【小説:ショート読み切り】:桜の石垣と、異国の太陽
恵那駅の改札前は、朝の光がまだ少し冷たい。
アンズは腕時計を見て、もう一度だけホームの先を覗き込んだ。
春のはずなのに、風は冬の名残を指先に残していく。
息を吐くと、白くほどけて、すぐ消えた。
(……来る、よね)
「約束」って言葉は、たった二音なのに、胸の奥でちゃんと重みを持つ。
その重みを確認するみたいに、わたしは小さく息を吸った。
そのとき、改札の向こうから、ぱたぱたと軽い足音が近づいてくる。
「アンズ!」
呼ばれた瞬間、視界がぱっと明るくなった。
Sunnyが、少し息を切らしながら手を振っていた。頬が赤い。髪がふわっと乱れているのに、それが妙に元気で、春っぽい。
「ごめん。電車……多治見で、止まっちゃった」
「え、まじで?」
「うん。乗り換え、むずかしい。ホーム……いっぱい」
Sunnyは眉を寄せて、少し大げさに肩を落とした。けれど次の瞬間、笑ってしまっている。苦労話すら、Sunnyの口から出ると、どこか軽い。
「でも、来れた。約束、あるから」
「……うん。来てくれて、よかった」
わたしは言いながら、自分の声がほんの少しだけ柔らかくなったのを感じた。
JR恵那駅にくっつくように、明知鉄道の恵那駅がある。
短い連絡通路を抜けると、空気が少し変わる。観光パンフレットの紙の匂い、切符売り場の機械の匂い、そしてどこかに残る、油と鉄の匂い。
「9:17、これだね」
わたしが時刻表を指さすと、Sunnyは顔を寄せて、数字を確かめるように見つめた。恵那発 9:17。岩村 9:46。ちゃんと、余裕のある朝の旅。
「九……いち……なな。オッケー」
Sunnyは小さくガッツポーズをした。
その仕草が、子どもみたいで可笑しくて、思わず笑ってしまう。
列車が入ってくると、床が先に震えた。
ディーゼル特有の、低い唸り。耳じゃなくて、足裏に届く音。座席に座っても、まだ微細な震動が身体の芯に残る。
「これ、バスみたい。でも、電車」
Sunnyが言って、窓の外を見た。
走り出す瞬間、車体が軽く揺れて、景色が一段だけ後ろへ流れた。
森が近い。山の影が、窓の縁に沿って移動する。
急こう配、急カーブ。カーブのたびに、体の重心が少しだけ横へ引かれて、Sunnyが「おっと」と笑う。
「酔う?」
「だいじょうぶ。たのしい」
その返事が、なんだか頼もしい。
東野、飯沼、阿木……駅名が短く表示されるたび、Sunnyは声に出さずに口の中で真似しているみたいだった。飯沼は特に、線路の勾配が急な場所にある駅だと聞いたことがある。
(……この坂を、よく電車が登れるよね)
そう思っていると、エンジンの音が一瞬だけ強くなる気がした。
やがて、窓の外に田んぼが増えてくる。
休耕田が増えたのか、低いところに水が溜まっていた。
風が止まると、小さな水面が鏡みたいに青を返す。
まだ“始まっていない”はずの季節が、水面にだけ先に来ていた。
「きれい……みず、ひかる」
Sunnyが窓に額を近づけて言った。
その声が小さくて、わたしまで静かになった。
「極楽」
次の駅名を見たSunnyが、声を上げた。
「ごくらく!?ほんと? すごい名前!」
駅の看板を見た瞬間、Sunnyはスマホを構えた。
極楽駅は、極楽寺に由来して名づけられたと聞く。
Sunnyは写真を撮りながら、何度も「ごくらく」と言った。発音が妙にきれいで、余計に可笑しい。
「アンズ、ここ、降りたら……極楽?」
「降りたら田んぼだけどね」
「田んぼも極楽」
真顔で言うから、思わず吹き出した。
岩村駅に着くと、空気が少しだけ違う。
町の匂いがする。木の匂い、石の匂い、遠くの煙みたいな匂い。
時計は十時前。列車の時刻通りに、ちゃんと到着していた。
二人はスマホを片手に、細い路地へ入っていく。
古い街並みは、歩くだけで音が変わる。
靴底が石を叩く音。木造の軒先が風を受ける音。まだ眠そうな店が、少しずつシャッターを上げていく。
「ここ、ドラマの場所?」
Sunnyが目を輝かせる。
わたしは頷いて、ほんの少しだけ得意になった。
みたらし団子の甘い匂いが、角を曲がったところでふっと届く。
五平餅の味噌が焼ける匂いも混じって、Sunnyのお腹が反応しているのがわかる。
「たべたい……」
「帰りね。約束」
「約束、いっぱい」
Sunnyは頬を膨らませながらも、ちゃんと歩き出した。
交差点を渡ると、「女城主」の文字が見えてくる。
そして少し先に、カステーラの店——松浦軒がある。
「カステーラ……」
Sunnyが呟いて、立ち止まりそうになる。
わたしは笑って、Sunnyの袖を軽く引いた。
「帰りに。ちゃんと寄ろう。今日はまず、城跡」
「しろあと……!」
その言葉だけでSunnyの歩幅が少し大きくなった。
商店街を抜けて、細い道を抜ける。国道に出て、川を渡る。
橋の上は風が強くて、髪が頬に張りつく。Sunnyが「さむい」と言いながら笑った。
やがて左手に、道が一本、ひっそりと口を開けている。
車が通れそうにない、細い上り。草が端に寄り添っていて、“人が通るための道”って顔をしている。
「ここだよ」
二人で入ると、街の音が遠ざかった。
代わりに、鳥の声と、枝が擦れる音が近くなる。
登るほど、息が自分の中で大きくなる。
白い息はもう薄い。でも、胸の奥はまだ少し冷えていて、呼吸のたびにそこが擦れていく。Sunnyの足音が、少し遅れる。
「だいじょうぶ?」
「だいじょうぶ。……でも、山、ちゃんと山」
「城、だもんね」
Sunnyは「城」を言うときだけ、声が少し強くなる。
最後の曲がり角を越えたとき、視界がぱっと開けた。
石垣。
灰色の石が積み重なって、時間の層になっている。
その上に、桜の枝が伸びて、空の青に淡い影を落としていた。
桜はまだ咲いていない。
町のほうでは、もう桜がほどけはじめているのに、この辺りは少し遅れて追いかけてくることがある。標高が違うだけで、春の到着がこんなに変わる——それが、なんだか岩村らしい。
目の前の枝はまだ控えめだった。花は“これから”の顔をしていて、風に揺れるのは薄い影だけ。
それなのに、わたしの頭の中では勝手に桜が咲いてしまう。
石垣の角に淡い色が溜まって、花びらが空にほどけて、町までやさしく染めていく——そんな景色を、勝手に重ねてしまう。
「……まだ?」
Sunnyが小さく言って、枝の先を見上げた。
「うん。たぶん、もう少し」
「じゃあ、想像する。ここ、ぜったい、きれい」
そう言うSunnyの笑顔は、まるで南国の太陽みたいだった。
桜はまだだけど、太陽を連れてきた、と思った。
石垣の一番上まで登ると、わたしは思わず立ち止まって、深呼吸をした。
肺いっぱいに入る空気が、少しだけ甘い。
草の匂いと、石の冷たさと、桜の気配。
全部が混ざって、“ここまで来た”って身体に言ってくる。
Sunnyも同じように息を吸って、目を細めた。
「……すき」
小さな声だった。
でも、はっきり聞こえた。
その直後。
「ぐぅ……」
Sunnyのお腹が、思った以上に立派な音を立てた。
わたしは一瞬きょとんとして、次の瞬間、笑いがこぼれた。
Sunnyも赤くなって、でも笑ってしまう。
「いまの、聞いた?」
「聞いた。石垣より迫力あった」
「ひどい!」
二人で笑って、笑いながらまた景色を見る。
“楽しい”って、こういうふうに、身体に落ちるんだなと思った。
引き返す道は、登るよりも慎重になる。
足元の石、落ち葉、枝の影。
Sunnyが時々小さく「こわい」と言うたび、わたしは「手、貸す?」と聞く。
Sunnyは「だいじょうぶ」と言いながら、でも少しだけ、いつもよりわたしの近くを歩いた。
町のほうへ戻る途中、道のわきに小さな案内板があって、Sunnyが立ち止まった。
「……さとう、いっさい?」
看板の文字を、Sunnyがゆっくりなぞる。
わたしは頷いた。
「このへんの人。……学びの、場所がある」
「学び?学校?」
「学校っていうより……考えるところ、かな」
Sunnyは首をかしげたまま、でも興味の火だけは消えない顔をしている。ー——そのとき
「ぐぅ~~~~~」
とSunnyのお腹が鳴った。
どうやら今は考えごとの時間より、食欲の時間らしい。
わたしたちはお腹の音が鳴ったことにひとしきり笑うと、時間があったらまたあとで行こう、ということにして、まずは美味しい匂いがする方へと歩いて行った。
みたらしの甘さ、五平餅の味噌の香り、カステーラの卵の匂い。
「ほら、約束、回収しよ」
わたしが言うと、Sunnyは両手を上げて「やった」と言った。
昼ごはんを食べて、団子を食べて、五平餅を分け合って。
松浦軒のカステーラは、指で持つとふわっと沈む。Sunnyは一口食べて、目を丸くした。
「やさしい……あまい。ふわふわ」
「ね。帰ったらまた思い出すやつ」
「うん。ぜったい思い出す」
女城主の文字の前でも、Sunnyは写真を撮った。
“女城主”の三文字を見ながら、Sunnyが小さく呟く。
「女城主。かっこいい」
その声を聞いて、胸の奥が少しあたたかくなるのを感じた。
帰りの電車は、行きよりも揺れが優しく感じた。
歩き疲れた身体が、揺れに“預ける場所”を見つけたせいかもしれない。
Sunnyは窓側で、いつの間にかうとうとしている。
睫毛が影になって、顔が少し幼く見えた。
わたしはしばらく景色を見ていたが、気づくと自分も眠りに落ちていた。
——恵那駅に近づく頃、わたしの方が先に目を覚ました。
車内放送が遠くで鳴っている。
ディーゼルの音が、朝よりも少しだけ馴染んで聞こえた。
Sunnyはまだ眠っていて、口元が小さく動く。
「……爸爸……妈妈……」
中国語の寝言。
その響きが、やわらかくて、胸がきゅっとなる。
(遠いところから来たんだよね)
当たり前のことなのに、急に現実味を持って迫ってきた。
恵那駅に着く直前、Sunnyがはっと目を開けた。
「……あ、ねた」
「寝言、かわいかった」
「え!?なに言った?」
「ひみつ」
Sunnyがむっとして、それから笑った。
改札前で別れるとき、Sunnyが言う。
「今日、すごく楽しかった。アンズ、ありがとう。案内、プロ」
「プロは言い過ぎ」
「でも、ほんと。安心する。……次も、行く」
「次も、約束?」
Sunnyは大きく頷いた。
「約束」
その二音が、今日一日の終わりに、ちゃんと熱を残す。
わたしは手を振りながら思った。
(“案内”って、やっぱり景色だけじゃない)
誰かの“好き”に火をつけて、一緒に歩く。
それも、たぶん。
わたしが選んだ、春の仕事だ。
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