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「論」じゃなくて、あなたの考えを知りたい

自分の考えというものを書いていない気がする。いや、書いてはいるのだけれど、土台にあるのは借り物の何か(主に本)で、そこに自分の考えを載せている。そんな私はフォロワーの多い人のポストに自分の意見を書くような有象無象と変わらないのかもしれない。自分を遠目で見るとそんな存在に見えるし、そんな人はなんかなぁ~と冷ややかな目で自己観察してしまう。

ショウペンハウアーが『読書について』という本の中で、読書は他人の思想の運動場というように書いている。たしかにいまの私は、誰かの考えを読んでウンウンうなづき、「はい!そうですね!おっしゃる通り!」みたいにペコペコしている。

というのも致し方ないところもある。なぜなら、SNSでわざわざ「あの本はダメだった」「あの本はクソだった」みたいなことを書くのは憚られる。だからいいところばかりを書くことになる。それは別にお世辞で書いているわけでもない。ただただいいと思ったことを書いているだけだ。しかし本を誉めるこの構図も、SNSのリプ欄に書いているのとなんら変わらない。金魚のフンだ。

『読書について』では、他人の考えに乗っかるのではなく、自分の頭で考えることを提案している。自説を持ち、そのために読書をする。自分が考えていることに対して、その本に書いてあることがどう活かせるのか。あくまでも自分の考えが主で、本の内容は従である。だが金魚のフンである私は、本を主人として敬い、自分をしもべにしている。

だから私が書いている本と本の結びつきというのも、「ご主人様!実は、あなたとお考えが似た者がおりまして...、その者はこう言っております。ですから、非常によい考えかと存じます!」みたいな、主人にペコペコするイエスマン的な存在にすら思えてくる。

それならば「本の要約でもしていた方がマシなのでは?」と思ったのが、それはそれで上からの言葉をただ広く伝えるための誰でもいい人になってしまう。謝罪会見にありがちな、上が作った文章を読み上げるだけの人。記者からツッコまれたら、「この場での回答は控えさせていただきます」と常に問題を先送りにする居てもいなくても変わらない人になってしまう。

今の私はいわゆるおべっかな人なのだが、他人の考えを支える主張をできる頭を持つことは柔軟さにつながるのではないかと開き直ったりする。頑固な人であれば、「それはないでしょ」で終わってしまうが、スッと「こういういいところありますよ~」と提案できるのは魅力的なのではないか。もちろん自分がよいと思う方向性はある。けれども、「いかがなものか?」ということにもいい面はあるわけで、そこに価値を見いだすには物の見方を変える必要がある。

渡邉康太郎『生きるための表現手引き』では、複数人を引用してオリジナリティについて触れている。

ローレンス・J・ピーター
「オリジナリティとは、聞いたことを覚えていながら、どこで聞いたかは忘れてしまう芸当をいう」

ウィリアム・インジ
「独創性とは、発見されていない剽窃のことだ」

渡邉康太郎『生きるための表現手引き』

本で得たこと、つまりは他人の考えが自分の考えとして自然と出てくるのがオリジナリティだと言える。いわゆる血肉化と呼べるもの。だが、私は自分と他人の考えを切り分けることがまだできるから、まだ自分の考えではない。あくまでも人の考えを借りている。

でもショウペンハウアーに反するようだが、人の考えを自分の回路に流すためには、他人の回路の上で走る必要がある。自分の惑星の軌道から他の惑星の軌道はどこにあるのかを見て、「あー、あの人はそこのコースで走ってるのね」と人の道と自分の道の距離感を測る必要がある。他人のルートと自分のルートは合流できるのか。タクシー運転手が、自分の知らない道と知っている道の合流点を探すように、「どこかでつながないだろうか?」と脳内をグルグルさせる必要がある。

ここでも自分の軌道・コース・道が主であり、ひと様の道は従だ。「自分からそこへどうやってつなごうか」が思考の原点になっている。

「ははーっ...!」とへりくだってばかりいると、ショウペンハウワーが言うように自分の頭の考えないバカになりそうだ。この文章は私の考えでしょうか?

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