「推し」の舞台に文句をつけるとき、人は何を守ろうとしているのか
紅白歌合戦のYOASOBIパフォーマンスを巡って、賛否両論の投稿が大量に流れてきた。試しに、肯定的な意見にも否定的な意見にも、片っ端からいいねを押し続けてみたのだ。するとアルゴリズムが面白い反応を見せた。称賛と批判が交互に並ぶ、まるで整然としたディベートのようなタイムラインが完成したのである。
そのタイムラインをぼんやり眺めながら、ひとつの問いが頭から離れなくなった。
否定的なことを書いている人も、肯定的なことを書いている人も、同じアーティストのファンなのだ。
怒りの正体
否定派の意見で圧倒的に多かったのは、「バンドメンバーがカメラに映っていない」という不満だった。
投稿者のプロフィールを見ると、「YOASOBI垢」「夜行性(公式ファンクラブ名)」「FC会員」といった言葉が並ぶ。ライブにも足繁く通う、コアなファンたちだ。その感情の根っこは、おそらくこういうことだと思う──YOASOBIとはikuraひとりのことではない。Ayaseをはじめとするバンドメンバー全員が揃って初めてYOASOBIという表現が完成する。その「全員」が映らなかったことへの、純粋な愛情からくる悔しさ。
その気持ち自体は、わかる。
だがここで少し立ち止まって考えたい。ファンが「映ってほしかった」と感じることと、そのパフォーマンス全体を公の場で否定することは、まったく別の行為ではないか。
YOASOBIはオファーを受け、内容を承諾し、自らの意志であのステージに立った。カメラワークも演出も、NHKと制作陣とアーティスト側が積み重ねた結果だ。それを「良くなかった」と断じることは、アーティスト本人の選択を否定することと紙一重である。
さらに、一部の投稿では共演した韓流アイドルや他のアーティストを「邪魔」と表現するものまであった。
それはもはや、推しへの愛情ではない。他者への攻撃だ。そしてその攻撃は、巡り巡って推しのパブリックイメージを傷つける。「あのアーティストのファンはああいう人たちなのか」という印象は、思いのほか静かに、しかし確実に広がっていく。
ファン心理の深いところにあるもの
ではなぜ、推しのステージにファン自身が不満を抱くのだろう。
ひとつの仮説として、「所有感」があると思う。
熱心にライブに通い、グッズを買い、SNSで応援し続けると、人はそのアーティストに対して無意識のうちに「自分が育てた」「自分が支えた」という感覚を持つようになる。愛情が深まるほど、その感覚は強化される。そしてある閾値を超えると、愛情は「期待」に変わり、期待は「要求」に変わる。
「メンバー全員を映してほしい」という気持ちは、最初は純粋な願いだ。しかしそれが「映されて当然だ」になった瞬間、ファンはアーティストの「サポーター」から「評価者」へとすり替わっている。
SNSはその変容を加速させる。フォロワーが増えれば発言に反応が返ってくる。いいねがつけば「自分の意見は正しい」という感覚が強まる。影響力があるという錯覚が、さらに強い言葉を生む。気づけばその人は、推しの「代弁者」を自認するようになっている。
しかし、アーティストは一度もそれを頼んでいない。
褒め方にも、品がある
一方の肯定派にも、少し気になる傾向があった。
最も拡散されたワードのひとつが「ジャニーズがいない紅白」だった。YOASOBI公式アカウントがそのツイートにいいねしたことで、さらに話題になった。
褒めようとしているのはわかる。でも、何かを称えるために別の何かを引き合いに出す必要が、本当にあるのだろうか。
「〇〇がいなかったから良かった」という言い方は、「〇〇がいたら良くなかった」という意味を構造的に内包している。それは純粋な称賛ではなく、比較による優位の確認だ。
褒めることは、本来シンプルでいい。「最高のステージだった」「鳥肌が止まらなかった」、それだけで十分に気持ちは伝わる。何かを下げることで初めて成立する称賛は、どこか脆い。
あのステージの「主役」は誰だったか
ここで少し、あのパフォーマンスそのものについて考えてみたい。
今回の紅白におけるYOASOBIの出演は、「YOASOBIが紅白に出た」という出来事ではなかったと私は思う。もっと正確に言えば、「アイドル」という曲が紅白という舞台に降り立った夜だった。
「アイドル」はアニメ『推しの子』の主題歌として生まれ、国内外で異例のヒットを記録した。その楽曲の世界観──アイドル文化への愛と皮肉と憧れが混在した複雑なテクスチャー──を体現するべく、様々なアーティストや韓流アイドルが集結した。カメラがどこを切り取るかも、誰が前景に立つかも、すべてその世界観の演出として設計されていた。
つまり、あのステージの主役はYOASOBIでも韓流アイドルでもなく、「アイドル」という楽曲そのものだったのだ。
「メンバーをもっと映してほしかった」という気持ちと、「あのステージは素晴らしかった」という感動は、矛盾なく共存できる。ただ、前者のために後者を否定する必要はどこにもない。
ファンの言葉は、推しの「顔」になる
少し冷たく聞こえるかもしれないが、大切なことを書いておきたい。
ある芸人はかつてこう言った。「Twitterはみんなが勝手につぶやいているものを勝手にフォローして覗いている仕組みだから、人のものに文句を言うのはまあまあな言いがかりだ」と。意見を発信すること自体は自由だし、批判する権利だってある。
ファンの発言は、そのアーティストのパブリックイメージの一部になる。
他のアーティストを攻撃するファンがいれば、「あのアーティストのファンはああいう人たちだ」という認識が広がる。逆に、純粋な喜びや称賛を発信するファンが多ければ、そのアーティストに興味を持つ人が増える。ファンの「質」が、新しいファンを呼ぶかどうかを左右することすらある。
「こんな紅白に出るならファンをやめます」と投稿していた人を見かけた。その言葉が推しの耳に届いたとして、推しは何を思うだろうか。あるいはそもそも、99%の確率で届かない言葉を、なぜ発するのか。
ファンは推しの代弁者ではない。評価者でもない。
ただ、好きだから応援する。それだけでいい。そしてその応援が、推しをもっと遠くへ連れていく風になる──そういうファン文化が、少しずつでも広がっていけばいいなと、年末のタイムラインを眺めながら思った年明けだった。
ここまでお読みいただきありがとうございました!
Twitter↓
https://twitter.com/smiyatake_
Facebook↓
https://www.facebook.com/seiichiro.miyatake
