「天使が棺を捨てる日に」第四話
「それじゃあ、フィー。俺はこれから君に現状を説明する。まず君はその棺桶を寝床に使ってくれ。この部屋のフィルターは壊れちまったからな」
ヨハン曰く、この空間は生きた大型フィルターのある部屋だったが、先の戦闘で破壊されてしまったらしい。現状フィフスの機体のフィルターは生きているが、穴が塞げていないので、使用できないのだという。
「元よりそのつもりだ。他には?」
「薬と食料はしばらくの間心配いらない。ただフィルター液がもう無くなりかけてる。だから探しにいかないといけない」
「では勝手にしてくればいいだろう」
「そうもいかない。この街での探索にはそいつが欠かせないからな」
ヨハンはフィフスの乗ったネイスを指差した。
「ネイスか」
「ネイス? ああ、棺桶のこと。正式名称で呼ぶ奴は久し振りに見たよ。まあとにかくネイスが必要なんだ。今日はもう遅いからいいけど、明日は俺も乗らせてもらうよ」
「拒否する」
「いや拒否すんなって。フィルターは君にも必要だろう?」
「……私が操縦する。生体認証だけ解除してくれればいい」
「あー。そういうことね」
男は空いた手を顎に当て数秒沈黙すると、意を決したかのように頷いた。
「分かった。それでいこう」
「それじゃあ、明日からは今言った通りの流れで。食料と薬は……予め渡しておく。コックピットの開閉にロックは掛かっていないはずだ。開けてくれ」
ヨハンはそう伝えると、ポーチから瓶と数本の棒状レーションを取り出した。瓶には錠剤が入っている。
「そういえばフィー。君、いくらなんでも痩せすぎだ。贅沢できない身分とはいえ、それじゃあ身が持たないぞ。しっかり食べたほうが――」
「余計なお世話だ。しかし、なんだ……それは?」
「鎮痛剤。一回一錠から。即効性はないけど――」
「そっちじゃない。その……棒? は……? 危険物じゃないだろうな」
「危険物なんかじゃないよ。食料だ。似たようなの見たことない?」
ああ、と声を漏らすと、ヨハンはポーチからレーションをもう一本取り出した。銀色の包装を剥き、フルフェイスのヘルメットを少しだけ上へ持ち上げると、レーションを一口頬張った。暗がりということもあり、彼の口元はフィフスには見えなかったが、レーションが一口分齧られた形跡は見て取れた。
「な? 毒なんか入ってないし、ちゃんと食えるから。味は……まあ、保証しないけど」
「固形は初めて見た。というか……何をした?」
「え。食べただけだけど。固形は初めてって、ずっと流動食だったわけ?」
「いや、私の知る食料は液体だけだ。普段は完全栄養食を静脈注射している」
「えー! いやそれ食事じゃないでしょ。いやあ、どこの兵隊も大変ですなぁ」
大袈裟に驚くヨハンに、フィフスはこれまでの常識を否定されたような気がして、内心やや不貞腐れた。
「こちらのやり方にもメリットはある」
「メリット? いや、人間としてのデメリットの方が大きいでしょ。やっぱ食事は口から取らないとさあ。まあ、試しに食べてみなよ」
ほら、とネイスのすぐ前で急かすヨハンに、フィフスは根負けしたかのように渋々コックピットを開いた。フィフスとしては今襲われればひとたまりもないため極力接触を避けたかったのだが、ヨハンの言動がそうした警戒心を薄れさせたのだった。それに食料が無いと困るというのは事実だったし、彼の物言いは訓練を受けた交渉人という雰囲気もしなかった。仮にこれで襲われたのなら、自らの過ちを呪いながら死ぬだけのことだ。あまり天使らしい最期ではないだろうが、仕方がない。そう自らに言い聞かせフィフスは内心の怯えを悟られぬよう薬瓶とレーションをヨハンの手元から奪い取ると、すぐにコックピットを閉じた。それでもマクスウェルに汚染された空気は、一瞬のうちにコックピット内に入り込む。フィルターが作動しタンク内でごぽごぽと鳴っているのが、震えるフィフスの耳に聞こえた。
「それじゃあ、俺はその辺で休むから。何かあったら声をかけてくれ」
ヨハンはフィフスから離れ、床に転がる細かいコンクリート片を何度か足で払うと、そこに座り込んだ。器用に口元だけヘルメットから出して、フィフスと同じレーションを齧っている。機嫌を良くしたのか、鼻歌まで歌い出した。
フィフスはこれまで生きてきて、物を食べるという行為をしたことがなかった。胃や腸を始めとした内臓は全て通常の人間と同じように備わっているため、口から食料を摂取することは可能なはずだったが、天使は食事を摂ることをしないのが文化的な常識だった。活動に必要な栄養素は全て、注射によって補う。死ぬまでそれを繰り返す。例外は無い。少なくともこれまでは。
フィフスは疑惑の目を持ったまま、銀色の包装を破り捨てると、薄茶色をしたレーションに齧りついた。
「……? 砂の味がする……?」
フィフスはこれまで食事をしたことがない。故にフィフスの舌が知っているのは、水と不意に口に入ってしまった物の味だけだった。
初めての食事を終えたフィフスは、いつまでも口の中に砂の欠片が残っているような気がして、歯の表面を何度も舌でなぞっていた。これをいつも食べているのか、とヨハンの味覚を疑うと同時に、ともすれば自らの味覚が異常なのではないかという疑念を抱いた。
「どうだ? 美味いか?」
「いや……その……」
美味しいはずがない。しかし食料を都合してもらった手前、フィフスはあまり強く言えずにいた。
「不味いだろ?」
「そっ……! そう、そうだよな。これは美味しくはない」
「だよな。クソ不味いよな。俺もいつもそう思いながら食ってるよ」
フィフスは自らの味覚が彼と同じであるということに安堵すると共に、不思議な感覚に陥った。ヨハンがヘルメット越しに笑っているような気がしたのだ。人に笑いかけられた――のかは分からないが、少なくとも好意的な声音は、これまで生きてきて初めて聞いた気がした。
暫くヨハンの様子を見ていて、フィフスはあることが気になった。
「そういえば、お前はそこで大丈夫なのか?」
ヨハンは人間だ。フィルターの無い空間で長時間過ごすのは、長い目で見れば自殺と変わらない。短時間であればよいというわけでもないが、社会的地位の低い者たちは汚染空間での労働を強いられる現実がある。ヨハンが日常的にフィルターの外で仕事をするような人間だったとしても、この機体は彼の物だったはずだ。フィフスは自らがヨハンからフィルターのある空間を奪い取ってしまったのではないかと、気になったのだった。
「俺? 俺は大丈夫だよ。見えないから分からないだろうけど、身体を殆ど機械化してるから、汚染の影響は受けない」
「そう、か」
フィフスは一瞬でも気を許しそうになった自分を内心で叱りつけた。そもそもこのコックピット以外にフィルターの効いた空間はない。この男はまだ信用ならないのだ。自分を生かしておく理由が、何かあるはずだ。フィフスは疲労ですっかり回らなくなった頭と身体を座席の背凭れに預け、深く息を吸い込んだ。
天使が捕虜となった場合、通常の尋問の範疇を越えて、暴力的で尊厳を踏み躙るような拷問に掛けられる例も少なくない。ヨハンに問いかけた時、彼をコックピットに招き入れるべきだろうかという考えが脳裏を過ったが、それは明確な誤りだ。フィフスは自らの思考を整理すると、律するように冷たい声で言い放った。
「ではお前はそこで寝ていろ。私はここを使わせてもらう」
「分かってるって。それじゃあな。おやすみ」
