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汚れとは本質的に無秩序なものである——メアリー・ダグラス『汚穢と禁忌』を読む

これと対照的に衛生学は——我々が自分自身を棚に上げてしまわずにそれを直視することができれば——きわめて優れた手懸りになることが分かる。周知のように、汚穢(ダート)とは本質的に無秩序である。絶対的汚物といったものはあり得ず、汚物とはそれを視る者の眼の中に存在するにすぎない。もし我々が汚物を避けるとすればそれは臆病な不安の故ではないし、いわんや恐怖とか聖なるものへの畏怖といったものからではないのだ。さらにまた、不浄を潔(きよ)めたりそれを忌避したりする我々の行動のすべてを、疾病に関する観念だけで十分に説明することはできない。不浄とは秩序を侵すものだからである。従って汚物を排除することは消極的行動ではなく、環境を組織しようとする積極的努力なのである。

メアリー・ダグラス『汚穢と禁忌』ちくま学芸文庫, 2009. p.33.

メアリー・ダグラス(Mary Douglas、1921 - 2007)は、イギリスの社会人類学、文化人類学者。専門は象徴人類学、比較宗教学。『汚穢と禁忌』における「穢れ」論によって、20世紀の文化人類学を代表する一人として数えられている。

本書『汚穢と禁忌』(原題:Purity and Danger: An Analysis of Concepts of Pollution and Taboo)は1966年のダグラスの著書である。多くの文化の祭式において、本来拒否されるべき不浄なるものが聖なる目的のために使われるのはなぜか。フレーザーからサルトル、エリアーデにいたるまで多くの人類学的成果を吟味しながら、穢れを通して浮かび上がる、秩序と無秩序、生と死、形式と混沌の関係に鋭く迫る一冊である。
「穢れ」とは、秩序創出の副産物であると同時に、既存の秩序を脅かす崩壊の象徴、そして始まりと成長の象徴であり、さらに穢れと水はその再生作用において同一をなすものであると、メアリー・ダグラスは位置づける。

ダグラスはまず、文明社会の一例としてトマス・ハーディの小説中にみられる「よごれ」の観念から出発して、ヒンズー教やユダヤ教の儀式における汚穢(けがれ)といった観念に進み、両者は基本的に同種のものであると主張する。つまり、汚物とは本質的に「無秩序」であり、それは、我々が秩序を創出しようとする際に、その体系に組み込むことができないものなのである。

保健衛生的原理に基づいているといわれる現代人の「よごれ」といった観念は、宗教的もしくは呪術的意味における「けがれ」の観念にきわめて近いものであり、ダグラスの用いるimpurity, uncleanness, pollution, defilement, dirt, filth等々といった語は、究極的にはその両者を等しく含意することになる。
その反対概念についても同様のことが言えるので、現代的意味における「清潔」とは宗教的意味における「聖潔」「神聖」といった概念に重なるものであり、purity, cleanness, sacredness, sancity, holiness等々は、結局この両者にまたがることになる。
したがって、汚穢(けがれ)あるいは聖潔の概念は、それらを生み出した諸観念の総体もしくは体系的宇宙観との関係において、はじめて十分に理解し得るわけである。

例えば、旧約聖書の「レビ記」には食物のうち聖なるものと汚れたもの、したがって食べてよいものと食べてはいけないものが列挙してある。しかしその分類はきわめて恣意的にもみえるため、数々の研究者を悩ませてきた。ダグラスは、このレビ記における食物の分類を、ヘブライ人における聖なるものとは「完全性」の観念に基づくものであるという仮説のもとに、見事に説明している。「レビ記」において浄(きよ)いとされる動物(例:牛、羊、山羊、雄鹿、かもしか、カエル、等々)は、それぞれヘブライ人の宇宙観から発する分類法に完全に妥当するものであるが、不浄とされるもの(例:ラクダ、ウサギ、イワダヌキ、ネズミ、カバ、等々)は何らかの意味でその範疇から逸脱したものであり、それ故一般的宇宙観を混乱に陥れるものであるという。

ポリネシア語に語源をもつといわれる「禁忌(taboo)」なる語は、あるものを神聖または不浄として口にしたり触れたりすることを禁止する風習を指すものである。しかし、この語を用いる限り、「神聖の観念と不浄の観念とがいまだに明確に区別されない、朦朧たる宗教的思考」が含意されてしまう。この事態を避けるために、ダグラスは「嫌忌(abomination)」という語を用いる。このabominateとは「厭う」という意味の語であり、「厭うべき(abominable)」という言葉と、「汚れている(unclean)」は正確には異なるとダグラスはいう。
例えば、先ほどのレビ記の「食べてはいけない」動物たちは、「汚れている」と書かれているのではなく、ただ「厭うべき(abominable)」と書かれている。つまり、「あなたがたはそれを厭うべき」という言葉は、「それらを避けなさい」という命令だと解釈することができる。

つまり、汚穢(けがれ)とは、ある社会にとって本質的に「無秩序」なものを指す概念であり、不浄は秩序を侵すものとして捉えられる。もし我々が汚物を避けるとすればそれは恐怖とか聖なるものへの畏怖といったものからではない。さらにまた、不浄を潔(きよ)めたりそれを忌避したりする我々の行動のすべてを、疾病に関する観念だけで十分に説明することはできない。不浄とは秩序を侵すものだからである。従って汚物を排除することは消極的行動ではなく、環境を組織しようとする積極的努力なのである


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