第三話:王、語られず
名を持つ者が増えるたび、
王の声は小さくなっていった。
かつて、陰界のすべての声はヴェルザ・イル=ノクトのもとに集い、
彼の名が唱えられるたびに、壁は震え、水は澄んだ。
だが、今。
“語り”は王を通らずに広まっていた。
洞窟の壁に刻まれた文字、
名を持たぬ蟲が互いを呼び合う声、
小さな集落で語られる“忘れられた影の物語”。
──すべて、王の知らぬところで生まれていた。
そして何より、
その語りに“ヴェルザ”の名は、登場しなかった。
「なぜだ……なぜ、我の名は語られぬ……?」
ヴェルザは、祠にて記録を確認するたび、
焦りと怒りを強めていった。
王は命じた。
「語られぬ者など、消えればよい」
「語らぬ者も、同じだ」
そうして、王直属の殻部隊──“黙(もく)の群れ”が組織された。
彼らは、語りを行う集落を襲い、
壁の記録を剥がし、名前を名乗った蟲を封じて回った。
それは、“焚書の時代”と後に呼ばれる。
蟲たちは語ることを恐れ、
名を隠し、互いを番号で呼ぶようになった。
そして、王は満足げに言った。
「語られぬ世界こそ、完全な秩序だ」
その言葉に、王の従者たちは沈黙した。
だが、王自身も気づいていた。
──それは、“死”に近い静寂であることを。
ある日、王の前に、一匹の蟲が現れた。
それはクラシスではなかった。
名もなき、ただの陰の住人。
だが、彼はこう言った。
「……我々は、“あなたを語らない”と決めた」
王は動揺した。
「それは、我に逆らうということか?」
「違う。我々はあなたに、ただ……“沈黙”を贈るのです」
王はその蟲を焼き捨てた。
だが、それが始まりだった。
以後、祠には“王の名”が記されなくなった。
クラシスが語らずとも、
誰もが、王の名を避け始めた。
「……我は、王ぞ。
この陰界の唯一の、支配者……ぞ……?」
それは、誰にも届かない言葉だった。
語られぬ王は、王ではない。
王は、最後の選択をした。
「ならば、記録のすべてを──焼き払う」
祠を燃やせ。
文字を砕け。
語り部を潰せ。
語りがなければ、忘却もない。
記録がなければ、名も不滅であるはず。
だが──遅すぎた。
クラシスは、王宮の最深部に姿を現した。
静かに、しかし確かな足取りで。
ヴェルザは、王の椅子に座りながら、彼を見据えた。
「貴様が……この腐敗の元凶だ」
クラシスは、殻の奥からひとつの巻物を差し出した。
「これは、おまえの名だ。
語られぬ王の、最後の“記録”」
「焼くがよい。だが、それが何になる?」
ヴェルザは、それを睨みつけながら、力なく問うた。
「……我は、何を間違えたのだ……?」
クラシスは言った。
「名を与えることはできても、
語られることを望むなら──
自らが“誰かの記憶”に値する存在であれ」
王は崩れ落ちた。
その名は、殻と共に砕け、
やがて、記録から姿を消した。
ただ──
クラシスの語りの中に、一節だけ残された。
「かつて王がいた。
だがその名は、誰も口にせぬ。
それこそが、彼の選んだ終わりだった」
それが、“堕ちた王ヴェルザ”の最後である。
フェイン・ヴェルザが継いだその名には、
すでに“語り”の重みは宿っていなかった。
そして、数百年後──
アモ・ブリオンという名が語られたとき、
それは静かに世界の底で、再びうねり始めることとなる。
⸻
次回予告:最終話『語られるための名』
王は失墜し、語りは生きた。
クラシスは、なぜ自ら語られることを望まなかったのか?
名を持つということは、誰かに“残される”ということ。
最後の問いに、語り部は静かに答える。
Coming soon…
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