遠い歌声に揺れる男の安全基地
女はときどき不安になる。
男が、かつて一緒にバンドを組んでいた、いまは遠くで歌うあの“女”──アーティストの彼女に、心を寄せているのではないか、と。
男はときどき、どこかへ心を投げてしまうところがある。
自分の現実から遠いもの、
手の届かない美しさ、
距離のある理想だけをそっと見つめる癖があった。
女はその揺れを見るたびに、
胸の奥を小さく刺されたように感じて、
喉のあたりまで “別れようか” がせり上がる。
けれど、男の心は、遠くの歌声には揺れていたが、
そこに“愛”はなかった。
遠さは男にとって安全で、
手の届かないものは優しく理想化できる。
だから男はときどき、別の女を“幻想”として眺める。
でもそれは、
近づきたいわけでも、奪いたいわけでもない。
ただ、影絵のように眺めて安心するだけの存在。
男が本気で心を預けられるのは、
逃げても戻ってこれる、
弱さを見せても壊れない、
静かに傍に立つ──
そんな“女”ただひとり。
それが、女自身だった。
そして女もまた、この複雑で、揺れて、泣いて、戻っていく関係そのものが、どこか滑稽で、どこか愛おしかった。
ふたりは揺れあっていた。
でも揺れながら戻る場所は、いつも同じだった。
遠くの歌声ではなく、
現実の手触りのある “ふたり” の場所へ。
