「天使が棺を捨てる日に」第九話
戦場の悲鳴も届かない寂寞の地下施設、無人の街に築かれた瓦礫の丘の下で、二人の人間が寝息を立てている。メーデーをひっきりなしに喚くスピーカーが二人の眠りを妨げるに至ったのは、遠い東の雲と地平線との間に太陽が差し掛かってからのことだった。
『メーデー! メーデー! メーデー! こちら輸送機……号。生物の襲撃は解決したが、B国のネイスに鹵獲されつつある! 位置は北緯…………グリッド42付近。救助されたし! 繰り返す!』
訓練された天使にとって、睡眠は次の任務のための準備でしかない。天使の睡眠は彼ら自身の整備に当たる行動だが、緊急時にはすぐに目を覚まし直ちに次の行動へ移る必要があった。
しかしフィフスはそうした規律に縛られた生活から離れて一月になる。物音の煩い環境でも眠れるのは天使の訓練の賜物だろうが、喧しいスピーカーに脳を覚醒させ瞬時にネイスの操縦へ移れないのは、天使としては失格でも人間としては仕方のないことと言える。実際に先に目を覚ましたのは、ヨハンの方であった。
「――フィー、起きて」
ヨハンがフィフスの肩を揺すると、フィフスのさらさらとした白髪が彼の手の甲をくすぐった。ヨハンの機械義手に触覚はないはずだったが、無くした腕に髪のしなやかさが感じ取れる気がした。
「……ごめんなさい、ヨハン。どうしたの?」
フィフスは一度強く瞬きをした。ヨハンから答えを聞くより前に、明瞭になったフィフスの脳がメーデーの通信を理解する。
「君の仲間がこの街に来ている。もしかすれば、戦闘か脱出をしないといけないかもしれない」
ヨハンが言い終わった瞬間に、唸るような轟音と揺れが地下施設を襲った。フィフスの背に寒気が走る。地上でネイスが発する音と、その衝撃によるものだと気づいたからであった。
「仲間? 天使の部隊が来ているってこと?」
「おそらくな。念のため聞いておくけど、帰るつもりは?」
「……私は、帰っても……居場所がない、と思うから……」
フィフスは言葉に詰まった。その先を口にするのは普通の人間にとっては簡単なことかもしれないが、彼女はその短い人生の殆どを天使として生きてきた。それが、続く"帰らない"の一言を妨げている。しかしフィフスの沈黙は否定も同然で、ヨハンもそれに気づかないほど女の気持ちを汲めない男ではなかった。
「分かった。大丈夫だ、フィー。仮にここを脱出することになっても、俺が操縦す――」
ヨハンの言葉を遮ったのは、するはずのない水音、そして湿った咳だった。
水は前線において最も重要な物資の一つである。故に無駄遣いは許されず、水音がする場面といえば、水分補給と排泄、そしてフィルター液の交換くらいのものだった。しかしフィルターの作業は昨晩終了したばかりで、フィフスとヨハンは言わずもがな水分補給や排泄の最中というわけではない。
異変を感じ取ったフィフスが彼のヘルメットを見上げると、ヘルメットと強化外骨格の隙間から、黒々とした液体が流れ出ているのが見えた。驚きのあまりフィフスは声も出ず、動けないでいる。そうしている間にも液体は強化外骨格の表面を伝って、ヨハンの身体と密着していたフィフスの指にも触れた。液体は彼女の人差し指と中指の間に少しだけ水溜まりを作って、次に白い手の甲を伝った。そして漸く、その液体の正しい色が、赤だと分かった。
血液だ。そう気づいた瞬間に、強烈な鉄の臭いがフィフスの鼻の奥を刺した。すぐに血だと分からなかったのは、黒一色の強化外骨格が血の色を隠していたからだった。
咄嗟にフィフスは彼から手を離し、自らの手のひらを見た。赤い。フィフスは血には慣れていた。尤もここまでの流血を直接見たことはそう多くないのだが、ほんの一月前まで食事は全て注射だった上、処理される天使の行く末がどのようなものかを映像で見たことがあった。だから慣れている、はずだった。それでも手のひらを赤く染める彼の血を見て、フィフスの全身を痺れに似た怖気が襲った。
「ヨ、ヨハン! 血! 血が!」
ヨハンの、笛の音に似た細い息が、またも水の絡むような――おそらくは血の絡んだ咳によって遮られる。そのまま数回咳き込むと、ヨハンは意を決したように力んで、フィフスの腕を掴んだ。
「フィ――フス。よく聞くんだ」
「喋らないで! 治療……止血するから! 確か、止血ゲルが……」
フィフスは掴まれていない片手で、救急用の止血ゲルを探ろうとしたが、ヨハンは彼女の手を身体ごと引き寄せた。
「実は、俺も君とお揃いなんだ。普通の人間ほど、長く生きられない」
「いいから! 後でちゃんと聞くから! ヨハン、手を離して!」
止め処なく流れるヨハンの血液が、フィフスのパイロットスーツを汚してゆく。フィフスの悲痛なまでの説得にも、しかしヨハンは頑として頷かなかった。
「……いいんだ。君と会う前から、俺の身体は限界だった。汚染の影響でね。悪いけど、今日の操縦はできそうにない」
ここ数日の間、フィフスはヨハンにある違和感を抱き続けていた。尋ねてもヨハンが都度否定するものだから、気にしないようにして内心に秘めていたのだ。ヨハンに手足がないことは知っている。しかしそれは裏を返せば、それ以外の部位は存在するということでもある。顔も、口も、消化器も。
ヨハンは言っていた。身体を機械に置換しているから、汚染の影響は受けないのだと。確かに機械化した部位は汚染とは無縁のはずだ。だが、残る肉体はどうだろうか。もし仮に彼の強化外骨格やヘルメットに空気などを遮断する性能があるのなら、強化外骨格を着ている間は汚染されないということも有り得るかもしれない。しかし国の支援を得て漸く手足の機械化が可能になるほど貧しい人間が、そうも高性能な強化外骨格を買い揃えられるものだろうか。おそらく不可能だ。それに彼は、外気の中食事を摂っていた。ヘルメットを少し上げるようにして。つまりヨハンはフィフスがネイスに乗っている間中ずっと外気に晒され続け、汚染を受け続けていたのだ。フィフスの胸に、刺すような痛みが走った。
考えていても仕方がない。一刻を争う事態だということは火を見るより明らかだ。兎にも角にも、出血は止めねばならない。フィフスはヨハンの手を振り切って、治療を施そうと必死になった。ヨハンが大人の男だとはいえ、こうも弱った状態ならば振り切れる。しかしヨハンの機械義手は、主の脳が発する信号を忠実に守り続けていた。
「分かった! 分かったから離して、ヨハン!」
少し考えれば気づけたはずだった。ヨハンの残された肉体が、汚染の影響を受けることに。本当にヨハンがフィルターを必要としないならば、彼の機体のフィルターなどとうに涸れていなければおかしいのだ。しかし実際にはフィフスが乗るようになってなお、一月分程度の余剰があった。譲り渡す前日まで、彼はネイスの中で過ごしていたのだろう。
そうしたいくつもの矛盾に、フィフスは気づかないふりをした。出会った当初はヨハンの生死などどうでもよかったから、真面目に考えもしなかった。気を許してからは、彼の言う事を真に受けることでしか、現実を受け入れることができなかったのだ。
「……じゃあ、やっぱり……ここ何日も、食事も摂ってなかったの?」
ヨハンは頷いた。数日前のことだ。ヨハンは食事が腹から逆流するようになった。胃の中の物を吐き出すと、レーションの他に血と灰色をした筋のような肉が混じっていた。マクスウェル汚染患者の末期症状、臓器の死が始まりつつある証拠だった。ヨハンはその日に、自らの死期を悟った。
「君が気に病むことはない。俺は……俺は、君に出会った時点で、いつ死ぬか分からない身体だった。それがたまたま今朝だったというだけさ」
ヨハンの話を切り上げてすぐに治療をしたいという気持ちと、話を聞いてやりたい気持ちが、フィフスの中で鬩ぎ合う。彼を救いたいのは勿論だった。自らが彼の死期を早めたという責任感もある。しかし命を賭してヨハンが伝えたいことを聞き届けなければならないという使命感もまた、フィフスの中で激しく吼えているのだった。
ヨハンが喋れば、その分だけ血が流れた。フィフスのパイロットスーツは胸から股にかけて、既に血塗れとなっている。痛いのは彼のはずだ。フィフスの怪我など、もう大したことはない。にも拘らず共感がそうさせているのか、フィフスは心臓の近くに強い痛みを感じ続けていた。
ヨハンは、フィフスに望みがあった。だから彼女を介抱し、彼なりに手厚くもてなすことにした。肌で分かるほど残り僅かな命を削ってまで、フィフスに頼みたいことがあるのだった。ヨハンはずっと前から死の覚悟ができているが、フィフスはきっとそうではない。この状況でフィフスが動揺することも、自分を助けようとすることも理解できる。だからこそ、フィフスには話を聞いてもらわねばならないのだ。ヨハンは彼女の腕を掴んだまま話を続けた。
「元々死ぬのが、半年後だったのが、一月後になるか……それくらいの差でしかないんだ。だから気に病むな。それよりも、俺は君に――た、頼みたいことがある」
ヨハンは血を垂れ流しながら、必死にフィフスへ言葉を紡いでいる。フィフスはそうした彼のヘルメットを――丁度その瞳がある辺りをじっと見つめ返し、腕を握る彼の手の上に自らの手を重ねた。
「いいよ、なんでも頼まれてあげるから……死なないで」
フィフスの喉に力が籠る。囁くようなか細い声が、絞り出された。
「俺が死ぬまで、一緒にいてくれないか」
ヨハンは気を失いかけていた。耳鳴りが強く、自らが言おうとしたことを正確に喋れているのかすら、定かではない。言うまでもなく、フィフスの声ももう聞こえてはいない。
「俺は君を初めて見たとき、本当に綺麗だと思った。天使みたいだって」
ヨハンはヘルメット越しに、フィフスの顔を見つめた。フィフスは、どうしたら良いか分からず、ただ彼の言葉を聞くことしかできずにいる。
「君の所属や生まれが、天使だからとか……そんな下らない理由じゃなくて……と、とても美しい人だと思ったから」
フィフスは十二分に可憐な顔立ちをしていた上、それをある程度は自覚していた。そう設計されたものだとしても、ヨハンに快く思ってもらえるならこの姿に生を受けた甲斐があったとも思っていた。美しいとか、可愛いとか、褒めてもらえる日を密かに楽しみにもしていた。しかしこのような形で聞きたくはなかった。否定の言葉も、喉をつかえて、出てこない。
「どうせ、死ぬな――ら……君みたいな人に、看取られたい」
感情は、人間の最も人間らしい要素の一つだ。即ち人間ではない者たち、天使には不要な成分の一つだった。生体コンピューターに求められるのは、下された命令を遂行することだけだからだ。さりとて天使にも感情はある。従ってそれを抑制するのが天使に必要な資質だった。
フィフスも例に漏れず、感情を落ち着かせることに長けていた。また天使として着任していた以上、自負もあった。そういった意味では、フィフスはもう天使としては、使い物にならないのだろう。フィフスはヨハンの言葉を聞きながら、泣いていたからだ。涙は感情の象徴だ。フィフスの綺麗な瞳から、滝のように涙が溢れ返った。フィフスは死にゆくヨハンの言葉を聞いて、人生で初めて泣いた。
フィフスが泣いている。ヨハンには、涙で潤んだ彼女の瞳が宝石のように煌めいて見えた。綺麗だ。そう呟いた。
「嫌だ! 嫌……ヨハン、お願いだから死なないで……一緒にいてほしいなら、いつまででもいてあげるから……だから……」
ヨハンは彼女が何を言っているのか、何となく分かる気がした。死なないでと願ってくれているのだろう。他人にここまで慕われるのは、ヨハンには初めての経験だった。しかし目の前の健気な少女の願いを裏切ることは、もう確定した事実なのだ。ヨハンの胸に、底知れぬ罪悪感が湧いた。酷かもしれないが寧ろそれ故に、伝えるべきことは伝えねばならない。
「……俺が、死んだあとも、君は……この機体を使える。生体認証が必要な――ときには、俺の義手を使って、解除して。君も操縦して気づいただろうけど、この機体は旧型だし、重い。でもその分装甲は厚いし、さっきまで上で鳴っていたような機関銃くらいの……口径の弾じゃあ、びくともしないはず、さ。逃げるだけなら、こいつでもやれる」
ヨハンが途切れ途切れに話す間も、銃声は鳴り止まない。不意に、フィフスの腕を掴む機械義手に、力が込められた。
「フィー、君も……君も、幸せに生きろ。寿命が、テロメアが、なんだ。金はかかるが、そんなもんいくらでも伸ばせる。こいつを使って、金を――稼……いで、幸せに、生きろ。それが、俺の――」
ヨハンの機械義手から、握力が抜けた。フィフスの腕をすり抜け、座席の肘掛けへと落ちる。
機械義手は、脳の信号を受け取り生来の手と同じ働きをする。フィフスの腕を握って離さなかった機械義手から力が抜けたということは、ヨハンの脳が機能を停止したということに他ならなかった。
フィフスは息を荒げて泣いた。泣いている場合ではないのはよく分かっていた。それでも堰を切ったように涙が止まらないのだ。一月前の墜落の怪我など非ではないくらいに、胸の奥が痛くて堪らない。終ぞ息だけでは収まらず、声を上げて泣き始めた。ヨハンの名を呼びながら、彼の身体を何度も揺すった。その度に血が跳ね、フィフスの顔にも、髪にも、赤い斑点を作った。
ひとしきり泣いた後、呼吸を整え始めたフィフスは、ヨハンのぐったりとした様を見ているだけで、どうしたら良いか分からなくなった。合理的で理性的な行動が取れない状態にある。にも拘らず、何でもよいから行動に移さずにはいられなかった。
強化外骨格の分解などしたこともないが、フィフスは試行錯誤しながらなんとか右の機械義手を取り外した。彼の一部が、フィフスの細腕に重く圧し掛かる。しかし取り乱してばかりではいられない。ヨハンの脳は腕へ信号を送らなくなった。それでもまだ、気を失っただけかもしれないではないか。脈を取らぬことには、確かなことは言えないではないか。フィフスはその一心で、彼の腕を傍らに置き、機械義手の接続面――彼の肩部を見た。
ヨハンの腕は肩の先から失われており、肌には機械義手と接続するための機械が埋め込まれていた。機械を取り囲む肌は、灰色だった。皮膚もまた汚染を受ける。この色は、そういうことなのだ。一月前はもう少し血色が良かったのだろうか。そう思うと、きっとまた動けなくなる。フィフスは不安を拭い去るように一度強く目を閉じ、開いた。フィフスは決心と共にヨハンの固い肌に触れ、腋窩の脈を探った。
元はといえばフィフスは、ただ不安を拭うために、ヨハンがまだ生きているという仮定を信じ切り、彼のバイタルサインを測ろうとした。信じる者は救われる。既に天使の資格を失くした者にすらそう宣うのであれば、この荒涼とした世界に生きる人々も、神とやらを多少信じてやってもよいのかもしれない。
脈があった。通常のそれより早い。血を失ったことで全身の組織が血を欲して、鼓動を早めさせているのだろう。曲がりなりにも天使の教育を受けたフィフスには、それが理解できた。そして彼が今際の際にいるということもまた、確かだと分かった。
