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傷の免罪符

「先生、うちの子は傷ついているだけなんです」。
窓を割る少年の母は悲劇を語り、不登校の少年の担任は「甘えだ」と切り捨てる。児童精神科医・賀来誠司は、二つの対照的なカルテに違和感を抱く。同じクラスの二人が共有していたのは、連休最終日に起きた「ある失踪」だった。周囲の大人が「傷」と「甘え」という物語に飛びつき、真実から目を逸らす中、賀来は深い沈黙の底に隠された加害の連鎖を解剖していく。その「傷」は、誰かを追い詰めていい免罪符になるのか。問いと衝撃が交錯する、静謐なる心理ミステリー。
(あらすじ)
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序章

六月の終わり、梅雨の晴れ間がのぞいた午後だった。児童精神科医・賀来誠司の外来には、エアコンの効いた室内とは対照的に、外の蒸し暑さが窓ガラスを通して伝わってきていた。

「先生、蓮はそんな悪い子じゃないんです。傷ついてるだけなんです」

樋口由美子は、賀来の外来の椅子に浅く腰掛け、ハンカチを握りしめていた。化粧は丁寧だったが、目の下には隠しきれない疲労の色があった。

「先月も、また教室の窓を割ったそうで……」

「ええ…。先生、あの子の父親が家を出て行ったのが中学一年の時で、それから変わってしまいました。取るに足らないことでも急にキレたり、家を飛び出したり。これも全部私が悪いのかなって。私があの子のことを見ていてあげられなかったから」

賀来は黒いノートに視線を落としたまま、相手の言葉を遮らずに聞いていた。母親の語る「傷」の物語は、よく出来ていた。よく出来すぎているくらいに。

「樋口さん。蓮くんが窓を割った日、何があったか覚えてますか」

「ええ…確か、担任の先生にちょっと注意されたみたいで、あの子最近繊細で…」

「注意された理由は何ですか」

由美子は一瞬、視線を逸らし、ハンカチを握りしめたまま首を横に振った。
「さあ……細かいことまではわかりません」

賀来は何も言わず、ただ小さく頷いた。

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同じ週の木曜日、賀来の元には別件の相談が届いていた。中学三年の朝倉樹について、担任の坂本からの電話だった。

「正直言わせてもらいますと、もう甘えなのではと思うんですよ」
坂本の声には若干の苛立ちが混じっていた。「五月の連休明けから一日も学校に来てなくて。最初の頃は『お腹が痛い』とか理由つけていたんですが、今はもう何も言わずに休んでいる状況です。お母さんもどうやら甘いようで、強く言えないらしいんです」

「樹くん本人と話したことはありますか」

「実際のところを知りたくて、家庭訪問を何度かしましたが本人は部屋から全く出てこないんです。顔見せてって声をかけてもドア越しに『大丈夫です』としか言ってくれない。私としてもいつまでも甘やかしてられないんで、そろそろ厳しく言うべきかと思ってるんですけど、先生からも何か言ってもらえませんか?」

賀来は電話を切ったあと、しばらく窓の外を見ていた。

二つの相談。片方は「傷ついているから許される子」、もう片方は「甘えているから詰められる子」。

この時点では、賀来にもまだ、二人の間に何があったのかは見えていなかった。

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第一章 樋口 蓮

賀来のクリニックは、駅から少し離れた住宅街の一角にある。待合室には観葉植物が並び、壁には子供向けの絵本が数冊置かれていたが、中学三年生の蓮にとっては、どれも自分には不釣り合いな小道具にしか見えなかった。

蓮は外来に入ってくるなり、ソファに足を組んで座った。中学三年生にしては大柄で、整った顔立ちをしていた。診察室の壁にかかった時計を、わざと大きな音を立てて確認するような仕草をした。

「自分は特に話すことはないっす。母さんに言われて来ただけなので、別に俺、病気とかじゃないっすよ」

賀来としては、蓮の話しぶりに、特に嫌な印象は受けなかった。むしろ好青年な態度ともいえる笑顔も散りばめられていた。

「病気かどうかを決めに来たわけじゃない。窓を割った話を聞きたい」

「ああ、あれ。担任がだるい」

「だるい、というのは?」

蓮は鼻で笑った。「みんなの前でごちゃごちゃ言ってくるんすよ。お前は最近遅刻が多いとか、提出物出してないとか。そんなの教室の真ん中でやるんすか?」

「それにむかついたって?」

「そりゃそうでしょ。親父が出て行ってから、家でずっと母さんの愚痴聞いてるんですよ。学校来るだけで頑張ってるのに、何なんだよ」

賀来はその語りを黒いノートには書かなかった。代わりに別のことを尋ねた。

「クラスに、朝倉樹くんっているね」

蓮の表情が、ほんのわずかに動いた。一瞬だけ。だがその変化を、賀来は見逃さなかった。手元のペンを回す速度が、わずかに速くなった。

「……はい、いますけど。あいつがどうかしたんですか」

なぜか急に丁寧な敬語になった。

「知ってる子なんだね」

「同じクラスってだけです。あんまり喋ったことないですよ」

蓮はそう言って、また足を組み直した。その動きは、わずかに不自然だった。視線が、賀来の手元のノートに一瞬だけ向かった。

「最近、学校来てないらしいね、朝倉くん」

「知らないです、そんなの。俺に関係ないし」

賀来は頷いた。それ以上は追わなかった。今はまだ、追うべき時ではない。

面談の最後、蓮はふと、誰に言うでもなく呟いた。

「俺、別に好きで荒れてるわけじゃないんですよ。誰も俺のこと、わかってないですし」

その言葉は、本当だった。その時の賀来にはそう感じられた。

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幕間 賀来の所感

外来が終わった後、賀来は黒いノートを開いて、その日の記録を読み返した。

樋口蓮。中学三年。父親の家庭内暴力と失踪。母親の過剰な同情と過保護。学校での器物損壊、複数回。教師への反抗。

朝倉樹。中学三年。父親は早くに病死。母子二人暮らし。五月の連休明けから完全な不登校。本人からの説明は一切なし。

二人は同じクラスだった。それだけの記述が、賀来の目に止まった。

児童精神科医としての賀来の仕事は、目の前の少年の「症状」を診ることだ。だが、症状の奥にある「物語」を急いで決めつけることは、最も危険な誤りだと、賀来は長年の臨床で学んできた。

蓮の「荒れ」は、父親の不在による傷として説明されていた。樹の「不登校」は、甘えとして説明されていた。どちらも、聞こえのいい物語だった。そして、聞こえのいい物語は、たいてい、誰かにとって都合のいい物語でもある。問題の責任所在を置くことは日々の臨床で習慣化している。

それでも、この時点での賀来の見立ては、母親の語りからさほど遠くなかった。蓮の器物損壊や反抗的な態度は、家庭内暴力を目撃した子どもに典型的な、過覚醒型の反応性の行動だろう。怒りの矛先が誤った対象に向かいやすいのは、よくあることだ。だとすれば、優先すべきは蓮の安全と安定であり、彼の行動を厳しく取り締まることは、むしろ逆効果になりかねない――賀来はそう、ノートの端にメモを残した。

二人は同じクラスだった。それだけの記述が、賀来の目に止まった。だがこの時点では、それは単なる偶然の符合としか見えていなかった。

賀来は窓の外、夕暮れの街を見ながら、もう一度、二つのカルテを並べた。

カルテの厚みが何か違う、何かが、引っかかっていた。

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第二章 朝倉 樹

朝倉樹の自宅は、町外れの古い団地の三階にあった。母親の朝倉久美は、賀来を迎え入れるなり、何度も頭を下げた。

「先生、すみません、わざわざ来ていただいて……樹は、大丈夫だと思うんです。ただちょっと、休みたいのかなと」

賀来は久美の言葉の奥にある不安を感じ取った。「甘えだ」と学校から言われ続け、母親自身もどうやらそう信じようとしている。信じなければ、自分を保てないのだろう。

樹の部屋のドアは閉まっていた。賀来はノックをして、名前を名乗った。

「樹くん。少し話せるかな」

しばらく沈黙があった。それから、くぐもった声が返ってきた。

「……大丈夫です」

「学校の先生から相談を受けて来たんだけど。別に説教しに来たわけじゃないから」

また沈黙。やがてドアがわずかに開いた。隙間から見えたのは、痩せた、顔色の悪い少年だった。

「こんにちは。あの、話したくないなら、それでもいいから。今日はそこに座っているだけでもいいよ」

樹は何も言わなかったが、ドアを閉めなかった。賀来は部屋の前の床に腰を下ろした。

二十分ほど、何も話さなかった。賀来も急かさなかった。廊下の窓から差し込む光が、少しずつ角度を変えていくのを、二人とも黙って見ていた。

「じゃあ、そろそろ帰るね」

賀来が言うと樹がぽつりと言った。

「先生、僕…んんん…でも」

「でも?」

樹はそれ以上言わず、ドアを閉めた。だがその「でも」の続きに、何かがあった。賀来はそれを、黒いノートに書いた。

―― 五月の連休明け。何があった。

二度目の訪問は、二週間後だった。今度は、樹は最初からドアを少し開けたまま待っていた。それだけで、賀来は小さな前進を感じた。

「どうも。今日は、ただ、来てみただけ」

樹は黄ばんだ壁紙の部屋の中、ベッドに座ったまま、小さく頷いた。机の上には、漫画が数冊と、開かれたままのノートがあった。賀来はそれを見ても、何も言わなかった。

「今日は、好きなことの話でいいよ」

樹は少し驚いた顔をした。それから、ぼそぼそと、好きな漫画の話を始めた。賀来はただ聞いていた。会話は長くは続かなかったが、樹の口から出た言葉の数は、前回より多かった。

帰る間際、賀来はもう一つだけ尋ねた。

「あ、そうだ、樹くん。グループチャットって、まだ入ってる?」

樹の手が、一瞬止まった。

「え……もう、抜けました」

「いつ頃」

「五月の、連休の最後の日です」

賀来は頷いただけで、それ以上は聞かなかった。だがその一言は、後の調査において、重要な起点になった。

樹は、賀来がそのことをなぜ聞いたのか、寝る前に何度も考えてみた。

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第三章 由美子の語る「傷」

樋口由美子との二度目の面談で、賀来は蓮の生育歴を詳しく聞いた。

父親が家を出て行ったのは中学一年の夏。それ以来、蓮は荒れ始めたという。物を壊す、同級生に乱暴な言葉を使う、教師に反抗する。

「本当の蓮は気持ちの優しい子で…。小さい頃は、妹のことすごく可愛がってくれたり、面倒見がよかったんです」

由美子の語りは、聞いていて自然と同情を誘うものだった。父親の不在、母親の苦労、少年の荒れた行動――その因果関係は、誰の目にも「分かりやすい物語」として映る。

「父親が出て行ったのも、もとはあの人が、蓮にも私にも、すぐに手を出す人だったからなんです。蓮が小さい頃から、家の中は怒鳴り声が絶えなくて。私、何度も逃げようと思ったんですけど、なかなかできなくて」

由美子はそこまで話してから、急に口を閉じた。「……すみません、こんな話、関係ないですよね」

「いえ。関係あります。蓮くんが育った環境で、何が『普通』だったのか、知っておきたいので」

由美子は少し迷ってから続けた。「あの人は、機嫌が悪いと、すぐ物に当たって人のせいにする人でした。蓮は、もしかするとそれを真似するようになったのかもしれません。止めなきゃいけなかったのに、いつも怖くて、見て見ぬふりをしてたかもしれません」

賀来は黒いノートに、静かに書き加えた。蓮にとって、「怒りで物を壊す」「気に入らない相手に力を示す」という振る舞いは、家庭の中で見て育った、ごく自然な対処法だったのかもしれない。

だが賀来は、ある一点に注目していた。

「由美子さん。蓮くんが荒れ始めたのは、お父さんが出て行った直後からですか。それとも、もう少し後からですか」

由美子は考え込んだ。「……最初の半年くらいは、むしろ大人しかった気がします。荒れ始めたのは、確か中学二年になった頃からです」

「中学二年の、いつ頃か覚えていますか」

「ゴールデンウィークの後くらいだったと……」

その瞬間、賀来の中で、二つの時系列が静かに重なった。朝倉樹が学校に来なくなったのも、同じ時期だった。

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幕間 蓮の記憶

(後の面談で、蓮自身が語った内容を、賀来が要約したものである)

小学三年生の時のことを、蓮は今でもはっきり覚えている。父親が、母親の作った夕飯に文句をつけ、皿を壁に投げつけた夜のことだ。割れた皿の破片が、蓮の足元まで飛んできた。母親は何も言わず、ただ黙って破片を拾い始めた。

「母さんは、いつも黙ってた。黙ってれば、父さんの機嫌がそのうち収まるって、知ってたから」

蓮は、その光景を何度も見るうちに、ある法則を学んだ。声を荒げ、物を壊し、相手を黙らせれば、自分の苦しさは誰かに伝わる。逆に、黙って耐えていれば、誰にも気づかれず、自分だけが損をする。

「俺、教室で誰かに強く出る時、頭の中で、父さんと同じことしてるって、たまに気づく。でも、止められないんすよ。止めたら、俺、何もない人間になる気がしちゃって」

父親が出て行った後、蓮は奇妙な感覚を抱いた。嫌悪な存在がいなくなったことへの安堵と、自分の中に残った「父親と同じやり方」への嫌悪が、同時に存在していた。

「俺、父さんのこと、嫌です。でも、しんどい時にどうすればいいか、父さんからしか教わってないんです。それしか知らないから」

この告白は、対決の場面よりもずっと後、蓮が自分の行為に向き合い始めた頃に、ようやく語られたものだった。賀来はこの言葉を聞いた時、蓮という少年の輪郭が、初めてはっきりと見えた気がした。

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第四章 「甘え」という圧力

担任の坂本は、賀来との面談で苛立ちを隠さなかった。

「もう一年近く来てないんですよ。最初は体調不良って言ってましたけど、今は理由も言わない。お母さんも強く言えないし、本人とも話せない。正直、このまま不登校を認めていったら、他の生徒にも示しがつかないと思うんです」

「樹くんが学校に来なくなった、具体的なきっかけは分かりますか」

「分からないんです。本人が何も言わないから。クラスでいじめがあったのかとも思って調べましたけど、特に目立った報告はなかったですし」

坂本は、手元の成績表を取り出した。
「ただ、一つ気になっているのは、これです」

賀来は受け取って目を通した。樹の成績は、三年生になってから、緩やかに下がり続けていた。特に、五月の連休明け以降の小テストでは、明らかに点数が落ち込んでいた。

「樹くんは、もともと成績はそこまで良くなかったんですが、最近、本人なりに焦っていたようにも見えました。塾の先生からも、ちょっと様子がおかしいと連絡があって。正直、僕は、これが一番の原因なんじゃないかと思ってるんです。授業についていけなくなって、それで学校自体が嫌になった、というような」

「成績が下がったのは、不登校が始まる前からですか、それとも後からですか」
坂本は資料を見直した。
「……前からですね。四月の終わりの小テストから、すでに下がり始めてます」
賀来はその数字に目を留めた。確かに、時系列としては、成績の低下は不登校の前に起きている。「学業不振が引き金になった」という説明は、確かに筋が通っているように見えた。

「それなので、学習プリントを自宅に届けたりして『今からでもまだ間に合うから』と声を掛けてきたのですが」
坂本の教員としての善意が感じられたところで、賀来は話を戻した。

「すいません、先ほどおっしゃっていたいじめの件で調べた、というのは具体的には?」

坂本は少し気まずそうに視線を逸らした。
「……アンケートを取った程度です。無記名のやつを」

賀来はその回答に、どことなく引っかかりを覚えた。無記名アンケートというのは、たいてい何かを覆い隠すための儀式でしかないことを知っている。本当に何かが起きていたなら、その程度の調査で表に出てくることは少ない。

「具体的に、アンケートにはどんな項目がありましたか」

坂本はファイルを取り出し、コピーを見せた。「『最近、嫌な思いをしたことがありますか』『クラスで気になることがありますか』、その程度です」

賀来はそのコピーに目を通した。質問は抽象的で、回答欄も小さい。仮に樹がそこに何かを書いたとしても、それが「いじめ」という具体的な言葉に結びつくとは考えにくい設問だった。

「これは、いつ配られたものですか」

「五月の終わり、連休が明けてすぐです」

「樹くんが学校に来なくなった、ちょうどその頃ですね」

坂本は、その指摘に小さく息を吸った。「……そうですね。タイミング的には、ちょうど」

「先生。樹くんは、このアンケートに何か書きましたか」

坂本はファイルをめくり、樹の回答欄を見せた。そこには「特にありません」と、几帳面な文字で書かれていた。

「これが、彼の精一杯の『沈黙』だったのかもしれませんね」
賀来は言った。
「本当に何もなかったわけじゃない。何も書けなかった、ということかも」

「坂本先生。樹くんと樋口蓮くんは、同じクラスでしたよね」

「ええ、そうですけど」

「二人の関係について、何か知っていることはありますか」

坂本は首を振った。
「特に何も。蓮くんは目立つタイプですけど、樹くんは大人しいタイプなので、あまり接点はなかったと思いますよ」

賀来は、その「あまり接点はなかったと思う」という言葉の軽さに、静かな違和感を覚えた。何か、見ていないものがあるような、気がして。

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第五章 小さな違和感

賀来は、樹の母親・久美に頼んで、樹のスマートフォンの使用履歴を見せてもらうことにした。本人の許可は得られなかったが、久美が「家族として確認したい」という形で、契約者である久美自身が確認することにした。

樹はあるグループチャットから、五月の連休最終日の夜、突然退出していた。そのグループは「学級LINE」とは別の、有志で作られたグループだった。

久美はその名前に覚えがあった。「これは、樹がよく見てたグループです。クラスの何人かで作ってたみたいで」

「このグループに、樋口蓮くんは入っていましたか」

久美はグループのメンバー一覧を見て、頷いた。「はい、入ってます」

退出した日の直前、そのグループには複数のメッセージが投稿されていた。だが久美のスマートフォンでは、退出済みのグループの過去ログは見ることができなかった。

賀来はもう一つの線を辿ることにした。樹と同じクラスだった生徒の中に、賀来の別の患者の弟がいた。本人の同意のもとで、軽く話を聞いた。

「ああ、あのグループですか。蓮くんが仕切ってたやつですよね。ノリで色々やってたけど、結構きついこと言う人もいましたよ」

「きついこと、って」

「誰かをいじる空気がありました。からかいというか……朝倉くんとか、たまに標的にされてたと思います」

「『標的』というのは、具体的には」

少年は少し言いにくそうにしながらも、答えた。「写真をAIでいじって送ったりとか。本人がいる前でも、いない時でも。蓮くんが始めると、みんな乗っちゃって」

「それは、いつ頃の話ですか」

「えーと……今の学年になってからずっとですけど、特にひどかったのは、五月の連休前後だったと思います」

賀来はその情報を、これまでの記録と重ね合わせた。久美が見せてくれた退出記録――樹がグループを抜けたのは、五月の連休最終日の夜だった。少年の証言する「特にひどかった時期」と、ぴたりと一致する。

念のため、賀来は学校の出欠記録も確認させてもらった。樹が最後に登校したのは、連休最終日の翌日、つまりグループを抜けた直後の月曜だった。その日の出席記録には、「早退」の印がついていた。理由欄には、坂本の筆跡で「腹痛のため」と書かれていた。

「この日、樹くんに何があったか、覚えていますか」
賀来は坂本に尋ねた。

坂本は記録を見て、首を傾げた。「うーん……正直、その日のことは特に記憶にないですね。よくある早退の一つだと思っていたので」

ありふれた日常の記録の中に、最初の綻びが、誰にも気づかれずに紛れ込んでいた。賀来は黒いノートに、静かに書き加えた。

―― 蓮の「荒れ」と、樹の「不登校」は、同じ出来事の、二つの結果かもしれない。

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第六章 別の名前

賀来が次に話を聞いた同級生は、グループチャットのメンバーの一人、佐伯という男子生徒だった。賀来の別の患者を介して紹介してもらった、慎重な性格の生徒だった。

「グループのこと、詳しく知りたいんだけど」

佐伯は少し躊躇ってから話し始めた。
「あのグループ、最初に作ったのは僕なんです。最初は本当に、ゲームの話とかしてただけで」

「いつから空気が変わった?」

「確か……三年になってからかな。新しく入ってきた子がいて、その子がノリで誰かをいじるのが好きで。最初は別の子が標的になってて、その後、朝倉くんに移った感じです」

「新しく入ってきた子、というのは誰?」

佐伯は名前を口にした。蓮ではなかった。中野という、別の男子生徒だった。

賀来の中で、線が一つに繋がった気がした。父親の家庭内暴力を目撃して育った蓮が、誰かを計画的に追い詰めるような加害行動を取るというのは、賀来のそれまでの見立てとは、少しずれる。むしろ、新しい環境に馴染もうとして過激な行動に出る中野の方が、典型的な「主導役」の輪郭に近い。

「中野くんについて、もう少し聞かせてくれるか」

「中野くんは、結構過激なことをグループに投稿してたんです。先生にバレないように、よく『これ消すね』って言って消してました」

賀来は中野にも面談を申し入れたが、本人と母親は強く拒否した。どう説得しても「うちの子は関係ない」という一点張りだった。学校側の記録を確認すると、中野は別の問題行動(万引きの疑い)で、既に学校から問題児として目をつけられていた人物だった。

佐伯は少々言いにくそうに付け加えた。
「ただ…最初は蓮くんも『やめろよ』って言ってた気がします。でも中野くんが続けると、蓮くんも笑ってたんで」

賀来は確信した。主犯は中野、蓮は中野に巻き込まれていた可能性が高い、と。

その夜、賀来は黒いノートに、「中野が主犯、蓮は心の傷を負っていることもあり自棄的に加担しただけであろう」と書いた。
蓮については、引き続き家庭内暴力の影響を見ていく方針で、加害の中心からは外して考える――そう、方向を定めた。

後日、学校での聞き取りの場に、中野も同席することになった。中野は最初、強い口調で否定した。

「俺は関係ないんです。蓮に言われたからやっただけ」

「言われたから、というのは、命令されたということ?」

中野は一瞬詰まった。「……別に命令じゃないけど。蓮が『これ面白くない?』って言うから、俺もシンプルに乗っかっただけです」

賀来は、その言葉を聞きながらも、まだ自分の見立てを大きく変えなかった。「蓮に乗せられた」という言葉を、中野が自分の責任を軽くするための言い訳だと、半分は受け取っていた。

「乗っかった結果、お前が投稿した内容も、樹くんを傷つけたには変わりない」

中野は黙り込んだ。しばらくして、小さな声で言った。「……はい。ちゃんと謝らないといけないって、思ってます」

賀来はその夜、中野を主たる加害者とする報告を、ひとまず学校に伝える準備を始めていた。

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第七章 繋がる事実

賀来は、樹に三度目に会った時、初めて具体的な問いを投げかけた。今回は部屋の中に入ることを許された。樹はベッドに座り、視線を合わせなかった。

「樹くん。五月の連休の最後の日、何があったか、教えてくれないか」

樹の肩が、わずかに強張った。

「……グループチャットのこと、ですか」

「うん。知ってる範囲でいいから。中野くんが、グループでよく過激なことを言ってたと聞いたんで」

樹は、その名前に、少し戸惑った顔をした。
「中野くん? ……いや、違います」

賀来のペンが、一瞬止まった。

「中野くんも、嫌なこと言ってきたけど、本当にしつこかったのは、蓮くんです…」

樹は一度、口を閉じた。それから、絞り出すように続けた。

「中野くんがやることに、いつも『それいいじゃん』って言って、もっとやらせてたのは、蓮くんでした」

賀来はその瞬間、自分がここまで築いてきた見立てが、土台から大きく崩れていくのを感じた。中野主犯説、佐伯の証言、自身の臨床経験、全てが樹自身の言葉によって、ひっくり返された。

「もう少し、詳しく聞かせてくれるかな」

樹は長い沈黙のあと、ゆっくりと話し始めた。

「みんなでやってる、軽いノリのグループだったんです。最初は、普通に喋ってるだけだったけど……蓮くんが、僕の写真を変な感じに編集して、グループに送ったんです。みんな笑ってて。僕も、最初は『いじり』だと思って、頑張って笑ってました」

「それが続いたんだ」

「うん。だんだん、エスカレートしていって。最後の日は、僕が前に好きだった子のことまで、勝手に言われて。それを蓮くんが、グループ全員の前で言って……みんな笑ってて。僕、本当にしんどくなって。グループ抜けて、それから、学校行くのが無理になって」

「誰かに相談したの?」

樹は首を振った。「こんなことを先生に言ったら、もっと笑われると思って。母さんにも言えなかった。だって、僕が弱いだけだって思われるのかなって」

賀来は静かに頷いた。「樹くんは、弱いんじゃない。誰も、お前の言葉を受け止める準備をしてなかった。それだけだ」

樹の目に、初めて何かが揺れた。

賀来は、もう一つだけ確認したかったことを尋ねた。
「四月の終わり頃、テストの点数が下がってたみたいだけど、覚えてる?」

樹は少し意外そうな顔をした。
「ああ……あれは、勉強する時間がなかったからです。グループのこと考えると、夜、全然眠れなくて。スマホ見るのが怖いのに、見ないと余計に不安になって、結局、ずっと見てて。気づいたら朝になってて、勉強する余裕、全然ありませんでした」

「成績が下がったから、学校が嫌になったわけじゃないんだね」

「逆です」

樹は、はっきりと言った。
「グループのことで学校が怖くなって、それで勉強できなくなっちゃって、それで成績が落ちたと思います」

坂本が見立てていた因果関係は、ちょうど逆だった。学業不振が引き金になったのではなく、心理的な負荷の結果として、成績の低下が後からついてきていたのだ。表面的に並んだ時系列だけでは、その向きを見誤りやすい。

賀来はその夜、これまでの面談記録を全て並べて見直した。父親の家庭内暴力を見て育った蓮は、「荒れる側」ではあっても「いじめの主犯」ではないはずだという、自分自身の思い込み。それこそが、中野という分かりやすい代役に飛びつかせていた。蓮の「傷」という物語に、賀来自身も、知らぬ間に引き寄せられていたのだ。

蓮の「荒れ」が始まった時期。樹の「不登校」が始まった時期。グループチャットの退出記録。同級生の証言。そして、被害者本人の証言。

全てが、一つの線で繋がった。

蓮は、父親の不在という本物の痛みを抱えていた。それは事実だった。しかしその痛みは、誰かを傷つけることの免罪符にはならない。そして大人たちは――賀来自身を含めて――蓮の「傷」という分かりやすい物語に飛びつくことで、彼の加害行為に向き合うことを避け続けていた。同時に、樹の「沈黙」という分かりにくい物語からは目を逸らし、「甘え」という、もう一つの分かりやすい物語に飛びついていた。

二つの誤診は、表面的には正反対に見えて、根は同じだった。大人たちは、複雑な現実に向き合う代わりに、自分が消化しやすい物語を選んでいた。賀来もまた、その一人だった。

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幕間 樹の視界

(この章は、後に樹自身がノートに書き残していた言葉を、賀来が許可を得て書き起こしたものである)

グループの通知が来るたびに、心臓が跳ねた。今日は何が来るんだろう、と思いながら、画面を開く前に、いつも少し息を止めていた。

最初は、ただの「いじり」だと思っていた。蓮くんは周りからの人気者で、彼に絡まれるのは、ある意味で目立てるということでもあった。だから、最初の頃は、無理して笑っていた。笑っていれば、それは「仲のいいやり取り」に見えるはずだった。

でも、写真が送られてきた日。自分の顔が、変な形に編集されていて、それにみんなが「ウケる」とスタンプを押していた日。あの時、初めて、これは「いじり」じゃないと分かった。でも、もう遅かった。今さら「やめて」と言ったら、それこそ「ノリが悪い」と言われるのが分かっていた。

母さんには、絶対に言えなかった。母さんは、父さんが死んでから、ずっと一人で頑張ってきた。僕がここで「いじめられてる」なんて言ったら、母さんはまた、自分を責めると思った。それだけは、絶対に嫌だった。

先生に言うことも、考えた。でも、先生に言ったら、クラス全体に知られる。知られたら、もっとひどいことになる気がした。

中野くんが何か言ってくる時もあったけど、本当に怖かったのは、いつも蓮くんだった。中野くんは、蓮くんが笑うから、もっとやる。蓮くんが止めれば、たぶん全部止まった。だから、僕の中では、最初からずっと、蓮くんだった。

だから、何も言わずに、グループを抜けた。それが、自分にできる、唯一の抵抗だった。

抜けた後も、教室に行くのが怖かった。みんなが、何か晒していないか。蓮くんが、また何か仕掛けてこないか。考えるだけで、体が動かなくなった。

「甘え」だと言われていることは、知っていた。それも、辛かった。誰も、本当のことを知らないまま、僕のことを判断していた。

でも、賀来先生は、最初から「分からないことを、分かったふりをしない」人だった。それだけで、少しだけ、息ができるようになった。

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第八章 樹が黙っていた理由

賀来は、樹がなぜ誰にも相談できなかったのか、もう一段深く知る必要があると感じていた。久美との面談で、賀来はその背景を尋ねた。

「樹くんのお父さんのことを、聞かせてもらえますか」

久美は少し驚いた顔をしたが、ゆっくりと話し始めた。「樹の父は、樹が小学四年の時に、病気で亡くなりました。樹は父のことが大好きで……お葬式の時、誰よりも長く泣いてたのを覚えてます」

「樹くんは、それから変わりましたか」

「変わった、というか……あの子、それ以来、私に心配をかけないようにする子になったんです。学校で何かあっても、絶対に言わないですし。私が大変そうだと、すぐに気づいて『大丈夫だよ』って言ってくる。子供なのに、変に気を遣う子で」

賀来はその話を聞きながら、樹の沈黙の理由が、少しずつ立体的に見えてきた。

久美はさらに、当時のことを思い出すように、ゆっくりと語った。

「父が亡くなる前、入院が長くて。樹はお見舞いに行くたびに、病室の前で『大丈夫?』って、私に聞くんです。私が大丈夫だって言うと、樹も『じゃあ僕も大丈夫』って言って、病室に入っていく。あの頃から、もう、私の顔色を見て、自分の感情を決める子になってたのかもしれません」

葬儀の日、樹は誰よりも長く棺の前に立っていた。だが涙を見せたのは、その日の夜、誰もいない部屋でだけだった。久美が偶然、そのうしろ姿を見てしまったという。

「あの子、私の前では、絶対に泣かなかったんです。私が泣いてる時は、隣でじっと黙って、背中をさすってくれる。優しい子なんです。でも、それは……」

「それは、優しさであると同時に、自分を守る術でもあった、ということですね」

久美は頷いた。「そうかもしれません。私、ずっと『いい子に育った』って、誇らしく思ってたのに」

樹にとって、母親に心配をかけることは、もう一つの「父の死」を引き起こすことと同じくらい、避けねばならないことだったのだろう。母を守るために、自分の苦しみを語らない。それは「強さ」ではなく、幼い頃に身につけた、生き延びるための処世術だった。

学校でいじめに近いことが起きた時、樹が誰にも言わなかったのは、「弱いと思われたくない」という理由だけではなかった。それを口にすれば、母がまた一人で苦しむことになる――そう、樹は信じていた。

賀来は久美に向かって、静かに言った。

「久美さん。樹くんは、あなたを守ろうとして、一人で抱え込んでいたんだと思います」

久美は、その言葉に、声を出さずに泣いた。


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第九章 ケース会議

賀来は、学校側に事実を共有する前に、まず校内のケース会議を開いてもらうよう要請した。坂本、学年主任、スクールカウンセラー、そして校長が同席した。

賀来は、これまでの経緯を時系列で説明した。グループチャットの実態、退出記録、複数の証言、そして蓮と樹それぞれの面談内容。

学年主任は、説明を聞きながら、何度も眉をひそめた。
「待ってください。蓮くんが主犯だったというのは、いじめ加害者として処分するということですか。彼は家庭の事情もありますし……」

「家庭の事情があることと、彼が誰かを傷つけたことは、両立します」
賀来は静かに、しかし明確に答えた。
「事情を理由に行為を免責すれば、本人にとっても、結局は良くない結果になります。彼自身も、それを薄々分かっています」

スクールカウンセラーの女性が、控えめに口を開いた。
「私からも、一つ補足してよろしいですか。実は、樋口くんについては、以前から『気になる生徒』として、校内で名前が出ていました。ただ、その都度、『家庭が大変だから』という理由で、深く踏み込まずに終わっていたんです」

「踏み込まなかった理由とは?」賀来が尋ねた。

カウンセラーは少し言葉を選んだ。
「正直に言うと……彼を強く指導すると、保護者からの反発が大きく、対応が難しいという空気が、職員室にありました。家庭が複雑な分、学校側が変に刺激してしまうと、もっと悪い結果になるのでは、という懸念です」

「つまり、彼に強く向き合うことを避けたのは、彼のためというより、対応の難しさを避けるためでもあった、ということですね」

その場に、しばらく沈黙が流れた。誰も、その指摘に対して、すぐには反論できなかった。

校長は腕を組んだまま、しばらく黙っていた。
「朝倉くんの件は、これまで『不登校』としか報告が上がってきていませんでした。いじめの可能性があると、もっと早く気づくべきだったということですね」

「気づく機会は、何度かあったはずです」
賀来は、無記名アンケートの限界について説明した。
「本人が安全だと感じていない環境では、アンケートは機能しません。樹くんが本当に必要としていたのは、紙に書く機会ではなく、誰かが彼の沈黙の意味を、疑ってくれることでした」

坂本は、終始うつむいていた。
「正直に言うと……僕は、朝倉くんのことを、ただの甘えだと思ってました。お母さんが優しすぎるから、強く言えないんだろうとばかり」

「先生だけの問題じゃありません」賀来は言った。
「分かりやすい物語に流れるのは、誰にとっても自然なことです。だからこそ、組織として、立ち止まって疑う仕組みが必要なんです」

学年主任が、ようやく重い口を開いた。
「……分かりました。蓮くんについても、これまでのように『家庭の事情』で済ませず、正式な手続きを踏みます。ただ、処分と同時に、彼自身への支援も、並行して考えてもらえますか」

「もちろんです」
賀来は答えた。
「処分することと、その後の関わりを放棄することは、別の話です」

会議の最後、校長は重い口調で言った。
「樋口くんへの対応は、正式な手続きに則って進めます。同時に、朝倉くんへのケアも、学校として全力で行います」

賀来はその言葉に頷きながらも、本当の変化が起きるかどうかは、この会議の後の、日々の積み重ねにしかないことを知っていた。

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第十章 言い分

事実確認のため、学校は蓮と中野、それぞれの保護者を呼んで、同じ会議室で聞き取りを行うことになった。本来は別々に行うべきだという意見もあったが、双方の証言に食い違いが多く、坂本と学年主任は「一度、顔を合わせて整理した方がいい」と判断した。賀来も同席した。

長机を挟んで、蓮と中野が並んで座らされた。由美子と、中野の母親が、それぞれ少し離れた席に着いた。

坂本が経緯を確認し始めた直後、中野が先に声を荒げた。
「だから、最初に言い出したのは蓮だろ!俺はただ、ノリで合わせてただけだし」

蓮の顔が、ぴくりと動きそして歪み始めた。
「は? ふざけんなよ。お前が勝手に写真編集して送ってきたんだろ」
「それは、蓮が『これやったら面白いんじゃない』って煽ったよな?お前が調子乗ったからだろ」
「調子に乗ったのはお前だろ!自分で楽しんでやってたくせに人のせいにするな!」

2人の罵倒の応酬がしばらく続いた。そして、中野の母親が、堰を切ったように立ち上がった。
「うちの子は、蓮くんに言われたことに従ってただけです!主導していたのはそちらでしょう!」
由美子も、さすがに黙っていられなかった。
「何を言ってるんですか?最初に変な空気を作ったのは、そちらのお子さんじゃないですか?蓮は、家のことでいっぱいいっぱいで、そんな悪知恵が働く子じゃありません」
「悪知恵って、そんな言い方ないでしょう!」
中野の母親の声が、少し大きくなった。

会議室は一気に殺伐とした空気に包まれた。その空気をどうにかしようと坂本が、慌てて間に入った。
「お母さん方、落ち着いてください。今は、事実を整理する場ですので」

蓮と中野は、その間も互いを睨み合っていた。中野が、ふて腐れながら小さく舌打ちをした。
「俺だけが悪者みたいになるの、おかしいだろ。蓮が乗ってこなかったらよかっただけじゃん」

蓮は、拳を机に叩きつけた。
「…黙れ!お前がやりたがってたくせに」

賀来は、その光景を黒いノートに記録しながら、一つのことを確認していた。二人とも、自分の行為の責任を、相手の比重を大きく見せることで軽くしようとしている。それは、子ども特有の防衛というより、大人たちが日頃から「誰かのせいにすれば楽になる」というやり方を、知らず知らずのうちに見せてきた結果かもしれなかった。

会議室を出る時、中野は誰とも目を合わせず、足早に去っていった。蓮は、由美子に何か聞かれても、ほとんど答えなかった。
賀来は、この聞き取りでは何も解決しないことを、最初から分かっていた。だが、この「揉めた事実」そのものが、後に蓮自身と向き合う際の、重要な材料になることも、分かっていた。

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第十一章 対決


蓮を呼び出したのは、賀来の判断だった。学校にも、母親にも、まだ伝えていなかった。まず本人と、向き合う必要があった。

「今日は、窓を割った話じゃない。朝倉樹くんの話だ」

蓮の顔から、一瞬で余裕が消えた。

「……何の話かよく分かんないです」

「グループチャットのことだ。五月の連休の最後の日、お前が何をしたか、樹くん本人から聞いたんだ」

蓮は黙った。足を組み直すこともしなかった。視線が、部屋の隅に逃げた。

「それ、誰から聞いたんですか。中野が何か言ったんですか」

「中野くんのことは、別に聞いてる。お前は今、自分から『中野』の名前を出した。それは、お前が何が起きたか、はっきり覚えてるということだな」

蓮は舌打ちをした。
「……あれは、その時のノリっすよ。みんなやってたし。俺だけが悪いんすか?」

「みんながやっていたことと、お前が始めたことは、別の話だ。佐伯くんも、他の生徒も、グループの空気を作っていたのはお前だったと証言してる」

蓮は明らかに苛立つ目ををしていた。

「は?証言? 俺、裁判か何かにかけられてるんですか?いちいち煽られるのダルイんですけど」

賀来は声を荒げなかった。むしろ、声を落とした。

「裁かれるべきかどうかを決めるのは、俺じゃない。でも、お前が今ここで、自分のやったことに向き合うかどうかは、お前自身が決めろ」

蓮は、しばらく無言だった。膝の上で握った拳が、小さく震えていたが、口元は薄ら笑いをしていた。

「言い訳を考えればいい。ノリだったとか、いじりのつもりだったとか、本気じゃなかったとか。何でも言っていい」

「……別に、そんなつもりじゃないっすよ。樹が弱かっただけなんじゃないすか?」

賀来は、それ以上、蓮の言葉を引き出そうとしなかった。代わりに、一つの事実だけを、静かに置いた。

「樹は、一年、外に出られなかった」

……

……

……

蓮の喉が、小さく動いた。

「……一年?」

「ああ。一年」

蓮は、何かを言おうと口を開いたが、言葉が出てこなかった。代わりに、肩が震え始めた。

「俺だって、辛かったんですよ!」声が、震えていた。
「親父出て行って、母さんずっと泣いてて。俺のことなんか、誰も心配してくれなかった!」

「それを早く話せばよかったんだ!」

それだけ言って、賀来は黒いノートを閉じた。何も書き加えなかった。

蓮の目から、涙が落ちた。それは同情を引くための涙ではなかった。

「話すのが…こわかった…」
「どうしてだ?」
「世の中にはもっと辛い人がいるんだとか、言われたらどうしようとか…」
「樹も、辛いだろうな」
「俺、樹のこと、ちゃんと考えたことなかった……グループが盛り上がればいいやって、それしかなかった」

賀来は、それ以上何も言わなかった。蓮は、しばらく肩を震わせて泣いた。賀来は何も言わず、ただそこにいた。

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第十二章 クラスの反応

蓮への対応が学校で正式に動き出すと、クラス内には様々な反応が広がった。

一部の生徒は、「蓮くんが??」と驚いた。別の生徒は、「やっぱりそうか」と、薄々気づいていたことを口にした。中野は、自分も処分の対象になると知り、最初は「蓮くんに誘われただけだ」と主張したが、最終的には、自分の行為についても認めざるを得なくなった。

樹の不登校について、最初は何も知らなかった生徒たちも、事の経緯を知るにつれ、態度を変えていった。これまで「不登校の子」として遠い存在だった樹が、「いじめの被害者だった」という物語に変わった瞬間、クラスの空気は一変した。

クラスの中には、「自分も、グループのやり取りを見ていて、何か変だと思っていた」と、後から名乗り出る生徒もいた。佐伯はその一人だった。「正直、止めたかったけど、止めたら自分が次の標的になりそうで、怖かった」と、彼は賀来に語った。

その告白は、賀来にとって新しい示唆を含んでいた。蓮の振る舞いが許され続けた背景には、母親や教師の見立ての誤りだけでなく、クラス全体に広がっていた「沈黙の連鎖」もあった。誰も声を上げなかったのは、声を上げることのコストが、あまりに高く見えていたからだ。

賀来はこの変化にも、危うさを感じていた。今度は、樹が「かわいそうな被害者」という、別の分かりやすい物語の中に閉じ込められようとしていた。

「樹くんは、被害者であると同時に、これからまた学校という場所で生きていく一人の生徒です」
賀来は坂本に伝えた。
「過度に特別扱いすることも、彼にとっては別の負担になります」

坂本は頷いた。
「分かりました。ただの問題ではなく、ちゃんと一人の人間として、見ていきます」

その言葉が、どこまで本気か、賀来にはまだ分からなかった。だが、少なくとも、坂本の中で何かが変わったことは、確かだった。

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第十三章 樹との再会

樹に事実を伝えるかどうか、賀来は慎重に考えた。だが、樹はすでに、自分の中でその出来事と向き合い始めていた。

「蓮くんに、話したんですか」

「うん。彼自身の言葉で、何があったか話してくれた」

樹は少し驚いた顔をした。「……謝るとか、言ってましたか」

「いや。まだそこまでは。でも、初めて、自分のやったことから逃げずに話したよ」

樹はしばらく黙っていたが、やがて呟いた。

「僕、別に謝ってほしいわけじゃないんです。ただ、誰かが、ちゃんと『お前は悪くない』って言ってくれたら良かった。学校の先生も、母さんも、僕が『甘えてる』って思ってる空気が、ずっとあって。それが一番、辛かった。勉強の話をされるたびに、誰も分かってくれないのかなって思っていました」

「樹くんは、何も悪くない」
賀来はその言葉を、はっきりと口にした。

樹の目から、初めて、安堵に近い表情が浮かんだ。それから、しばらく黙ったあと、樹はぽつりと付け加えた。

「先生、僕、ずっと『自分が弱いから、こうなったんだ』って思ってたんです。強い子だったら、笑って跳ね返せたはずだって。でも、それって違うんですか」

「違う。強さとか弱さの問題じゃない。誰かが、一線を越えたかどうかの問題だ。お前がどう受け止めたかは、その後についてくる話だ」

「……そっか」

樹はその言葉を、何度か小さく繰り返した。「そっか。そっか」と。それは、誰かに許可を与えられたというより、長い間自分を縛っていた縄が、少しだけ緩んだような呟きだった。

その日の帰り際、樹は自分から、部屋のドアを大きく開けた。それだけのことだったが、賀来にとっては、大きな変化だった。

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第十四章 数ヶ月後

夏が終わり、季節が一巡しようとしていた。

坂本は、賀来から事実を伝えられた時、しばらく言葉を失った。

「……そんなことが、あったんですか。アンケートでは、何も出てこなかったので」

「無記名のアンケートで出てくるのは、誰かが既に安全だと感じている情報だけです。樹くんは、安全だと感じてなかった。だから、何も書かなかった」

坂本は深く頭を下げた。
「すみません……『甘え』だと、決めつけてました」

「先生だけの責任じゃありません。樹くんの『沈黙』は分かりにくく、蓮くんの『傷』は分かりやすかった。大人は、分かりやすい物語の方に、流れていきやすいんです」

由美子もまた、事実を知らされた時、泣きながら頭を下げた。
「私、蓮の傷ばかり見て……あの子が誰かを傷つけてること、ちゃんと向き合わせてなかったと思うと……」

「由美子さんは、蓮くんを大事に思ってます。それは間違いない。ただ、大事に思うことと、甘やかすことは違う」

九月、樹は週に一度、放課後の時間だけ学校に顔を出すようになった。まだ教室には入れない。保健室で、少しずつ、保健室の先生やスクールカウンセラーと言葉を交わすことから始めた。

十月、樹は初めて、休み時間の数分だけ、教室の後ろのドアから中を覗いた。誰も気づかなかった。だが樹自身にとっては、それは大きな一歩だった。

しかし、その小さな前進は、まっすぐには続かなかった。翌週、樹は再び学校に来なくなった。理由は、本人にもはっきりしなかった。「行こうと思ったら、体が動かなかった」と、樹は久美に言ったという。

久美は焦りを見せた。「先生、せっかく良くなってきたのに、また戻ってしまって……どうしたらいいんでしょうか」

賀来は、その問いに、はっきりと答えた。
「良くなっていくのは、決してまっすぐ進んでいかないんです。行きつ戻りつを繰り返し、らせんを描くように進んでいきます。今、止まっているように見えるのも、前に進んだことの一部です」

久美はその言葉に、少しだけ肩の力を抜いたようだった。

樹が再び保健室に顔を出すようになったのは、それから三週間後だった。最初の一歩を取り戻すまでの三週間、賀来は急かさず、ただ久美からの報告を聞き続けた。

蓮は、停学処分を受けたあと、樹に対して直接謝罪をする機会を与えられた。学校側が用意した、双方が同意した上での短い面談だった。

「……ごめん。俺、お前のこと、ちっとも考えてなかった」

短い、ぎこちない言葉だったが、それは初めて、傷を理由にしない言葉だった。樹は何も言わず、ただ小さく頷いた。それで十分だった。

蓮自身も、その後、賀来の外来に定期的に通うようになった。父親への怒り、母親への罪悪感、自分が「悪者」になることへの恐怖。一つずつ、言葉にしていく作業が始まった。

十一月のある日、賀来は二人とは別々に、それぞれの近況を聞いた。

樹は、保健室の先生に勧められて、絵を描き始めていた。「下手だけど、描いてる間だけ、何も考えなくていいから」と、樹は言った。賀来がその絵を見せてもらうと、画用紙には、大きな川と、その向こう岸に小さく描かれた人影があった。

「これは?」

「……向こう岸に行きたいけど、まだ橋がない感じ、っていうか。上手く言えないですけど」

「橋は、いつか架かると思うか」

樹は少し考えてから、小さく頷いた。「分かんないけど……架けようとしてる人が、何人かいるなら、架かるかもしれないって、思います」

蓮は、母親と二人で、初めて「お互いの本当の気持ち」について話し合ったと報告した。

「母さんが、初めて『あの人と一緒にいた時、私もお前のこと、ちゃんと守れなかった』って言ったんです。今までは、ずっと『私のせいで蓮が荒れた』って、自分を責めるだけだったから。それを聞いて、俺、母さんが泣いてるの見て、俺がもっと荒れるしかないと思ってたけど、違うって、初めて分かった気がする」

十二月、樹は初めて、休み時間の十分間だけ、自分の席に座った。

その日のことを、賀来は後に久美から聞いた。樹は朝、いつも以上に時間をかけて支度をしていた。家を出る前、玄関で何度も靴を履き直していたという。学校に着いてからも、しばらく保健室で時間を潰し、休み時間のチャイムが鳴るのを待ってから、ようやく教室に向かった。

教室の後ろのドアを開けた時、何人かの生徒が顔を上げた。だが誰も、大げさに騒がなかった。ただ一人、近くの席の女子生徒が、「久しぶり」と短く声をかけた。樹は小さく「うん」と答え、自分の席に座った。

それだけのことだった。教科書も出さず、誰とも長く話さず、十分後にはまた保健室に戻った。けれど、その十分間、樹は誰にも何かを説明する必要がなかった。「なぜ来なかったのか」も、「なぜ今日は来たのか」も、誰も問わなかった。それだけで、教室という場所の重さが、少しだけ変わったように感じられた。

それでも、次の週、樹は再び教室に行けなかった日があった。一進一退は、まだ続いていた。ただ、以前と違うのは、後退があっても、樹自身がそれに対して「またダメだった」と自分を責める言葉が、少しずつ減っていったことだった。

クラスの何人かが、何気なく声をかけた。それだけのことが、樹にとっては大きな意味を持った。

蓮もその時期、別の場所で、自分なりの変化を重ねていた。停学が明けた後、彼は以前のように教室の中心で振る舞うことをやめていた。代わりに、誰かに強く出る前に、一度立ち止まる癖がついたという。

「最近、誰かにイラついた時、頭の中で先生の声が聞こえるんですよ。『それ、本当にお前の怒りか』って」蓮は、ある面談でそう言って、苦笑いをした。「うざいんですけど、止まれるようになりました」

賀来は、その「うざいんですけど」という言葉に、かすかな成長を見た。以前の蓮なら、指摘されたことを認めるという行為自体が、敗北のように感じられただろう。今は、それを軽い苦笑いで受け止められるようになっていた。

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終章

賀来は、二人のカルテを閉じながら、ふと思った。

舐め腐っている子と、追い詰められている子。この二人は、最初から地続きだった。一方の「詰められなさ」が、もう一方を「詰めて」いた。

そして自分自身もまた、その一方に飛びつき、もう一方を見落としかけた一人だった。

賀来は、窓の外を見た。冬の気配が、少しずつ近づいていた。樹の教室復帰には、まだ時間がかかるだろう。蓮の本当の更生にも、まだ多くの対話が必要だろう。

カルテを閉じ、賀来は次の外来の予約リストに目を移した。新しい名前が、そこに並んでいた。

一見舐めている態度をみせ続けている子たちへ、賀来はどう向き合うべきかしばし考えながら、いつもどおり濃い目のコーヒーを一口飲んだ。コーヒーの苦みは、蓮と樹への向き合い方を振り返るために、今の賀来には必要だったのかもしれない。

(完)

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あとがき

児童精神科医として長く外来を続けていると、不思議なことがあります。

同じ出来事を見ていても、人はそれぞれ違う物語を作ります。

家庭環境が大変だから、この子は傷ついている。
学校に来ないのは、この子が甘えているから。

どちらも、一見すると理解しやすい物語です。
けれど臨床では、その「分かりやすさ」が真実から私たちを遠ざける場面に何度も出会ってきました。

傷を抱えた子が、誰かを傷つけることがあります。
一方で、何も語らない子ほど、深く追い詰められていることがあります。

それでも私たちは、「傷ついた子だから責められない」「何も言わないなら大丈夫だろう」という物語を選びたくなります。
その方が、世界は理解しやすいからです。

この作品で描きたかったのは、加害者と被害者ではありません。

「人は、自分が理解しやすい物語を信じてしまう」という、大人の弱さです。

賀来誠司もまた、その弱さから自由ではありませんでした。
児童精神科医である彼自身が一度見立てを誤り、自らの思い込みを修正していく姿を書いたのは、そのためです。

臨床では、「分からない」という場所に立ち続けることが、実は最も難しい仕事です。

この物語を書き終えた今でも、私は誰かの「傷」を見たとき、自分がまた別の誰かを見落としていないか、自問し続けています。

児童精神科医
賀来 誠司

(この物語は日々の臨床実感を元にしたフィクションであり、登場人物は全て実在しません。)

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