第三話:名を喰らう影
黒い影は音もなく進み、地を這うようにリオンへと迫った。
まるで“記録”を嗅ぎつけた獣のごとく──否、獣よりも禍々しい、“忘却の化身”。
その存在には重さがなかった。
だが、空間ごと染みこむような圧力があった。
目を逸らした瞬間、自分の“名前”すら奪われてしまいそうな、そんな感覚。
リオンは結界の中心に立ち、殻を胸に強く抱きしめる。
「おまえが……名を喰らう者か」
影は返事をしない。
ただ、にじむように近づいてくる。
その姿は人のようでもあり、蟲のようでもあった。
そして、“形”という概念すら曖昧にしたまま、地に滲んでいく。
次の瞬間、世界が反転した。
視界が裏返り、音が消え、風が逆流する。
これは“侵食”だった。
記録を護る者に対し、影が仕掛ける干渉。
言葉を歪め、記憶を壊し、名の輪郭を滅する術──
リオンの足元の結界が、軋むように光を歪ませる。
耐えている。
だが、限界は近い。
そのときだった。
──喰うな。
──語れ。
殻から、また“声なき声”が響いた。
リオンはそれを聞いたとき、ただの受け手ではいられなかった。
殻は、彼に“語り返す”ことを求めている。
忘却に抗うには、ただ記録するだけでなく、
「語る者」として、自らの“言葉”を紡ぐ必要があるのだ。
「……アモ・ブリオン。
貴様の記憶、俺の中で今、燃えている。
蟲として生き、語られずに終わった魂よ。
俺が、おまえの物語を継ごう」
その瞬間、殻が輝いた。
まばゆい紋章が浮かび、影の侵食を押し返す。
影がうねる。
怒りか、苦悶か──あるいは、名を拒まれたものの嘆きか。
リオンの声は続く。
言葉は魔法となり、記録は結界となる。
それは“語り部の術式”──
この世界で最も古く、最も忘れられた魔法。
──名を語る者は、名を護る者。
リオンの言葉に呼応し、殻の中から、黒き羽根のような記憶の欠片が舞い上がる。
そこには、アモのかつての戦い、旅、そして孤独があった。
影が裂ける。
悲鳴のような振動を残し、名のないものへと帰っていく。
静寂。
風だけが、世界を撫でた。
リオンは地面に膝をついた。
呼吸が浅い。魔力も、声も、削がれていた。
だが──護った。
彼は初めて、語り部として“語りきった”。
「……これが、おまえの力か。
いや、俺たちの……語られるべき記録の力」
殻は静かに脈動している。
新たな名を刻むように。
リオンという名と、アモという魂を繋ぐように。
闇は去った。
だがリオンは知っている。
これで終わりではない。
むしろ、ここからが本当の始まりなのだ。
つづく──
第4話予告:『継承の儀式』
空がようやく青に染め直し始め、リオンは小高い丘の上に立っていた。その手には、かつて王が持っていた印が。
Coming soon…
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