「二人でなんとかやる」という現実と制度のあいだで
葬儀が終わり、1週間が経った。
私は仕事にも復帰し、年度末ということもあり、忙しさの波に飲まれつつある。
朝起きた時。家を出る時。家に帰った時。寝る前。
お義父さんの遺影に向かって、自然と話しかけている。生前、施設に入る前には、そうやって声をかけていたことを思い出す。
同じではないけれど、そんな日課が戻ってきたことが少し嬉しい。
昨日、馴染みの眼鏡店に行き、お義父さんの形見の眼鏡を修理に出した。

フレームは少し歪み、ところどころメッキも剥がれている。パートナーに聞くと、30年以上お義父さんがかけていた眼鏡とのことだ。
修理は上手くいかないかもしれないし、既製品を買うよりも値が張る。
それでも、レンズを新しくして、もう一度使ってみようと思った。
眼鏡は1週間後に受け取る予定だ。
どんな見え方になるのか、少し楽しみにしている。
あらためて思う。
私たちは今、二人で暮らしている。
生計を共にし、そして法的には親子関係でもある。いわゆる養子縁組というかたちを選んだ。
今回の葬儀の対応や、その後のさまざまな手続き。
過去にはパートナーが手術を受けたときのこと、そして今、心身ともに疲弊し、仕事を離れている状況。
正直に言えば、今も、この先も、彼のことがとても心配である。
それでも、「二人だからなんとかやっていける」と思えているし(いや、なんとかやるしかないと覚悟して)、実際にそうやって踏みとどまっている。
ただ、同時にこうも思う。
もし、私たちが生計を共にしておらず、そして法的な関係も結べていなかったとしたら——間違いなく、詰んでいた。
これは大げさな表現ではなく、現実的な感覚としてそう思う。
だからこそ私たちは、本意ではない部分も抱えながら、時に口論に近い話し合いを重ねて、養子縁組という選択をした。
私たち以外の同性カップルの中には、各自治体のパートナーシップ制度に加え、養子縁組のほか、遺言や公正証書などを整えることで、充分ではないものの法的関係を補おうとする人たちもいる。
いわば“バイパス”のような手段だ。
けれど、それはあくまで「そうせざるを得ないから選んでいる」側面が大きい。
そして何より、そうした手段を取れる人ばかりではない。
取らない選択をする人もいるし、取りたくても、環境や事情、互いの信条によって取れない人もいる。
本来であれば、誰かと共に生きるという関係そのものが、この国の社会制度の中で自然に扱われ、保障されるべきだと思う。
今の制度は、「法律上の家族」を前提に組み立てられている。その前提の中に、私たち同性カップルは含まれていない。
その枠の中に入っているかどうかで、いざというときの支えや手続きのしやすさ、さらには生活そのものの安定度が大きく変わってしまう。
それは、日常が穏やかなときには見えにくい。
けれど、自分や相手、身内が倒れたとき、関係が揺らいだとき、あるいは人生の節目に直面したときに、一気に表面化する。
そのときに、「家族として扱われない」ということが、どれほど現実的な困難になるのか。
それは単なる不便さではなく、命や生活の継続に深く関わる問題だと感じている。
私たちは、たまたま選べる選択肢の中で、養子縁組を選んだ。
その中で大変なことも多くあったけれど、それでもなお「恵まれている」と感じる場面がある。
けれど、それが“前提”であってはいけないはずだ。
「だったら、貴方たちも同じ選択をすればいい」と簡単に言える話ではない。
誰もが同じ選択をする必要はないし、同じかたちを望む必要もない。
それでも、どんな関係であっても、「この人と共に生きている」という事実が、当たり前に守られる社会であってほしい。
お義父さんの眼鏡は、もうすぐ新しいレンズが入る。同じフレームのまま、違う見え方になるのだと思う。
私たちの社会も、自分とは異なる他者が、どんな関係の中で、どんな思いを抱えながらこの社会で生きているのかを、いつもの自分とは違う角度からも見られるようになったらいい。
そんなことを、今回の出来事を通して強く感じている。
