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中山道 大井宿 恵那山鯨 - 第八膳.恵那の結び桜

時は江戸時代後期。
場所は美濃国・大井宿 - 中山道の宿場町

旅人の往来が多く、各地の噂や珍しい食材が集まる。
近頃は「料亭」文化が広がり、客の嗜好は多様化・高度化している。

このお話は、そんな時代、そんな場所に住んでいる、個性豊かな登場人物たちが繰り広げる、小料理屋"恵那山鯨えな やまくじら"での物語です。

登場人物紹介

包井かねい 主膳しゅぜん
かつては美濃の小藩に仕えた武士である。
父は息子に、刀ではなく膳で家を立てよという願いを込め、「主膳」と名を授けた。

だが若き主膳はその意味を理解せず、武士としての道を志した。
時代の流れと共に仕官を離れ、今は大井宿の小料理屋「恵那山鯨えなやまくじら」で板前兼番頭を務めている。

包丁の扱いはまるで刀のよう。
珍しい食材や異国の料理を見れば目の色が変わる料理狂いでもある。

そして何かあればすぐに言う。

「拙者、切腹いたす」

——そのたびに止めるのが、この店の中居、お智である。

【おちえ
恵那山の麓で育った、十六の中居娘。

小料理屋「恵那山鯨」で客を迎え、酒を運び、時には板場の様子を見て料理の知恵まで出す。

中山道を行き交う旅人の話を聞くのが好きで、各地の食べ物や料理の噂を覚えるうち、いつしか店の料理にも口を出すようになった。

板前の包井主膳は腕こそ一流だが、誇り高すぎてすぐに「切腹いたす」と言い出す困り者。

そのたびに知恵を働かせて場を収めるのが、この小さな中居である。

宿場の常連客は言う。

「困ったら、お智を呼べ」

【舞台】
中山道 大井宿にある小料理屋 恵那山鯨えなやまくじら - 恵那の山で獲れる“山鯨(猪)”に由来する。

珍味としての猪を看板にしつつ、「珍しい食材を出す」だけでなく、どんな食材も無駄にせず、旨さへ変えるという包井主膳の信条を店名に込めた。
山のものも川のものも、時には異国のものさえも——この店の鍋に入れば、客を驚かせる一皿になる。


第八膳.恵那の結び桜

夕方の大井宿。
雨こそ降っていないのに、空は低く、湿った風が中山道をぬるりと撫でていた。旅人たちは肩をすぼめ、軒先の灯りを頼りに足を早めていく。恵那山鯨の暖簾も、いつもより重たげに揺れていた。

店の中では、主膳しゅぜんさんが珍しく黙り込んでいた。
昼に京の料理人から受けた骨切りの一太刀を、まだ頭の中で反芻しているらしい。まな板を拭く手つきは静かだが、目だけが妙に冴えている。

「……おちえ
低い声。
「鱧の太刀筋、あれは見事であった」

一拍。

「だが、次に鱧が来たら今度こそ拙者が――」

その時、戸が開いた。

ガラリ。

入ってきたのは潮の匂いをまとった老人だった。背は少し曲がっているのに肩は広く、顔じゅう深い皺だらけで、目だけが妙に若い。蓑の下から太い縄を提げ――その先に、ぶらり、と何かが吊られていた。

灯りの下へ出たそれを見て、私は思わず息を呑む。

蛸。
しかも、ただの蛸じゃない。足は太く、吸盤は銀のように湿って光り、胴は赤黒い。まだ完全には死んでいないのか、足先がぴくりと蠢いた。

囲炉裏の火が、ぱちりと鳴る。
主膳さんの目がすっと細くなる。

「……海の悪魔」

老人が笑う。

「そう呼ぶ者もおるな」

縄をほどき、蛸をどさりと板場へ置く。
ぬたり、と足が広がり、吸盤が板に張りつく湿った音がした。

ぺた……ぺた……

主膳さんがわずかに身を引く。
それを見て老人がまた笑った。

「なんじゃ、板前どの。蛸は苦手か」

主膳さんは真顔のまま言う。

「苦手ではない。……だが敵が多腕にて、動きが読めぬ」

――あれは少し嫌がっている。私は内心で頷いた。

老人は懐からもう一つ、紙包みを出した。
開けば、中には干しだこ。飴色に乾き、足は縮み、表面には白く塩が吹いている。潮と陽と風の匂いがふっと広がった。
老人が言う。

「生もある、干しもある。どちらでも好きに使え」

主膳さんの眉が動く。

「……なぜ両方」

老人の笑みが少し消えた。

「娘がな。明日、嫁に行く」

店の空気が、少し変わる。
老人は干しだこを指先でつまみ、遠くを見るような目をした。

「海のない土地へ行く。向こうじゃ、蛸なんぞ滅多に口に入らん。せめて嫁入り前に食わせてやりたいんじゃ」
「向こうは山の村でな。悪いところではない。人もええと聞いとる」

老人はそう言って、干しだこを撫でた。

「けれど、海の匂いはない。潮の音もない。あの子は小さい頃から、浜で育った。波の音を聞いて眠って、蛸を噛んで大きゅうなった」

少し笑って、けれど声は低くなる。

「親が持たせてやれるもんなど、そう多くはない。着物も、道具も、いずれ古びる。けどな」

老人は干しだこを見た。

「味だけは、ふとした時に戻ってくる」

主膳さんが黙る。
老人は続けた。

「昔、ここの先代――お前さんの親父さんがな、干しだこを山椒でよう炊いてくれた」
「海のもんが、山の匂いで生き返るような味でな」

その言葉に、私の胸が小さく鳴った。
父が生きていた頃の、台所の匂い。鍋のふちに立つ山椒の青い香り。火の音。
老人は笑ったが、その目は少し赤い。

「娘が子どもの頃、それをえらい気に入ってのう」

主膳さんがゆっくり私を見る。冗談の気配がない。

「……お智。親父殿の味、か」

――その時。

板の上の生蛸が突然、ぶしゅっ! と墨を吐いた。
主膳さんの顔面に、見事にかかる。

一瞬の沈黙。
次の瞬間、主膳さんの顔が真っ黒。目だけ白い。

囲炉裏の火が、ぱちぱちと妙に楽しげに鳴る。

主膳さんはゆっくり墨をぬぐい、低く言った。

「……お智。敵の奇襲を許した」

包丁に手が伸びる。

「ここは……切腹をして――」

「待って待って待って!」
「主膳さん、まず洗ってください」

私が即座に言うと、老人が腹を抱えて笑った。

――笑いで場が軽くなった後、私は干しだこを手に取った。

「干しだこは、炊きましょう」

主膳さんが顔を上げる。

「……炊く」

「父の味ですから」

私は桶に水を張り、干しだこを沈めた。ちゃぷん。
干しだこがゆっくり水を吸い始める。

「一晩戻します。戻し汁は捨ててはいけません。旨味が全部ここにあります」

主膳さんが頷く。

「なるほど」

老人が、ぽつりと言った。

「……親父さんと同じじゃ」

桶の水面が、静かに揺れる。
干しだこは、明日のために眠り始めた。

――そして私は、生蛸の方を見る。足がまだぺたりと動いている。

「生の方は、どうする?」

老人が、乾いた笑いを含んだ目で私を見る。
“明日、娘に食わせたい”と言った人だ。
まずは調理できる料理の方から味を見てもらうのが良いだろう。
私は短く答えた。

「今日は、“味見”だけにしましょう」

主膳さんが「ほう」と小さく息を吐く。

湯を沸かし、生蛸をさっと湯引きにする。色が外側から赤へ変わる。
刻んだ蛸に、角切りの山芋。木の芽をすり潰し、醤油を少し。ほんのわずか蝮酒で香りを立て、木の芽をたっぷり散らす。

赤、白、緑。

老人が一口食べ、しばらく黙って噛んだ。
それから、小さく笑った。

「……娘が小さい頃、山芋をよく盗み食いしてな。蛸と山芋を一緒に食うと腹が悪くなるって婆が怒っとった」

主膳さんが真顔で言う。

「それは迷信だ」

老人が笑う。

「そうか」

もう一口。

「うまい」

そして、皿を見て言った。

「海の赤と山の白……」

私は皿に名をつけた。

恵那の結び桜

老人は眉を上げ、主膳さんが繰り返す。

「……結び桜」

私は包みを作り、老人へ渡した。

「今日は味見。明日が本番です。お嬢様に、両方召し上がっていただきましょう」

老人は深く頷いた。

「……ありがとう」

外では夜の風が中山道を渡る。
店の中では桶の水が静かに揺れ、干しだこがゆっくり戻っていった。

明日――父上の味が炊き上がる。

翌日の昼。
雨上がりの空は明るく、宿場の道はまだ湿っているのに、どこか軽い。嫁入り支度の足音が、遠くから近づいたり離れたりする。

恵那山鯨の戸が開き、老人が入ってきた。
その後ろに――娘さんがいた。

年は二十そこそこ。目が澄んでいて、でも少しだけ不安の影がある。海のない土地へ嫁ぐ人の目だと、私は思った。

娘さんは店の中を見回し、桶の中の干しだこを見て、少しだけ笑った。

「……この匂い」

小さな声だった。

「家の裏みたいです」

老人が何か言いかけて、やめる。
娘さんは続けた。

「向こうへ行ったら、忘れてしまうんでしょうか。潮の匂いも、父の声も」

私は、すぐには答えられなかった。
忘れるものもある。
けれど、忘れたと思っていたものが、湯気の中から戻ってくることもある。
父の味が、そうだった。

老人が言う。

「昨日言うた通りじゃ。今日は娘に食わせてやりたい」

私は頷いた。

「ええ。干しだこが戻りました」

桶から引き上げた干しだこは、飴色のまま、しっとりと重い。
戻し汁は濃く、海の甘みと塩気が深くなっている。

主膳さんが腕を組む。

「……敵は乾いても手強い」

「今日は味方です」

私は笑って返した。

味が染み込みやすくなるように、戻した干しだこを叩く。
戻し汁、酒、大根を入れ、弱火でゆっくり炊き上げる。山椒は半分だけ先に。残りは最後に香りを立たせる。弱火でじっくり煮込むと、蛸はだんだんと"桜色"から"深い小豆色"に変わってくる

鍋が、こぽこぽと鳴る。

戻し汁に酒を少し。
大根を入れて、蛸をゆっくり炊く。
山椒は半分だけ先に入れる。残りは、最後。
父上はそうしていた。

「香りはな、最初から全部使うもんじゃない」

昔、父上がそう言った。

「残しておくんだ。最後に立つ香りが、人の記憶になる」

その言葉を思い出した途端、私は少しだけ喉の奥が熱くなった。

海の匂いが、山椒の青さで丸くなっていく。
蛸が柔らかくなったら、醤油と少量の砂糖を加え、煮汁が少なくなるまで煮詰める。

その間に、昨日の“結び桜”――生蛸と山芋の和え物も整え直す。
娘さんの前に、まず紅白の一皿を置いた。

「どうぞ。海の赤と山の白。――恵那の結び桜です」

娘さんが箸を取り、一口。

……目が少し丸くなる。

「木の芽の香りが……山みたい」

次に、老人がじっと見守る中で、干しだこが炊き上がる。
深い小豆色。最後に残りの山椒を加え、香りを立たせて完成。
鍋から上がる湯気に、どこか懐かしい匂いを感じる。
私は小鉢を差し出した。

「こちらが、干しだこの山椒炊き。先代――私の父のやり方です」

娘さんが一口食べた。
しばらく、噛む音もしなかった。

やがて、箸を持つ手が少し震える。

「……海が」

声が細くなる。

「海が、戻ってきたみたい」

老人の肩が、ぴくりと動いた。
娘さんは笑おうとして、うまく笑えない顔になった。

「向こうへ行っても、これを思い出せば……帰れますね。少しだけ」

老人の目が、すっと潤む。
老人は何度も頷いた。

「そうか」

それだけ言って、しばらく黙る。

「なら、ええ。わしはもう、ええ」

娘さんが顔を上げる。

「父さん」

老人は笑った。

「嫁に行け。腹が寂しゅうなったら、この味を思い出せ」

主膳さんは真顔のまま、少しだけ胸を張っている。
娘さんが続けた。

「干したのに、ちゃんと柔らかくて……香りが、山の風で……」

私は頷いた。

「戻し汁は捨てません。海の旨味は、そこに全部残っていますから」

老人が低い声で言った。

「これで、向こうへ行っても……忘れんで済む」

娘さんは箸を置き、深く頭を下げた。

「……ありがとうございます」

主膳さんがぽつりと呟く。

「お智。今日は、敵も味方になったな」

私は笑って返した。

「ええ。嫁入り前は、だいたいそうです」

外では、嫁入りの支度の声がまた高くなっていた。
店の中には、海と山が同じ鍋でほどける匂いが残っている。

親が子へ持たせるものは、いつも形のあるものばかりではない。
湯気の中にあるもの。
箸の先に残るもの。
ふとした夜に、胸の奥へ戻ってくるもの。

主膳さんが、ぽつりと言った。

「お智。今日の蛸は、よく結んだな」

私は小さく頷いた。

「ええ」

嫁ぐ人と、残る人。
海と山。
昨日と明日。

その間を、赤と白の一皿が結んでいた。

――恵那の結び桜。

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