「天使が棺を捨てる日に」第六話
雲の向こうで太陽が沈み、暗雲が一層その昏さを増してきた頃、幸いなことに穴の開いた壁も屋根も無事な廃墟に、一人の人間と一機のネイスの姿があった。
ネイスがリフトに乗り込んだのと同時に人間が壁のレバーを下げると、がこん、と音を鳴らしてリフトが降り始める。
「今日も収穫はナシ、か」
ヨハンが文句を垂れながら、リフトに飛び乗ってきた。最初はリフトの運用に驚いていたフィフスも流石に慣れた様子で、ぼやくヨハンをネイスのコックピットから窘めた。
「食料が見つかっただけマシ。それに衛生品もあった」
衛生品は前線において特に貴重な品だった。例え質の悪い安物であってもドライシャンプーやウェットティッシュなど身体を清潔に保つための衛生品は、生身の人間には有難い。
「そりゃあそうだけど、衛生品なんかフィー専用なんだから、俺にとってはないも同然だよ」
ヨハンはヘルメットの後頭部に手を当てながら、またもぼやいた。
「別に私が独占しているわけじゃない。お前も使えばいいのに」
「二人で分けるほどの量はないだろ? 君が使いなよ」
そうこう言っているうちにリフトが下へと降りきると、リフトの板が押しのけた風が砂や埃を辺りに舞わせた。ヨハンとフィフスはいつも通り壁の崩れた一室へ向かい、いつも通り休むことにした。
「そういえば、怪我の具合はどうだ?」
工具箱を開いたヨハンが、溶接機の手入れをしながら尋ねた。たった一月で治る怪我ではないのは初めに手当てを行った彼が一番よく知っているのだが、フィフスは初日から一貫して問題ないと強がるので、様子を尋ねるのがヨハンの日課になっている。
「問題ない。昨日も言っただろう」
そして昨日と同じ返事をするのがフィフスの日課であった。一方ヨハンはフィフスの声の様子で、今日の探索による疲労や、怪我の様子を探る。二人は街に繰り出すようになってから、毎日このやり取りを続けている。
「今日も手当ては自分でできそうか?」
「当然だ。昨日までもそうしてきただろう。それにもう殆ど出血はない」
フィフスは墜落した翌日から、傷の消毒などの医療処置を全て自ら行っている。ヨハンが信用できなかったということもあり、フィフスはずっとネイスの中に籠りきりだった。唯一外気と接するのは、その日に得た物資をヨハンから手渡しされる瞬間だけだった。
「それよりも私が気になるのは、お前が治療を理由に私に触ろうとすることだ」
「別に下心があってってわけじゃないんだぜ? 俺はフィーの体調を思って――」
「こうも苦しい言い訳は聞いたことがない」
言いながらもフィフスは今日の分の食料に手を付け始めた。何度食べても砂の味しかしないので、フィフスは一度この世に存在する食べ物は実は全て砂の味なのではないかという誤った妄執に囚われかけたが、ヨハン曰くこの世には砂以外の味がする食事も存在するらしい。
フィフスにとって経口摂取する食事は、静脈からの注射に比べ要する時間や手間の部分で劣る上に決して味覚が喜ぶものではなかったのだが、頬張って咀嚼するという経口摂取の工程の方が生きているという感覚が得られて好きだった。ただしどうしても天使にしては品に欠ける気がして、口に物を入れる度に感じる恥じらいには、未だ慣れずにいる。
「フィー、今日の飯はそんなに美味いか?」
「何度も言っているように、美味しくはない」
「でも、今鼻歌歌ってたぜ?」
ヨハンに指摘されて初めて、フィフスは自らが鼻歌を歌っていたことを自覚した。フィフスは確かに食事を楽しみしていたのだが、特別嬉しい出来事があったというわけではない。
「私が、歌を?」
「ああ。何の歌なのかとかは知らないけど」
「……何の歌でもない、と思う」
何よりフィフスは音楽など祖国の国歌と一部の宗教歌しか聞いたことがない。それらの曲も思い入れがあるというよりは、教養として知っている程度のものであり、思わず歌い始めるほど好んではいなかった。実際フィフスが歌ったのは、彼女の知るどの歌でもない。
「そっかそっか。まあ鼻歌なんてそんなもんだよな」
「そうなの?」
「まあ何かの曲のリズムを歌う人もいると思うけど、そんなん別にいいんだよ。自分が気持ち良ければそれでさ」
ヨハンは適当に同調したわけではなく、至って真面目だった。まだたった一月ではあるものの、ヨハンにとってフィフスはここ数年で最も濃密な会話をした相手だ。不誠実な真似はしたくない。
「そういうものなの? 歌って予め旋律や歌詞が決まっているものなんじゃ」
「そういうのもある。けど、そういうんじゃないのもある。本人がご機嫌なら、それが一番さ。全部が全部、教本に書いてある通りが正解じゃないんだぜ」
フィフスは人間の人間らしい文化的な部分にこれまで触れたことがなかった。天使に不必要な物は一切身に着けず、それは知識という点でも同じことだった。故にヨハンの発言は彼女にとってある種天啓のようなものであり、フィフスという一個人のほんの一部分における、紛れもない肯定だった。
「そう、か。お前がそう言うからには、そうなんだな」
ネイスの中を外から見ることはできない。しかしいつもより少しだけ弾んだような声音を聞いて、フィフスの緩んだ表情がヨハンには見える気がした。
