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短編小説 言葉を植える花屋さん 第7話

雨の降る朝、いつもと同じはずの通勤路で、彼はふと立ち止まった。
目に入ったのは、記憶の奥にふれるような静かな花屋。
そこには、幼い日の「また会おう」という約束を、そっと咲かせてくれる花があった。
声にできなかった想いが、水色の花になって、胸の奥でひらいていく——

傘の中の約束


雨が降っていた。
 ぽつぽつとアスファルトを叩く小さな音に、湊は足を止めた。
 傘を持たずに飛び出した朝。時間ぎりぎりのはずなのに、彼の足取りはどこか緩やかだった。
 通勤で何度も通っているはずの道。けれど今日は、路地の奥に見慣れない花屋が目に入った。



 蔦の絡まる木の扉。「ことばの花屋」と手書きの看板。
 古びた木の棚には、小さな鉢植えがいくつも並んでいる。
 どこか、遠い記憶の奥にある風景に似ていた。

 吸い寄せられるように扉を開けると、ちりん、と鈴の音が鳴った。



「いらっしゃいませ」
 奥から現れた店主は、やさしい目をした女性だった。
 湊は傘も忘れて濡れたまま、ぼんやりと店内を見渡す。
 木の温もりと花の香りが、体の芯まで沁み込んでくるようだった。



 湊はしばらく黙って店内を見回してから、ぽつりとつぶやいた。
「……昔、傘の中で約束したんです。雨の日に、また会おうって」



 その言葉に、千尋は微笑んでうなずいた。
「その想い、咲かせてみませんか?」

 差し出されたのは、白い鉢と銀のスコップ。
 湊は少し戸惑いながらも、それを受け取った。



 思い出したのは、小学校の帰り道。
 家が近所だった沙耶と、よく一緒に帰っていたこと。
 放課後の公園でブランコを取り合ったり、秘密基地を作ったり、砂場で未来の地図を描いたり。
 何気ない日々のなかに、彼女はいつもいた。



 ある日、突然の雨にふたりで一つの傘を差しながら歩いた。

 「また会えたら、同じ傘に入ろうね」

 それが、沙耶が転校する前の日だった。
 制服の袖を握りしめるような、あの小さな指のぬくもりだけが、妙に鮮明に記憶に残っていた。



 連絡先も知らず、卒業と同時に離れ離れになった。
 ずっと気にしていたわけじゃない。けれど、雨が降るたびに、ふと思い出していた。
 あのときの約束を覚えているのは、自分だけかもしれない。でも、それでいいと思った。



 その想いが、少しずつ胸の奥からあふれてくる。
 土の中に静かに沈んでいくように、銀のスコップがすくったものが、鉢の中に溶けていく。



 そして、小さな水色の花が咲いた。
 透明感のあるその花びらは、まるで雨粒がかたちになったようだった。
 まっすぐで、けれど少し震えるような光をまとっていた。


「……もう、向こうは忘れてるかもしれません。でも、あの日の自分に、応えたかったんだと思います」



 湊はそっとつぶやいた。

 千尋は花に目をやりながら言った。
「想いが残っている限り、約束も消えません。たとえ、時間が経っても」



 しばし沈黙が流れたあと、千尋はふと、店の奥を見やった。
「そういえば……私にも、小さな約束がありました」

 湊が顔を上げると、千尋はほほえんだまま続けた。
「『いつか、あなたの花を見に来るよ』って言ってくれた人がいたんです。その人が来るかはわかりません。でも、その言葉を信じて、今日も花を咲かせています」



 湊はガラス瓶に花を収めると、そっと胸に抱えた。
 手のひらに伝わるぬくもりが、どこか懐かしかった。



 店を出ると、雨はいつの間にか止んでいた。
 濡れた道に、街灯の光が反射して揺れている。
 雲のすき間から差すわずかな陽の光が、瓶のなかの花をやさしく照らしていた。

 信号を渡りながら、湊はふと空を見上げた。
 流れていく雲の切れ間に、青空がのぞいている。
 風はまだ冷たかったけれど、胸の奥に灯るものが、静かに背中を押していた。


「もし、また会えたら——そのときは、渡したいな」



 湊はそう言って、小さく笑った。

 千尋は静かに、その背中を見送った。
 温室の片隅では、同じ色の水色の花が、静かにそよいでいた。







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