「人生には大切な日が2日ある」という:🐇SOCCA!中の人エッセイ修行#01
台所でガチャガチャ皿洗いをしながら、リビングの方にふと目をやると、幼い娘と息子がふたりで遊んでいる。
娘は幼稚園に通いはじめたばかり、息子は這って動けるようになったばかりの頃。姉は、バブバブ突進してくる弟を抱きしめたり、なにか話しかけたりしているようだ。
急いで皿洗いを済ませて、子ども達のところへ戻ろうと焦っていた私は、ふたりのちいさな世界を見て手が止まり、
「そういうことか」と腑に落ちた。
「わたしの人生はこれでよかったのだ」と直感的に理解した。
水と洗剤をすこし無駄使いしながら、ちいさな姉弟の姿を凝視していたのはもう何年も前の話だ。息子は来年から小学生になる。あの日の記憶を思い出したきっかけは、文章術の指南書を読んでいたことだった。
比較表現を解説する章で、マーク・トゥエインの名言が引用された。
"The two most important days in your life are the day you are born and the day you find out why"
「人生には大切な日が2日ある。
生まれた日と、なぜ生まれたのかがわかった日だ」
勉強のために読んでいる本の引用だったので、じーんとしている場合ではなかったのだが…。そうか、あの日にわたしが腑に落ち、理解したのは、私が「なぜ生まれたのか」だったのか…。
あの日はコロナ禍真っ只中だった。おまけに旦那の転勤で、見知らぬ土地に引っ越したばかり。
娘は毎日ちいさなマスクをつけて幼稚園に通っていたし、息子はひとが少ない公園でわたしとふたりきりで遊ぶしかなかった。
私は子ども達の安全を守りつつ、子どもらしい楽しみも見つけてあげたいと必死だった。いつも悩んでいた。
その頃の私にとって、娘は娘、息子は息子と独立した課題であった。そのふたりが、私の干渉していないところで、新しい関係性を作っている。私を悩ませていた点と点の間に、気がつくとうっすら美しい線が芽生えていたようだった。
このつながりができるために、私はこの子達を産み育てたのか。そのために私は生まれ、ここまでの人生を歩んできたのか、なるほどそうか…。
子ども達がふたりきりで遊ぶ様子は、今でもありありと思い出せる。姉はちいさな手で弟をつついたり、薄い髪を撫でつけてやったりした。弟はまだユラユラと安定しないずり這いで、姉を追いかけている。ふたりの目は輝いていて、息は弾んでいた。じゃれている子犬のようだった。
なんのことはない。ほんのささいな日常だった。
それなのにあの日、私は自分の人生に「はなまる」をつけてもらった気分になった。さんざん悩んできたけど、わたしの人生はこれでよかったのだと。
生まれた意味を直感的に理解してから、私は少したくましくなったと思う。悩みながら進む、という生き方で正解だと思えるようになった。
私が別の人生を歩んでいたらどうだったろう?
例えば、結婚しないで仕事に打ち込んでいたら。旦那に単身赴任を頼んでいたら。文章とのつながりを手放していたら。
その時はその時で、別の「なぜ生まれたのかがわかった日」を迎えるだろうと思う。他の人生でのルートでは辿り着けなかった日常の中に、それぞれ生まれた意味はあると思う。迷いながらでも進めば、すべての選択肢に正解が待っているのではないだろうか。
「これはエッセイに書きたい」と考えながら洗い物をしていると、子ども達が揉めている声が聞こえてきた。ごっこ遊びの設定でお互いゆずれないところがあるらしい。どう仲裁するか悩むが、今日は「わかる日」ではないようだ。
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