したり、商品を用意してそれを売ったりとなんやかんや貯金が200万まで復活できた。これでまた遊べる!と思って、女の子との予定を立てているとそのGoogleスケジュールをチラッと彼女にみられてしまった。それを機に信用を失い、そこから自分も雑な扱いをしてしまい別れることとなった。
コロナ禍の贅沢
ヤドカリのような生活をしていて、次のヤドが見つかるまで千葉の実家に滞在した。ここまで一人暮らしを本格的にしていない。コロナで自粛ムードのころ、あらゆるサービスが割安となり色んなホテルで泊まるのがコスパよすぎた。
アマン東京、リッツカールトン、ペニンシュラ、Wホテルとか今だったら1泊20万から30万円する部屋が4〜5万円とかで泊まれた。またクレカのポイントで実質タダでホテルに泊まったりもした。ひとりで泊まるのもつまらないので、ナンパ友だちだったり女の子と遊ぶときに使うようになった。
また月8万円くらいの価格で、ビジネスホテルに1か月泊まり放題だった。サウナと温泉が好きだったので全国のドーミインホテルにいった。抹茶スイーツを食べに、弾丸で京都に行ったり、アプリで電話した女の子が福岡にいたので会いにいって場所を転々としていた。
海外に行っても遊べる趣味を探していた。サーフィン、ポーカー、ゴルフ、サウナ、グルメ、麻雀、ドライブなど。そして、ポーカーに激ハマりして銀座のイベントトーナメントで2位を獲得した。そこで手に入れた賞金を片手に、フライトのチケットを取り、そのままラスベガスへと向かった。
ちょうどそのときラスベガスでWSOPというポーカーの世界大会が開催されていた。PCR検査と陰性証明書を手に入れて、いざフライトしようとしたらESTAの申請を忘れていてフライトを逃してしまった。早急に問い合わせて、キャンセルと新規でフライト予約をとって飛行。
ラスベガスに着いたころには、WSOPの大会はすでに終わっていた。会場につくと撤収されていて、おれは何のために来たんだと立ち尽くした。しかしラスベガスはWSOPという世界大会が終わっても、そこらじゅうでポーカーのトーナメントが開催されていた。
ベラージオカジノでポーカーができるところを探していると、現在Youtubeのチャンネル登録者数103万人の”世界のヨコサワ”にばったり会った。勇気を振り絞って声をかけると、快くいっしょに写真をとってもらうことができてテンション爆上がり。ぼくがポーカーをはじめるきっかけになったひとで、ポーカー文化を日本で広めた第一人者といっても過言ではないひとなので会えてものすごく光栄だった。
ポーカーの卓につき、はじめて金が賭かっている本物のチップでベットするのは手が震えた。しかし、不思議なもので時間が経つにつれて慣れていき、気づけばとなりの外国人とテキーラを交わしていた。その日は6万勝ちだった。
後日、事前に登録していたトーナメントに参加費5万円で参加をした。テーブルには犬を連れてきているひともいて、これぞアメリカ!自由だな!って感じだった。そのトーナメントでは自分のスタイルを崩してしまって、早々に負けてしまった。帰りはUberに乗って、テスラに乗りながら反省。降りる寸前に、運転手がハンドルを握っていなかったことに気づいてテスラの自動運転を満喫するのを忘れていた。
翌日、Twitterで連絡して日本から来ているポーカープレイヤーとカジノのなかにあるレストランでランチをした。タクマ氏は、自分と同い年で建築系の会社に勤めていたのだが休職してポーカープレイヤーになったそうだ。貯金して、WSOPの大会に参加して800万くらいの軍資金がもう200万くらいにまでになった。しかし、彼はそのあとキャッシュを打ちまくって今では世界各地を巡っているプロポーカープレイヤーとなった。
タクマ氏と解散したあと、ぼくは昨日と同じような参加費7万円くらいのトーナメントに参加した。参加者は700人くらい。優勝したら1000万円がもらえる。昨日の反省をいかして、相手をリスペクトして舐めないようにプレイしていると運よくそのテーブルで一番チップを持つ、チップリーダーになった。その後も大きく減らしたり、オールインしてラッキーしてチップが倍々に増えたりして合計12時間、ポーカーしていた。残り60人のところで1日目が終了。
2日目は、残りのチップが少ないまま迎えてまだ賞金をもらえるほどの順位ではなかった。しかし何度かラッキーして、3時間くらい耐えて入賞した。入賞すると1000ドルくらいが確定でもらえるのだ。人生ではじめての入賞(インマネ)したので「やったー!!」と叫びたかったがまわりの大人たちは、まだまだこれからっしょという雰囲気で喜んでるひとは少なく拍手もパチパチ〜くらいだった。
そしてラッキーは続かず、結果は700人中の32位で幕をとじた。しかし思ったよりもインマネ賞金の額が大きく、これだけで飛行機代をチャラにできてしまった。その夜は、入賞のお祝いにベラージオの噴水ショーをテラス席から眺めるところでステーキを堪能した。さらにそのあとシルク・ドゥ・ソレイユを観にいき、人間の身体能力の限界まで美しく魅せるショーをみながら、またラスベガスに来年も行こうと誓った。
懐石料理店「松川」
そして、日本から帰国してすぐに月額5000円くらいで入ってるグルメの会員サロンから予約困難店の案内がグループラインに流れてきた。和食界のトップと言っていい日本を代表する懐石料理店「松川」の案内だった。食べログのGold Awardを長年受賞していて、世界中の美食家が訪れる名店。
席数が20席しかなく、営業日・営業時間も限られていて常連客が常に予約を抑えている。新規客が予約とれるのはまず不可能なのだ。決済は、現金しか取り扱っていなくランチの時間で約8万円だった。
これは行くしかない!と思い、速攻で申し込むと参加できてしまった。口に入れて食道を通したら、どうせう◯こになるだけのものに8万円を払うのは正気の沙汰ではなかったが一流の和食コースに興味があった。当日、滅多に着ないジャケットを羽織り、遅刻してはいけないと約30分前には最寄りについていてお店を確認してから近くのカフェで時間をつぶしていた。
6人中5人が時間通りに集まっていて、ひとりだけ遅れて大きな花束を持って参加していた。その花束は、今回予約をとってくれた主催の方に向けたものだった。今回、予約をしてくれた前澤社長と仲良くしている日本飲食のドンと言っても過言ではない経営者だった。そこに集まったひとたちの職業は、医者、経営者、投資家、政財界関係者とあきらかに20代の若造がいてふさわしくない空間だった。それぞれみんなどのようなことをしているのか自己紹介しつつ、料理がでてきたらスーッと静かになって各々で悦にひたっていた。旬の松茸、香箱蟹、鮎、のどぐろ、熊肉のしゃぶしゃぶ、そして最後にいくらと山椒をごはんにのせて完璧。主催のひとは、明日世界が滅亡するとしたらここの「いくらと山椒ごはん」を食べて死ぬと言ってるほどだった。
そして、コースが終わってふととなりを見ると、広瀬アリス似の巨乳美女がいることに気づく。料理に夢中で、あんまりまじまじ見てなかったけど、ちゃんと見たらめっちゃ美人やんけ!と思いダメ元でLINE交換を提案したら通った。自分よりちょっと年上で姉と変わらないくらいかなと思っていたら、16歳年上の投資家だった。後日、2回デートして告白したら彼女になっていた。
ヘラクレスオオカブトとの出会い
そんな感じで、のらりくらりと好きなことだけして資本主義的には積み上がらない人生を送っていた。すると、同い年の起業家の友だちと遊戯王をしまくるために那須高原に泊まりにいった。
温泉いったり焼肉食べたり、コテージにもどって遊戯王しまくったりしていた。旅行の最終日、たまたま目に入った昆虫ショップに勢いで入った。すると棚の最上部にヘラクレスオオカブトが、とんでもない存在感を放っていた。
「えー!?ヘラクレスオオカブトいんじゃん!!って、日本でも飼えるの??」
衝撃だった。それで、値札をみたら10万くらいするものなんかな思ったら合計5万円くらい。意外と安い。でも、高い…。財布には2万円しかない。ここで買わなきゃ、一生もうヘラクレスオオカブトなんて買えない。そう思ったぼくは、ヘラクレスオオカブトを購入する決心をした。しかし、お金がなかったのとただ成虫を育てても退屈だなと思っているとヘラクレスの幼虫がいた。価格はオスメスセットで5000円。
ゲロ安っ!!!!
ってことで幼虫から成虫になる過程も楽しめると思い、即購入。そのときはまだヘラクレスオオカブトを売ろうなんて考えもしなかった。自慢できるおもろい趣味になるくらいだなーくらいに思っていた。d
那須高原から車で帰ってくるとき、いっしょに旅行にきていた友達が物販で月500万円を稼いでいるのだが、
「幼虫が5000円で、成虫が5万円って価格差えぐいな。これビジネスにしたら余裕で億いけるんじゃね?」
ヘラクレスオオカブトを事業にしたらどうなるのか?妄想話で車内が盛り上がった。車の運転を任せつつ、おもむろにヘラクレスオオカブトが最高でどのくらいの金額で取引されているのか調べてみた。すると・・・
300万円!???
これを見て、本格的にヘラクレスオオカブトをビジネスするのありだなってなった。心臓が高鳴り、憧れのヘラクレスオオカブトを育てる。しかもそれがビジネスになる、男のロマンを感じた。
「まずは自分が育成に成功しないと、飼育を外注するとき指示できないよなぁ」
実家にヘラクレスの幼虫が届いて開封すると、幼虫はまだ親指の第一関節くらいの大きさでめちゃめちゃ小さかった。ほんとうに赤ちゃん。まずは幼虫を羽化させようと育成を始める。だいたい幼虫から羽化(成虫)になるまで約1年。先が長い。
まだ可愛いな〜ていう時期。そして2ヶ月後…
どんだけデカなっとんねんwww
もうこの辺から怪獣を育ててる気分になる。指をアゴで噛まれるとふつうに痛い。それからゴム手袋をつけながら土を交換していた。
ちなみに幼虫を育てるのはめちゃめちゃ楽チンである。ヘラクレスの幼虫は土を食べるため、エサやりは2ヶ月に1回土を換えるだけでいい。ヘラクレス専用の土を使って育てていため、ぶくぶく太っていった。
冬ごろ。発泡スチロールのなかに、30度〜40度くらいに中を温める変温シートを入れて放置していた。これで東京に仕事しながら、2ヶ月に1回くらい千葉の実家に帰って土を換えていた。手離れが非常によくて、めんどくさがりな自分の性格としてはちょうどよかった。
ヘラクレスの幼虫も大きくなり、4ヶ月目でついに100gに達っした。重さでいうとコンビニのおにぎりくらい。大きさは、野球ボール。土を変えるたびに大きくなって、「気持ち悪っ!(褒め言葉)」と言いながらもサナギになる時期を楽しみにしていた。
そんなある日、事件が起こった。2ヶ月ぶりに実家に帰って、恒例の土換えをする予定だった。ちょうどYouTubeで、生放送を配信したところ。せっかくなのでヘラクレスオオカブトの幼虫を見せてあげようという流れになった。幼虫♀のケースを持ったとき、なんか嫌な予感がした。
ケースの蓋をあけると、幼虫は土から浮上して白いウミみたいのに喰われていた。グロすぎて、すぐにフタをしめた。
「うーわ、死んでんじゃん…」
なぜ死んでしまったのか?は、すぐわかった。変温シートに問題があった。冬から春は、23℃くらいに保っていた。ここまでは冬仕様でも大丈夫だった。
しかし5月の中旬くらいに20℃後半を超える日が3日くらい連続した。発泡スチロールのなかは30℃を超えるサウナ状態。ぼくは都内のホテルに泊まって遊んだり仕事をしていた。ホテルに泊まってるとき、「大丈夫かな〜」と心配していた。が、案の定ダメだった。この3日間で溶かしてしまった。ちゃんと温度管理をしていれば順調に育つはずが、甘く見積もってケチってしまった。
ヘラクレスオオカブト、全滅。
ヘラクレスたちは近所の公園の土をシャベルで掘って、死虫を埋めた。約10か月かけて育てていたのもあって、かなりショックを受けた。ちょうど、そのころ当時付き合っていた彼女がいてフラれた。しかし、彼女にフラれたショックよりもヘラクレス全滅のほうがショックだった。
ぼくはヘラクレスオオカブトを育てるのは向いてない。ヘラクレスに関わることをやめようかとも思った。それでもヘラクレスオオカブトに対する熱は冷めなかった。諦められなかった。育成はせずに、なんとか自分の手を介さずにヘラクレスオオカブトが売れないかなと模索した。
「ヤフオクから仕入れて売っても、あまり儲からないな」
「幼虫を仕入れて外注してもいいけど、なんかいろいろ面倒だな」
「なんか楽して良い感じにならないかな」
そう思って、ヘラクレスオオカブトを育てているYouTubeをだらだら見ていると…見つけた。超優良なお店が…!!
ヘラクレスオオカブトとGoogleで調べても、上位に表示されていない。お店のYouTubeチャンネルを持っているわけではない、ヘラクレスオオカブト好きの知る人ぞ知るオンラインショップだった。
相場の3分の1くらいでヘラクレスオオカブトが買えた。怪しすぎた。本当にこの値段で写真のような立派なヘラクレスオオカブトが来るのか!??
実際に、その店のヘラクレスを買ってみた。するとヘラクレスはタッパーに入っていてそのとき夏だったので保冷剤も入っていた。タッパーのふたには何箇所がヘラクレスが息しやすいようにぷつぷつと穴が空いていた。
ふたを外すと、おがくずのなかにゼリーも入っていてツヤツヤの角も太っといド迫力のヘラクレスオオカブトが現れた。
うおおおおおおおおお!!!!
ヘラクレスオオカブトをAmazonで出品できることを知った。Amazonでヘラクレスオオカブトを商品登録。まず商品のレビューを集めるために、仕入れの2倍の価格、9800円で出品した。そしたら、3日後に売れた。
本当に売れたっ!!
脳汁が、ぶわーっと分泌されて、この快感があるからゼロイチビジネスはやめれねえ。さらにヘラクレスオオカブトでAmazon広告を打つと、みるみる売れていった。広告費2,276円で、売上35,636円。利益は、約20,000円。
ヘラクレスオオカブトの価格を上げないと在庫切れになりそうなので調整しないといけないくらい爆売れした。
そのあと推しのAV女優をホテルにデリヘルした投稿がバレて、1年半くらいで彼女と破局した。
実家にもどるのもなにか違うなと思い、羽田空港で1か月ホームレス生活をしていた。空港近くのホテルに宿泊するのは、ルール違反で。10日に一度、スパを使うのはありという制約で暮らしていた。
ぼくと同じタイミングで空港に暮らしはじめた生粋のホームレスおじは、5日ほどで警備員に追放されていた。一方、ぼくはキャリーバッグと常に旅行者っぽいアロハシャツとか着て、寝る場所も転々としていたので注意されなかった。
あとM-1グランプリに出場した。M-1は漫才なので相方が必要であるため最初にナンパを教えてくれた友だちとを誘ったら快く参加してくれた。なんやかんや3年連続出場し、3年連続、1回戦敗退だった。笑
