「天使が棺を捨てる日に」第八話

 ヨハンの太腿の上に、向かい合う形でフィフスが座っている。フィフスの肌は相変わらず白かったが、もう血の通わない青さではなかった。
「その……静かなのが、怖くて。昨日までは、そんなことなかったのに」
 フィフスは俯いた。ヨハンの視界では、彼女の透き通った儚げな白髪が呼吸に合わせてさらさらと揺れている。ヨハンはフィフスと一日一度は顔を合わせていたのだが、改めて見ると初めて会った日より大分髪が伸びて、より女性らしくなったと感じる。
「じゃあ、今日は眠くなるまで何か話していようか。なら、そうだな――」
 ヨハンはやや呻ると、話題を思いついたようで、ぱっとフィフスを見た。
「フィーは、飯は好きか?」
 フィフスは飯と聞いて、難しい顔をした。口から摂取する食事は好きだが、レーションは好きではない。しかしフィフスにとって経口食といえばあの銀袋に包まれたレーションしか知らないので、好きな要素と嫌いな要素を天秤に乗せた結果、なんとか食事は好きな部類に入りそうだった。
「……どちらかと言えば。でも砂っぽいのは好きじゃない」
「それはあのクソ不味い栄養食の話だろ? 他にも色々あるって言っただろ?」
「例えばどんな?」
 フィフスは顔を上げてヨハンのヘルメットの、瞳がある辺りをじっと見た。
「色々あるけど、俺も実はそんなに食べたことはないんだ。あんまり裕福な家に生まれたわけじゃないからな。大体はフレークとか……まあ味がマトモになったレーションみたいなのが殆どだったんだけど……そうだな……鶏の卵って食べたことあるか?」
「鶏の卵? 見たことも無いよ。知識としては知ってるけど」
 鶏卵はこの時代においても一般的な食材ではあった。ただし鶏を始めとした家畜の飼育は清浄な環境、つまりはマクスウェル汚染のない地域に限られ、必然的にヨハンのような下流階級の人間には手に入りにくい物だった。
「昔、俺が子供だった頃、流行り病に罹ったことがあってさ。大人も死んでるような病気だったから親が心配して、俺のために買ってきてくれたんだ」
 フィフスはこれまで生きてきて、他人の人生に興味を持ったことはない。普段接する天使たちが自らとそう変わらない出自なのを知っていたからだ。たまに視察に来る神官たちの装いは清潔で華やかな暮らしを思わせる代物だったが、それに憧れや欲求も一切抱かなかった。
 そのフィフスが初めて、興味を持った。自分とは関わりの無い他人の人生、そのほんの一部分を耳にして、フィフスはもっとヨハンのことが知りたくなった。
「知ってるか? オムレツって言う料理なんだけど……卵を焼いて、固めた物でさ……俺が食べたことのある料理だと、オムレツが一番美味かったな」
「その料理は知らないけど……それで、その、大丈夫だったの?」
 フィフスとしてはオムレツとやらもやはり気になったが、ヨハンがその後どうなったのかはそれ以上に気になっていた。
「俺? その後はすぐ良くなったよ。なんとかね」
「そう……」
 ヨハンはこうして生きているのだから、大事に至らずに済んだことはわざわざ尋ねるまでもなく分かりきっていた。それでも彼の口から何ともなかったと直接聞いて、フィフスは胸を撫で下ろしたように吐息を漏らした。
 フィフスは勝手に緊張し勝手に一息ついたかと思うと、改めて食事の話に食い付いた。
「オムレツは、どんな味がするの?」
「甘かったよ。柔らかくて、野菜なんかも一緒に入っててさ……」
 余程思い入れがあるのだろう。ヨハンは熱が入ったように当時のオムレツについて語り、フィフスもまたそれを熱心に聞いていた。
「オムレツは、多分好きだと思う。食べてみたい」
「なら――生きて、食いに行きなよ」
 ヨハンの話し振りは、勝手知ったる友人へ向けたそれのようでフィフスは弾むような心地になった。自らが気を許したように、彼もまた心を許してくれているのが嬉しかった。
「行きたい。そのときは、ヨハンも――」
「……いいよ。一緒に行こうか」
 フィフスはヨハンの顔を見たことが無い。ヨハンと言われて頭に思い浮かぶのは、彼の黒一色のヘルメットだ。しかし今はフルフェイスの無機質な黒から、穏やかな声の色彩が感じられる。今のフィフスには微笑みを湛えているヨハンの顔が、目に浮かぶようだった。
「そういえば、やっと名前で呼んでくれたな」
「そう、だっけ」
「多分ね。俺が聞き逃してなければ。あと、君が俺のいないところでこっそり俺の名前を呼んだりしてなければ」
「してないよ!」
 フィフスは思わず大声で否定した。フィフスは大人になりきれないくらいの子供にしてはとても大人びた空気を纏わせているのだが、今の声だけを聞けば見た目相応の少女のようだった。
「ごめんよ。揶揄っただけだから、そう気にしないで」
 ヨハンは悪戯っぽく笑った。
「今度はフィーが話してくれよ。俺の話ばかりになっても面白くないし」
「私は聞いているだけでも面白いよ?」
「そうじゃなくて、俺が聞きたいんだよ」
「そう言われても……」
 フィフスにとって、ヨハンの話は全てが目新しく、地続きの世界だとは思えない面白さがあった。対して、フィフスの世界とは即ち天使の世界である。製造プラントと用途別の従軍経験、そして軍事行動の成果だけが彩る生涯、それが天使と呼ばれる者たち――そして、天使だった物たちの全てだった。
「あまり面白くないと思うよ」
「それでも、俺は君のことが知りたい。何も一から百まで全部話してくれってんじゃない。話せないことは、話さないままでいいからさ」
 それなら、とフィフスはぽつぽつと語り始めた。
「私たちが、製造されるのは知ってるよね」
「まあ、何となくな」
「じゃあ、そのあとどれくらいで天使になれるのかは?」
 ヨハンは頭を振った。
「私たちは、一年間の試験運用を経て天使になる。けど試験運用中に出来が悪いと分かれば、すぐに廃棄される」
  フィフスは自らの過去を振り返っているのだろう。感情の乗らない声だった。

「私たちは、一年間実利を示し続けて、漸く生体として扱われる。天使という名の、生体コンピューターとして。兵器を運用するための、機転の利く、優秀で美しい、それでいて替えが利く、生体コンピューター。それが天使。私たちは、生きるために自分の有用性を示し続ける必要があるの」
 天使と呼ばれる者たちは、心の内に恐怖を抱く。死の恐怖である。しかし天使たちは、死そのものが怖いのではなかった。自らの価値を下げることに、強い抵抗と忌避感を感じているのだ。フィフスもまたその例外ではなかった。
「自分の価値を証明して、皆それを誇りに死んでゆく。戦死でも、寿命でも。私は今、稼働して五年目なの。知ってる? 天使は、長く生きても十年が限度。テロメアが短いから」
 ずっとフィフスの声に感情が乗っていない理由に、ヨハンは気づいた。諦観だ。諦めの念が、天使の悲嘆に何も感じずにいられるよう、麻酔をかけているのだ。天使として生を得たならば、生きてゆくには己の価値の証明が不可欠であり、生きたとしても寿命の壁がある。その現実を直視して耐えられる者が、どれほどいることだろう。
 諦めるしかない死の訪れを感情に乗せようと思えば、きっと夜通し泣き叫んでも終わらないほどの悲しみが濁流となって襲い来る。涙と鼻汁と嗚咽と慟哭、来る日も来る日もそれらに苛まれることになる。しかし天使にそのような暇は無い。だから彼らは感情を抑制するのだ。フィフスも他の天使たちと同じように感情の吐き出し口に蓋をして、何も感じないようにしてきたのだろう。そしてそれに慣れている。
 ヨハンは、はっとした。一時間ほど前、フィフスが撃墜された日の恐怖に戦慄いたのは、その吐き出し口の蓋が外れかけているからではないだろうか。
「皆、自分の終わりを知っている。だから、それまでを必死に生きる。B国の象徴として、戦闘に勝って、自分たちの価値を証明して、いつか死ぬ日に、せめて自分の生を誇れるようにするの」
 おそらくそれが、天使たちが持つ唯一の欲求なのだろう。来る死まで輝かしい生を送ること、それが天使たちに許された――残された人間性に違いない。彼らは物として廃棄されるのではなく、天使として名誉ある死を欲している。
 ヨハンが自らの内で推測した言葉の数々が、彼自身の胸を打った。その空しさに、同情を感じずにはいられなかった。
「その……私は一般的な天使だったから、今の話を参考にしてもらえればいい、かな。あと、5thって呼ばれていたことと、第百四十一独立小隊所属だってことと……これくらい。私が話せるのは」

 話の重さに比べ、フィフスが悲しみに暮れている様子はなかった。ヨハンとしては、それが救いだった。
「フィー、話してくれて、ありがとう。色々とね」
「別に。面白かった?」
「君の言う通り、面白くはなかった。けど、君のことが知れて嬉しいよ」
 正直な気持ちをヨハンは口にした。これから死にゆく者として、彼女のことが知れたのは、ヨハンには嬉しいことだった。
「フィー、その……抱き締めてもいいかな?」
「え……?」
「ごめん。嫌なら止めておく」
「……違う。嫌じゃない。驚いただけ。さっきまでしてたんだから、またしたらいい」
 フィフスは腕を広げる。細く小さな身体を、機械に包まれた重厚な腕が抱き締めた。ヨハンの強化外骨格に、触覚はない。しかし彼女の身体のしなやかさを、感じられるような気がした。
「ヨハン。この中に、腕はあるの?」
 フィフスはヨハンの腕を擦りながら問う。
「無いよ。ついでに言うなら、君の乗っている足もね」
 A国の兵士に機械義手や機械義足を付けた者は珍しくなかった。尤もヨハンのように四肢が全て無い者はそういなかったが、A国では前線の兵士の確保のため兵士の身体の機械化に支援金を出しており、負傷した兵士が身体を機械化する例は多かった。ヨハンも身体を初めて機械化したのは、撃墜された際、ひしゃげたネイスの内壁に両足を潰されたからだった。
「でも、口や胃はあるんでしょ?」
「あるよ。一応ね」
「顔、見てみたい」
「それは……止めておいたほうがいいな」
 ヨハンの言葉にフィフスは顔を曇らせた。個人的な繋がりを欲しているのは、彼女の中の人間性だろう。だからヨハンは止めさせた。
「どうして?」
「ボロボロなんだ。君みたいに綺麗じゃない」
 フィフスの中の天使ならばまだしも、人間性が彼の顔に何を思うかを考えれば、あまり見せたいものではない。美醜の物差しに個人差があったとしても、ヨハンは自身の顔が万人にとって見るに堪えないことを分かっていた。

 そんなこと関係ないのに。フィフスはそう言おうとして、ぐっと呑み込んだ。フィフスにとって当てはまらないことが、ヨハンにも当てはまらないとは限らない。彼にとって顔を見られることがどれほどの苦痛なのか理解できない以上、安易に顔を晒させることは彼を傷つけることになるかもしれない。
「そう、なんだ。私はあまり気にしないけど、ヨハンが嫌なら、無理にとは言わない」
「そうしてくれると助かるな」
 フィフスはヨハンに身体を預け、彼の胸元に耳を当てた。心音は聞こえない。強化外骨格の厚みが、彼の人間らしさを閉ざしているようにも思えた。
「ヨハン?」
「何?」
「明日から、ここで寝よう?」
 フィフスの甘えた声が、ヨハンには年頃の少女のそれに聞こえた。
「いいよ。そうしようか」
 ヨハンの言葉に安堵したのか、フィフスは一つ吐息を漏らすと、煤で汚れるのも構わずにヨハンの胸に頬を擦りつけた。ヨハンの身体を覆う強化外骨格は機械類の塊だ。心音が遮られるのと同じように、ヨハンの体温が外骨格を温めることはない。外骨格が適度に温かいのは、駆動する機械類が熱を持っているからに過ぎない。しかし例え正体が機械の発熱だとしても、フィフスはそこに人間の温もりを感じていた。今日だけではなく明日も、明後日も、その先もこうして人と触れ合いながら眠れる。そう考えただけで、フィフスは胸の内にじんわりと何かが湧きあがるように感じた。ヨハンの手を握って感謝を伝えたい。彼の言うオムレツとかいう食べ物を一緒に食べてみたい。しかしそうした感情表現をしたくとも、気恥ずかしくて言い出すこともできないような、矛盾した心情に駆られている。これが何なのかフィフスには分からない。考えるより今は、ただ熱を感じたかった。

 二人だけの世界に、ざあとノイズが鳴った。マクスウェル汚染地域では通信が妨害されるため、離れた友軍機と通信した場合などにはこうしたノイズが鳴りやすい。しかしこの街に、ヨハンのネイスに通信を送る相手などいないはずだった。
『こちら……送機……型の昆虫……』
「輸送機だな。虫に襲われたらしい」
 通信元が近づいてきているのだろう。次第にノイズの割合が減り、単語くらいは聞き分けられるようになってきた。フィフスがこの街に来てから遭遇したことはないが、汚染地域において一部の昆虫が進化を遂げ、積極的に人を襲うようになった例は各地で報告されている。
「A国の回線だよね? 助けにいく?」
「……民間機だとしても、そんな義理はないな。軍用機なら猶更さ」
『当機はコールドスリープ装置を……敵機……』
 通信の内容が徐々に明らかになると、ヨハンは一層救助に向かう気が失せた。A国においてコールドスリープ装置は金持ちの道楽に使われることが多い。実際は環境や生物の保護に用いられることもあるのだが、前者の使い道が悪目立ちしているのが現状であった。
 B国にだけコールドスリープ装置が存在しないはずはないが、どうやらフィフスは知らないようだった。
「コールドスリープ装置?」
「知らない? 生き物を冬眠させる機械さ。大金持ちが絶滅危惧種を冬眠させて観賞用にするんだよ」
「冬眠させて、どうするの?」
「さあ。鑑賞用なんだから、見るのが主だろうけど……中には美人を入れて、いつまでも若いまま飼う奴もいるって噂だぜ」
 その場合の用途は鑑賞ではないのだろうが、ヨハンは付け加えるのは止めておいた。
「人間も入れられるってこと?」
「らしいよ」
 ヨハンは不愉快そうに答えた。A国は前時代的な階級社会であることが知られており、ヨハンはその中でも下流階級の出身だった。上流階級の富豪たちを好ましく思っていない彼の姿勢が、その言葉には込められていた。
「悪いな、こんな話して。あまり面白くなかっただろ?」
「面白くはないけど、知らないことを知れるのは、いいことだよ」
 フィフスは無邪気に答えた。フィフスほどではないにしろ、ヨハンにも理不尽を押し付けられた過去はある。それを思い起こすと血肉の内に沸々と怒りが湧いてくるのだが、世界の邪を映したことのないような瞳に真っ直ぐ見つめられ、毒気を抜かれるのは無理からぬことだった。
「……君と知り合えて良かったよ。本当に」
 ヨハンはこの世界が嫌いだった。金と権力と、それを握る生まれが人生を決定付けるような世界が。生きることも、自らに生命が宿っているから仕方なく生きているだけだ。積極的に死のうとは思わないだけだ。それでもフィフスがいてくれれば、世界を呪いながら死ぬことは避けられそうだった。
「私も、その……」
 ヨハンに会えて良かった。そう言いたくてたまらないのだが、フィフスがヨハンと出会ったのは、天使5th撃墜されていたからこそ起きた奇跡である。言うまでもなく天使にとって被撃墜は屈辱だ。彼女の中の天使が、素直に言葉を続けるのを一瞬躊躇わせたが、フィフスの思いはそれに打ち勝った。
「ヨハンに会えて、こうして話ができて、良かったよ。本当に」

「そろそろ寝よう。明日に堪える。煩いなら通信回線切ろうか?」
 ヨハンが回線のスイッチに指を掛けると、フィフスの白い手が彼の腕を掴んだ。
「情報が無くなるのは良くないから、このままでいい」
「そっか。じゃあ、このままにしとくよ」
 ヨハンはスイッチから手を離し、フィフスの頭を抱き寄せる。A国の輸送機は未だに喧しく通信を送ってきているが、ヨハンは無視しフィフスもそれに倣った。
「それじゃあ、おやすみ、フィー」
「おやすみなさい……ヨハン」
 地下施設の一室は幸いなことに殆ど一定の室温に保たれている。しかし例え適温であれ、一人でいるにはあまりに広い空間だった。一人で眠る日は、孤独に凍える夜になる。フィフスもヨハンもそのことは嫌というほど知っていて、しかしもう一人分の温もりには手を出せず、これまでずっと耐えてきた。この夜はフィフスとヨハン、二人が二人分の温もりを感じて眠る初めての夜となった。

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