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『少女時代の私へ。』(短編小説)



はじめに

この『少女時代の私へ。』は、私の原点ともいえる作品です。

実体験をもとに、記憶の奥に眠っていた少女時代を、一つひとつたどるように綴りました。

あの頃は、なぜ学校という場所があんなにも息苦しかったのか、自分でもうまく説明できませんでした。

けれど年月を重ねた今なら、少しだけ分かる気がします。

この物語は、過去の私への手紙であると同時に、
「自分らしく生きること」に迷ったすべての人へ贈る、小さな物語です。

どうか最後まで、お付き合いいただけたら嬉しく思います。




第一章 月曜日の体育館


月曜日の朝は、世界が少しだけ重い。
校舎の窓から差し込む秋の光はやわらかいのに、その光さえも、今日は身体を前へ押してはくれなかった。
始業のチャイムが鳴る。
教室の空気がざわりと揺れ、先生の「体育館へ移動します」の一言で、生徒たちは何も考えない魚の群れのように席を立った。
誰も逆らわない。
誰も立ち止まらない。
長い廊下を、上履きの音だけが規則正しく響いていく。
私もその列の中にいた。
前の人との距離を保ちながら歩く。
右へ曲がり、階段を下り、渡り廊下を抜ける。
毎週月曜日に繰り返されるその動きは、自分の意思ではなく、どこか遠くから操られているようだった。
体育館へ入ると、磨かれた床の匂いが鼻をついた。
ワックスの甘い匂い。
汗で少し湿った木の香り。
何百人もの体温が混じり合う空気。
そのどれもが、胸の奥に薄い膜を張るようで息苦しい。
先生の笛が鳴る。
「前へ詰めて。」
「もう少し右。」
「列を揃えて。」
そのたびに、生徒たちは一斉に動く。
ぴたり、と止まる。
まるで糸で吊られた人形のように。
私だけが、その糸を見てしまった気がした。
校長先生が壇上へ上がる。
全校生徒が礼をする。
顔を上げる。
そして校長先生の話が始まる。
今日も長い。
まだ一分も経っていないはずなのに、時間だけがねばついた飴のように伸びていく。
校長先生の声は、遠くのラジオみたいだった。
言葉は耳に確かに届いている。
でも意味は一つも頭に入ってこない。
「……皆さん、一人ひとりが──」
私は心の中でため息をついた。
まるで毎回メモした文章を読んでいるかのように同じ言葉で話す内容。


お願いだから、座らせて。
その一言だけが、何度も何度も頭の中をグルグル回転する。
立っているだけで足がじんわりと痛い。
制服の襟元が少し窮屈だ。
右前に並ぶ男子の背中をぼんやり眺めながら、私は思う。
もし今日が真夏だったら。
この体育館は巨大な蒸し風呂になっていただろう。
何人倒れるだろう。
いや、私が真っ先に倒れるかもしれない。
そんなことを考えて、小さく笑いそうになった。
秋でよかった。
昔の秋は、暑さ寒さも彼岸までということわざ通り、ちゃんと秋だった。
彼岸を過ぎれば風は涼しくなり、夕方になると虫の声が聞こえてきた。
季節だけは、ちゃんと約束を守っていた。
そう。あの頃はあの時代は季節は人間よりもずっと律儀だった。
校長先生の話はまだ続く。
五分。
たぶん、それくらい。
けれど体感では三十分にも一時間にも思えた。
私は限界だった。
考えるより先に膝が曲がる。
床へ、そっと腰を下ろした。
静かな音だった。
誰にも聞こえないくらい小さな音。
でも、その小さな音は、私の中では雷が落ちたような音だった。
「あ……。」
誰かが小さく息をのむ。
視線が刺さる。
隣の子がこちらを見た。
前の子も少し振り返る。
私は知らないふりをした。
そして私の心の中では、小さな悪魔が笑っている。

座った理由は、貧血ってことにしよう。
そう思う前から既に私は演技していた。血の気のない生徒の役を演じていた。


第二章 演じるということ


床の冷たさが、制服のスカート越しにゆっくりと伝わってくる。
立ち続けるより、ずっと楽だった。
私は誰にも気づかれないように、小さく息を吐いた。
そのときだった。
前の方の列で、一人の女子がそっとしゃがんだ。
少し離れた場所でも、また一人。
まるで水面に落ちた一滴の雫がポツリ、ポツリと波紋を広げるように、「座る」という行為が静かに連鎖していく。
私は思わず目を瞬かせた。
あれ?
私だけじゃない。
そんな安堵と、少しの可笑しさが胸をよぎる。
すると心の中で、もう一人の私が肩をすくめて笑った。
「続けなきゃ。」
その声は、どこかいたずら好きの悪魔のようだった。
「本当に具合が悪そうな顔をして。」
私は唇を少しだけ噛み締めて、焦点の合わない目をわざとつくる。
肩から力を抜き、呼吸を浅くする。
誰に教わったわけでもない。
それなのに、不思議なくらい自然にできた。
まるで昔から何度も練習してきた役を演じるように…。
体育館のあちこちで先生たちが動き始めた。
「大丈夫?」
「保健室へ行くか?」
そんな声が、コソコソとあちらこちらから聞こえてくる。
座り込んだ生徒のそばには、必ず誰かが駆け寄っていた。
けれど。
私のところへは、誰も来なかった。
私は目だけを動かして辺りを見る。
……来ない。
少し待ってみる。
それでも来ない。
胸の奥が妙にざわついた。
来てほしいわけじゃない。
来られたら困る。


だって私は嘘をついている。



なのに、誰にも気づかれないというのは、それはそれで少しだけ寂しかった。
人の心というものは、本当に勝手だ。
放っておいてほしい。
でも放っておかれると、少しだけ悲しい。

そんな矛盾を、あの頃の私はまだ言葉にできなかった。
校長先生の声は続いている。
けれど、そのリズムが少しだけ乱れた気がした。
壇上から視線がこちらへ向いたのだろう。
数人の生徒が座っている光景が目に入ったに違いない。
話は急に終盤へ向かった。


「……以上です。」


その一言に、私は心の中で小さく拍手を送った。
勝った。
そんな子どもじみた達成感さえあった。
けれど、すぐに表彰式が始まるというアナウンスが流れる。
そして、ようやく全校生徒に「お座りください」という声が響いた。
私は思わず心の中でつぶやく。
最初から座らせればいいのに。
その言葉は喉元まで上がってきたが、もちろん口にはしない。 

私には、そういう分別だけはあった。
……いや、本当にそうだったのだろうか。
ふと、別の考えが頭をよぎってしまう。

今なら…。
みんなが座った今なら。

私だけ立ってみたら、どうなるんだろう。
そんなくだらない想像に、胸の奥がくすりと笑う。

「やめなさい。」
もう一人の私が、静かに制した。

「それは違う。」
その声は悪魔ではなかった。
きっと、とても小さな良心だったのだろう。

壇上では賞状が読み上げられている。
名前を呼ばれた生徒が立ち上がり、壇上へと、背筋を伸ばして校長先生の前まで歩いていく。

体育館には拍手が広がる。
私も周りに合わせて手を叩く。
ぱち、ぱち、と。
音だけが空しく響く。


心はどこにもなかった。
私は、そのことが少しだけ嫌になった。皆と同じように拍手している自分が。

誰かの努力を素直に喜べない。
みんなと同じように拍手をしているのに、私だけ別の場所に立っているような気がした。

私は冷たい人間なのだろうか。
心が歪んでいるのだろうか。

違う。
そう思いたかった。

けれど、その答えを持っている大人は、あの学校には一人もいなかったように思う。
そして、私自身も知らなかった。
嫌な自分と向き合うのに疲れて、私はゆっくり立ち上がる。


少しだけ足元をふらつかせる。
演技は、まだ終わっていない。
人の間を縫うように歩き、体育館の出口へゆっくりと向かう。


そこでようやく、担任の先生が私の肩に手を添えた。
「大丈夫か?」
その声は優しかった。
優しかったからこそ、胸が少し痛んだ。
「……貧血で、少し気分が悪くて……保健室へ行きます。」
言葉を途切れさせながら答える。
最後まで役を演じ切る。
先生は私の顔をしばらく見つめ、それから言った。
「一人で行けるか?」
一瞬だけ息をのむ。
もし「送るよ」と言われたら、この芝居は続けられない。

だから私は、その日一番はっきりした声で答えた。
「大丈夫です。」
その一言だけは、嘘ではなかった。
私は、本当に一人で歩きたかったのだ。


第三章 渡り廊下の亀


体育館の扉が静かに閉まる。
その瞬間だった。
さっきまで耳を満たしていた校長先生の声も、拍手も、何百人もの気配も、一枚の扉に遮られて遠ざかっていく。
世界が急に静かになった。
私はふっと息を吐いた。
胸いっぱいに空気を吸い込む。
ようやく呼吸ができた気がした。
体育館にいた数十分より、この一呼吸のほうが、ずっと自由だった。
渡り廊下には秋の風が吹き抜けていた。
窓は半分だけ開いていて、風が髪を揺らしている。
どこからか金木犀の香りが流れてきた。
甘く、どこか懐かしい香りだった。
その匂いに足を止める。
保健室へ向かうはずなのに、私は自然と中庭へ目を向けていた。
そこには、小さな池があった。
季節ごとに姿を変える木々に囲まれた、誰も気にも留めないような場所。
水面は風を受けて、細かな波紋をつくっている。
その岸辺を、一匹の亀が歩いていた。
ゆっくり。
本当にゆっくり。
急ぐこともなく。
誰かに追い立てられることもなく。
一歩。
また一歩。
私は、その姿から目を離せなかった。
さっきまで体育館で整列していた何百人もの生徒より、その一匹の亀のほうが、ずっと生きているように見えた。
「……いいな。」
思わず声が漏れた。
もちろん、亀になりたかったわけではない。
けれど、あんなふうに歩けたらと思った。
誰かに合わせることもなく。
競争することもなく。
「もっと速く。」
「みんなと同じように。」
そんな声とは無縁の世界を生きているように見えた。
私は自分の足元を見る。
さっきまで演技でふらつかせていた足。
けれど今は、本当に少しだけ力が抜けていた。
私はゆっくり歩き始める。
亀に合わせるように。
歩幅を小さくして。
ゆっくり。
ゆっくり。
その瞬間、不思議なことに胸の奥のざわつきが少しだけ静かになった。
私は昔から、急ぐのが苦手だった。
運動会で一等賞を目指した記憶もない。
テストで百点を取りたいと思ったこともない。
誰かに勝ちたいとも思わなかった。
だからといって、負けても平気だったわけではない。
勝ち負けそのものに、心が動かなかったのだ。
周りは前へ前へと走っていく。
私は立ち止まって空を見ていた。
花を見つければしゃがみ込み、雲を見つければ名前を考えていた。
そんな私は、いつも少しだけ列から遅れた。
先生は言う。
「早くしなさい。」
友達は笑う。
「また遅刻して遅れてる。」
悪気なんてない。
それは分かっていた。
でも、その「早く」が積み重なるたびに、自分だけ違う生き物になっていくような気がしていた。
どうしてみんなは、そんなに急げるんだろう。
どうして同じ方向を向いて歩けるんだろう。
私には、それがずっと不思議だった。
中庭の亀は、そんな私の疑問を知っているような顔で歩いている。
もちろん答えなんて返してくれない。
それでも、私はしばらくその姿を眺めていた。
風が木の葉を揺らす。
一枚の枯れ葉が池へ落ちる。
波紋が静かに広がる。
亀は何事もなかったように、その横を通り過ぎていく。
その姿を見て、ふと思った。
急がなくても、ちゃんと前へ進んでいる。
たったそれだけのことなのに、誰かに教わったことは一度もなかった。
学校では、「早く」が褒められた。
「みんなと同じ」が正しいとされた。
けれど、この亀は違う。
誰とも比べない。
誰にも合わせない。
それでも、自分の歩幅で今日という一日を生きている。
私は小さく笑った。
「……あなたも、一人なんだね。」
亀はもちろん振り向かない。
ただ、ゆっくりと歩き続ける。
その後ろ姿を見送りながら、私はようやく保健室へ向かって歩き出した。
私の歩幅も、少しだけ亀に似ていた。
あの日の私は、まだ知らなかった。
みんなと同じ速さで歩けないことは、欠点ではないということを。
それはいつか、自分だけの景色に出会うための歩幅だったのだと。


第四章 私という歩幅


保健室の前まで来ると、私は足を止めた。
白い扉を見つめる。
中へ入れば先生がいて、「どうしたの?」と聞かれるだろう。
私はまた、少しだけ具合の悪そうな顔をしなければならない。
今日は、ずいぶん演じる日だな。
そんなことを思うと、思わず苦笑いがこぼれた。
結局、私は保健室へは入らなかった。
誰もいない校舎を、あてもなく歩き始める。
体育館では今頃、表彰式が終わり、そろそろ生徒達が出て来るだろう時間。
まだ静まり返った廊下には、自分の足音だけが響いていた。
私の上履きの音だけが、私がここにいる証だった。

私は昔から、みんなと同じ場所にいても、どこか少しだけ違う景色を見ていた。

先生が黒板に文字を書いているときも、私は窓の外を飛ぶ鳥を目で追っていた。
数学の公式より、風に揺れる木の葉の動きのほうが気になった。
国語の教科書より、校庭に伸びる雲の影や窓から見える景色のほうが物語に見えた。

だからと言って、勉強が嫌いだったわけではない。
ただ、「決められた順番で、みんなと同じように学ぶ」ということが、どうしても息苦しかった。
私の心は、いつも教室より少し外側にいた。

 
ある日、母が言った。
「お姉ちゃんみたいに、もう少し勉強頑張ったら?」
悪気なんてない。
きっと励ますつもりだったのだろう。
でも、その言葉は私の胸のどこかに、小さな棘のように刺さった。

姉は頭が良かった。
何をやっても器用だった。
先生からも信頼され、友達も多かった。
私は姉が嫌いだったわけじゃない。
むしろ好きだった。

優しくて、自慢の姉だった。
だからこそ苦しかった。
姉の影は、誰のせいでもないのに、いつも私の前を歩いていた。
私は「私」になる前に、「○○さんの妹」だった。
その呼び方に悪意はない。
それでも、そのたびに私という輪郭が少しずつぼやけていく気がした。
姉と同じ部活動に入ったときもそうだった。
「お姉ちゃん、すごかったよね。」
先輩は笑顔でそう言った。
期待されることが、こんなにも重たいものだとは知らなかった。
だから私は、少しずつ手を抜くようになった。
ボールを追えるのに追わない。
捕れるのに、わざと落とす。
「運動苦手なんです。」
そう言って笑えば、誰も期待しなくなる。
そのほうが楽だった。
期待されない場所は、失敗しても傷つかない。
気づけば私は、「できない子」を演じることが上手になっていた。
本当の自分を隠すというより、誰かが望む自分にならないための、小さな抵抗だったのかもしれない。


塾も同じだった。
家計に余裕があるわけではないことくらい、中学生の私にも分かっていた。
それでも両親は、「勉強だけは」と、私を通わせてくれた。
申し訳ないと思っていた。
でも、どうしても塾へ行っても、教科書を開く気になれなかった。
塾の先生が雑談をしてくれる時間だけは好きだった。
先生が若いころに失敗した話。
好きだった音楽。
子どものころの夢。
そんな何気ない話を聞いていると、「勉強」よりも、「人」が見えてきた。
私はノートの上の数字より、人の心のほうにすごく興味があった。


もしかしたら、その頃からだったのかもしれない。
言葉にならない気持ちを、言葉にしてみたいと思うようになったのは。


誰かの表情の奥にある、本当の気持ちを知りたいと思うようになったのは。


学校は、答えのある問題を教えてくれた。
けれど私は、答えのない問いばかりを抱えていた。
どうして人は比べるのだろう。
どうして、みんなと同じでなければ安心できないのだろう。
どうして、自分らしくいることは、こんなにも難しいのだろう。

誰も答えてはくれなかった。
だから私は、自分で探すしかなかった。
やがて私は部活動を辞めた。
帰宅部になった。
「もったいない。」
「続ければよかったのに。」
そんな声も聞こえた。
でも、不思議だった。
私は少しも後悔しなかった。
学校の帰り道を一人で歩く時間。
寄り道をして夕焼けを眺める時間。
海を見に行く時間。
公園のベンチで空を見上げる時間。
誰にも急かされない、その時間だけは、私の心が静かに呼吸をしていた。
自由とは、何でもできることではない。

「自分で選べること」なのだと、あの頃の私はまだ言葉にはできなかったけれど、身体はちゃんと知っていた。

振り返れば、私は学校から逃げたかったのではない。
誰かが決めた「こうあるべき」という形から、そっと抜け出したかっただけなのだ。


私は劣っていたわけでも、怠けていたわけでもない。
ただ、人より少し違う歩幅で世界を見ていたかった。
それだけだった。


最終章 列から外れた日


大人になると、不思議なことがある。
忘れたはずの景色が、ある日ふいに目の前へ現れるのだ。
金木犀の香り。
ワックスの匂いが残る体育館。
窓から差し込む秋の光。
それだけで私は、あの月曜日の朝へ帰ってしまう。
制服のスカートを気にしながら整列していた少女。
校長先生の長い話にうんざりして、誰よりも先に床へ座り込んだ少女。
貧血のふりをして、保健室へ向かった少女。
あれは間違いなく、私だった。
もし今、あの頃の私に会えるなら、何と言葉を掛けるだろう。
「ちゃんと学校へ行きなさい。」
違う。
「みんなと仲良くしなさい。」
それも違う。
私はきっと、こう言う。
「苦しかったね。」
それだけでいい。
誰にも理解されない苦しさが、この世にはある。
理由を聞かれても説明できない苦しさがある。
いじめられているわけでもない。

勉強が嫌いなわけでもない。
友達がいないわけでもない。
それでも、どうしても息ができなくなる場所がある。

あの頃の私は、それを怠けだと思っていた。
わがままだと思っていた。
みんなができることを、自分だけできない。
それが情けなくて、自分を責めてばかりいた。
けれど、大人になった今なら分かる。


私は壊れていたのではない。
ただ、自分に合わない靴を履いて歩いていただけだった。
少し小さくて、少し窮屈で、歩けば歩くほど足が痛くなる靴。
それでも「みんな履いているから」と言われれば、脱ぐことすら悪いことのように思えてしまう。
私は、その靴を履き続けることができなかった。
だから列から外れた。
あの日、体育館で座り込んだことも。
部活動を辞めたことも。
学校を休んだことも。
帰宅部を選んだことも。
あの頃は全部、「逃げた」と思っていた。
でも違った。


あれは逃げたのではない。
自分を失わないために、必死で息継ぎをしていたのだ。

あの日、渡り廊下で見た亀は、今日もどこかで歩いている気がする。
誰とも競わず。
誰にも追い越されることを気にせず。
ただ、自分だけの歩幅で。
人生は、運動会じゃない。
一番になるために生きるわけじゃない。
速く歩く人もいる。
寄り道ばかりする人もいる。
立ち止まる人もいる。
泣きながら歩く人もいる。
それでもいい。

それぞれの歩幅で進んでいるのなら、それで十分なのだ。
私は今でも、ときどき列から外れる。


みんなが「右」と言えば、左を見たくなる。
みんなが急げと言えば、立ち止まって空を見上げたくなる。


昔の私は、そんな自分が嫌いだった。
今は少しだけ違う。


そんな自分だからこそ見つけられる景色があることを知った。
誰かが通り過ぎてしまうような夕暮れ。
風に揺れる一輪の花。
湯気の向こうで冷めていく珈琲。
静かな海。
そして、人の心。
私はきっと、それらを見つけるために、この歩幅で生まれてきたのだ。
もし、あの日。
体育館で無理をして立ち続けていたら。
もし、みんなに合わせることだけを覚えていたら。


そう思うと、
今こうして、言葉を紡ぐ私はいなかったのかもしれない。

人生は、不思議だ。
欠点だと思っていたものが、何十年も経って、自分だけの宝物になることがある。


だから私は、あの日の少女にもう一度会えたなら、笑ってこう伝えたい。
「そのままで。」
無理に速く歩かなくていい。
誰かの歩幅に合わせなくていい。
亀には亀の景色があるように、あなたには、あなたにしか見えない世界がある。

そして、その世界を言葉にできる日が、きっと来る。
あの日、渡り廊下で足を止めた少女は、まだ知らなかった。


自分だけの歩幅で歩き続けた先に、たくさんの言葉と出会い、誰かの心にそっと寄り添う日が来ることを。
秋風が頬をなでる。

目を閉じると、あの中庭が浮かぶ。
池のほとりを、一匹の亀が今日も歩いている。
ゆっくり。
ゆっくり。
誰にも急かされることなく。
私はその後ろ姿に、小さく微笑みかける。
「ありがとう。」
あの日、あなたは何も語らなかった。
それでも私は、あなたの歩幅から、生き方を教わったのだから。



薔薇🌹SONO🍀

最後までお読みいただきありがとうございました✨️☺️



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