中山道 大井宿 恵那山鯨 - 第十一膳.鮎の夕映え和え
時は江戸時代後期。
場所は美濃国・大井宿 - 中山道の宿場町
旅人の往来が多く、各地の噂や珍しい食材が集まる。
近頃は「料亭」文化が広がり、客の嗜好は多様化・高度化している。
このお話は、そんな時代、そんな場所に住んでいる、個性豊かな登場人物たちが繰り広げる、小料理屋"恵那山鯨"での物語です。
登場人物紹介
【包井 主膳】
かつては美濃の小藩に仕えた武士である。
父は息子に、刀ではなく膳で家を立てよという願いを込め、「主膳」と名を授けた。
だが若き主膳はその意味を理解せず、武士としての道を志した。
時代の流れと共に仕官を離れ、今は大井宿の小料理屋「恵那山鯨」で板前兼番頭を務めている。
包丁の扱いはまるで刀のよう。
珍しい食材や異国の料理を見れば目の色が変わる料理狂いでもある。
そして何かあればすぐに言う。
「拙者、切腹いたす」
——そのたびに止めるのが、この店の中居、お智である。
【お智】
恵那山の麓で育った、十六の中居娘。
小料理屋「恵那山鯨」で客を迎え、酒を運び、時には板場の様子を見て料理の知恵まで出す。
中山道を行き交う旅人の話を聞くのが好きで、各地の食べ物や料理の噂を覚えるうち、いつしか店の料理にも口を出すようになった。
板前の包井主膳は腕こそ一流だが、誇り高すぎてすぐに「切腹いたす」と言い出す困り者。
そのたびに知恵を働かせて場を収めるのが、この小さな中居である。
宿場の常連客は言う。
「困ったら、お智を呼べ」
【舞台】
中山道 大井宿にある小料理屋 恵那山鯨 - 恵那の山で獲れる“山鯨(猪)”に由来する。
珍味としての猪を看板にしつつ、「珍しい食材を出す」だけでなく、どんな食材も無駄にせず、旨さへ変えるという包井主膳の信条を店名に込めた。
山のものも川のものも、時には異国のものさえも——この店の鍋に入れば、客を驚かせる一皿になる。
第十一膳.鮎の夕映え和え
昼下がりの恵那山鯨。
囲炉裏の火は静かに赤く、熊鍋の余韻がまだ板場に残っていた。味噌の闇に浮く脂の白――あの「雪月花」の匂いが、ふとした拍子に鼻の奥から立ち上がる。
主膳さんはまな板を磨いている。
雑に扱えば水が曇るように、気持ちも曇る――そんな几帳面さで、白木を撫でていた。
「……お智」
低い声。
「熊」
一拍。
「なかなかの強敵であった」
私が「鍋は戦じゃありません」と言い返す前に、戸が開いた。
ガラリ。
入ってきたのは派手な着物の旅人だった。髷は少し乱れ、商人とも遊び人ともつかない。口元だけが先に笑っていて、目は値踏みするみたいに冷たい。
手には小さな箱。
男は店の匂いを吸い込み、にやりとした。
「ここが噂の料理屋か」
そして箱を軽く叩く。
とん。
蓋を開けた。
中に入っていたのは――真っ赤な実。
小さく丸く、つやつやしている。灯りを受けると宝石のように光って、思わず触りたくなる赤だ。
主膳さんが眉をひそめた。
「……何だ」
男が言う。
「南蛮渡り。赤茄子」
囲炉裏の火が、ぱちりと鳴る。
主膳さんが低く言った。
「……茄子?」
旅人は肩をすくめる。
「そう呼ぶ者もいる。だがな――毒だという話もある」
主膳さんの手が止まる。
私も赤い実を見る。皮は少し柔らかく、匂いは甘いような青いような――草の匂いの奥に、熟れた果の気配がある。
旅人は続けた。
「京では飾りにするだけの者もいる。食う奴は……いない」
主膳さんがゆっくり私を見る。
戦の顔だ。
「……お智。南蛮。しかも毒の噂」
包丁に手を置き、小さく言う。
「……危地」
旅人が笑う。
「試してみるか?」
箱の中には十数個。赤い小さな太陽が並んでいる。
毒か、食材か。
囲炉裏の火が静かに揺れた。
私はひとつ手に取り、指の上で転がした。
鶏卵ほどの大きさ。丸く、少し平たい。皮は薄く張り、ほんのり柔らかい。
主膳さんが低く言う。
「……小さくはない」
「普通の茄子とは違いますね」
主膳さんが実をじっと見る。
「毒と言うには……妙に美しい」
私は包丁を取った。
「少し、切ってみましょう」
旅人が、矢代みたいな目で笑う。
「おう」
赤い実をまな板に置く。
すっ。
包丁が入った瞬間――
じゅわっ。
赤い汁が、まな板へ流れた。血のように鮮やかな赤。
主膳さんの手が止まる。
一瞬。
そして小さく呟く。
「……お智。敵の血」
「違います」
即座に言うと、主膳さんは真顔で頷く。
「……そうか」
切った断面は鮮やかな赤で、小さな種がぎっしり並んでいる。
私は汁を少しだけ指に取り、舌先に触れた。
主膳さんが一歩前に出る。
「お智!」
私は平然として、言った。
「……甘い。ほんの少し酸味」
旅人が目を丸くする。
「食えるのか?」
香りは青く、草の匂いがある。だが熟れている。毒の“刺す匂い”がない。
主膳さんが言う。
「毒の味は?」
私は首を振る。
「感じません。……少なくとも今は」
主膳さんはしばらく考え、ゆっくり言った。
「これは、獣でも魚でもない。南蛮の果実だ」
旅人が笑う。
「どう料理する?」
主膳さんが腕を組む。
「甘味、酸味、赤い汁……」
囲炉裏の火がぱちりと弾けた。
主膳さんが私を見る。
「お智。どう攻める」
赤い果実は、まるで小さな太陽のように板場で光っていた。
「夕焼けです」
私が言うと、主膳さんは少し考えて頷いた。
「……なるほど」
私は湯を沸かす。
「まず皮です」
赤い実を湯へ。
さっ。入れた瞬間、皮がふっと緩む。
主膳さんが覗き込み、真顔で言う。
「敵の鎧が外れた」
「鎧じゃありません」
私は皮をつるりと剥いた。
赤い実がつややかに現れる。
旅人が目を丸くする。
「おお、宝石みたいだな」
種を取り除き、赤い身を細かく刻む。
トントントン。まな板が夕焼け色に染まる。
主膳さんが小さく言った。
「……血ではない」
「赤茄子です」
私は味噌を出し、蝮酒を少しだけ加えて練った。
刻んだ赤い身を混ぜ込むと、深い夕焼け色になる。
主膳さんが低く言う。
「……山の夕暮れ」
それを炭火へ。
じゅっ。味噌が軽く焦げ、香ばしさが立つ。
その横で鮎を焼く。皮が弾け、脂が落ちる。
主膳さんが丁寧に身をほぐし、葱を刻む。夕焼け味噌と鮎と葱を合わせ、混ぜる。
赤、白、緑。
皿に盛ると、まるで山の夕暮れの景色になった。
旅人が箸を取る。
一口。
……。
目を見開く。
「味噌なのに……軽い」
主膳さんが腕を組む。
「赤茄子。敵ではなかった」
旅人が笑う。
「南蛮の宝だな」
主膳さんが私を見る。
「お智。名を」
私は皿を整え、静かに言った。
「赤茄子と鮎の夕映え和え」
主膳さんの眉が、わずかに上がる。
「夕映え」
私は頷いた。
「この赤は、西の山に沈む夕日の色。鮎の香ばしさを、瑞々しい汁が引き立てます」
旅人は箸を持ったまま、しばらく皿を見入った。
一礼して言う。
「山鯨流、夕映え和えでございます」
旅人がもう一口。
ふっと笑った。
「南蛮の果実が、山の料理になった」
主膳さんが低く言う。
「南蛮……討ち取った」
「討ち取るなよ」
旅人が笑って言い返す。
旅人が「夕映え和え」を食べ終え、満足そうに箸を置く。
囲炉裏の火が静かに鳴る。
主膳さんは腕を組んだまま、箱を見ている。
「……お智。敵はまだ残っている」
赤い実は、まだ半分以上残っていた。
旅人が笑う。
「どうする?」
主膳さんが包丁を持つ。
「討ち尽くす」
私はすっと手を出した。
「もう一品」
主膳さんの動きが止まる。
私は赤い実を取り上げ、ころりと一口大に切る。
葛粉を取り出し、赤い身にふんわりまぶす。白い粉が、赤い実をやさしく包む。
主膳さんが言う。
「今度は、何の陣形だ」
「椀です」
囲炉裏の横で、鯉の出汁が温まっていた。澄んだ黄金。
――赤を、透明で包む。
私は赤い実をそっと鍋へ落とした。
とぷん。
しばらくすると、葛が透き通る。
赤い実の赤が、透明な衣の中で揺れる。ぷるん、と震える。
主膳さんが小さく言う。
「……宝石」
私は椀に盛った。
澄んだ出汁。透明な葛。中に閉じ込めた赤。
最後に木の芽をたっぷり。
ぱっ、と緑が落ちて香りが立つ。
旅人が思わず身を乗り出す。
「なんだこれは」
旅人が一口。
……。
驚いた顔になる。
「……さっきより、優しい」
主膳さんが腕を組む。
「酸味」
「出汁が包みます」
旅人が椀を見つめる。
「赤いのに……柔らかい」
主膳さんが私を見る。
「中居。名を」
椀の中では、赤・透明・緑が、水面のように揺れていた。
私は椀を整え、静かに言った。
「紅水晶椀」
囲炉裏の火が、ぱちりと弾けた。
旅人が椀を覗き込む。
「……確かに、宝石だ」
私は続けた。
「この辺りの山では、まれに桃色の水晶が見つかります。葛の衣が透明に輝き、中の赤が透けて見える――水晶に閉じ込めた宝石のように」
旅人の箸がゆっくり椀へ入る。
葛をすくう。赤が揺れる。
一口。
葛が口の中でほどける。赤い実のやさしい酸味、鯉出汁の旨味、木の芽の青い香り。
旅人が目を閉じた。
「……これは」
もう一口。
「南蛮の果実が、山の宝になった」
主膳さんが腕を組む。
「南蛮の赤は、夕焼けにもなり、水晶にもなる」
一拍置いて、ぽつり。
「……面白い敵だ」
私は内心で笑った。
敵、と呼んだのに――最後はちゃんと宝になっている。
囲炉裏の火が静かに揺れ、赤い実は箱の中でまだ小さな太陽のまま光っていた。
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