見出し画像

どうせ死ぬし、正解なんてないんだし、自分が信じたい生き方をすれば良いと思うし、思い込みの力は大事。

「結局のところさ」と思う。

世の中には、数え切れないほどのエッセイや、「こう生きるべき」という正論があふれている。本屋に行けば自己啓発本が並び、SNSを開けば誰かの成功法則が流れてくる。

どれも立派だし、一理あるのだろう。でも、それらをいちいち真面目に受け止めて、全部を自分の人生に取り入れようとしたら、確実にパンクする。

だって、それらは「客観的な教科書」なんかじゃなくて、書いた本人が自分の人生のなかで都合よく見つけた「私だけの正解」にすぎないからだ。

そもそも、この世界のどこを探したって、最初から用意された客観的な正解なんてない。私たちはどうせいつか死ぬ。

どんなに完璧な選択を重ねても、どんなに不器用で格好悪い生き方をしても、宇宙の長い歴史から見れば誤差みたいなものだ。

一見すると冷たくて虚無的な話に聞こえるかもしれないけれど、私にはこれ、最高にハッピーで自由な事実だと思っている。

どうせ死ぬし、正解なんてない。だったら、何を選んでどう生きようが、誰にも文句を言われる筋合いはないじゃないか。

自分が信じたい生き方をすれば良い

正解がないこの世界で、周りが決めた「平均」や「世間の正しさ」に自分を無理やり合わせにいくのは、本当にもったいない。

それは、誰のものでもない統計データの中に、自分の人生をわざわざ埋没させるようなものだ。

世界がどう見えているかは、どこまでいっても100%主観だ。

どれだけ客観的なデータや事実を集めたところで、それをどう解釈して、自分の人生にどう意味づけるかは、自分自身の「思い込み」にかかっている。

だったら、自分が一番納得できて、一番ワクワクする生き方を「これが俺の正解だ」と思い込んで突き進んだ方がいい。

自分で信じて選んだ道なら、その先で壁にぶつかったとしても、「まあ、自分で決めたことだしな」と引き受けることができる。

他人の正解に流されて生きてしまうと、失敗したときに一生残る後悔になるけれど、自分の思い込みを突き詰めるなかでの苦しみは、不思議と心地よくて、全部自分の血肉になっていく。

言葉の海を「つまみ食い」する

そう考えると、他人の書いたエッセイや言葉との付き合い方も、もっと気楽でいいはずだ。

それらは従うべきルールなんかじゃなくて、ホテルのバイキングに並んでいる料理みたいなもの。

口に合わないものはスルーすればいいし、美味しいと思ったところだけを、自分の都合のいいように「つまみ食い」すればいい。

誰かの文章を読んで「めちゃくちゃ分かる」と深く共感するとき、私たちはその著者に感動しているというより、自分の中にあった「信じたいこと」を、相手の言葉を借りて再発見しているだけなのだ。

著者の意図すら超えて、今の自分が欲しい意味だけを勝手に盗み出す。それくらい我が儘で主体的な読み方こそが、他人の言葉を自分のエネルギーに変える唯一の方法だと思う。

書き手としての、開き直り

このことに気がついたとき、自分がエッセイを書くときの心の重荷が、すっと消えていくのが分かった。

「誰かを正しい方向に導かなければならない」とか「みんなが納得するような真理を書かなければならない」なんて思う必要は、最初から一ミリもない。

私が書くべきなのは、どこかの誰かが作った隙のない正論ではない。私というたった一人の人間(n=1)が、この世界をどう面白がって、どう解釈して、何を信じようとしているか。その剥き出しの主観を、ただそのまま差し出せばいい。

客観的に正しいエッセイなんて、この世で一番退屈だ。書き手の偏愛や、ちょっと尖った思い込みが滲み出ているからこそ、その言葉は同じように尖った誰かの心に届き、「それでいいんだ」と相手の思い込みの力をドライブさせる燃料になる。

私たちは、誰も正解を知らないゲームを生きている。

だからこそ、このタイトル通りの開き直りが、一番強い。

どうせ死ぬし、正解なんてないんだし、自分が信じたい生き方をすれば良いと思うし、思い込みの力は大事。

私たちは自分の物語を書き、読者はそれを都合よく盗んでいく。その主観のキャッチボールがあれば、この正解のない世界は、もっとずっと生きやすくなるはずだ。

ではでは👋

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集