「天使が棺を捨てる日に」第七話
戦場の主役となったネイスは、これまでの兵器と大きく異なり人工知能によるコントロールが不可能とされている。ネイスは動力をマクスウェルに頼っており、マクスウェルは揮発性が強かった。少なくとも現行のエンジンの運用では、環境中に飛散することは避けられず、大気中に溶け込んだマクスウェルは電磁波に干渉し、通信を障害した。そのためネイスの部隊には、本部との通信が途絶した環境でも任務を遂行できるだけの独立した意思決定能力が求められた。それがネイスに人工知能が搭載されない一番の理由であり、パイロットが必要な理由でもあった。
ネイスのパイロットスーツに求められるのは、パイロットを保護することである。パイロットの損失はネイスの損失に直結し、非常に高価な兵器であるネイスは、それ自体を保護するためにパイロットの保護を必要としていた。しかしながら実際は墜落によるパイロットの死は免れぬことの方が多い。それだけにフィフスの生存は奇跡的と言えた。
フィフスはB国の天使、つまりは下級兵士である。パイロットスーツも天使用の一般的なものを着用していた。衝撃に対する防護は十分な仕様だったが、それは他の機能を犠牲にした上で成立しているものだった。天使のパイロットスーツは衣服として上下に分かれておらず、着脱も容易ではない。それはつまり寒暖差に弱いことを意味しており、ネイス外での活動を想定していない造りと言っても過言ではなかった。
「ん……」
フィフスは決して広くはないネイスの中で、手際良くパイロットスーツを脱いでいった。ヨハンがモニターに映っているが、フィフスに抵抗感は無い。フィフスからヨハンを見ることはできてもヨハンがネイスの中を見通すことは不可能だし、何よりフィフスはネイスの中で裸になることに慣れていた。彼女が属していた部隊には男性もいたが、衣服の着脱は個々のネイスの中で行われるため、機体の外に他人がいる状況で全裸となることは少なくなかったのだった。
裸体となった自分を、フィフスは改めて眺めた。傷に発熱は無く、目に見える範囲では化膿している様子はない。黒みがかった青色をしていた内出血の痕跡も、大分黄色味が増してきた。治ってきている証拠だ。
「私はまだ――」
戦える。そう言おうとして、フィフスは竦んだように身体を強張らせた。フィフスは熱心な天使だった。真面目で戦闘の成績に秀で、特に機体の細やかな挙動を得意としていた。
しかしこの状況から元の部隊に合流したとして、私は生きてゆけるのだろうか。その疑問が、フィフスの白い背中に薄ら寒いものを運んできた。
少し、寒いな。フィフスは唇の隙間を通して、吐息と共に囁いた。フィフスはなんとなしに己の両肩を抱き締め、擦った。指先に髪が触れる。大分伸びたな、などと思いながら、フィフスは自らの髪先を指で弄った。
腕が当たって、座席の横に引っかけた袋が、がさりと鳴った。食料と薬、そして衛生品が入っている袋だ。それを聞いてフィフスは、今日の収穫、衛生品の存在を思い出した。多少肌寒い思いをしようと、使わなければ勿体ない。早く使って、傷の消毒をして、服を着てしまおう。フィフスはウェットティッシュで身体を拭き、使い切りのドライシャンプーで髪を洗った。洗い始めて少しして、フィフスは思わず顔を顰めた。シャンプーの刺激は頭部の傷によく滲みるようだった。それでも手早く全身を洗い終えると、すぐさま器用にパイロットスーツを着て、垢に汚れて乾いたウェットティッシュと空になったドライシャンプーの容器を、レーションの銀袋と共に袋に纏めた。
「おーい、フィー」
自分を呼ぶ声がして、フィフスはモニターを見た。カメラの映像には、片手を振りながら近づくヨハンが映っている。
「……何?」
「その機体、そろそろフィルターが限界だろ? 君の機体の修理はこれからも継続するけど、正直なところまだ暫く時間がかかりそうだから、君の機体のフィルターを拝借してきたんだよ」
ヨハンはフィルターのタンクを手に、フィフスに語り掛けた。中に入ったフィルター液がお構いなしに揺れ、一人で運ぶには聊か以上に重そうに見えた。
「交換、するから……一旦コックピット、開けてくれる?」
喋りながらヨハンはタンクを一度両腕で抱え、勢いをつけながら肩に担ぎ上げた。
「あ。そういえば、もう着替え終わってる?」
「終わってるよ……フィルターの交換をするなら、一声かけてくれれば私がガレージまで行ったのに」
言いながらフィフスはコンソールを弄り、コックピットを開いた。同時にいくつかのロックを解除すると、座席背部のフィルタータンクが音を立てて外れた。
「よいしょ、っと。失礼」
ヨハンはコックピットハッチの端に足を掛け、フィフスのいるコックピットに入り込んだ。ヨハンが座席にまで近づくと、フィフスは再びコンソールを弄りコックピットを閉じた。作業中の余計な汚染を避けるため、外気の流入は最低限にしなければならないからだ。
フィルターは座席の裏側にある。ヨハンはフィフスのすぐ傍に片膝をつき、倒れ込むようにして座席の裏側に上半身を滑り込ませた。殆ど空になったフィルターの横に、フィフスの機体から持ってきたフィルタータンクを置き、作業を開始する。フィフス一人でさえ広いとは言えないコックピットに彼女より一回りも二回りも体格の良いヨハンが入り込んだことで、フィフスはヨハンの作業中ずっと内壁に押し付けられ、文字通り肩身の狭い思いをしていた。
「……まだ?」
「もう終わるよ」
言い終わるや否やヨハンは上半身を捻りながら、座席の裏から戻ってきた。空のタンクを手にしている。座席は作業中ヨハンに占拠されてしまったため、フィフスはスイッチだらけの肘掛けと壁の隙間に埋もれていた。それを見たヨハンはフィフスに、何故そんなところにいるのかと尋ねようとしたが、すぐに自分の所為だと気がついたようで謝り始めた。
「ああ、ごめんごめん。古いタンクだから中々上手くいかなくてさ」
「別にいい」
墜落してからというもの、フィフスはヨハンのネイスで寝泊まりしてきた。貴重な医療資源を使ってもらい、治療も受けた。フィフスにとってみればヨハンは命の恩人だ。しかしあの日生体認証のロックがかかっていなければ、フィフスはそうと知らぬうちにその恩人を殺していたことだろう。それがフィフスの中で、言いようもない恐怖心を育てつつあった。ヨハンに食料と薬を手渡された際に、襲われるかもしれないと思いながらコックピットを開けたのは、フィフスにとってはもう遠い過去の話だった。始まってたった一月の共同生活ではあるが、フィフスはヨハンに気を許し始めていた。
「もう、食事は摂った?」
「俺? もうお腹いっぱいだよ」
フィフスはここ数日、ヨハンが食事をするところを見ていない。フィフスの記憶が正しければ、ヨハンがこの部屋で食事を摂らなくなったのと、彼がガレージでフィフスの機体の修理に勤しみ始めた時期が一致するように思えた。
「本当に?」
「ああ。それよりそんな狭いところにいないで座席に座りなよ。すぐに退くからさ。今日の作業はここまでにして、明日に備えよう」
フィフスはコックピットの内壁側から座席の前に戻った。何か言いたげな、少なくとも上機嫌ではない表情をしている。フィフスはヨハンの脚を跨ぐように立っており、彼女の視界には座席に腰かけたヨハンの全身が映っている。出会ったときから何も変わらない煤けた強化外骨格が、フィフスには厭に草臥れて見えた。
棺桶などと呼ぶ者もいる狭いネイスの中で、フィフスとヨハンが向き合っている。言葉はなく、ヘルメットを被ったヨハンに至っては視線の先すらも定かではなかったが、しかし互いに見つめ合っていることが知覚ではない部分で理解できていた。二人分の呼吸に混じり、二人分の言外の意思がコックピット内の清浄な空気に滲み出ていた。
次の瞬間、低い呻りと地面を叩くような音が振動と共に二人に届いた。フィフスはこの街に来てから初めて聞く音だったが、ヨハンには聞き慣れた響きだった。地上の戦闘音である。
「また棺桶同士がやり合い始めたらしい。ちょっと、我慢してくれな」
ヨハンは立ち上がっていたフィフスを座席に抱き寄せた。フィフスに立っていられると、座席に腰かけたヨハンからは、コンソールに手が届かないのだった。ヨハンは手慣れた様子でコンソールを弄り、フィルターのタンクをロックすると、ネイスを片膝をついた姿勢から立ち上がらせた。
「これは……ネイスの戦闘の音なの?」
「多分ね。君が来てからは一度もなかったけど、この辺りじゃそう珍しくもない」
抱き寄せられたまま、フィフスはヨハンに身を委ねている。ヨハンはこのネイスの所有者だ。危機的状況を乗り越えた場数が、自分とは異なる。この状況ならば、そうしたほうが懸命だとフィフスは判断したのだった。
地上の音が直接、地下空間へ届くことはない。地上で発せられた振動が、瓦礫の山や土の層を通じて、二人の元へ音として届いているのだ。二人の聞く音は地上で実際に鳴っている音よりも小さく低く、しかしそれぞれの音の特徴から何の音なのかくらいは何となく想像ができた。耳を澄ませば、機関銃の発射かあるいは落下した薬莢が地を叩くような音と、ネイスのスラスターらしき音が、聞き分けられる。
ヨハンの膝の上で、フィフスは身体を震わせた。恐怖から来る震えだった。怖いと感じた瞬間に、そうと悟られぬように身体を強張らせたつもりだったが、無駄だった。
「フィー、君……震えてる?」
フィフスは肯定も否定もしなかった。否、できなかった。返事をする余裕も、首を振って意思を伝える余裕も無かった。フィフスは撃墜されたあの日の、警告音と風を切る音、そして何も感じなかった当時の自分を思い出していた。あの時は冷静だった。自らの死を受け入れることができた。しかし今、堰き止めていた感情が遅れて溢れ出したかのように、不安と恐怖がフィフスの中を搔き乱しているのだった。ネイスのコックピットの暗がりが、裂けた装甲から垣間見た、暗い地表に見えた。ヨハンの強化外骨格の煤けた匂いが、焼ける市街を思い起こさせた。コックピットの静けさが、音もなく墜落した瞬間の記憶を脳裏に繰り返し再生させているのだ。フィフスの顔が青ざめて、呼吸が荒く、細くなった。
「大丈夫。大丈夫だ、フィー。ここには敵はいない。分かるな? 敵はいない」
ヨハンでも座席でもなく、内壁の向こうを見つめるフィフスを、ヨハンはできる限り優しく抱き締めた。安心させるような言葉を掛け続け、吐き気を催して丸まる小さな背中を擦り続けた。それが暫く続いた後、次第にヨハンの言葉に耳を傾けられるようになったフィフスは、小さく大丈夫とだけ口にした。
「そうだ。大丈夫だよ、フィー。怖いものはどこにもない。そうだろ?」
ヨハンが声をかけ続けて一時間ほどが経とうという頃、フィフスは漸く落ち着きを取り戻した。その間フィフスは涙を流すことは無かったが、何度も吐き気に襲われ、その都度猫背になりながら嘔吐に耐えていた。
「……ごめんなさい。もう本当に大丈夫」
「本当か?」
「嘘じゃない」
ヨハンから身体を離してフィフスは言った。
「なあ、フィー。君、俺のことはまだ信用できないか?」
ヨハンに子供はいない。恋人を作るほどの生活の余裕もなかった。大人になってから誰かと枕を共にしたのは過酷な訓練の最中、狭い塹壕に何十人と詰め込まれた日の夜くらいしかない。
そのため女や子供が弱っている時の経験則など持ち合わせてはいなかったが、しかし彼女の言葉が強がりであることは簡単に見抜けた。
「そんなことは、ない。信用していないなら、コックピットには、乗せない」
吐き気を催さぬよう、フィフスはできるだけ穏やかに喋っている。
「その――」
「それなら――」
二人が同時に切り出した。フィフスがやや俯いて聞く姿勢を見せたので、ヨハンは言葉を続けた。
「それなら、今日は俺もここにいていいか?」
フィフスは戸惑った。誰かと共に過ごした夜など、今まで一度も無かったからだ。しかしそれ以上に嬉しくなった。ヨハンの言葉は、たった今フィフスが提案しようとしていたものと同じ内容だった。
返事代わりに、フィフスは小さく頷いた。
