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手の中の遊園地

県営団地はいつも子どもの声が聞こえていた。昭和40年代のことである。
幼稚園や学校から帰ってきた子どもたちは、「ごはんだよ〜」と呼ばれるまで毎日外で遊んでいた。

敷地内はもちろん、車が通らない道、小川、いつでもどこでも遊び場だった。秘密基地だって作った。喧嘩したって、泣いたって、それは子どもだけの世界だった。

私は幼い頃、持病があり外に出られない日も多かった。そんな日は布団にくるまり、外の声に耳をすませた。
「今日は誰と誰が遊んでる?」
「今日は何して遊んでる?」
楽しそうな声が聞こえてくると、元気な友達がうらやましくてたまらなかった。

病気の間は、りんごを擦りおろしたものしか受け付けなかった。ドラマの食卓シーンやお菓子やラーメンのCMになると、食べたくてたまらず布団をかぶって見ないようにした。

それでも、ひとつだけ楽しみがあった。父が仕事帰りに本を買ってきてくれるのだ。それは、日本昔話の絵本だったり、ディズニーの鮮やかな絵本だったり、「幼稚園」「小学一年生」だったり、年齢が進むと「なかよし」や「りぼん」だったり、小説だったり。

友達と遊べないさみしさを、本が救ってくれた。本の中の世界は、いつも輝いていた。布団の中にいながら、私はどこへでも行けた。本は手の中にある遊園地だった。

大人になっても、本はいつもそこにいてくれた。師になることもあれば、あたたかな友人に、あこがれの人に、心強いボスに、心優しいカウンセラーにもなってくれた。これまで、いったい何冊の本と出会ってきたのだろう。

その中から3冊だけ選ぶとしたら……。
20代のわたしに衝撃を与えた一冊。
10年前、本を手にする喜びをよみがえらせた一冊。
そして、ずっと心の奥にあった夢を後押ししてくれた一冊。

目次
・メメント・モリ ~死を想え~ 藤原新也
・舟を編む 三浦しをん
・文章を書いて、生きていきたい 江角悠子 


『メメント・モリ ~死を想え~』 藤原新也

二十歳の私は、ただただ死が怖かった。
家族や恋人や友人がいなくなると考えただけで、不安で夜も眠れなくなった。死はタブーだと思っていた。

この本は、写真と短い文章で構成されている。ページをめくって言葉を失った。
「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ。」
それは、野犬に食われる人間の死体。インドのガンジス川で撮影された、水葬された遺体を犬が食べている写真。

一瞬、腐敗臭やねっとりとした空気を感じた気がした。咀嚼できないほどの強烈なショックと死の匂いだった。太古の昔からそう決まっていたのだ、という感覚が腹の底からこみあげてきた。生き物は死に、土に還り、別の命に食われる。私も例外ではない。その事実を、写真は一切の言い訳なしに突きつけてきた。恐ろしかった。
そして、なぜか、安心した。

「死体の灰には、階級制度がない」
「遠くから見ると、ニンゲンが燃えて出すひかりは、せいぜい60ワット3時間。」

それから40年が経った2022年。
藤原新也の故郷北九州で、個展「祈り」が開催された。念願だった生の写真と書に、ついに対面した。

モノクロの光と影の中に、生々しいにじむような赤が燃えていた。その赤は、血の色、土の色、命がむきだしになっているようだと思う。
「生きろ、死ぬな」猛々しく、それでいて哀しいほど切実な文字。
藤原新也の父の最期の顔。コロナ禍の人の消えた渋谷。

一枚の写真の前で私は動けなくなった。それは、一輪の蓮の花の写真。今まで見たどの写真より、ただ静かで、ただ清らかだった。その前に立ったとき、ここへくるための40年だったような気がした。
「世界のはじまり。バリ島の山中。無人の沼に半身を浸かり、朝の暗いうちから蓮の花の咲くのを待つ。東の空にあかね色がさしはじめると、それに呼応するかのようにゆっくりと蓮の花が広がりはじめる。世界のはじまりは、こんなにも美しいのかと息をのむ。」


『舟を編む』 三浦しをん


『舟を編む』は長い年月をかけ辞書『大渡海』を作る人達の話だ。

言葉の海を渡るための舟を、生涯をかけて編む。地味で、遅く、根気のいる仕事。ひとつの言葉の定義を、何日も、納得のいくまで模索する。言葉とはそもそも何かを、静かに問い続ける。主人公は馬締光也。名前の通りの、まじめ君である。

本を読んだのは本屋大賞の年だった。
その後、NHK・BSでドラマ化され、毎週楽しみにしていた。ドラマは原作と違って、岸辺みどりの目線で物語が進んでいく。それがまた、新鮮だった。

ドラマを見ながら、胸の奥がツンとした。
昭和から平成、私はコンピュータプログラマーとして数年がかりのシステム開発に参加していた。大阪や福岡からエンジニアが集まり、メーカーが借り上げたコーポを寮にして、20人ほどが一緒に暮らしながら働いた。私は自宅通勤だったが、女性は1人だった。チームでひとつのものを長い時間かけて作り上げる開発室の空気が、辞書編集部と重なって見えた。私にもそんな時間があったことを思い出した。当時はCOBOLというコンピュータ言語と向き合っていた。言語は違えど、皆でひとつのものを作り上げる過程は、どこか似ていた。

ことばをいい加減に使う人が、私は苦手だ。
ことばの誠実さに憧れている。

人に対しても、仕事に対しても、ものに対しても、自分に対しても、自分が発することばに対しても、誠実でありたい。

この本を読んで、紙の本がますます愛おしくなった。紙の感触、てのひらで感じる重さ、ページをめくる音、余白に残った染み。データにはない、時間の蓄積がそこにある。



『文章を書いて、生きていきたい』 江角悠子



還暦の年、えいやっ!と申し込みのボタンをクリックした。私といえば、石橋を叩いて叩いて、叩き壊して渡らないタイプである。人見知りで、新しい場所に飛び込むことが苦手だった。それが、どうしたことか。
申し込んだのは、著者の江角さん主催のZINE制作講座だ。

この本を読んで、私も参加してもいいのだと、自分に許可を出すことができた。それまでは、作家やライターや成功者や著名人が書くものだと思っていた。

「素人でも公開していい。 たったひとりのために書いていい。 感情に不正解はない。 自分のやりたいことを、自分にやらせてあげる。書いて、しあわせになる。 そして、最高の死をむかえるために、書く」
ひとつひとつのことばが、すとんと落ちてきた。

年齢的にも先送りにしている場合じゃない。それでもなお、不安だった。「自分の文章を本にしたい」、そんな個人的な思いだけで、ついていけるのだろうか?

いよいよ講座がはじまり、江角さんが最初に話されたのは、「自分も他人も否定しないこと、1人で抱え込まないこと、チームで作ること」

講座はそのとおりの安心安全な場所だった。自分のエッセイと同じ重さで、仲間のエッセイに向き合った。18人で一冊のZINEを作る時間は、かけがえのない濃密な時間だった。気がついたら、辞書編集部の空気を、私も知っていた。

私は自分の背中を押してあげられた。
石橋を渡ったのだ。

仲間と作ったZINE『書いてみつけたしあわせ』。自分のエッセイが、誰かの手に渡る本になった。その本が、今私の手の中にある。

ZINEは軽い。江角さんのZINEはいつもかばんの中に入れている。コーヒーのしみもページの折れも愛おしい。私のバイブルだ。



子どもの頃から、本はいつだってそばにいた。これからも、きっとそうだろう。『手の中の遊園地』は、今もまだ続いている。


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