「天使が棺を捨てる日に」第三話
従来の方法より遥かに優れた効率のエネルギー産出を可能にしたマクスウェルと呼ばれるその鉱石は、人類にとって新たな光であり大きな闇でもあった。極めて強い環境汚染性と毒性を併せ持つマクスウェルは、しかし莫大なエネルギーの源であり、様々な国家がこぞってマクスウェルの利用法を模索した。当然ながらその毒性から身を護るための術もまた、エネルギーの利用法と共に発展し、フィルターと呼ばれる大気の清浄化を図る装置が開発された。二槽のタンクからなるこの装置は、フィルター液を注げば大気の代わりにフィルター液が汚染される原理を利用している。そのため定期的なフィルター液の交換は清浄な空気を維持するために不可欠であり、マクスウェルの鉱脈があるというだけで栄えてきたこの街などには、大型のフィルターが部屋ごとにあるのが常であった。
しかしながらA国に属するこの街の鉱脈はB国との戦争によって奪われ、奪い返され、それを幾度となく繰り返した。戦禍によって街はその機能を維持できなくなり、今は鉱脈の他には瓦礫の山と辛うじて残った廃墟、そして入り組んだ地下施設が残るばかりである。男の住処はそうした地下施設の一室にあった。
思わず呻るような疼痛が、少女の目を覚ました。少女は自らが暗く狭い空間に寝転がっていることを悟ると、視線だけを動かして周囲の様子を見た。コンソールやモニターの、淡い静かな灯りだけの暗室。ここがネイスのコックピットだということはすぐに理解できた。同時に、自軍の機体ではないということも。
少女は直前の記憶がはっきりとしていた。汚染地域に墜落したのだ。あれからどれほど経過したのか、戦闘は敗北に終わったのか、そこまでは分からないが、状況から見て同胞に救出されたわけではなさそうだった。その割には頭部やら肩部やら、色々な箇所に包帯が巻かれている。あの高さから墜落して命があっただけ奇跡に近いが、次いで助命の処置を受けたとなれば、この幸運を与えたもうた神に感謝すると同時に、警戒心もまた湧いてくるというものだ。
少女は固唾を飲んだ。自らが敵国の捕虜となった可能性を覚悟したからだった。尋問や、あるいは拷問、さらには非倫理的な凌辱も、これから起こりうるものとして頭の片隅に置いておくことにした。でなければ、貴重な医療資源を消費してまで自分を生かしておく理由など、無いはずだからだ。
しかし、ここはネイスのコックピットだ。それは間違いない。幸いなことにフィルターもまだ生きているようだ。カメラの視野に映るのは崩れた壁、コンクリートの粉を被ったテーブル、破損した大型フィルター――少なくとも動くものは見当たらない。死角に敵兵が潜んでいるかもしれないが、最早そうしたことを言っていられる状況ではない。
自国の機体ではないとはいえ、ネイスはネイスだ。ある程度のインターフェースは共通している。少女は脱出を決心し、自らをネイスに乗せた敵兵の不用心を心の内で馬鹿にした。しかし決意とは裏腹に、少女の腕は言う事を聞かなかった。このネイスの内装は少女の機体よりもやや大型で、座席に凭れかかったまま操縦桿を握るのは難しい。身体を起こさなければならないが、そうこうしているうちに背凭れから身体を起こすのすら辛くなってきた。
拉致された可能性からくる緊張が痛みを和らげていたのだろうと、少女は予想した。しかし痛みを理由に諦めるわけにはいかない。早く身体を起こし、ここから逃げ出さなければ――。
少女は叶う範囲で姿勢を変えるといくつかのレバーを操って、待機状態の解除を試みた。
「おーい。あまり勝手に動かすなよ。まあ、動かせないと思うけど」
声の主が姿を現したのは、崩れた壁の方向だった。人型で、全身を黒一色の機械で覆っている。人型のドローンなど珍しくもないが、しかし意思を感じさせるその佇まいから人間が強化外骨格を着込んだ姿なのは明白だった。
人間が立っている。人間は何らかの工具を持って、フルフェイスのヘルメット越しに少女のネイスの、カメラアイを見た。
訳の分からぬ状況で、自らの存在を認識した何者かが、こちらを見た。少女にはそれだけで、その人間が敵に見えた。少女は搭載されている装備を使おうと、咄嗟に両腕を動かした。
この際、銃でも剣でも何でもよい。武器ならば、何でもよい。兎に角この敵兵を殺さなければならないと、少女は固くロックされたコンソールを必死に動かそうとした。しかし、どれも動かない。レバーを握る手に力を込めれば込めるだけ、肘の関節がずきずきと痛んだ。
「ボロいからセキュリティも何もないと思ったか? 俺の生体認証が無いと動かないよ」
強化外骨格からくぐもった男の声がした。少女の腕から力が抜ける。
「ほら。観念してコックピットを開けろ」
「……拒否する。機体を動かすことができずとも、B国の天使として私はここで籠城を継続する」
少女はネイスのスピーカー機能をオンにして、得体の知れない敵兵にそう主張した。怪我の程度を悟らせまいとした力強い口調だった。
「籠城……? その中で?」
男は呆気にとられたのか、少女とは打って変わって間抜けな声を出した。フルフェイスのヘルメット越しに、その呆けた表情が透けるようだった。
「意味の無いことは止めてくれ。俺は君に危害を加えたりしない。表の瓦礫の山からここへ連れてきて、手当てしてやったのは俺なんだぜ?」
「……敵兵の発言には耳を貸さない」
少女は極力無感情そうに、男を拒絶した。
「敵兵?」
男は再び呆気にとられる。無防備に棒立ちする様子に少女は毒気を抜かれてしまいそうになったが、そうした自らの内面を自覚すると、瞳を閉じて首を軽く振った。この男は、どうせネイスを動かせまいと高を括っているだけだ。警戒を解いてはいけないと、少女は自らに言い聞かせた。
「……ああ! さてはその棺桶がA国のだから勘違いしてるんだな? 確かに俺はA国の出身だし、その機体は俺が乗っていたものだけど、俺は兵士じゃない。元、兵士だ」
「元?」
「そうだ。言っちゃなんだが脱走兵だ。証明はできないけどな」
脱走兵とはその名の通り任務を放棄し、逃亡する兵士のことだ。任務を放棄するということは、その責任をも放棄することに他ならない。この男が嘘を吐いているなら未だ作戦行動中の敵兵である可能性が否定できないし、仮に脱走兵というのが事実だとしても責任感に欠ける人物ということになる。それはそれで信用ならない。少女は声も無く呻った。
「そういえば怪我の具合はどうだ? 出血や痛みは?」
「……問題ない」
少女は嘘を吐いた。
「そりゃよかった。さっきも言ったけど俺は君の手当てをしたし、君が寝てる間にガレージで君の機体を修理してたんだぜ? そんなに警戒しないでくれよ」
「無理だ」
「まあ……そうだよな。ところで君、B国の天使で間違いないな?」
「……そうだ」
少女は自らの出自に誇りがあった。偽る意味は無かった。
「助けは来るのか?」
「……分からない」
これは尋問だ。少女はこの質問ではっきりとそう認識した。脱走兵という男の話が真実かどうかはともかく、治療はこの男が施したらしい。しかしそれは、この男にとって何らかの利益が生じるから行ったものに違いない。狙いは何か。少女が思考を巡らせても答えらしい答えは出なかったが、少女は死に方にも、尊厳を保っていたかった。天使らしく、生きるのと同じように死にたかった。誰かに媚びへつらったり、辱められたり、ましてや物のように廃棄されるのなど御免だった。
「いや、来ない。私を餌にしようとしても無駄だ。私の代わりはいくらでも生産される」
少女は事実を口にした。天使に授けられた教育から大きく逸脱するような発言ではない。だから少女は自らの心臓近くの痛みを、怪我の所為だと思い込んだ。
「俺はヨハン。君、名前は?」
「何故名乗る? そして私が何故名乗り返さねばならない?」
「まあまあいいから。そのほうが親しみやすいだろ?」
親しむつもりなど毛頭ないのだが、少女はこの質問にだけは答えておくことにした。
「……天使に名前はない。製造番号、という意味でならあるが」
「あー、そうだったのか。でも部隊内でそれじゃ不便だし、ニックネームとかコールサインとか、何もなかったのか?」
「――5th」
少女ははっきりと答えた。
「フィフス?」
「そう。他の天使からは、5thと呼ばれていた」
「何でまた番号なんだよ」
「五型培養槽から製造されたのが、部隊内で私だけだったから」
ヨハンはB国の天使について、そこまで詳しいわけではなかった。元々B国が宗教色の強い国家であったことから、使い捨ての下級兵士をそう呼称して、戦意高揚の旗印に利用していることくらいしか、確かなことは知らない。しかし噂程度に天使はその全員がクローンであるという話を聞いたことがあった。少女の一連の発言は、そうした噂と矛盾しない。B国の人倫にもとる行為の被害者が、目の前の少女フィフスと、そして少女と境遇を同じくする者たちだということは、信じたくなかった。ヨハンがこの街で生きてゆく中で、撃墜された天使の機体を漁ったのは、一度や二度のことではない。その全てに少女と同じくらいの年頃の子が乗っていたのだろうかと思うと、あまりに痛ましく遣る瀬無い気持ちになった。
「……なるほど。しかし、フィフスねぇ。呼びにくいな……フィフ……フィー……フィーのほうが可愛いかな。君、フィーって呼んでもいい?」
「好きにしろ」
呼び名で何が変わるわけでもない。止めさせる術もないのだから、この男が勝手に呼ぶ分には、好きにさせる他ないのだった。
