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ドゥルーズ=ガタリの「内在平面」とスピノザの「知性」の関係——近藤和敬氏『ドゥルーズとガタリの『哲学とは何か』を精読する——〈内在〉の哲学試論』を読む

一度、スピノザの内在の図式を確認しておこう。縦軸には、実体とその変状たる様態がおかれる。様態にたいして実体はその「存在の原因」であり、同時にその諸本質の「作出原因」でもある。いずれも実体が存在するという本質と、その他の無数のそれ自体無限で永遠の諸本質が様態化したものである。それにたいして横軸には、実体の無数の本質を表現する諸属性が並行的に配置される。そして、この属性の本質は「直接無限様態」となり、そこから属性の全体が「間接無限様態」となる。⋯⋯そして各本質の実現は、その個物の「現実的本質」たる「コナートゥス」によって駆動される。
これにたいして、ドゥルーズとガタリの内在の哲学は、属性の明確な区別というものはあまり重視されなくなり(ただし「内在平面」自体は表と裏、すなわち「存在の潜勢態」と「思考の潜勢態」という仕方で区別され、また平面それぞれも思考の三つの「大形式」として区別される)、ひとつの「内在平面」上に、様態の「存在の潜勢態」(存在の原因)と「変状する力」(つまり各本質)が割り振られる。そしてこの平面は、「実体」の代わりに、「カオス」と対峙し、「カオス」の力を引き入れるといわれる。そしてまたこの「内在平面」は、それ自身が多数であることに加えて、その各々においてその有限的部分としての「哲学的概念」を含み、「概念的人物」によって描かれる。さらには、「カオス」と対峙し、それから力を引き入れるのは「内在平面」だけでなく、科学における「指示平面」と芸術における「合成平面」もそうだと言われる。くわえて、各「平面」のうちには固有の逃走線が引かれ、あるいは各平面に固有の「脱領土化」の運動を含み、ある平面から別の平面へと常に移動が起こっている。この巨大化した内在のダイアグラムにおいて、かつて「実体」の位置にあったものは「カオス」となり、実体の変状した様態の位置にあったものは「カオス」を内に含んだものとしての特異な「主体-脳」となる。

近藤和敬『ドゥルーズとガタリの『哲学とは何か』を精読する——〈内在〉の哲学試論』講談社, 2020. p.161-162.

著者の近藤和敬氏は、1979年生まれの哲学者で、専門はフランス現代哲学。大阪大学大学院人間科学研究科博士後期課程単位取得退学。大阪大学博士(人間科学)。現在、鹿児島大学法文教育学域法文学系准教授。主な著書に『〈内在の哲学〉へ——カヴァイエス・ドゥルーズ・スピノザ』(青土社)など。

ドゥルーズとガタリの共著『哲学とは何か』(1991年)は、ドゥルーズ晩年の著書であり、彼の哲学の総決算とも言うべき書である。そこでは「内在平面」という概念の理解が核心にあるのだが、これを理解するのは容易ではない。本書『ドゥルーズとガタリの『哲学とは何か』を精読する——〈内在〉の哲学試論』は、その「内在」あるいは「内在平面」の概念について、哲学史的見地から丁寧に検討し、ドゥルーズ=ガタリの「内在平面」の考え方を丁寧に解説している本格的な一冊である。

序文は「雌性(これせい)」についての問いから始まる。近藤氏が知りたくて、まだその答えを知り得ていない問い、それが「これはいったい何なのか」という問いだというのだ。「わたしに与えられているのは、外的世界でもなければ主観性や心と呼ばれるものでもない。あるいはそう呼んで理論化してみることはいくらでもできるが、それによってはとりこぼされてしまう。⋯⋯「これ」は、いつもわたしと一緒にあり、つねに「そこ」にあるのに、わたしにはまったくわからないし、わかりそうにもない」と近藤氏は述べている。近藤氏がドゥルーズやスピノザを通して考えようとしている問いも、「この「これ」を「これ」の内側にいながらなお徹底して内のままに理解しようとする」試みだと言える。

ドゥルーズ=ガタリの「内在(immanence)」という概念は、主観性と客観性の区別以前の何かを意味しており、まさに近藤氏が述べるような意味での「これ」に相当する何かである。『哲学とは何か』においてドゥルーズ=ガタリは、「内在」を「超越論的野」と関連づける。超越とは何か。それは、デカルトが「コギト」の哲学によって切り拓き、カントが「超越論的統覚」の批判哲学によって大きく前進させ、フッサールが「超越論的現象学」によって確たるものとした現代哲学の正統なパースペクティブではないのか。しかし、ドゥルーズ=ガタリが述べるのはこれとは異なるものである。彼らは、まさに超越論的なものとしての主体という近代哲学の正統的な構想それ自体を否定しているのである。彼らの批判は、「意識の哲学」が「内在」をわがものとして欲し、哲学の出発点としておきながら、つねに「内在」を「この意識への内在」とすり替えることで「この意識」という「超越」を持ち込んでいるという点にある。

では、ドゥルーズ=ガタリがいう「内在」とはどういう意味をもつ概念なのか。彼らが参照するのはサルトルの『自我の超越』(1936年)の議論と、スピノザの『エチカ』における「内在的原因」あるいは表現の論理である。サルトルは『自我の超越』のなかで、主体とも対象とも異なる「絶対的で非人称的な意識」を見出す。そのうえでサルトルは自身の議論を「超越論的意識とは、非人称的な自発性である」という定式にまとめている。
また、スピノザの諸概念との関連も決定的である。ドゥルーズは「スピノザにおいて、内在は実体に内在するのではなく、実体と諸様態が内在のうちにある」と述べる。「内在」とは、概念措定あるいは概念創造という哲学の実践の可能性の条件であり、まさに「実体」や「様態」といった「スピノザ的な概念」が実践的に措定されるその当の場所こそが、「内在」あるいは「内在平面」なのである、と近藤氏は解き明かす。

またドゥルーズ=ガタリの「内在」概念の特徴は、それまで対として想定されてきた「超越」抜きに語られるところにある。「内在」と「超越」を対概念としてとらえるというのは、まったく思想史的にみて常識的なとらえ方であって、ドゥルーズ=ガタリのように「内在」を、「超越」という相関項抜きでとらえようとするほうがむしろ独創的である。彼らにとって、最終形態としての「内在」は、まさにそれがそれ自体のうちにあるといわれるように、いかなる相関項ももたず、スピノザの「知性(Intellectus)」のように、それ自体で立っている概念である。

ドゥルーズは、スピノザには「内在平面」しかないことを認める。それはすべての様態と属性が、「存在の一義性」のもとに、完全にフラットにおかれる「平面」、「ダイアグラム」である。しかもそれは「建設」されるべきものであり、「内在平面」を建設することが、すなわちスピノザ的な生き方を生きることに他ならないとされている。つまり、内在/超越といった二元論はスピノザのうちには認められないということである。つまり、スピノザ的に生きるなら、一切が「内在平面」のうえに配置された生を生きることになる。そこには「組織平面」あるいは「異なるプラン」にたいする一切の譲歩は認められない。その意味で、少なくともスピノザ的生にとって、内在と超越は、まったく相補的な概念ではない、ということである。

「内在平面」における「ひとつの生」は、すなわち「此性」であり、「特異な本質」であり、「純粋な出来事」であり、「超越論的野」であり、「権利上の意識」であるとドゥルーズ=ガタリはいう。これは「神の無限知性」を想定することでみえてくる「内在」の世界である。主体と対象が発生してくる「超越論的野」は、ドゥルーズとガタリの理解では、このような仕方で現実(=地層/組織平面)を逃れることでしか理論的に把握することのできないものである。重要なのは、「内在平面」であり、すべてはそのうえで生じる。わたしたちにとっての「ドクサ」たるこのリアルな現実は、「内在平面」から生み出される「ひとつの超越」と呼ばれることになる。

『哲学とは何か』においては、スピノザの「実体」や「様態」が「内在平面」のうえに置かれると言われることになる。このことは「内在平面」をスピノザの「(無限)知性」とみるのなら、さしておかしなことではない。スピノザは「知性」を「実体」や「様態」の本質を把握するものとして規定していたからである。
ドゥルーズ=ガタリにおいては、ひとつの「内在平面」上に、様態の「存在の潜勢態」(存在の原因)と「変状する力」(つまり各本質)が割り振られる。そしてこの平面は、「実体」の代わりに、「カオス」と対峙し、「カオス」の力を引き入れるといわれる。各「平面」のうちには固有の逃走線が引かれ、あるいは各平面に固有の「脱領土化」の運動を含み、ある平面から別の平面へと常に移動が起こっている。この巨大化した内在のダイアグラムにおいて、かつて「実体」の位置にあったものは「カオス」となり、実体の変状した様態の位置にあったものは「カオス」を内に含んだものとしての特異な「主体-脳」となるのである。


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