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いまさら映画感想⑦『時計じかけのオレンジ』— “自由”とは、選ぶことなのか、選ばされることなのか?

『時計じかけのオレンジ』を初めて観たとき、私はただ圧倒された。鮮やかな色彩と、暴力と、クラシック音楽と、独特の言葉遣い。何よりも、主人公アレックスがルドヴィコ療法を受けた後に見せる、あの“操り人形”のような姿が、どうにも脳裏から離れなかった。

「オレはただの機械仕掛けか?」

この映画を観たことがある人なら、忘れられないシーンがいくつかあるだろう。例えば、最初の“暴力の美学”とも言える一連のシーン。アレックスと彼のドルーグたちが、家に押し入り、紳士を襲い、踊るように暴れまわる。ベートーヴェンの旋律に乗せて描かれるその光景は、残虐なのにどこかスタイリッシュだと錯覚してしまいそうになるのが恐ろしい。

しかし、この映画が本当に怖いのは、アレックスが“更生”した後の姿だ。暴力的だった彼は、国家の新たなプログラム「ルドヴィコ療法」によって、暴力を振るうことができない体にされてしまう。殴られようが、屈辱を受けようが、彼はただひれ伏すことしかできない。

「これは“善人”になったと言えるのか?」

アレックスはもう暴力を振るえない。人を傷つけることができない。それは社会にとっては良いことだろう。しかし、彼は善を選んだわけではない。暴力を振るう自由を、奪われただけだ。

この映画の核心はここにある。人間の善悪は、自由意志の上に成り立つものなのか? それとも、ただ社会のルールに従うよう強制されたものなのか?

「自由であるとは、悪を選ぶ自由をも持つということだ」

アレックスの姿を見ていると、『カッコーの巣の上で』のマクマーフィーが頭をよぎる。精神病院の管理体制に抗いながらも、最終的には体制によって押し潰されてしまう彼。アレックスもまた、国家という「大きな意志」によって、彼自身の人格を変えられてしまう。

『時計じかけのオレンジ』が問いかけるのは、「社会のために個人の自由をどこまで奪っていいのか?」という問題だ。ホッブズの『リヴァイアサン』では、「人間の本性は悪だから、強い国家によって秩序を保つべきだ」とされている。この映画は、それと正反対の問いを投げかける。

「人は、自由に選べる存在でなければ“善”とは言えないのではないか?」

もし、人間が社会によって完全に矯正され、選択の自由を失ったら、それは果たして「人間」なのだろうか? 機械仕掛けの人形のように、ただ“正しく”動く存在が、本当に善と呼べるのか?

ラストシーン—「オレは治ったよ」

ラストシーン、ベートーヴェンの第九が響く中、アレックスは再び「自由」を取り戻す。しかし、それは“善”を選ぶ自由ではない。暴力と快楽を楽しむ、かつてのアレックスそのものだ。

このシーンが痛烈なのは、彼が元の姿に戻ったことを国家が「問題ない」と受け入れてしまうことだ。つまり、社会は「個人が本当に善人になること」には興味がなく、ただコントロールできるかどうかにしか関心がないのだ。

このラストの皮肉に震えた。

アレックスは変わらない。社会も変わらない。ただ、彼は再び「自由」になったのだ。

…それがあるべき姿なのかどうかの判断は、観る者に委ねられている。


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