[小説・童話] 「鳩になった絵描き」甫邑マッチ
むかしむかし、あるところにひとりの絵描きがおりました。そのころ、世界はちょうど、かつて1度は確かに覚えたはずの「平和」という言葉を、どうにもすっかり忘れてしまったようで、あちこちで争いの火種が噴きあがっては破裂して、新しい生命よりも瓦礫のほうが、よほど高く高く積みあがってゆくような、そんな有様でした。
絵描きは、まだ幼いころ、ほんとうに幼いころですが、僅かに平和を享受した記憶を有しておりました。誰にも踏みしだかれることのない、季節の花がいっぱいに咲き誇る庭園に、アーチを抜けて入っていったときの、頭上の一瞬の翳りののちにやってきた、果てしのない、それでいて、なんの心配もない青空のこと。子供たちが集う公園には、両腕を使っても抱えきれないほどに大きな大きな噴水が、まるで陽射しの色を時間ごとに受けながら、何かを謳歌するように飛沫をあげていたこと。物陰に入っても、命はおろか、ベルトのバックルの金具すら盗まれることのなかった時代のこと。そうして、絵描きがわざわざ画にしなくても、たくさんの鳩が、群れなしパンくずをついばんでいたころのことになります。平和の象徴として名高い鳩は、戦乱の世に居場所を見つけることができなかったのか、1羽、また1羽と、地上から姿を消してゆきました。そうして、そのことに気づくだけの余裕のある人間もまた、地上から、1人、また1人といなくなっていきました。
今日もまた、空爆が板を打ちつけたはずの硝子窓を打ち震わせる中、絵描きは絵筆を握り鳩を描きます。もちろんそれは、絵描きにとってはひとつの「祈り」なのですが、それと同等か、もしかするとそれ以上に「抵抗」あるいは「怒り」としての側面の強いものであったことは、あるいは申し添えておいてもよいのかもしれません。いったい何に対しての、それは「抵抗」あるいは「怒り」でしょうか? 絵描きの中にはもうずっと、大きな裸の樹のようなあきらめが根を張っておりました。寄せては返し、さきほどよりも強い波としてふたたび押し寄せる、歴史という波に対してのあきらめ。もちろんそれは、自分を含めた人間という生き物の愚かさに対する苦悩である、と、たやすく言い換えることが可能なものです。なぜ人は殺すのか。どうして人は争うのか。絵筆を握る絵描きの指先に、われしらず力がこもります。たたきつけるような描線が、真っ白だったキャンバスのうえで、絵描き自身の翻弄される心そのままに踊ります。じつを言うのなら、絵描きは鳩というものがどういう姿形をしていたのか、もうほとんど覚えていませんでした。だから、絵描きが描く鳩は、日ごとにその様子を、あたかも絵描きの心を反映するように微妙に変えてゆきました。たとえば、戦闘機の姿を空の端に認めた日にはややメタリックな鳩が、地の端に火の海が広がる日には燃えさかる炎に似た鳩が、という具合に。もしかすると、鳩がこの世界から消滅したのには、こういうふうに「籠に入れられる」ことをいとう気持ちがあった、というのもひとつの理由なのかもしれません。そのことを思うと、絵描きの中でちくりと痛む悲しみがあります。もはやこの世界の誰もおぼえていないだろう鳩というものを描き続けることに、いったいどんな意味がある? けれども、そんな迷いは、絵描きの絵筆をこれっぽっちもにぶらせませんでした。むしろ、より闊達に、その絵筆はキャンバスの上で踊りました。絵描きは、もはや自分は、「平和」だったころに人が有していた形とは決定的に違った心の形をしているだろう、と思います。そうしてそれは正しい認識でした。絵描きが知らなかったことがあるとすれば、程度や方向性の違いこそあれ、誰もが「平和」な世界を生きた人々からみたら、むちゃくちゃな心の形をしているのだ、ということでした。
ある日のことです。ついに絵描が住む粗末なフラットの近くに爆弾が落ちました。絵具を買いに闇市に行っていた絵描きは、からくも爆風で倒壊したフラットの下敷きになることは免れましたが、絵描きの描いてきた鳩はみな、無残極まりない瓦礫の一部と化してしまいました。しばし茫然としたのち、絵描きはぺしゃんこに潰れた建物によろよろと近づきます。そうして、その中に残されたものに向け、手を伸ばしかけ――けれどもその腕を伸ばしきることが絵描きにはなぜかできませんでした。どうしてもどうしてもできませんでした。途方もないかなしみが絵描きの心の底で、激しい音を立てています。ああ、自分のやってきたことは、まるで意味のないことだった。祈っても、怒っても、抵抗しても、世界を構成するパズルの1ピースたりとも、自分は裏返しにすることはできなかった。絵描きはその場に両膝をつきます。そうして、両掌も地面につけようとして、ふと、視界の隅にきらりと光るものを見つけました。
きらりと光るものを、絵描きは親指と人差し指でつまむと目の前でかざします。それは鏡の破片でした。おそらく先ほどの空爆で、どこかの部屋の鏡が割れて吹き飛ばされ、こんなところまで飛んできたのでしょう。鏡の中には絵描きの顔が映っていました。絵描きのうしろの、薙ぎ払われうるものは薙ぎ払われ、薙ぎ払われえないものは破壊された、心を暗澹とさせるような情景も。絵描きの目の下の隈は、絵描きがおちおち深い眠りを眠ることもできない日々をおくっていることをまざまざと示していました。絵描きの髪は、ところどころが白いものまじりになり、一部は黄ばみを帯びています。その髪の乱れをふと直そうとしている指に気づき、絵描きははっとしました。なにか自分が、とてもおぞましいことをしているような気になったからです。そういう意味で、絵描きはひどく純真無垢でした。生きているということは、いわば髪の乱れを直すことの積み重ねである、ということも知らないほどに。
ポケットからおもむろに、絵描きはさきほど買ってきたばかりの絵具を取り出します。キャップを開け、チューブをひねって指先に水色の絵具を出すと、掌におさまるくらいの鏡の破片のうえに、絵描きは「鳩」を描きはじめました。その「鳩」は、絵描きにとてもよく似た鳩でした。ものの5分と経たないうちに、絵描きは鳩を描きあげます。そうして鏡の破片をじっと見つめます。鳩は絵描きを見つめ返しました。いつまでもいつまでも、絵描きを見つめ返しつづけているのでした。
#小説 #童話 #児童文学 #創作大賞2024 #オールカテゴリ部門
いいなと思ったら応援しよう!
日頃△スタジオの活動を応援くださりありがとうございます。チップをご検討くださる方は以下からお願いいたします。