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【読書記録 -132】ハリー・ポッターとアズカバンの囚人

ブルーノ・マーズは子供の頃、故郷ハワイでエルヴィス・プレスリーのものまねをしていたそうだ。

その後も彼は、マイケル・ジャクソンや往年のファンク、R&Bを徹底的に研究した。だから彼の音楽は、新しいのにどこか懐かしい。

ボクは音楽理論に詳しいわけではないけれど、彼の凄さは「王道を知り尽くしていること」にあるように思う。だから彼は、何を残し、何を崩せばいいのかがわかっているのだろう。


『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』は、ハリー・ポッターシリーズの第3作目だ。

前作『ハリー・ポッターと秘密の部屋』の書評にも書いたが、ハリー・ポッター作品には様式美がある。

今回も物語はダーズリー家から始まる。
ハリーは相変わらず不遇な環境に置かれ、やがてホグワーツへ向かう。ホグワーツにはクィディッチがあり、授業があり、事件が起きる… 骨格だけ見れば前二作と大きく変わらない。

しかし読後感はまるで違う。
『賢者の石』は冒険譚だった。
『秘密の部屋』は世界に厚みを与える物語だった。
だけど『アズカバンの囚人』はホラーミステリーだ。

シリウス・ブラックが登場する。
読者は当然のように彼を悪人だと思い込む。
しかし、最後には前提そのものがひっくり返る。

ディメンターも同じだ。
読者は彼らを恐怖の対象として認識する。
しかし、この物語はディメンターを退治する話ではない。

J・K・ローリングはそれらを突然持ち込んでいるわけではない。
彼女はまず読者に「いつものハリー・ポッター」を与え、読者を安心させた上で、少しずつ焦点をずらしていく。わざとミスリードするのだ。

敵をずらす。
ジャンルをずらす。
視点をずらす。
そして終盤になると、それまで散りばめられていた複数のミスリードが一気につながる。


ボクは『アズカバンの囚人』を読んで、ローリングの凄さは奇抜なアイデアなどではないと思った。

むしろ彼女は王道を深く理解している。
王道を知らない人は壊すことしかできない。
しかし王道を知り尽くした人は、それを少しだけずらすことができる。

ああ、そう考えると、J・K・ローリングもブルーノ・マーズも同じことをやっているのかもしれないな。

定番を徹底的に学び、その上でほんの少しだけずらす。
だから懐かしいのに新しい。
だから王道なのに飽きない。

それは、ブルーノ・マーズがロカビリーを少しずらすように。
エレクトロ・ファンクを少しずらすように。

そう、『アズカバンの囚人』もまた、王道なのに新しいのである。

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