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精巣癌ステージ2の発見から治療まで。

こんにちは、そのはです。

20歳のときに癌と診断され、半年間の入院で治療をしました。

当時Yahooブログに日記を書いていたのですが、バックアップをとらないままサービス終了してしまったので、あらためてここに記録しておきます。

思い出しながらになるので、ところどころ間違っているかもしれません。
また、治療法など専門的なところを掘り下げるというよりは、経緯・気づき・感情の変化などにフォーカスをしていきます。



症状の自覚

たしか大学2年生の冬頃に症状を自覚しました。

左の睾丸が明らかに腫れている。
たまごくらいの大きさ?げんこつまではいかないサイズ。
痛みは無し。

すぐに病院へ行けばよかったのですが、部位が部位ということもあり最初は誰にも相談できず、ひたすらにネットで検索をしました。
検索をすればするほど怖い単語や説明が出てきて、一人で震えていました。

症状からどの病気かを切り分けるときの軸は、痛みがあるか、光が透過するか、が主のようでした。
そこで、家にあった懐中電灯を当ててみたりしてました(絵面こそ滑稽ですが、当人はいたって真剣です)。
痛みが無く光が透過しない場合は腫瘍の可能性が高いということで、病院に行く前から癌を覚悟しました。
良性の可能性もありましたが、この時点でなんとなく悪性のような気がしていました。


ひとしきり調べて癌の覚悟ができたところで、家族に打ち明けました。
「俺、癌かもしれない。」

早速病院に行けということになったので(そりゃそう)、近所の泌尿器科クリニックを予約しました。
どんな診察をされるのか?切られる?針でも刺される?など怖い想像をしてその日を待ちました。


診断

クリニックへ行くと、まずは口頭で症状を説明し、実際に見せてくださいと言われたので診察台で下を脱いで診てもらいました。

すると、触るまでもなく、一目見ただけで「これは悪いものかもしれない。大きい病院を紹介します。」と言われ、大きい病院で詳しく検査することになりました。

悪いものとは、悪性腫瘍をマイルドにした言い回し。
すでに自分で調べて覚悟していたのでショックは無く、ですよねという納得感が強かったです。

大きな病院に行き血液検査を行なったところ、腫瘍マーカーの値が大きかったので悪性腫瘍で確定。
また造影CTを撮ると複数のリンパ節への転移を認めたため、ステージ2と診断されました。

ここで改めて自分で調べてみると、ステージ2の5年後生存率は95%以上ということで癌の中でもかなり予後が良いものだと分かり、安心して治療に臨む心構えができました。


最初の治療:精巣摘出手術

まずは元凶である左精巣を摘出しないことには始まらないということで、手術を行いました。

部分麻酔か全身麻酔を選択してよいとのことだったので、迷わず全身麻酔を選択しました。

というのも、小さいころから手術というものが怖くて、テレビドラマなんかで出てくる手術シーンなんかも全く直視できない具合でした。
今回が初めての手術ですが、自分の身体が切られている様子が分かるなど想像もしたくなかったので、だったら眠ってしまいたいという判断で、全身麻酔を選びました。

左の鼠径部に切り込みを入れ、そこから精管を手繰り寄せて精巣を引っ張り出すという術式でした。
てっきり陰嚢を切開するのかと思っていましたが違いました。
どうやら、精巣本体だけでなく癌細胞に冒されている精巣上体や精索といった組織も摘出するためのようです。

取り出した組織は、待機していた家族は見せてもらったようです。
私は後から写真を見せてもらいましたが、ちょっとした鶏肉の一部という感じに見えました(笑)

たしか1週間くらいで退院したかと思います。
手術直後は痛みもありつつ、筋肉が切られて力が入らない感じがして左脚をなかなか上げられなかったのですが、少しすると普通に歩けるようになりました。


次の治療:化学治療

少しだけ期間を空けて(たしか1ヶ月もないくらい)、化学治療に入っていきます。


その空白期間に、精子凍結をおすすめされました。

というのも、化学治療が始まると残った右精巣の精子を作る能力が著しく落ちてしまうことが予想されるためです。

今となっては生殖機能温存治療費助成がありますが、当時は存在しなかったので、自分で精子凍結が可能な病院を調べて受診しました。


準備が整ったところで、化学治療を開始しました。

BEP療法と呼ばれる方式で、ブレオマイシン・エトポシド・シスプラチンの3種類の薬剤を用いて、1コース3週間のサイクルで投薬していきます。
私の場合は4コースを連続で実施したので、入院期間は4ヶ月に及びました。

主に現れた副作用は、食欲不振・吐き気・骨髄抑制・脱毛でした。

薬の副作用なのか点滴で常に水分を摂っているからなのか分かりませんが、異常に唾液が分泌されました。
その唾液が口の中に溜まるのも気持ち悪いし、飲み込むのもお腹いっぱいで嫌だしで、ずっと唾液を吐きだしていました。

唾液だけでなく味のしない水も異様に気持ち悪くて飲む気がしなかったので、味の濃いジュースを用意して飲んでいました。
よく飲んでいたのは午後の紅茶のストレートティーやミルクティー、カルピスやスポーツドリンクあたりですかね。

食事も味が薄いと気持ち悪くて仕方なかったので、ふりかけや調味料を持参して使ったりしていました。
辛いものが好きなのでラー油と七味は必須でした(病院的には刺激物NGでしょうが・・・)。

https://www.nihonika.co.jp/product/1239.html

骨髄抑制は、血を作っている骨髄の機能が弱り、血中の赤血球や白血球や血小板の量が減ってしまう副作用です。
特にコースの後半の休薬期間中に白血球の数が大きく減ることがあり、この間に感染症に罹るとリスクが大きいため、何度も上の写真のような無菌ユニットをベッドに装着していました。

白血球の値が正常になり、次のコースが始まるまでは、外出が許されていました。
病院食は想像よりも美味しかったですが、さすがに何ヶ月も入院していると献立もループしてしまって飽きてくるので、外出できるタイミングでは病院近くの飲食店に出かけたりしていました。

2コース目か3コース目あたりから脱毛が激しくなり、枕や床が髪の毛だらけになったり、シャワーを浴びると手櫛でごっそり髪が抜けるのが悲しかったので、病院併設の美容院で丸刈りにしてもらいました。
以降、外出時には↓のようなニット帽を被るようにしました。


季節が変わったころ、4コースの化学治療を終え、腫瘍マーカーも正常値になり、CTで見えるリンパ節の影も小さくなったので、リンパ節の摘出手術に移っていきます。


最後の治療:後腹膜リンパ節郭清手術

腫瘍マーカーが正常値になったので、化学治療のみで治療を終え手術はしないという選択肢も一応あったようです。
若くて体力もあるならば、再発のリスクを下げるために手術をしたほうがベターだということで、手術を受けることにしました。

今回のターゲットである後腹膜リンパ節は胃腸をどけた後ろ側にあるので、鳩尾から下腹部にかけて大きく切開する必要があります。
痛みも大きくなることが予想されるため、今回は全身麻酔と硬膜外麻酔の併用で進めることになりました。

硬膜外麻酔とは、背骨と背骨の隙間に針を刺して、脊椎に近い部分に麻酔を流し込むものです。
この針を刺すのは全身麻酔よりも前なので、意識がある状態で行います。
手術台の上で背中を丸めて横になり、先に皮膚麻酔を塗ってから背中に針を刺します。

これが怖いのなんの!

実際には皮膚麻酔が効いているので痛くはないのですが、何かが背骨に入ってくるゴリゴリとした感触?振動?は何となく伝わってくるため、奇妙で気持ち悪いです。

硬膜外麻酔の針を刺し終えたら普通に仰向けになり全身麻酔をかけます。
あとは寝て起きたら手術が終わっているわけなので、私の体感としては一瞬なのですが、どうやら一日がかりだったようです。
朝に始めて夜に終わったので少なくとも10時間くらいはかかったんですかね。

目覚めてからは集中治療室に1日か2日いたと思います。
ほとんどの時間は眠っていて、目が覚めたかと思うと痛みと発熱で唸っているという状態です。
鎮痛剤の点滴を打ってもらったり、自分で注入できる硬膜外麻酔のスイッチを押したりして痛みをしのぎ、また眠りにつくという感じでした。

その後、通常の病室に戻された後は、2つ難点がありました。

1つは、なかなかオナラが出ないこと。
オナラが出ないと麻酔から胃腸の機能が回復したと言えず、腸閉塞のリスクがあるため食事ができません。
空腹感があるのに食事ができないというのが地味に辛かったです。

もう1つは、めまいが激しいこと。
手術ではギリギリ輸血をしなかったので、それなりの貧血がありました。
また数日寝たきりだったこともあり、ベッドを少しでもリクライニングすると立ち眩みのような症状に見舞われました。
術後はなるべく早く歩けと言われていたのですが、めまいによってなかなか歩き出せませんでした。

更に数日経ってめまいが落ち着いたので、あとはひたすら歩くこと!
腹部の傷が痛いですが、それでも歩いた方が傷の治りが早かったり、内臓の癒着が軽かったりするそうなので、頑張って歩きました。
ある日は廊下にやってくる移動販売を目標に歩いていましたが、販売員さんがゆっくり歩くスピードよりも更にゆっくりでしか歩けず、追いつけなくてひーひー言っていたのを覚えています。

この手術のトータルの入院期間は10日くらいだったかと思います。
退院するころには普通に歩けていたと思うので、人間の回復力って本当にすごいですね。
それまでの抑圧を晴らすかのように直後に一泊二日の旅行に出かけるくらいには、元気でした。


金銭的な話

癌の診断が下ったとき、大学生協で加入した共済(現在のCO・OP学生総合共済)が適用されました。

入院に対しては10,000円/日、手術に対しては50,000円?の保険金が出ました。

化学治療(特にBEP療法)の特性上、1コースにつき投薬しているのは7日間のみで、それ以外の14日間の休薬期間の費用は食事代(約600円/日)だけです。

これにより、長期入院となりましたが金銭面は結果的に収支プラスとなり、財布の心配をしなくて良かったのは非常に助かりました。


大学の話

大学2年生の冬に症状を自覚して診断を受けたため、大学3年生の前期はまるまる休学することにしました。
入院中も勉強するかもしれないと思い、いくつかの講義については教授に相談して講義資料を半年分貰いました。

大学3年生の後期に復学し、同期と一緒に講義を受けました。
幸いにも上期の内容が分からないと無理という講義は無かったため、問題なく単位を取得できました。

翌年は大学3年生の前期課程を、1つ下の後輩と受けることになりました。

問題となったのは教職課程で、本来は4年生のときに教育実習に行くわけですが、ダブってしまうと原則その時点で教育実習に行く資格が剥奪されます。
私の場合はやむを得ない事情であるため来年教育実習を受けさせてほしいと教職担当の先生に相談したところ、イレギュラーは認められないと拒否されました。

話が通じないと思い、教職担当の先生ではなく学科の教授に相談したところ、学科の教授経由であらためて教職担当の先生に話がいったようで、なんとあっさりOKされました。
何を言うかではなく誰が言うかが重要だったみたいですね・・・。

後期は再度休学し、就活に向けて様々なインターンに参加しました。
教員免許は取得するものの就職の意志が強かったので、休学期間を有効活用しようと長期インターンを複数受けました。
特に物理科専攻でありながら情報系の道に進もうとしていたので、プログラミングやチーム開発が学べるインターンを狙って参加しました。

さらに翌年は普通に4年生の過程を経て卒業し、無事に就職しました。


友人の話

高校のときに一番仲の良かった友人が、私と同じタイミングで癌と闘っていました。
私は精巣癌で10万人に一人の確率、彼は骨肉腫で10万人に一人の確率、二人合わせて100億分の1じゃん!!と驚きました。

一緒に闘っている仲間のような気がして、非常に心強かったです。
薬の副作用の話なんかを同じ目線で話せる人はなかなかいないですから、不幸中の幸いだったかと思います。

彼が同じ気持ちだったかは分かりません。
というのも、後から知ったのですが、彼の場合は小児癌から始まり大学生のときの闘病は再発であり、さらにステージ3で肺転移まで進んでいて予後も良くないという状態だったからです。

お互いに治療の区切りの良いところで集まり、お酒を飲みながら大学のことや闘病のこと、これから先のことについて語らいました。
商業科だった彼に、簿記や資産運用のことについて教えてもらったことが、今にも活きていたりします。

そしてまた飲もうと約束をしたLINEを最後に、闘病から2年、彼は先に旅立ちました。

私は勝手に、彼の分も生きるのだという気持ちでいます。


その後

リンパ節郭清を終えて、私の治療は一旦終了となりました。

再発のリスクがゼロではないので、しばらくは毎月経過観察の検査、問題なければ数ヶ月に1回、半年に1回と頻度を減らしていきます。

そして治療から9年後の2025年に再発するとは、まだこのときは知る由もありません。


この闘病を経て、価値観や性格が変わった部分があります。

人はいつ死ぬか分からないという感覚が現実味を帯びたので、好きなことややりたいことは声に出すし行動に移すようになりました。
これまで理論寄りだったのがより感情寄りで刹那的になったとも言えます。

退院後に作った曲です。
人間の儚さと脆さの上にある刹那的で切な心の声や温かさに耳を傾けよう、そして誰かに伝えよう、という思いを込めています。


最近の再発についてはまた別で書いていきたいと思います。

この記事が誰かの参考になれば幸いです。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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