完璧じゃなくていい。失敗を積み重ねていく「野球のような人生」の話
7回失敗しても、「一流」と呼ばれる場所がある。野球というスポーツを見ていると、完璧である必要なんてないのだと思う。今日は、そんな野球に教わった「失敗との付き合い方」について書いてみたいと思う。
私は野球場が好きだ。そこには喜びも悔しさも、たくさんの感情が渦巻いていて、どんな感情を抱くことも許されている気がするから。
「感情豊か」とは、よいとされる感情だけを持つことではない。悲しみや落ち込みといった、いわゆるネガティブな感情もあわせて、初めて「豊か」と言えるのではないだろうか。
野球というスポーツは、そうした様々な感情が混ざり合う場所だと感じた。
勝つチームと負けるチームが必ずあり、3回のアウトを取るか、取られるかでイニングが終わる。「アウト」を「失敗」と言い換えてみるなら、その失敗を3つ重ねない限り、次の局面へは進めない。
全員が平等に打席に立てるわけではない。みんなが打たせてもらえるわけでも、守備の機会が均等に巡ってくるわけでもない。ストライクが入るときもあれば、入らない時もある。
試合を見ている人の気持ちも、実にさまざまだ。負けていても逆転したと喜ぶ人がいて、逆転されたと悲しむ人がいる。「まだこれからだ」と燃える人もいれば、「どんなことがあっても応援しよう」と大声を出している人もいる。
一方で、試合そのものよりも、その場の空気感や球場グルメを楽しんでいる人もいる。知り合いは、「試合経過よりも、ビールを飲む時間を楽しみに来ている」と言っていた。誰もが勝ち負けだけにこだわっているわけではない。それぞれの楽しみ方があって、誰もそれを強制しない。そんな雰囲気に、私はいつも元気をもらっている。
野球場は、とてもグラデーションが豊かな場所だ。
そして、野球は「失敗が前提」のスポーツでもある。たとえば3割バッター。優秀な打者とされるけれど、よく考えると10回のうち7回は失敗している。それでも、彼らは一流と呼ばれる。
私が仕事で10回のうち7回も失敗していたら、きっと冷たい目で見られてしまうだろう。でも、失敗して落ち込んでいた頃の私は、よく友達と馬鹿なことを言って自分を慰めていた。「大谷翔平だって打てない時もあるし、負ける試合だってある。私は大谷翔平じゃないんだから、よくやってる方だよね」と。
そう考えると、野球というのは失敗だらけの中で、できることを少しずつ積み重ねていくスポーツなのかもしれない。
かつての私は、「失敗はしてはいけないもの」だと信じていた。失敗する自分には価値がないとさえ思っていた。『誰かの失敗は仕方がないアクシデント、自分の失敗は人としてありえないバグ』。そうやって自分を追い詰めていた時期に、ファイターズの金子誠選手のインタビューをたまたまテレビで見た。
「自分はグラウンドに恥をかきに行ってる」
あんなにすごい選手でも、グラウンドで恥をかき、それを経験に変えている。その事実を知った時、胸が軽くなるような気持ちがした。
選手のエラーも、失敗に一喜一憂する私の感情も、すべてが3回のアウトという「不可欠な失敗」の一部だと思えばいい。「恥をかきに行っているだけだ」と思えば、少しだけ息がしやすくなる。
7回失敗しても一流と呼ばれる場所がある。そう思えるだけで、私の不器用な毎日も、あながち悪くないのかもしれない。
だから今日も、失敗を恐れて打席に立つのをためらうより、思い切り恥をかきに行ってこようと思う。たとえ三振したとしても、それは次のイニングを呼び込むための、大切な「アウト」なのだから。
恥のかき方も、立ち直り方も、ときには恥をかかないための工夫も。そうやって少しずつ覚えていけばいい。「アウトにならないと進まない野球のような人生だ」と思えば、今日を生きることも少し楽しくなる気がする。
