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学校名ではなく、自分の課題を生きる――比較から離れる教育

公立高校の序列は、誰の力を示しているのか

高校受験では、どの学校に合格したかが、子どもの能力や将来を示す勲章のように扱われます。地域のトップ校に入れば親は胸を張り、偏差値の低い学校へ進めば不安を抱く。しかし、公立高校の教員は都道府県に採用された職員であり、学校間を異動します。進学校の教員が定員割れの続く高校へ移ることも、その逆もあります。特定の学校にだけ優れた教員が集まり続ける仕組みではありません。

もちろん、授業方針や進路指導、学校文化には違いがあります。ただ、公立高校の評価を大きく左右しているのは、学校が持つ特別な教育力よりも、入学時点ですでに一定の学力へ到達している生徒が集まることです。トップ校の高い進学実績も、学校がゼロから生徒を育てた結果というより、高い学力と進学意識を持つ生徒が集まり、その集団が結果をつくっている面が大きいのでしょう。

選ばれているのは学校よりも母集団である

保護者が高校を選ぶ際に期待しているのは、校舎や先生だけではありません。大学進学を当然と考える友人、速い授業進度、豊富な進学情報、勉強することが浮かない空気など、そこに集まる生徒がつくる環境を求めています。

つまり、学校を選んでいるように見えて、実際にはどのような母集団へ入るかを選んでいます。高校名は、その学校に集まる生徒の学力分布や進学意識を示す記号として機能しているのです。

ただし、その集団の一員になったことと、本人の将来が保証されたことは同じではありません。中学校で上位だった子どもも、トップ校へ入れば同程度の学力を持つ生徒の中で中位や下位になることがあります。学校全体の進学実績は集団の結果であり、そこに所属している一人ひとりの成果を約束するものではありません。

高校名は、十五歳時点での到達度を示す一つの記録です。それ以上の意味を与え、子どもの価値や将来まで学校名に背負わせると、高校へ入ること自体が教育の目的になってしまいます。

学校が学びを独占する時代は終わった

かつては、進学塾にでも通わない限り、住んでいる地域と通う学校によって、出会える先生、教材、友人、進学情報の範囲がほぼ決まっていました。どの高校に入るかが、その後の学びの広さを大きく左右していた時代です。

現在は、オンライン講座、映像授業、電子書籍、海外大学の公開講義、専門家の発信などを通じて、地域や国を越えて学べます。学校に同じ関心を持つ友人がいなくても、ネット上では同じ分野を学ぶ人とつながることができます。語学、プログラミング、音楽、研究、創作など、学校の授業だけでは十分に扱われない分野ほど、その可能性は広がっています。

毎日通う学校の環境は今も重要です。しかし、学校だけが学びの範囲を決める時代ではありません。これから必要になるのは、良い学校に入れば良い教育を与えてもらえるという発想よりも、自分に必要な学びを学校の内外から選び、組み合わせる力です。

学校、塾、書籍、オンライン講座、地域外の仲間、専門家との交流を、自分の目的に応じて使い分ける。学習環境は与えられるものから、自分で設計するものへ変わりつつあります。

同じ学年だけでつくられる世界の狭さ

学校では、生まれた年が同じ子どもを集め、同じ時期に同じ内容を教えます。制度を運営する上では効率的ですが、社会の実際の姿とは異なります。

社会へ出れば、年齢も経験も能力も立場も違う人と関わります。自分より経験の豊かな人から学び、別の場面では経験の浅い人を支えることもあります。ある分野では自分が詳しく、別の分野では相手に頼る。人間関係は、一つの物差しによる固定された上下関係ではありません。

それにもかかわらず、学校では同じ年齢の子どもだけを集め、その中の小さな差を順位へ変えていきます。同質的な集団ほど比較は容易になり、わずかな点数差や順位差が、本人の価値の違いであるかのように感じられます。子どもは自分の課題を見るより、周囲との距離を測ることに意識を奪われていきます。

異なる子どもが同じ場所で学ぶ意味

私の塾には、地域のトップ校に通う高校生もいれば、定員割れが続く高校の生徒もいます。小学生から高校生までが同じ空間を共有し、それぞれ異なる教材と課題に取り組んでいます。そこに学年による一斉授業はなく、全員が同じ問題を解き、同じ順位を競っているわけでもありません。

英単語を覚える小学生の隣で、大学入試問題に取り組む高校生がいる。中学数学を学び直す高校生のそばで、先の単元を学ぶ中学生がいる。目標も現在地も異なるため、単純な比較は成立しません。違いが大きいほど、誰が上で誰が下かという見方は意味を失います。

そこで子どもたちが向き合うのは、隣の子の成績ではなく、自分はいま何を理解し、どこでつまずき、次に何を学ぶ必要があるかという課題です。周囲の人は、自分の順位を測るための物差しではなく、それぞれ別の課題を持ちながら同じ場所で生きる存在として見えてきます。

これは、社会の縮図でもあります。社会では、自分より優れた人とも、助けを必要としている人とも関わります。年齢や所属を越えて人とつながり、その中で自分の役割を見つける力が求められます。同じ学年の中だけで人間関係を完結させ、そこでの順位に執着することは、現実の社会に対する準備としても不十分です。

比較は子どもの適性を覆い隠す

親が子どもを他人と比べ始めると、目の前の子どもが見えにくくなります。「あの子はトップ校に入った」「同級生は英検二級を取った」「友人は有名大学へ進んだ」という情報は、別の家庭における結果です。性格、家庭環境、関心、得意分野、望んでいる人生が異なる以上、そのまま自分の子どもの基準にはできません。

比較を中心に置くと、子どもは自分の適性よりも、周囲から評価されやすい能力を優先するようになります。本当は文章を書くことが好きでも、点数になりやすい科目ばかりを選ぶ。人と関わることが得意でも、偏差値の高い進路だけを正解と考える。自分の関心より、親や社会から認められる道を選び続けることになります。

教育が目指すべきなのは、同じ物差しの上で少しでも高い位置へ押し上げることではありません。その子が何に関心を持ち、どのような環境で力を発揮し、何を社会へつなげられるのかを見つけることです。

比較は幸福の基準を外へ移す

他人との比較が危ういのは、進路選択をゆがめるからだけではありません。幸福の基準を自分の外側へ移してしまうからです。

高校へ入れば大学名で比べ、大学へ入れば就職先で比べ、就職すれば収入や役職で比べる。比較の先には、常に自分より上の誰かがいます。そこに幸福を求めれば、満足は長く続きません。

子どもの健やかな成長は、成績や学校名だけでは測れません。自分の苦手を認めること、失敗の後に立て直すこと、人に助けを求めること、自分で選んだことに責任を持つことも、重要な成長です。

親が見るべきなのは、他人の子どもとの距離ではなく、以前の本人から何が変わったかということです。何ができるようになったのか、どのようなことを考えるようになったのか、自分で判断できることが増えたのか。そこに目を向けたとき、子どもの成長は順位とは異なる姿を見せます。

学校名から離れ、自分の課題を生きる

高校選びに意味がなくなったわけではありません。学校の雰囲気、友人関係、授業進度、進路支援は、三年間の生活に影響します。ただ、学校名に人生を預ける必要はありません。

大切なのは、どの高校に入ったかより、その環境をどう使い、学校の外にどのような世界を持つかです。周囲の生徒と比べ続けるより、自分が何に関心を持ち、何を継続でき、どのような力を磨いていくのかを考える。その力こそ、変化の大きい社会を生きる基礎になります。

教育とは、同じ年齢の子どもを一列に並べ、順位をつけることではありません。異なる年齢、能力、背景を持つ人と同じ社会を共有しながら、自分自身の課題を見失わず、自分なりの幸福をつくる力を育てることです。

学校名ではなく、自分の課題を生きる。親も子どもも、他人との比較から少し距離を取り、目の前にある成長と適性を見る。その視点が、教育を競争から人生へ戻していくのだと思います。

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