大好きなおばあちゃんの味
私が尊敬する亡き祖母は
製紙工場の近くに小さな食堂を経営していた。
朝から料理の仕込みに入り、昼になると工場から祖母の食堂へとみんながいっせいに歩いてやって来る。
小さな食堂の、テーブル席はすぐ満席になり、入れない客の為に座敷の鉄板付きのテーブルも解放したりしていた。
朝から仕込んだ料理の数々は透明のガラスケースの中にズッシリと並べられ、みるみるうちになくなっていく。
おかずを一皿、二皿と手に取ると、
「ご飯小〜」
「ご飯大〜」
と、いつものように客から注文の声が響く。
祖母秘伝の(おでん)をお皿に取る人もいる。
私は今まで、いろんな店の(おでん)を食べてきたけど、祖母の味に叶うものはなかった。
理由なんてわからない。
おでんのだしは真っ黒で継ぎ足し継ぎ足ししてから祖母は少し手を加える。
具材に味が染み込んだおでんは、カラシや味噌ダレなんて必要ないくらい、どれもが絶品だった。
祖母の食堂で人気だったのが
「中華そば」
昔ながらの〜とか、
そういう類じゃない。
醤油味でもない。
多分、あの「中華そば」の味は、どこにも存在しない。
祖母の経営する食堂ならではのスープの味。
麺は細麺で製麺所から毎日、配達してもらっていた。
祖母が亡くなってから36年。
いまだに、あの中華そばと同じラーメンは食べたことがない。
やみつきになるくらい、私は大好きだった。
祖母の食堂でバイトしてた時のお昼は、いつも「中華そば」を自分で作っていた。赤板のかまぼこや、ネギを客よりも多めに入れて。笑
母から料理を教わった記憶がない。いくら思い出そうとしても思い出せない。
物心ついた時から朝は自分で作っていたし、学生時代のお弁当も毎朝、姉と二人で作っていたから。いつしか夕飯も母からお金を渡され買い物にいき、私が家族の晩御飯を作ったりしていた。
小さな頃から祖母が大好きだった私は、まだ幼い頃に、小さな自転車で1時間くらいかけて汗だくになりながらも祖母の所へ行ったことがある。
麦わら帽子の下の頭は汗でベッタリで髪の毛に滴るくらい濡れていた。顔を真っ赤にして汗だくで祖母の所へ着くと、祖母はびっくりしたような顔をして、
「よう、一人でここまで来たね~」
と、冷たいアイスや冷蔵庫から冷えた飲み物を出してくれて、私の髪の毛の汗をタオルで拭いてくれた。
中学生になっても自転車だけが少し大きくなって、相変わらず自転車で祖母の所へ行き、祖母の食堂を手伝ったりしてた。
食堂の常連さんも私の顔を見ては、よくからかわれたり、楽しい話をしてくれたりと和気あいあいとしていた。
原付バイクに乗れるようになっても、まるで当たり前のように祖母の所へ通っていた。
私が15か16の頃に、
ブライダルファッションショーのモデルになれた時は真っ先に祖母に報告をした。
ショーの当日は祖母の家から会場へ行った。
真っ白なウェディングドレスを着て舞台の中央から知らない男性と手を繋ぎゆっくり前へ歩いてターンして戻る。
ドレスなんて着たことがなくて本番中にドレスの内側の裾をパンプスで踏んでしまったけど何とか平気な顔してショーを終えた。
ショーが終わった後も祖母の所へ行き、ショーの時のこと、いろいろと祖母に話した。
ウェディングドレスを着たのは、この時が最初で最後になってしまったけれど良い思い出になりました。
ずっと行方不明になっていたその時の写真が見つかって懐かしい気持ちで写真を見つめていた私。
写真の私は、まだ十代という幼い顔をしてるけど化粧でキリッとした顔に変身していて大人の仲間入りをしたようなそんな顔をしてる。
私が話す相手はいつも祖母だった。日常の出来事も祖母に話して、まるで私は自分をアピール出来るのは祖母だけだと思ってるかのように話してた。
祖母の家に泊まる時は、いつも仏壇に手を合わせ祖母の隣に座布団を敷き祖母のお経を聞きながらお線香の煙の中、私は静かにお経が終わるのを正座して待つ。
全く嫌じゃなかったし、お線香の香りや煙も好きだった。
仏壇に向かって座り、お経を聞きながら静かに心を落ち着かせる。そんな私にとっては貴重な時間でもあったのかもしれない。
あの頃の私が、ずっと先の人生で線香の香りが染み付く職に就くなんてことは、きっと亡き祖母も想像もしていなかっただろう。
そんなふうに、私の昔の思い出には必ず祖母が存在する。
それくらい両親よりもずっとずっと大切な思い出に満ち溢れていたと思う。
そんな私は、
祖母の背中から
生きる味を覚えた。
祖母の前では自然と笑顔になれたし自分のありのままの感情を自然と出すことができた。
人と人との繋がりの深さも、その時はまだわからなかったかもしれないが、今ならわかる。
祖母の葬儀は、どこのお偉い様の葬儀なんだろう?って思うくらい盛大な規模で執り行われた。わかりやすく言えば社葬や大型葬になるだろう。
大きな式場に人が密集し参列者がゾロゾロ入って来てた。
道路には大きな花輪がズラリと道路の端に並べられ、
たくさんの供花や盛籠は式場の両サイドにひしめくように並べられていた。
祖母と参列者の繋がりや祖母の交友関係の幅広さというものをすごく感じさせる葬儀だった。
昨今は家族葬や密葬などが当たり前の世の中だが。
この時代は葬儀の規模も普通に参列者が多かったように思う。
亡き祖母に教えてもらったことが、どれ程 沢山あったのか今になって犇々と強く感じる。
祖母は亡くなるその日の午前中に私に電話をしてきた。
前日に熱を出した私の息子。
孫の事を心配して、
「熱あったら風呂に入らせたらいかんよ」
それが祖母の
私への最後の言葉だった。
その日の午後に祖母は心筋梗塞で帰らぬ人となった。
私は若くして結婚し、1年後にようやく息子が産まれ、
私は、ずっとおばあちゃん子だったから、祖母は私のことは全て知り尽くしている。
きっと祖母なりに私は若い親として子育てとかしっかりとやっていけるのか?大丈夫なのか?という心配もあったはず。
最期まで私のこと、そして孫のことを心配していた祖母。
だからこそ、今でもずっと忘れないで思い出として残っているのかもしれない。
食堂で、たびたび目にしていた光景。
冬の朝の白い湯気。
まな板に響く包丁の音
煮物の甘い匂い
いりこだしの味噌汁の香り
その全部が、
私には
世界でいちばん
安心できる音楽のようなものだったのかもしれない。
じゃがいもの皮をむけば
ぼこぼこになってしまって、
「もったいないなぁ〜」
そうにっこり笑いながら
祖母はポッチャリした指で
私の手を包み
包丁の角度を教えてくれた。
人参の切り方も、
火加減も、
味見のタイミングも、
隠し味も全てひとつひとつ教えてくれた。
レシピなんてものは存在しなくて、
祖母の指先、見様見真似で覚えていった。
あまり、失敗はしなかったが、
たまに私が失敗しても、
決して怒らなかった祖母。
「また作ればええ」
その言葉に
どれだけ救われたかわからない。
いつしか私は
祖母の味に近づきたくて
何度も同じ煮物を作るようになった。
けれど不思議で、
同じ材料を使っても
同じ手順で作っても
祖母の味には決してならない。
たぶんあの味は
優しさの量だったのだと思う。
みんなのために一生懸命、
黙って厨房に立ち料理を作り続けた笑顔の祖母。人から好かれる存在。
祖母の長い人生そのもので
祖母が生きた証だ。
今でも時々
祖母が隣に
立っている気がする
私もレシピは使わない。
祖母のように「指先の感覚」や
「記憶の中の感覚」で料理を作る。
「もう少し弱火で」
「そんなもんやな」
「よく出来たね」
祖母の
そんな声が聞こえた気がして
私は今日も
祖母に教わった手で
野菜を刻む。
祖母は亡くなったあとも
ちゃんと私に
灯りを残してくれている。
そして生きる意味も
教えてくれてるようなそんな気がする。
〜大好きな祖母へ捧げる〜
薔薇🌹SONO🍀
実話を元に私が体験し、経験したエッセイです。最後までお読みいただきありがとうございました✨️
