エッセイ~花盛りの祖母たちへ
一昨年祖母が亡くなった。
98歳だった。
戦時中を必死に生きてきた
女性だった。
その戦争の話を幼い頃に聞く時が多々あった。
祖母は戦時中、群馬の中島飛行機にいた。
そこで色々な作業をしていたらしいのだが、
聞いた時のわたしも幼く、
何の仕事かまでは詳しく覚えていない。
事務の仕事だったと記憶の片隅に微かにある。
ただ、空襲警報が鳴って慌てて
祖母たちは全速力で避難して、
どかーん!という音がして
後でその場所を見にいったら、
深い深い井戸のような穴が出来ていて、
水が溜まってて
という話はよく聞いた。
あんな悲しい思いはしたくないが口癖だった。
毎晩、真っ暗の中の道を歩いて
自宅まで泥だらけで帰って、
それは恐ろしい思いをしたと云っていた。
青春なんてなかったともいっていた。
「平岡くんがね…」
と、当時同僚だった学生の話をする時は、
夢を見るような
顔で話していた憶えがある。
ただの
同僚に違いないのだが、
学生だった彼から小冊子をもらったと
よく自慢していた。
「それ見せて」わたしは云うのだが、
戦後の混乱の中で紛失してしまったという。
その学生の名は
「平岡公威」という。
わたしは大学生時代よく
本を読んでいたが、その中である記者に
揶揄されている作家というのがいて、
密かにこころ痛めていた
その作家の本をあまり手にすることはなかったのだが。
それが平岡公威。
つまり三島由紀夫だ。
祖母が彼に恋をしていたのか
していなかったのかは知らない。
ただ三島由紀夫の話になると、
公ちゃんね!公ちゃんね!と熱心に話していた記憶がある。
無論、あまり器量の良くないわたしの祖母のことなど
平岡公威は相手にしなかっただろうが。
何かの小冊子は
祖母に呉れたらしい。
それが何なのか…
後に思ったのだが、
花盛りの森のことだったのではないかとふと感じた。
時代考証など作品がいつ書かれたかまでは知らないが。
わたしはそこまで三島由紀夫に詳しくない。
高校時代、金閣寺に挑戦したが挫折して。
つい最近になってから
改めて潮騒や花盛りの森を読み始めたところだ。
川端康成との交流など、太宰治のことが嫌いだったことなど。
その花盛りの森の詩的な表現はまさに詩人だ。
彼の言葉には他にも、
『僕は詩人の顔と闘牛師の体とを持ちたい』という言葉や。
『弱いライオンの方が強いライオンよりも美しく見えるなどということがあるか』などという言葉がある。
マッチョな三島由紀夫のイメージと祖母が語る平岡公威像は違う。
色白で大人しくいかにも文学青年で、
皆から好かれていたという
平岡公威のわたしの祖母の印象。
わたしが産まれる前には亡くなった、
三島由紀夫の作品を読解力がないなりに、
今、何か得たいの知れない芸術家の背中に触れるように読む。
仮面の告白も。
豊穣の海の一連の作品も。
宴のあと、は、やはり挫折したが。
祖母が親しみをもって語る平岡公威と、
三島由紀夫の違い。
文学論などできるほど知識はないのだが。
彼は戦時中どんな思いで過ごしていたのだろうか。
戦争の中で喘ぐように文学活動をしていたのか。
祖母は晩年アルツハイマーを発症し、
やがて戦時中の思いでも怪しいものとなっていた。
だんだんとピントがずれていくレンズのように。
戦時中、パイロットと中島飛行機を飛び立ち、
伊豆の方まで海を見ながら飛んだとか。
白いマフラーをした敵の戦闘機のパイロットに
機銃掃射される中、敬礼したとか。
次第に夢の中のような話になっていた。
晩年の祖母は平岡公威のことを覚えていたのか?
苦しい時代を共に生きた
同僚のことを。
文学的にも人間としても三島由紀夫を
どうこう語る資格はわたしにはない。
そして彼の人生や生き方についても。
ただ、
もし彼の最初の小説を祖母に
プレゼントしてくれていたとするのならば、
それはありがたい。
ただ皆に配った中の一冊に過ぎなくても。
祖母にとっても。
わたしにとっても。
誰に何を言われようが、
爆撃を受ける飛行場で戦中を祖母と共に生きたひと、
三島由紀夫。
子供の頃に聞いていた名前が、
四十を過ぎてようやく
その文学界における意味を知ることとなる。
葬儀もなく。
参列者もなく。
荼毘にふされる祖母。
果たして三島由紀夫は
我が名もなき祖母のことなど覚えていたのだろうか。
フミエという。
覚えていまい。
いるはずもない。
だがわたしは知りたい。
平岡公威が三島由紀夫になる前に、
祖母に渡したという小冊子の作品の名前が
本当に「花盛りの森」だったのか。
きっと
いま
彼と家の祖母は天国の
その森にいるに違いないからだ。
花のまっただ中の
安らかな地で。
今まさに花盛りの祖母たちへ…
