資本主義社会における音楽の意味性の変容
近代以降の音楽の歴史を振り返るとき、私たちはしばしば音楽を「芸術」や「娯楽」としてのみ理解しがちですが、その起源には、呪術的・宗教的な儀式としての性格が色濃く刻印されていることを忘れてはならないと思います。映画『真夏の夜のジャズ』において、サッチモことルイ・アームストロングの圧倒的なパフォーマンスの後に、マヘリア・ジャクソンが登場し、ゴスペルとしての「神に捧げる歌」でコンサートを締めくくる構成は、この事実を強く意識させるものです。そこでは、ジャズフェスティバルという世俗的な祝祭空間の最後に、あたかも礼拝のクライマックスのような瞬間が据えられており、音楽の根底にある宗教性が可視化されています。
しかし、現代における音楽は、この聖性や思想性を大きく失いつつあるように見えます。その背景として、記録媒体と資本主義の発展がもたらした構造的変化を無視することはできません。録音技術の発達は、音楽体験をその場限りのものから、繰り返し再生可能な商品へと変えました。それは、より多くの人びとに音楽の素晴らしさを届けるという意味で大きな価値を生み出しましたが、同時に「供給過剰」という致命的な条件を内包することにもなったといえるでしょう。希少性が価値を規定するという人類普遍の感覚があるなかで、音源の供給は年々加算・乗算的に増殖し、一楽曲あたり、一ミュージシャンあたりの価値は薄められていきます。これはまさに、経済学でいうインフレーションのような現象と捉えることができます。
さらに、音楽の視聴形態の変化も重要です。生演奏からラジオ・テレビ放送、物理メディアを経てストリーミングへと至る過程で、音楽は「特定の時間と場所に結びついた体験」から、「いつでもどこでもアクセス可能な背景データ」へと変質していきました。アルバム1枚を繰り返し聴き込み、歌詞や文脈を含めて味わう体験は、「スキップ前提の数秒」と「プレイリストの一要素」としての楽曲によって置き換えられています。その結果、音楽は「出来事」から「流通する情報単位」へと位置づけを変え、倫理的・存在論的な問いを喚起する契機としての力を弱めつつあるように見えてしまいます。
とはいえ、ライブ、クラブ、宗教的集会、デモやフェスといった特定の場面では、音楽は依然として強い一回性を保持しています。そこでは、暗転、最初の一音、身体の同期、コール&レスポンスといった一連のプロセスが、宗教儀礼と類似した構造を形成し、参加者に恍惚感や共同体感覚をもたらします。この事実は、「人間は本質的に宗教性を求める存在である」という仮説を支える要素だと考えることができます。近代社会では科学的視点が浸透し、宗教はしばしば「迷信」とみなされ、その社会的影響力を弱めてきましたが、その代替として、ポップカルチャーやファンダム、いわゆる「推し活」の中に、宗教的な形式が再出現していると解釈することもできるでしょう。
推し活は、「崇拝」「共同体」「儀礼」といった宗教的要素を持ちながらも、必ずしも倫理的・存在論的な問いへと人を導くとは限りません。むしろ、インターネットとアルゴリズムによる個人化、エコーチェンバー効果によって、他者との摩擦を通じて自らを相対化する機会は減少し、「自分の内面」に「閉じた信仰」のようなものが強化されてしまっているともいえます。ここでは、伝統的宗教が担ってきた「生と死」「善と悪」「共同体の規範」といったレベルの問いよりも、「自分にとっての推し」「自分の物語」の一貫性が重視されます。つまり、宗教性は残っているが、その射程はきわめて個人化された形で再編成されているのです。
このような状況を、数字の問題として捉え直すこともできます。かつて宗教や思想が扱ってきたのは、「1」という数字が持つ意味の深さでした。1人の人間、1つの魂、1回きりの生、そのどれもが代替不可能であるという感覚が、倫理観や存在論の中核にあったといえます。それに対して現代の音楽産業では、再生回数、売上、フォロワー数、ランキングの順位といった数字が価値評価の軸になり、「1再生」「1フォロワー」は互いに交換可能な単位として扱われます。ここでは、「1」の重さや不可逆性は削ぎ落とされ、すべてが加算可能なデータとして処理されることになります。その結果、音楽の倫理観や存在論的視点は、資本主義的数値による価値観のなかで隠蔽され、感じ取りにくいものになっているように思われるのです。
では、音楽の未来はどこへ向かうのでしょうか。音楽をこのまま「単なるデータ」として扱い続けるのか、「偶像的なアイドル」としての信仰に依存するのか、それとも、宗教や思想が担ってきた倫理観や存在論的な問いを引き継ぎつつ、「深みのある芸術」として再び立ち上げていくのか。この選択は、自動的に決まるものではなく、現代人一人ひとりの考え方と行動、そして教育や批評、現場の設計にかかっていると言えるでしょう。『真夏の夜のジャズ』に刻まれていた、音楽が歴史・宗教・政治・共同体を一度に呼び込むような濃度を、どのような形で再び取り戻すのか。それこそが、これからの音楽文化に対して私たちが引き受けるべき、最も重要な問いなのだと思います。
