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音楽あれこれ① 歌は、人生のあとから意味を返してくる――稲垣潤一『コイン一つのエピローグ』を聴き直して

高校生の頃、姉の影響で稲垣潤一を「いい曲だな」と思いながら聴いていた。歌詞はほとんど覚えていない。ただ声の質感やメロディの輪郭だけが、なぜか記憶に残っている。意味が届くより先に、音が身体の奥に沈んでいく。音楽には、そういう保存のされ方があるようだ。

『コイン一つのエピローグ』も、長い間私にとってはその一曲だった。当時の私は、失恋の歌なのだろう、とぼんやり受け取っていただけで、どこか遠い大人の世界の話に思えた。けれど今になって、歌詞に耳を澄ませて聴き直すと、昔は拾えていなかったものが確かにある。沈黙の重さや、言い切れなかった言葉の気配や、相手の気持ちを察してしまう瞬間の温度のようなものが、曲の中に埋め込まれているのだとわかる。


空港からかかってくる一本の電話。公衆電話のコイン一つ分の短い時間の中で、彼女は何かを伝えようとするが、最後まで言い切ることができない。彼女はもう、こちらの関係から一歩外れた場所にいる。その距離が、言葉より先に恋の終わりを告げてしまったのだろう。

この歌が美しいのは、終わりが「察し」として成立するところにある。恋が終わるとき、人は本当は多くを語れない。語ろうとすればするほど言葉は薄くなる。だからこそ、この歌では“言われない部分”が残る。言われなくても、わかる。言われないからこそ、わかってしまう。そして終わりは、静かに確定する。

察するという行為は、ときに曖昧さと誤解される。だが本当は逆だ。察することには覚悟がいる。察してしまった瞬間、終わりは自分の中で決まってしまう。相手に終わらせられるのではなく、自分が自分の中で幕を引く。そこにあるのは、優しさというより、成熟に近い痛みである。

『コイン一つ』という言葉が象徴的なのは、それが制約だからだと思う。切れるまでの残り時間が、会話の背後にずっと張りついている。三分間で恋の終わりを語り尽くすことなど到底できない。だからこそ言葉は選ばれ、沈黙が残り、察しが成立する。制約があるから、関係は終わることができる。そんな逆説が、この歌の中には潜んでいる。

いまは、わかりやすさの時代だと言われる。恋もまた、わかりやすさの中に置かれている。連絡は無料で、いくらでもできる。既読がつき、生活が流れてくる。沈黙は余韻として置かれる前に、意味を与えられてしまう。便利になったぶん、終わり方だけが難しくなったようにも見える。

昭和の恋が美しかった、と言いたいわけではない。終わり方が美しく見えるだけの余白が、社会の側に残っていただけなのかもしれないと思うのだ。言葉にしないことで守られるものがある、という感覚。言葉にしないことで壊さずに済むものがある、という感覚。そうした倫理が、人間関係のどこかに自然に混ざっていた時代があったのだろう。

歌が不思議なのは、こちらが理解できる年齢になるまで、黙って待っているところだ。若い頃には意味が届かなかった歌が、人生を通って、言えなかった言葉や察してしまった沈黙を抱えるようになった頃、ふいにこちらへ意味を返してくることがある。

そして聴き終えたあと、考えてしまう。人は、終わりをどれだけ言葉にしてよいのだろうか。言葉にしないことでしか残せないものがあるのではないか。あの沈黙は、時代が変わった今もまだ、どこかで鳴り続けているのだろうか


追記:
今、80年代のシティポップが若者に再認識されていると聞いた。それは懐古ではなく、現代が失いかけている感覚の回収なのかもしれない。

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