【小説:ショート読み切り】:恵那峡、案内の声
朝の恵那駅は、いつも名古屋へ出ていく人が集まる。
駅前のロータリーを歩くと、風がジャケットの隙間を探して入り込んでくる。
鼻の奥がきゅっとして、息を吐くと白い。
白い息は、駅にかかる"恵那駅"の看板を一瞬だけ隠して、なかったことみたいに消えていく。
(今日も、寒いな……)
アンズはマフラーを指先でつまんで、ぐっと引き上げた。
駅前は子供のころから変わらない。隣に明知鉄道の駅も見える。
JRの恵那駅と、明知鉄道の恵那駅。
同じ恵那駅なのに、別々の世界をつなぐ結紮点みたいで面白い。
改札へ向かう途中、掲示板の前で足が止まった。
地域のイベント、落とし物、求人。紙が何枚も重なって、ここから町の記憶をのぞけるように感じる。
その中で、妙に目立つ文字があった。
「遊覧船、ガイドアルバイト募集中!」
(……遊覧船?)
“ガイド”という言葉が、わたしの中で一回転した。
川、船、案内。剣道着と竹刀の世界とは、まるで違う。
なのに、なぜだろう、胸の奥に小さな火種みたいなものが灯る。
恵那峡には遊覧船がある。
昔、家族で乗ったことがある。
窓の外に、岩が迫っていて、橋の下をくぐるときに、声が上がった。船の中では、案内の放送が流れて、奇岩や景勝スポットを教えてくれた。
船の揺れに合わせて、言葉が耳に入ってきて、いつもより景色が“意味”を持つ感じがした。
(あの“案内する人”の募集ってこと……?)
気づいた瞬間、心臓が少し速くなる。
でも今日は、とりあえず名古屋の大学へ行く日だ。時間がない。
わたしは掲示板を名残惜しく見送ると、足を動かした。改札を抜けると、ICカードの音が乾いた冬の音に混ざる。
駅の匂いは、金属と、コーヒーと、ちょっとだけ油。
電車が来る前の線路は、静かな存在感を持ち、ひんやりした音がする気がする。
——やがて電車が到着し、電車に乗り込む。
座席に腰を下ろした瞬間、やっと身体のこわばりがほどけた。
車内の暖房は、ありがたいけど、肌が「乾く」感じがする。
手の甲が少し突っ張る。
わたしは指を握って、ほどいて、握って、ほどいた。
窓の外は、薄い冬の色が流れていく。
田んぼの跡、低い山、白く霞む空、造り酒屋の跡地。
遠くの景色は、ただの“背景”になるのに、さっきのポスターの文字だけが、胸の中でくっきり残っていた。
(船……船って、どんな仕事だろう)
遊覧船の案内は、景色を説明するだけじゃない。
お客さんの“初めて”を預かる仕事だ。
船の窓から見えるものは同じでも、言葉ひとつで、印象が変わる。
(私、ちゃんと喋れるかな……)
剣道なら、息を整えて、構えればいい。
声を出すのも、稽古ならできる。気合いは、出る。
でも、マイクで“案内”って、別の種類の緊張がありそうだ。
スマホを取り出し、恵那峡遊覧船の公式サイトを開く。
周遊航路。船の窓から眺める大パノラマ。奇岩。季節ごとの景観。船内アナウンス。
画面の中に並んでいる名前を、指でなぞる。
軍艦岩。金床岩。獅子岩。屏風岩。品の字岩。
(……名前だけで、もう形が想像できる)
軍艦岩は、どっしりしていて、硬い。
金床岩は、叩けば音がしそう。
獅子岩は、きっと顔がある。
屏風岩は、立っている。
品の字岩は、文字みたいに、並んでいる。
ただの岩なのに、名前があるだけで“見つけたくなる”。
案内って、こういうことなのかもしれない。
——鶴舞駅に着く頃には、わたしの頭の中は半分、川の上にあった。
講義中も、ノートの端に「軍艦岩」と小さく書いて、慌てて消す。
帰りの電車でもう一度、ポスターの文面を思い出して、胸の奥が熱くなる。
(……土日だけでもOKなら、やってみたい)
週末どちらかだけなら、剣道の稽古とも両立できるかもしれない。
春休みなら、時間もある。
何より、やってみたい、という気持ちが、いつもの「やらなきゃ」と違う熱を持っている。
翌日、わたしは思い切って、ポスターの連絡先に電話をかけた。
コール音が一回、二回。
その間に、心の中で言い訳が走る。
(もし、厳しかったら……無理ですって言われたら……)
(でも、聞くだけなら、いいよね)
「はい、恵那峡遊覧船です」
明るい声だった。
わたしは咳払いをして、名乗って、用件を伝えた。
「あの、掲示板のアルバイト募集を拝見して……案内のお仕事について伺いたくて……」
「ありがとうございます。今週末、説明会と面接をやっていますよ」
その言葉で、肩の力が少し抜けた。
電話を切ったあと、手のひらがじんわり熱い。
緊張していたのに、どこか嬉しい。
——週末。恵那峡。
さざなみ公園の近く、乗り場へ向かう道は、川の匂いがした。
冷たい水と、湿った土と、枯れ草。冬の匂いは淡いのに、確かにそこに“ある”。
説明会の部屋には、観光パンフレットと、船の写真が並んでいた。
担当の人が話す。
「春休みは繁忙期でして。短期で案内のアルバイトさんをお願いしています」
春休み限定。期間限定。
ちょっとだけ寂しい。でも、だからこそ、今しかできないとも思う。
面接は、堅い質問より、「人と話すのは好きですか」とか、「声を出すことは平気ですか」という感じだった。
わたしは正直に言った。
「……好き、だと思います。得意かは、まだ自信ないです。でも、やってみたいです」
言い終わった瞬間、恥ずかしくなって目を伏せた。
でも、担当の人は笑った。
「いいですね。そういう人、向いてますよ」
面接の結果は合格。
わたしは、少しだけ足元が軽くなる。
——そして迎えた、初出勤。
冬期の運航時間は10時〜15時の便が基本、と事前に教わっていたけれど、春休みは人が増える。
観光客が多くなる繁忙期には定期便のほかに臨時便も運航される。
その日、わたしの担当は11:45発の臨時便だった。
11:30。
わたしは船に乗り込む。船内は思ったより暖かい。外の冷えが残った指先が、少しずつほどけていく。
船長は、日焼けした手の人だった。
笑うと目尻に皺が寄って、安心するタイプの笑顔。
「初めてやな。緊張しとる?」
「……はい、ちょっと」
「まあ大丈夫や。どうしても無理になったら、いつものアナウンス流すで」
船長は、さらっと言う。
まるで、「転びそうなら支えるで」と言うみたいに。
「カンペもあるしな。読んでもええよ。でも、覚えてきたなら、そらで喋れた方が、お客さんは喜ぶ」
わたしは、胸の前で手をぎゅっと握った。
(覚えてきた。……はず)
カンペ——台本の紙は、指先で触ると少しざらっとした。
紙の上の文字は、整っている。整っているのに、読めば読むほど、呼吸が浅くなる気がした。
(落ち着け。稽古と同じ。息を、整える)
剣道のとき、寒い道場で最初にするのは、構えじゃない。
息を整えること。
足裏で床を感じること。
心臓の音が自分の中に戻ってくるのを待つこと。
わたしは、胸の奥にある“間”を探した。
——11:45。出航。
「本日は恵那峡遊覧船にご乗船いただき、ありがとうございます」
マイクを持つ手が少し震えた。
でも、声は思ったより出た。自分の声がスピーカーから返ってくると、少しだけ他人みたいで、くすぐったい。
「まもなく出航いたします。船内ではお足元にお気をつけください。窓から身を乗り出さないようお願いいたします」
安全案内は、丁寧に。
小さなお子さんがいる家族が、こちらを見てうなずいた。ほっとする。
船が動き出すと、床が“うん”と震えた。
水の上を走る音は、道路のタイヤ音と違う。もっと柔らかくて、でも底の力が強い。水面が船の腹を撫で、時々、ぱしゃ、と跳ねる。
窓の外、恵那峡の景色が少しずつ開いていく。
冬の光は薄いのに、水面がそれを拾って、銀色に光る。
「恵那峡は、木曽川の両岸に奇岩・怪石がそそり立つ景勝地で、船の窓からは迫力ある景色をお楽しみいただけます」
……公式の言葉に近い。けれど、わたしは自分の言葉を少しだけ混ぜた。
「同じ景色でも、地上から見るのと、川の上から見るのでは、距離感が変わります。岩が、近いです。近いぶん、ちょっと怖いくらい、きれいです」
言い終わった瞬間、胸の奥が少し熱くなる。
自分の言葉が出た。たったそれだけで、呼吸が深くなる。
船は進む。
案内の“ポイント”が近づくと、わたしは視線を窓の外に送った。
「それでは、まず——こちらをご覧ください。右手に見えてまいりますのが、軍艦岩です」
軍艦岩。
どっしりとした岩が、水の上に身を乗り出すように立っている。名前の通り、船みたいな形に見えた。
「横から見ると、船の甲板のような線があって……“軍艦”という名前が、よく似合っています」
お客さんが「ほんとだ」と小さく笑った。
その声にわたしは少しホッとする。
「続いて、金床岩です」
金床岩。
これも、名前が強い。叩くと音がしそうだ。
「金床(かなとこ)は、昔、鉄を打つときに使う台のことです。岩の形が、それに似ていると言われています」
(……説明できた。大丈夫)
次に見えてきたのは、獅子岩。
確かに、顔がある。口が開いているようにも見えて、ちょっと可愛い。
「こちらは獅子岩です。……見方によって、今にも吠えそうに見えませんか?」
子どもが窓に張り付いて、「ライオンだ」と言った。
わたしは思わず笑ってしまう。
(獅子って、そうだよね。ライオンだよね)
次は屏風岩。
岩肌が縦に切り立っていて、本当に屏風を立てたみたいだ。
「屏風岩は、岩の面がまっすぐ立っているのが特徴です。冬は影がはっきり出るので、輪郭がくっきり見えます」
言ってから、少し迷った。
季節の説明は、相手によっては難しい。でも、お客さんの目はちゃんと外を見ている。大丈夫。
船はさらに上流へ。
水面の色が少し変わる。風の匂いも変わる。
川は、場所ごとに息の仕方が違う。
「そして、こちらが品の字岩です」
品の字岩。
名前の通り、“品”の字みたいに、岩が並んでいる。文字の形が自然にできるって、不思議だ。
わたしは、ここで少し詰まった。
本当は、もっと言うべき説明があったはずだ。台本には、ちゃんと文章があった。なのに、頭の中で言葉がほどけてしまう。
(……えっと)
マイクを持つ指先が冷たくなる。
でも、船長が横で、うなずいた。大丈夫、という合図。
わたしは、カンペを見ないで、素直に言った。
「……私は、こういう岩を見ると、ちょっとだけ“誰かが並べたみたいだ”って思ってしまいます。でも、自然が作ったものだと思うと、すごいです。すごいのに、どこか可愛いです」
言い終わると、何人かが笑った。
笑いは、温かい。
(よかった。……伝わった)
——ふと、窓の外に鳥影が見えた。
水面すれすれを、すっと飛ぶ。冬の川は、鳥の音もはっきり聞こえる気がする。
公式のページには、12〜2月頃に渡り鳥が見られることも載っていた。
わたしは、思い出したように付け足す。
「冬の時期は、渡り鳥が見られることもあります。もし見つけたら、目で追いかけすぎて転ばないようにしてくださいね」
自分で言って、少しだけ恥ずかしくなる。
でも、お客さんが「わかりました」と笑ってくれた。
船は折り返しへ向かう。
折り返しのタイミングは、身体でわかる。
エンジンの音が少し変わり、揺れのリズムが変わる。水の跳ね方が変わる。
帰り道、同じ岩をもう一度見る。
でも不思議と、同じには見えない。
行きは緊張で見えなかった“線”や“影”が、帰りは見える。声を出したぶん、景色が近くなった気がする。
(案内って……私が景色を覚える仕事でもあるんだ)
船に乗っている時間は約30分。
短い。
けれど、その短さの中に、たくさんの“初めて”が詰まっている。
乗り場が見えてきた。
人の声、看板、桟橋。現実が戻ってくる。
「まもなく到着いたします。本日はご乗船ありがとうございました。どうぞお忘れ物のないよう、お足元にお気をつけてお降りください」
最後の言葉を言い終えたとき、わたしの胸の奥に、熱が残った。
緊張は消えない。でも、緊張の中に“できた”がある。
乗客が降りていく。
親子連れが「ありがとう」と言ってくれた。
年配の女性が、ふっと笑って言う。
「声が、やさしかったよ。景色が、あったかく見えた」
その一言で、わたしの目の奥が少し熱くなる。
冬の風がまだ冷たいのに、胸の中に火が残る。
船長が、上着を羽織りながら言った。
「初めてにしては、上出来やったな」
「……ほんとですか」
「ほんとや。あとは回数や。慣れたら、もっと楽しくなる」
わたしは、うなずいた。
楽しい、という言葉が、ちゃんと身体に落ちた。
——帰り道、恵那駅へ向かうバスの窓から、川が少しだけ見えた。
冬の水は、静かで、冷たそうなのに、光をよく映す。
(私、またここに来る)
春休みの間だけ。
期間限定の仕事。
でも、期間限定だからこそ、ちゃんと“今”が残る。
駅の掲示板の前を通ると、あのポスターはまだ貼ってあった。
“ガイド”の文字が、ちゃんと意味を持って見える。
わたしは、白い息を吐いて、心の中で小さく言った。
(案内って、誰かを導くことだけど……私も、導かれてる)
景色に。言葉に。
そして、今日の自分の声に。
春の夕暮れの風は、まだ冷たい。
でも、胸の芯だけは、なぜだろう、少し熱かった。
※この作品はフィクションです。実際の団体様とは一切関係ありません。
が、恵那峡遊覧船については、こちらからご確認できます。
恵那峡クルーズ
ご興味を持たれましたら、ぜひぜひ恵那にお越しいただき、遊覧船にも乗ってみてください!
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