自由について──あとがきに代えて
以下は2026年1月に破船房から刊行するエッセイ集『自由について』のあとがきです(著者)
「自由について書く」ということは、「そうではない状態について書く」ことと等しい──そんな牽強付会な言いぶんをまず許していただきたい。
二〇一〇年代は私にとってハードな時期で、精神的にもそれ以外の面でも、自由からもっとも遠いところにいた。そんなときに「ウィッチンケア」の多田洋一さん──一つの前の文章に出てきた「魔法使い」(!)──と出会い、文字どおり自由な執筆の場を得た。十年以上をかけてこの雑誌に少しずつ書いてきた「評論でも創作でもない文章」をまとめた本書は、それ自体が自由の産物なのである。
もっとも、多田さんからは一つだけ注文があった。「できれば、おセンチなことを書いてほしい」──そう、「おセンチ」と多田さんはたしかに言ったのだった。
もちろんそれは「感傷的になれ」という意味ではなく、共通の音楽的な趣味であるネオアコ的な「青さ」を無理に抑えないで、のびのびと書いてほしい、そんなリクエストだと私は受け止めた。
それにしても、なんでも自由に書いてよい機会が与えられたとき、人は何を書くのだろうか。
緩やかに決めた「個人史と書物史の交差点」というコンセプトのおかげで、多少なりと芯のようなものはできたが、思った以上に個人史、家族史に重心が移ってしまい、若くして亡くなったおばと十歳までの「読書以前」の話は、くどいほど繰り返すことになった。
「自由である」ことと、生まれ育った家族や共同体から離れることがイコールであるような若い時期には、本や音楽はその格好のツールだ。でも「自由でありたい」と願う自身の感受性──まさに「センチメント」──の根を深く掘り下げると、まだ「自由」の意味さえ十分に理解していない幼少期の経験へと、誰しも行き着くのではないか。
本を読むこと、音楽を聴くことは、たしかに人を自由にするけれども、その感覚が心身のいっそう深い場所に根ざしているからこそ、さらに大きな力を与えてくれる。「自由」の意味をそこまで広げるなら、むしろ「自由ではない」と思えた状況こそが、自由の根なのかもしれない。
本書に収録した文章が雑誌に掲載された頃は存命だった年長の親族が──あの「四人姉弟」も全員──二〇二〇年代に入ってから世を去り、私自身も記憶のバトンを受け渡される側から、渡す側になった。自由を求める側でなく、願わくは「書くこと」をとおして自由を生み出す側でありたい。本書は「自由」をめぐっての、そんな悪戦苦闘の記録でもある。
題名から期待されるような軽やかな本ではなく、いささか重たい本になってしまったが、この本の題名を『自由について』とすることは、最初から決めていた。これまで長いこと本を読んだり書いたりして生きてきた、そのおおもとにある根を掘り当てたいと考えたとき、直感的にこの言葉が思い浮かんだのだった。
破船房から出す十二冊目の自著となる本書は、出版論エッセイ集『本の町は、アマゾンより強い』の姉妹編という位置づけになる。本書に収めた文章の多くは、下北沢という自由な風の吹く町に暮らすなかで書かれたことを、最後にあらためて書き添えておきたい。
仲俣暁生『自由について──読書エッセイ集』(破船房)は1月18日頃に発売を開始します。BOOTHおよびBASEの破船房オンラインストアで予約受付中です。

